元伝説の勇者だけど娘が誘拐されたので助けにいく
「お父さんなんて大っ嫌い!」
全てを拒絶する声が家中に響いた。
娘からついにこの言葉を言われる日が来るなんて……
反抗期はいつかくるものとわかっていても、実際に言われるとやっぱりショックだった。
事の発端は、まだお昼過ぎだというのに、娘のリサが学校から帰ってきたことだった。
その顔はひどく落ち込んでいて、怒られるのを恐れるようにゆっくりと入ってきた。
いつもは元気に響く「ただいま」の声も、今日は響かない。
こういうことは初めてじゃなかった。
リサの通う魔法学校はかなりレベルが高く、魔力をうまく扱えないリサはうまく馴染めていないみたいなんだ。
うなだれるリサの目尻にうっすら涙が浮かんでいたから、何があったのかは大体想像がつく。
「どうしたの? また学校で何かあったの?」
声をかけたけど返事はない。
弱々しく視線を上げると、何かを訴えるように潤んだ瞳で僕を見つめた。
言いたいことはわかる。
もう学校に行かなくていいよ。
その一言ですべてが解決するんだろう。
だけど魔力の扱い方を覚えることは、リサの将来のためなんだ。
「今は大変かもしれないけど、リサも頑張れはいつかは……」
励まそうとしたところで、リサがキッと僕を睨みつけた。
「お父さんなんて大っ嫌い!」
というわけで、さっきのようになってしまったんだ。
こういう時になんて声をかけたらいいかわからず、立ち尽くすリサに手を伸ばそうとする。
「リサ、いったん落ちついて……」
「さわらないでッ……!」
僕の手を強く振り払う。
その瞬間、瞳が赤く輝いた。
昂った感情に合わせてリサの力が暴走する。
魔力波が嵐のように荒れ狂い、家中のものを吹き飛ばす。
突然あふれ出した自分の力に、リサが怯えた表情であとずさった。
僕はとっさに飛び出してリサを強く抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから……!」
安心させようとその言葉だけを繰り返す。
そのあいだにも力は膨れあがっていく。
「ぐうっ……!」
一瞬でも気を抜けば、全身がバラバラになってしまいそうだ。
必死にこらえながら、腕の中の幼い体をひたすらに強く抱きしめる。
初めは嵐のように暴走していた力も、徐々に小さくなっていった。
赤くなっていた瞳も元に戻っている。
よかった。なんとか落ち着いたみたいだ。
おかげで服はボロボロになったけど……
リサにケガがないことの方がはるかに大切だ。
「大丈夫?」
「私、また……」
リサは真っ青な顔で震えていた。
彼女はその小さな体に莫大な力を秘めている。
こうして暴走させてしまうことも初めてじゃなかった。
だからこそ、魔力の制御方法を学ばなければいけないんだ。
「大丈夫、収まったからもう心配いらないよ」
「心配、ない……?」
リサが僕の腕を振り払った。
「お父さんに、私の何がわかるの!?」
感情を爆発させる。
「この力のせいで誰も私に近づかない! 友達も、恋人も、私は一度もできたことがない……。みんな、私のこと死神だって言って……怖がって、逃げて……!!」
「リサ……」
僕は勇者として生まれた。その力を制御するために、10年もの修行が必要だった。
妻のセリアも聖女として生まれ、やはり修行に十年以上もかかったという。
娘のリサは僕らの子供として生まれ、両方の力を受け継いだ。
その力は僕らを足した二人分よりもさらに強い。
幼いリサにはまだ制御できないほどに。
それが誰のせいなのかと言われたら、やっぱり僕達のせいになるんだろう。
「こんな力、欲しくなかった……。もっと普通の子供として生まれたかった。お父さんのお母さんの子供なんか、生まれたくなかった!!」
悲痛な声が胸をえぐる。
「そんなこと言わないで」
僕の口から、力無く声がもれた。
「セリアは亡くなる最後の1秒前まで、リサのことを抱きしめて、リサとの思い出を嬉しそうに語っていた。リサと出会えた自分は世界一の幸せ者だと言って、幸せそうに目を閉じたんだ。なのに生まれない方がよかっただなんて、そんな悲しいことは言わないで」
「──……っ!!」
リサが泣きそうに顔を歪める。
大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていった。
そのまま無言で僕の脇を駆け抜けると、自分の部屋に閉じこもってしまった。
音を立てて扉が閉められる。
振動でタンスの上に置かれた写真立てがパタリと倒れた。
