10 神様、どうか
列車が山間に入り、いくつかのトンネルを抜けた頃。
ディーナは、コンパートメントに近づいてくる台車のガラガラという音に顔を上げた。
「ディーナ様?」
「……テオ、飲み物を買ってもいい?」
あいかわらず不機嫌そうなルカを横目で気にしながら答える。
テオドロは廊下の方を見たあと、手にした懐中時計を見てわずかに眉を寄せた。
「テオ?」
「すみません、もう少し我慢できますか」
戸惑っているうちに、テオドロは懐中時計を仕舞った手で拳銃を取り出した。ルカもいつの間にか、腰の拳銃に手を伸ばして扉を睨んでいる。
「車内販売には時間が早いし、他の個室で台車が止まっていない」
テオドロの密やかな言葉の後、コンパートメントの扉がノックされた。
「失礼しまーす、お飲み物や軽食はいかがですか?」
開けた扉から現れた販売員は、銃を体の影で隠した男二人が放つ緊迫した空気も、廊下に立つ屈強な見張り二人の様子もものともせず、にこにこ確認してくる。
ディーナが凍りついているうちに、ふたたび個室の扉が閉められて、台車の音が遠ざかっていく。
「……な、何もなかったわ」
緊張していた体がほぐれる。ルカも腰の銃から手を離した。
けれど、返事をしないテオドロが手から力を抜いていないことにディーナが気がついたとき、もう一度扉がノックされた。
「切符を拝見します」
扉が開く直前、列車がトンネルに入った。
「伏せろ!」
ルカが叫び、ディーナはテオドロに引っ張られて床に抑えつけられた。
けたたましい走行音の中で、ディーナは確かに発砲音を二回聞いた。照明が割れて視界が奪われ、ディーナが伏せる床に、扉側から何かが倒れ込んでくる。
見張りをしていた一人だ。
「……ひっ!」
「ルチーノっ! くそ!」
怒鳴るルカの声がした瞬間、複数人が個室になだれ込んできたのがわかった。
一方で、ディーナは三度目の銃声を窓側から聞いた。目が闇に慣れる間もなく、上半身が強い力で抱え込まれる。
「テオ!」
「壁に寄って」
鋭い声にわけも分からず従ったが、引きずられる体に遅れた足首を後ろから掴む手があった。
テオドロの腕から引きずり出されそうになり、ぎょっとして振り向く。
そのとき、トンネル内の明かりがディーナの足を掴む襲撃者と、その手のナイフをほんの一瞬浮かび上がらせた。
再び闇が戻る。ディーナが叫ぶ。
だが、痛みは訪れなかった。足首の手も離れた、と思うなり、暗がりから男の悲鳴とかすかな悪態が響く。
「……っあ、ありが」
自由になったディーナの言葉は喧騒でかき消された。すかさずテオドロが抱えなおしたディーナの体が、窓際へと引き寄せられる。
次の瞬間、車両がトンネルを抜けた。
ディーナは抱えられたまま、割れた窓から走行する列車の外へと躍り出ていた。
「えっ、えっ!?」
「静かに」
テオドロが、抱えたディーナごと外壁を伝って一気に車両の上へと乗り上がる。
されるがままのディーナは、列車の進行方向から襲いかかる容赦ない強風に、男にしがみつくしかない。
「ここを離れるよ。立てる?」
「は、はいっ、いえ無理っ!」
「ごめん、立って」
弱音はあっさり却下された。引っ張られるように立たされて、テオドロに抱きついたまま車両の上を進んでいく。車窓から見れば勇壮な断崖絶壁も、今は恐ろしい想像を駆り立てるものでしかない。
ほどなくして、隣の車両との連結部分をテオドロに抱えられて飛び越えたとき。
――ドンッ!