元に戻すと、写真の中には中良さそうな3人の親子が写っていた。
まだ20歳前だった頃の僕のとなりにいるのは、2歳のリサと、彼女を抱く優しい雰囲気の女性──僕の妻であるセリアだ。
幸せそうな家族の写真にむけて苦笑しながら呟く。
「子育ては難しいね」
写真の中の彼女は答えなかったけど、どこかで誰かがにこりと微笑んだ気がした。
力の制御について教えてあげられればよかったんだけど、僕にできることは何もなかった。
リサは僕と妻の力を受け継いでいる。
力を制御するだけの才能は、もうすでに持っているんだ。
必要なのは自信だけ。
自分を信じる心だけなんだ。
だけど……リサは妻に似て優しい子だった。
その莫大な力が誰かを傷つける恐ろしい凶器に思えてしまうほどに。
だから魔法学校に通わせることにしたんだ。
そこで魔力の制御を身につけられれば、自信にもつながると思ったんだけど……。
「うん、不甲斐なくてごめん。君がいればきっと違ったんだろうけど。……わかってるよ。あの子を幸せにするって約束したからね」
固く閉ざされた扉に目を向ける。
リサに必要なのは勉強じゃなくて、もしかしたら、もっと単純なものかもしれない……
「リサちゃん、また荒れてますね」
お隣に住むミーナさんが様子を見にやってきた。
荒れ放題になった家の中を見て苦笑いを浮かべている。
僕は慌てて頭を下げた。
「お騒がせしてすみません。また学校で何かあったみたいで」
「大変ですね。リサちゃんとは私が少し話してきますね」
「いつもありがとうございます」
「気にしないでください。私も歳の離れた妹ができたみたいで少し嬉しいですから」
そういって微笑むと、固く閉ざされた扉に向かう。
ああ、いい子だなあ。
ミーナさんは僕が元勇者だってことは知らない。
だけど、こうしていつも気を遣って、様子を見に来てくれるんだ。
毎日騒がしくしてるのに怒らないし、たまに作り過ぎたと言って夕飯を持ってきてくれることもある。
でも、こんなに可愛くていい子なのに、なぜかずっと彼氏はいないんだよね。
前に聞いてみたら、気になってる人はいるらしいんだけど、自分の思いに気づいてもらえないんだって言ってた……。
こんないい子から想われてるのに気づかないなんて、もったいないな。早く気づいてあげてくれるといいんだけど。
気がつくとそろそろ仕事に時間になっていた。
リサのことは気になるけど、お金がなければ生きていくこともできない。
「リサ、僕はそろそろ仕事に行かないといけないから、あとはミーナさんに……」
そこまで言ったところで、部屋の中から扉に何かを投げつける音が響いた。
私を置いて仕事に行くなんて、私のことなんかどうでもいいんだ!? という怒りだろう。
まったくその通りだと思う。
本当ならリサためにも一日中そばにいてあげたい。
だけど、平和になった世の中に、勇者は必要ない。戦う力が必要な時代は終わった。
生きていくためには仕事をして稼がないといけないんだ。
リサのことは気になるけど、ここはミーナさんに任せて、僕は家を出ることにした。
◇
今日の仕事は行商人の護衛だ。
隣町に行って戻ってくるだけだから半日で終わるとはいえ、家に帰るのは夜中になるはずだ。
それまでリサを1人にすることになる。本当に心配だ。
重い足をなんとか動かして、目的の集合場所にやってきた。
集合場所にはすでに志願者が何人か集まっていた。
その中に1人女騎士の姿を見つける。
向こうも僕に気がついたようで、こちらに近づいてきた。
「勇者様、このようなところで奇遇ですね」
「久しぶりだねグリム。でも本当に偶然なの?」
「いいえ。勇者様の行動を調べ、今日はこの仕事をお引き受けになると聞きましたので、騎士団権限で私も志望者にねじ込ませて頂きました」
ピクリとも笑うことなく生真面目に答える。
うん。まあ。正直なのはいいことだよね。
グリムは王室騎士団の副団長なんだけど、時々こうして僕のところにやってくるんだ。
「勇者様、王宮に戻るつもりはありませんか」
「何度も来てもらって悪いけど、僕の気持ちは変わらないよ。それにもう勇者でもないし」
「いえ、勇者様は私にとって勇者様のままですから」
生真面目な口調のまま、真っ直ぐに僕を見つめる。
逆に僕の方が気まずくなって視線を逸らしてしまった。
グリムと最初に出会ったのは、まだ騎士団に入る前。魔物に襲われて全滅した村の中で、唯一の生き残りだったのを助けた時だった。
その時から、僕のように人々を守れる強い人になりたいと思ったらしく、騎士を目指したそうなんだ。
僕なんかを目標にしてくれたことは嬉しいし、こうして立派な騎士になったことはまるで自分のことのように誇らしい気持ちになる。
だけど、今でも僕を神聖視する気配があるんだよね。
慕ってくれることは純粋に嬉しいけど、その期待に応えられないのは少し心苦しくもある。
「もう僕に昔の力はないよ。勇者は家庭を持つと弱くなる。そう言われてることは、君も知ってるでしょ」
家庭、と言った時、少しだけ表情がピクリと動いた。
だけど特に何かを言うこともなく、黙って僕の話を聞いている。
「それにもう戦いの時代は終わったんだ。今更僕なんかにできることは何もないよ」
「ご謙遜を。今でも勇者様に勝る戦士は世界に10人といません」
「そんなことないと思うけど」
少なくとも目の前にいる騎士団副団長はその10人に含まれるはず。
僕より強い人なんて、世界中にいくらでもいるはずだ。
「それでも、です。国王様も勇者様の現状を憂ておいでです」
「あの人がねえ」
かつて自分に魔王討伐を命じた国王様を思い浮かべる。
確かに、妻を亡くして落ち込んでいる僕を、あの人は慰めてくれた。
自分だって娘を亡くして辛かっただろうに、そういう様子は一切見せなかった。
だから僕のことを心配しているというのは、間違いではないんだろう。
だけど情に厚い人かというと、そういうわけでもない。
鉄のような意志を持ち、抜け目なく思慮深い、油断ならない人だ。
善意で人の心配をするような人じゃない。僕に何かさせたいことがあるはず。
それがなんであれ、一国の王が直々に頼んでくるのだから、簡単なお使いで済まないことは確かだ。
昔の僕なら引き受けたかもしれないけど、今の僕にはリサがいる。
あの子を危険に巻き込んだり、長く1人にさせるようなことはできない。
今の僕は国王様の頼みを引き受けるわけにはいかないんだ。
「ところで話は変わるんだけど、今日娘とケンカしちゃってね。仲直りするにはどうしたらいいと思う」
「なるほど。少々お待ちください」
うなずくと、どこからか取り出した分厚い本をめくり始める。
「どうしたの?」
「勇者様から相談された際に完璧な受け答えをすることで好感度を上げられるよう、会話マニュアルを授かっています。それを確認しているため少々お待ちください」
……それは言ったらダメなやつじゃないかなあ。
悪い人ではないんだけど、なんというかこう……
まあ、正直なのはグリムのいいところではあるけど。
やがて目当てのページを見つけたらしく、何度か頷いていた。
「わかりました。娘様とケンカをされた時の仲直りの方法ですね。こちらのページに解決方法が書かれていました」
「そ、そうなんだ。それで、なんて書いてあるの?」
「よく話し合い、お互いの本音をぶつけ合い、そして認め合う。それが大事とのことです」
「うーん、正論だなあ」
それが難しいから苦労してるんだけど。
苦笑する僕に、彼女は本を閉じて答える。
「実は今まで隠していたのですが、私は人の心の機微を理解するのは得意ではありません」
「知ってたけど」
「そんな私でも、こうして勇者様と話をすることで、娘様のことをとても大切に思っていることは伝わりました。
ですから、娘様とも話をすることが大事なのではないでしょうか。
そうすればきっと、勇者様が娘様のことを大切に思っていることも伝わるはずです」
まっすぐな瞳で語りかける。
そこに嘘がないことは明らかだ。
だからこそ、僕の胸を打ったんだと思う。
「……うん、そうだね。まずは話をすることだよね」
確かに僕は、リサにしてあげたいことを押し付けるばかりで、あの子のことをよく知らなかったのかもしれない。
「ありがとう。相談してよかったよ」
「いえ、礼には及びません。むしろもっと頼っていただきたいくらいです」
そう言って無表情のままどこか誇らしげに分厚い本を掲げる。
「そう答えることで勇者様の好感度が上がると書いてあります。
勇者様は私のことがもっと好きになりましたか?」
台無しだった。
「はあ、そろそろ仕事の時間だ。行こうか。……ん?」
「どうしましたか?」
街の外につながる道に目を向ける。
しばらく眺めていたけど、1匹の鳥が空に飛んでいくだけだった。
「いや、なんでもないよ。視線を感じた気がしたけど、鳥が飛んだだけだったみたいだ」
「街の外を飛ぶたった1匹の鳥に気がつけるのは勇者様だけでしょうね」
賞賛のような、むしろ呆れているような、どちらともつかないため息が聞こえた。
◆
街と街をつなぐ街道の途中に鬱蒼とした森がある。
その暗がりの中に、100人を超える大勢の男たちが潜んでいた。