「きゃぁぁぁぁぁっ!!!」
大きな音に悲鳴を上げる。足元のすぐそばに銃弾が打ち込まれていた。
振り返ると、自分たちがしたように車両の外壁から天井上へ、襲撃犯の一人が上がってくるところだった。片手の銃がこちらを向いている。
「ディーナ、こっちに」
右手で銃を構えたテオドロが左手でディーナを自分の背後に押しやる。そのすきに襲撃犯が車上に上がり切った。
ディーナが身を縮こまらせたそのとき、壁から新たに現れた襲撃者にとびかかった男の影があった。
襲撃犯と揉み合い始めたのは、ルカだった。
動かないテオドロの銃の照準に、ディーナははたと胸騒ぎを覚えた。
「……あなた、ルカを狙ってるの?」
「どっちも。生き残った方を撃つ」
つまり、ルカが勝ったら、こちらにやってくる前に撃つということ。
「奴が連れてきた手下も殺された以上、そうすれば、あなたをフェルレッティ家に連れて行く必要がなくなる」
「ま、待って!」
焦るディーナは、恐怖も忘れて銃を持つ手に飛びつこうとした。
「ルカに助けられたの! 足を掴んだ男をわたしから引き剥がして、あなたの方に背中を押してくれた。今だって」
だがディーナの手を予期していたように避けたテオドロは、二人から視線を外さず「それでもだよ」と返した。
「テオ!」
「そもそもルカは幹部だ。フェルレッティのために、もう何人も殺してる。……シスター、あなたは理解しなくていい。この世に、神の慈悲に与る資格もない悪人が大勢いるってことなんて」
ディーナは言葉に詰まった。
ルカはけして善意でディーナを守ったわけではないだろう。そしてテオドロ自身、港の宿屋でルカに殺されていたかもしれない。
けれど。
「でも、僕の仕事の邪魔をするな」
凍てついたその声に、唐突に、ディーナは思い知らされた。
憎んでいる。この男は、軍人としての義務感や正義感よりももっと根深い理由で、フェルレッティ家に怒り、そして憎悪している。
何も言えなくなったディーナが俯く。テオドロは銃を構え直し、揉み合う二人を数秒睨む。
だが、恐れた銃声は響かなかった。
「……わかったよ」
ため息まじりの声。
そして、祈りの形に組まれたディーナの両手に、テオドロの左手が重ねられる。
「どうせ、外すように祈ってるんだろ。やめてよ、そういうのに限って効くんだから」
ディーナが顔を上げると、テオドロは困ったような笑みを浮かべていた。
柔らかな灰色の目と視線が合って、ディーナの肩から力が抜ける。
――次の瞬間、テオドロの右手から無情な銃声が轟いた。
***
販売員も襲撃犯の一味だった。偵察も兼ねて油断させたところで、トンネルの暗闇に乗じて暗殺者が乱入する流れだったという。
空室に遺体と生け捕りにした敵を収容してきたルカから、説明の終わり際「飲みもんです」とワインを渡される。受け取るディーナの手は震えていた。
「運行会社にはフェルレッティからの資金が入ってるから、後のことは気にしなくていいんで」
まったく慰めにならない言葉を残したルカが、隣室の物音でコンパートメントを出ていく。
そうすると、個室にテオドロと二人きりになった。数分前に、襲撃犯へ向けて引き金を引いた手が、ディーナの手に重ねられる。
「……あなたの前ではなるべく慎むよ。ディーナ、あなたは罪人のために祈る人だものね」
なんのことかはすぐにわかった。彼は巻き込まれただけの、哀れな修道女見習いの気持ちをおもんぱかってくれている。
伝わるぬくもりは、宿屋での抱擁と同じはず。
「……大丈夫、ここで奴を生かしても結果は同じ。フェルレッティの人間は、誰一人逃さない」
手を握る力が強くなる。
囁かれた言葉は彼自身の任務への決意で、ディーナ・トスカへの励ましで――ディーナ・フェルレッティへの宣戦布告だ。
「ディーナ。すべてが終わるまで、僕を信じてて」
「…………うん」
ディーナは目を合わせられなかった。ワインを零さないようにするので、精一杯だった。
改めて実感した。
当時を知る人がほとんどいないフェルレッティ邸で、まずはこの自分が本物のディーナ・フェルレッティだとわかってもらわなきゃいけない。
けれど。
『死ぬと分かってて見捨てていい人間なんて、フェルレッティ家の人間くらいだし』
本当に本物だとバレたときもまた、絶体絶命なのだ。
(神様、どうか、この罪深い嘘をお許しください……)
服の下に隠した、フェルレッティのロザリオがずしりと重く感じた。