犯罪者や冒険者崩れ達などが集まる中で、一番奥に長剣を背負った男が腰かけていた。
「もうすぐ行商人の一団がここを通る。お前たちはそれを襲え」
男たちが得物を構え、薄暗い笑みを浮かべる。
男の一人がたずねた。
「殺しちまってもいいんですか?」
「構わない。一人につき追加で10万ゴールド支払おう」
その言葉を聞いて、森の中に冷酷な笑みが広がっていく。
「そいつは気前がいいや。腕がなるってもんだぜ」
金のためなら人殺しもためらわない、欲にまみれた薄汚い男たちの殺意だ。
傍に控える部下の男が、声をひそめて耳打ちする。
「いいんですかボス、そんな約束して」
「問題ない。どうせ無理だからな」
「これだけいれば、行商人どころかちょっとした町でも落とせそうですが」
「相手はあの『勇者』だぞ。これでも足りないくらいだ」
「そんなもんですかね。にしてもその勇者とやらは、本当に金を持ってるんですか。聞いた話じゃずいぶん質素な家に住んでたらしいですが」
「魔王に懸けられた懸賞金の額は貴様も知っているだろう。
城ひとつ丸ごと買っても釣りがくるほどの額だ。
だが世界を救った勇者として、いきなりそんな豪邸に住むわけにもいかないだろう。
だからあんな家に住んでいるんだ。
むしろ質素な生活をしているのなら、莫大な懸賞金はほとんど残っているということだ」
「なるほど。確かにその通りですね」
「そんなことより、奴の監視を怠るなよ」
単眼鏡で出発前の商人たちを監視していた男がうなずく。
「へい、もちろんです。けど今のところ何、も……っ!?」
男が急に表情をこわばらせて単眼鏡を降ろした。
「どうした?」
「今、勇者のやつがこっちを見た気が……」
「まさか、偶然だろ……。何百メートル離れてると思ってんだ……」
「おい、あれを放て」
「へ、へい!」
部下が慌てて鳥かごを開く。
中にいた鳥が木々を騒々しく揺らしながら空に飛び立っていった。
やがて男が恐る恐るレンズを覗く。
「……どうやら今の鳥と勘違いしたようです」
「これ以上の監視は危険だな。ここを離れるぞ」
この場を部下の一人に任せると、ボスとその取り巻き数人は静かに森を離れていく。
「奴らはせいぜい派手に暴れさせろ。その隙に俺たちは本来の仕事を済ませる」
◆
無事護衛の仕事を終えた僕は、急いで家に向かっていた。
もう少し早く終わると思ってたんだけど、なぜだか今日に限って盗賊に何度も襲われたんだ。
グリムもいたから行商人の護衛としては十分すぎると思ってたんだけど、むしろいてくれたおかげでなんとか守り抜けた形だった。
もしいなかったら、今日中に帰ってくるのは難しかったかも。
それどころか何人か犠牲者が出ていたかもしれない。そう思うとゾッとしてしまう。
魔王を倒し、魔物の数も少なくなったけど、まだ盗賊の類はあちこちに残っている。
グリムの言う通り、まだ僕にもできることがあるのかもしれないな。
そんなことを思いながら家路を急いでいた。
きっと怒っているだろう。
それとも、すでに寝ちゃっただろうか。
とにかく、早く帰ってリサと話をしよう。
考えてみればちゃんと話をしたことはなかった気がする。
魔法を暴走させた時、ひどく怯えていた。
きっとずっと自分が怖かったんだろう。
力の制御ができるように魔法学校に通わせたけど、本当にそれでよかったんだろうか。
誰も頼れる人のいない場所で、自分自身にすら怯えながら1人で過ごすのは、とても心細かっただろう。
僕はそれを知らなかった。
だから話をするんだ。
話をして、そして、これからどうやって暮らしていくかを考えよう。
……いや、違う。これじゃ今までと同じだ。
大切なのは、リサがどう思っているかなんだ。
リサはこれからどうしたいのか。
どうなりたいのか。
考えてみたら、僕はそれを一つも知らない。
帰りにリサへのお土産を買おうとして、僕は愕然とした。
僕は、リサが喜びそうなものをひとつも思いつけなかったんだ。
ずっとリサを想ってきたつもりだったけど、僕はリサのことを一度も考えたことがなかったんだ。
これじゃあ大っ嫌いと言われるのも当然だ。
だけど、まだ終わったわけじゃない。
僕たちはまだやり直せる。きっとそのはずだ。
やがて小さな家が見えてくる。
僕とリサの2人が住むだけで手狭に感じてくるほどの、本当に小さな家だ。
お金なら魔王退治の時に莫大な報奨金をもらったんだけど、魔物によって被害を受けた人々の復興のために、ほとんど寄付してしまったんだ。
玄関に向かうと、鍵が開いていた。
ミーナさんが閉め忘れたのかな?
しっかりしてる子だから今までそういうことは一度もなかったけど。
少し不思議に思いながらも、家に入ってリサの部屋へと向かう。
「話したいことがあるんだ。入ってもいいかな」
扉を叩いても返事がない。
気配はするから寝てるわけじゃなさそうだ。
やっぱり怒っているのかな。
「今日はごめん。リサが怒るのも当然だったと思う。だから、これからのことを2人で話したいんだけど……」
やっぱり返事はない。
だけど。
何かがおかしい。
怒って口を聞いてくれないことはいつものことだけど、それにしてはなんだか静かすぎるというか。
そう思った時、部屋の中から何かの倒れる音が響いた。
「──リサッ!!」
扉を蹴破って中に入る。
そこにいたのはフードを被った魔道士と、長剣を背負った風格のある男。
そして、男に口を塞がれているリサだった。
「誰だお前たち! リサを離せ!!」
「チッ、100人程度では時間稼ぎにしかならないか」
男が舌打ちをしながら、手の中で魔法を発動させる。
指先から漏れる白い燐光。
空気中に描かれる単純な魔力回路。
詠唱破棄による高速展開。
──<閃光>。
目眩し用の魔法だ。
起動洩光から魔法の種類を即座に判断し、腕で目を隠した。
閃光が室内を満たす中、男たちに向かって走る。
が、透明な壁のようなものにぶつかって弾き返された。
「リサを……返せ!!」
握りしめた拳で透明な壁を叩く。
空間に見えない亀裂が走った。
「魔力障壁を素手で!?」
魔道士が驚く。
男がリサを抱えたまま、空中に何かを描く。
その場に光のトンネルが現れた。
「足止めしろ。10秒で十分だ」
男がリサを連れてがワープゲートに入っていく。
「お父さん!」
「リサ!」
手を伸ばすが、魔道士がこちらに杖を向ける。
そこに現れたのは巨大な火球だった。
「《獄炎球》!?」
S級モンスターですら一撃で倒せる上級火炎呪文だ。
こんなものが街中で爆発したら、僕の家どころか街の半分が消し飛んでしまう。
地獄の炎が放たれる。
迷ってる暇はなかった。
「……ああああアアアアアアアあっ!!」
全身に魔力をまとわせると、飛んできた火炎弾を真上に蹴り上げた。
打ち上げられた火炎弾は屋根を突き破り、爆音と共に夜空を真っ赤に染め上げた。
その一瞬だけ、街が真昼のように明るくなる。
「これが『勇者』か……」
どこか恐れるような言葉と共に、魔道士がワープゲートの中に入っていく。
「待て!」
慌てて追いかけたけど、伸ばした手が届くより一瞬早く、ワープゲートは閉じてしまった。
伸ばした手が何もない空をつかむ。
「くそっ!」
誰もいなくなった部屋の中で、テーブルに止まっていた1匹の鳥が口を開いた。
『娘は預かった。返してほしければ命令に従え』
「ふざけるな! 何が目的だ!」
『明日の昼までに10億ゴールドを用意しろ』
「10億!?」
あまりにも無茶な要求に驚いてしまう。
「そんな大金あるわけないだろう!」
10億もあれば城ひとつ買ってもお釣りがくる。
こんな小さな家を買うのに全財産を使ってしまった僕に払える額じゃない。
だけど使い魔の鳥が要求を変えることはなかった。
『期日は明日の昼。太陽が真上に来るまでだ。間に合わなければ娘の命は保障しない。また1ゴールドでも足りなければやはり娘の命は保証しない』
話が通じない。
こっちの意見なんて無視して一方的に告げてくる。
交渉する気はないようだった。
『誘拐されたことは誰にも言わないように。誰かにバラせばその瞬間に娘の命はなくなるものと思え。それから貴様のことは調べて知っている。テーブルにある腕輪を装着しろ』
使い魔の前に、黒く禍々しい装飾の腕輪が置かれていた。
言われた通りそれを腕に通す。
途端に体が重くなるのを感じた。
『勇者の力を封じる腕輪だ。そこらの冒険者と変わらない程度の力に抑えさせてもらう。
金を用意したのを使い魔が感知すれば、次の指示を伝える。できるだけ早く用意することだ』
一方的に告げると、そのまま口を閉ざしてしまった。
「そんな金ないと言っただろう!」
怒鳴りつけたが、使い魔は微動だにしない。
何を考えてるかわからない顔で首を傾げるだけ。
どうやら普通の鳥に戻ったようだ。
使い魔の魔力を探ってみたけど、どこかに繋がっている様子はなかった。
魔力をたどって誘拐犯の居場所を探れればと思ったけど、かなり高度に偽装されてるみたいだ。
今は諦めるしかなさそうだった。
とにかく、言われたお金を用意しないと。
10億なんて大金、簡単に用意できるわけがない。
なのに期限は明日の昼。もう半日もない。
できればこの方法はやりたくなかったけど……
手段を選んでる余裕はなさそうだった。
「……勇者様、こんな夜更けにどうしました」
真夜中に訪れたにもかかわらず、グリムは驚く様子もなく迎え入れてくれた。
使い魔の鳥は無言のまま室内に入ってくる。
グリムは少しだけ使い魔に視線を向けたけど、それ以上尋ねてくることはなかった。
「自分から来ておいてなんだけど、いくら騎士とはいえ女性なんだから、もう少し警戒してもいいんじゃないかな」
「勇者様を誘惑して連れ帰ることも私の任務に含まれておりますので」
少しも照れることなく正直に答える。
「私の魅力にメロメロになって夜這いに来たのですよねちゃんとわかっています」
「違うよ」
そこは強く否定しておいた。
今も妻のことを愛しているからね。
「ですが、妻を亡くして欲求も溜まっているだろうから、ちょっと誘惑すればすぐに落ちるだろうと国王様が」
「あの人は本当に……」
思い浮かべた顔に、思わず頭痛がしてしまう。
なんだかがっくりと力が抜けてしまった。
「君も嫌なら断ってもいいんだよ。騎士といえどもそれくらいの権限はあるはずでしょ」
「勇者様とそのような関係になることは私も嫌ではありませんので」
「そ、そうなんだ……」
この話題を続けるとよくない気がしたのでさっさと切り上げよう。
「国王様に会いたい。しかもこんな夜中に悪いんだけど、できれば今すぐに出発したいんだ」
「勇者様のご要望とあらば。ですが一応、理由を伺っても?」
「お金がいるんだ」
突然の訪問にも驚かなかった生真面目な女騎士も、これにはさすがに目を見張っていた。
◇
国王様が治める王都までは比較的近い。
それでも到着した頃にはすっかり夜は明けていた。
王都に入ると、グラムとは早々に別行動となった。
何か報告することがあるんだって。
なので僕は1人で王城へ向かうことにした。
お城へ陳情しにくる人たちは毎日かなりの人数がいる。
今日も朝から何十人もの列が門の前にできていた。
だけどお金を用意する期限はお昼、太陽が真上に昇るまで。
待っていたらきっと間に合わない。
どうしようかと考えていたら、門が開いて兵士長がやってきた。
「お久しぶりです勇者様」
「ああ、久しぶりだね。町の門番だった新兵が、今では王城の兵士長だなんて。すっかり立派になったから、最初わからなかったよ」
「これも勇者様のおかげです」
恭しく頭を下げる。
彼には過去に少しだけ剣の使い方を教えたことがある。
一人で町を守っていた彼に、せめて何かできないかと思って戦い方を教えたんだ。
だけど僕にできたのはそれだけだ。
彼が出世したのは、彼自身の努力の賜物。
たった一人で故郷を守り抜いたからこそ、その実績を買われて兵士長にまで抜擢されたんだろう。
「僕は何もしてないよ。全部君の努力があったからだ」
「勇者様ならそうおっしゃると思っておりました。ではこちらにどうぞ」
王門わきの通用口に案内される。
「僕だけ先に入っていいのかな」
「世界を救った勇者様が訪ねてこられたのです。文句を言う人はいないでしょう」
彼に案内されながら王城内を進む。
敵襲対策に城内はかなり複雑な作りになっているんだよね。
謁見の間も5箇所あって、どこを使うのかはその日になるまで誰にもわからないんだ。
しばらく歩き、案内された第3謁見の間に入る。
5つある謁見の間の中でも、一番大きな部屋だ。
最奥にある大きな王座に、一人の恰幅のいい男性が腰掛けている。
「久しいな勇者よ。もう十年ぶりになるか」
威厳のある声に、思わず背筋が伸びる。
空気に呑まれないよう僕は気を引き締めた。
世界一とも言われるこの国を一台で作り上げ、今も治め続けている人だ。
悪い人ではないけど、油断していい人でもない。
王座の前へと進み、膝をついてこうべを垂れた。
「ご無沙汰しております国王様。急な訪問にもこうしてお時間をいただき、感謝します」
「何度も勧誘したのに、家庭が大事だからと戻ってきてはくれなかったが。ついに戻ってくる決心をしたのだな」
「申し訳ありませんが、今の私はもう勇者ではありません。神の奇跡も使えず、ただ一人の娘の無事を願うだけの父親です。私では国王様の期待には応えられないかと思います」
「ふむ、そのようなことは無いかと思うが。
頭を上げよ。今日は何用で参ったのだ。
お主がこのような朝早くに、連絡もなく突然訪ねてくるなど、尋常な理由ではあるまい」
声のトーンが少しだけ低くなる。
威圧感に息苦しくなるのを感じた。
決して怒ってるわけではないだろう。
それでも一国の王に非常識な会い方をしたのは僕の方だ。
相手が元勇者とはいえ、一国の王として相応の態度を取らなければならないのだろう。
だというのに、この上さらに非常識なお願いをするのは気が引けた。
それでも、娘の命には代えられない。
「……大変失礼なお願い事の上、まことにお恥ずかしい話なのですが。お金を貸していただきたく参りました」
正面からの威圧感が増す、かと思ったけど、実際に放たれたのは困惑するような気配だった。
「グリムから報告を聞いた時は何かの間違いではないかと思ったのだが。元勇者とあろうものが金の無心とはな。
家計のやりくりに苦心しているのなら、ここで働けばよい。報酬は望みのままだぞ。それでいくら必要なのだ」
「10億ゴールドです」
周囲がざわつく。
それだけの大金だ。当然だろう。
表情を変えなかったのは国王様だけだった。
「訳を聞こう」
理由を言うわけにはいかない。
使い魔の鳥が僕の肩にいる限りは。
「お恥ずかしながら、私の家庭の事情でして。詮索しないでいただけますとありがたいです」
頭を下げて体の内側を隠しつつ、指で床を軽く叩く。
2回。3回。1回。
緊急事態であることを知らせるサインだ。
それ以上の深い理由を伝えることは難しかったけど、王様はそれで納得したようだった。
「わかった用意しよう」
その言葉で周囲がさらにざわつく。
僕もまた驚いてしまった。
「……いいのですか?」
「勇者のことは信用している。非常識な願いであると知りながらも乞うたのは、それが必要だからであろう」
そういってから、口元に計算高い笑みを浮かべる。
「最近隣国が我が国に攻め入るような気配を見せている。そこで勇者の力を借りられるというのなら、10億ゴールドなど安いものだ」
「……どうやら大きな貸しを作ってしまったみたいですね」
とはいえ、それだけの大金だ。
どのような命令だとしても受けるしかない。
「……私の用が済むまで待っていただけますでしょうか」
「もちろんだ。隣国も今すぐ戦争を始めるほど愚かではあるまい。先にそちらの用を済ませるといい」
鷹揚に笑ってそう告げた。
◇
「これで10億ゴールドかあ」
手にした一枚の紙を見つめていると、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。
10億もの大金を金貨で用意したら、とんでもない量になってしまう。
馬車が数台必要になるはずだ。
そこで渡されたのが、1枚の証文書だった。
これがあれば、公的な機関ならどこでも10億ゴールドを借り受けることができるという。
命懸けで働いて得た数枚の金貨よりも、少し難しいことを書いただけの一枚の紙切れの方が数億倍も価値がある。
お金ってなんなんだろうとつい考えてしまうよね。
とはいえ、今の僕には関係のないことだ。
人気のない路地裏で証文書を掲げると、頭上を飛ぶ使い魔に見せつけた。
「言うとおり10億ゴールド用意した。娘を返してもらおう」
『金を持って竜の谷へ向かい、港町オルガに向かえ』
使い魔が一方的に告げる。
「その前にリサの無事を確認させろ!」
『……』
使い魔の鳥は何事もなかったかのように、とぼけた顔で首を傾げている。
そのように操作している訳じゃなく、ただ鳥としての習性のように見える。
それでも腹立たしい気持ちが湧き上がるのは止められない。
殺意が膨れあがりそうになったその時、急に使い魔の口が開いた。
『お父さん、ごめんなさい! 私……!』
「リサ!!」
それは紛れもなくリサの声だった。
慌てて使い魔の体を捕まえるが、続いて響いたのはさっきまでの男の声だった。
『娘の無事は確認できただろう。無事に返してほしければ、金を持って指定の場所に来い』
「声だけでは信用できない。姿を見せろ」
『誠意は示した。我々を信用して指示に従うか、我々を疑って娘を見捨てるか。好きな方を選ぶといい』
……くそっ。
やっぱりまだ誘拐犯の言う通りにしなければならないみたいだ。
◇
港町オルガに向かうルートはいくつかある。
その中で最も早くて、最も危険なのが、竜の谷を通るルートだ。
竜の谷はその名の通り竜たちの住処となっている深い谷だ。
谷の斜面や崖上に、無数の竜の巣がある。
刺激しなければ襲ってくることもないんだけど、今は竜の繁殖期。
ナワバリ意識が強くなっている。そんな時に部外者が足を踏み入れればどうなるか。
谷底の道を歩いていると、頭上に巨大な影が迫ってきた。
人間の10倍はありそうな巨体で道を遮るのは、谷の主、サンダードラゴンだった。
並の人間なら100人いたって勝ち目はない。
熟練の冒険者パーティーが数ヶ月もかけて準備し、罠を仕掛け、弱らせたところでようやく勝機が見えてくる。
そういうレベルの相手だ。
それを僕1人で相手にしないといけない。
しかも封印の腕輪のせいで力を制限されている上に、武器は鉄の剣一本のみ。
「本当にこんなところを通るのか。僕が死んだら金も受け取れないんだぞ」
使い魔から返事はない。
頭上を飛びながらこちらを静かに見下ろしている。
サンダードラゴンが吠えた。
複数の落雷が周囲に落ち、砕けた岩が崩れ落ちル。
これはまだ威嚇だろう。
ドラゴンが本気なら、あの雷撃がすべて僕を狙っていたはずだ。
矮小な人間である僕なんかにもこうして威嚇をしてくるのは、彼らが子を大切に育てる種族だからだ。
自分の子供に危害が加わる可能性があるならば、どんなにわずかな可能性であっても、彼らはそれを全力で排除しようとする。
「同じ親として君の気持ちは痛いほどわかる。だけど、僕も家族が大事なんだ。通らせてもらうよ」
鉄の剣を引き抜くと、こちらの意思を感じたのかドラゴンも後ろ足で立ち上がった。
咆哮が狭い谷の中に反響する。
崩れた崖が頭上から降り注ぎ、無数の雷撃が僕めがけて落雷し、その隙間をぬうように竜の尻尾が鞭のように襲い掛かった。
地形も利用した複数の同時攻撃。
咆哮の反響を利用して崖を崩すだなんて、普通は狙っても出来ない。
竜はただのモンスターじゃない。
魔法を操り、時として人間を超える知性を持つこともある、人間よりも上位の種族なんだ。
体力が多い分、長引けば向こうが有利になる。
時間をかけるつもりはなかった。
前方に向かって走りながら、直撃しそうな雷に絞って剣を振るう。
雷を切り裂き、落石を避けながら、鞭のように襲い掛かる尻尾を飛んでかわす。
空中の僕に向かって竜が大きな口を開いた。
鋭い牙の向こうに、濃縮された電撃が溜まっていくのが見える。
サンダードラゴンの必殺の一撃、サンダーブレスだ。
薙ぎ払うような尾の一撃で相手を空中に浮かせ、身動きの取れない相手に対し雷撃を放つ。
彼らが好んで用いる攻撃方法だ。
光の速度で襲いかかる雷撃を空中でかわすことは、どんな生物にだって不可能。
文字通り必殺の一撃だ。
そして、僕が待っていた瞬間でもある。
「悪いね。少しだけ眠っててほしい」
竜が口を開くと同時に、僕は鉄の剣を構え、口腔内に向けて投擲した。
濃縮された雷撃の中に放り込まれた鉄の剣が、避雷針となって雷撃を吸収。
その場で爆発を起こした。
爆音が谷の中にこだまする。
あらゆる攻撃を防ぐ竜の鱗も、さすがに口の中にまでは生えていない。
体内で起きた爆発に動きを止めた隙に、煙を吐き出す口腔内へと飛び込んだ。
狙いは喉の奥にある雷撃生成器官──逆鱗だ。
拳を硬く握り締め、逆鱗を思い切り殴りつける。
「──────ッッッ!!」
声にならない絶叫が響く。
たかが絶叫でも、口の中にいる僕にとっては竜巻よりも強烈な突風だ。
絶叫に乗って外に飛び出す。
竜はそのまま気を失って地面に倒れた。
「ふう。間一髪だったな」
強力な雷撃。
頭上からの落石。
尾の一撃に、必殺のサンダーブレス。
どれかひとつでも当たれば即死だっただろう。
回収した鉄の剣は、刀身が半ばまで溶けていた。
もう剣としてはもちろん、避雷針としても使えそうにない。
避難していた使い魔の鳥が頭上に戻ってくる。
『たった一人で竜を退治するか。さすがは元勇者だな』
「それはどうも」
誘拐犯に褒められても嬉しくないけど。
『だけどこれはどうかな』
使い魔が急にくちばしを開くと、不快な声で鳴きはじめる。
騒ぎを聞きつけたのか、崖上から新たにサンダードラゴンが現れた。
さらには崖の壁に造られた巣穴からもドラゴンが姿を表す。
彼らは倒れた仲間の姿を見つけると、激昂したように叫び出した。
その数、合計25体。
しかも唯一の武器は半ばまで溶けていて使い物にならない。
『タイムリミットは明日の正午。それまでに港町にたどり着けなければ娘の命はないと思え』
「……容赦ないね」
怒っている暇はなかった。
半壊した剣を構える僕に、怒り狂う竜の群れが一斉に襲いかかってくる。
◆
「引退したとはいえ勇者は強い。奴が万全の状態で挑めば俺たちは全滅するだろう」
広い倉庫のような場所で、長剣を背負った男が部下たちに語りかける。
「力を封印し、無茶な要求で弱らせなければ、せっかくの大金も奪うことができないだろう。これで怪我のひとつでもしてくれれば助かるんだがな」
「でもボス、相手は竜の群れですよ。一国どころか三国くらい滅ぼしてもおかしくない。いくら勇者といえども、一人であの数を相手にするのは無理でしょう」
「そんな当たり前の常識は捨てろ。相手は魔王を倒した勇者だぞ。竜ごとき倒せない奴に、魔王を倒せるわけがない」
「娘はどうしますか。どうせ金をもらった後で殺すなら、今殺しちまった方が早いと思いますけど」
「やめておけ。人質は生きているから意味がある。もし娘を殺したら、やつは怒り狂って俺たちを殺しにくるだろう。怒り狂った竜がここに襲い掛かってきたら、お前は生きて帰れると思うか? やつは、その竜よりも強いがな」
「……」
「ボス」
使い魔の映像を確認していた魔道士が、震える声で呼びかける。
「勇者が竜の谷を抜けました」
部下の1人が驚いたように振り返る。
「嘘だろ? まだ2時間も経ってないぞ」
「予想より早いな。それで、怪我の一つでもしたか」
「それが……無傷です。ダメージどころか、スキルすら使うことなく竜を全て撃退しました……」
報告する声が掠れていた。
勇者の装備は鉄の剣一本のみ。
鎧さえ無い、田舎の自警団と変わらない格好だった。
竜どころか、ゴブリン相手にだって心もとない装備だ。
にも関わらず、25体もの竜をノーダメージで倒したという。
「……人間じゃない」
誰かの小さな呟きが、静まり返った室内に響いた。
勇者伝説というものがある。
剣の一振りで城壁を崩したとか。
奇跡を願うだけで数千匹もの魔物が一瞬にして消滅したとか。
国ひとつが更地になるような大規模魔法の直撃を受けても、神の祝福に守られたその体には傷ひとつなかったとか。
そんなものは作り話だと思っていた。
大人が子供に語って聞かせるうちに誇張されていった、ただのおとぎ話だと。
だけど、たった今目の前で、城壁に匹敵するはずの竜の鱗が、剣とも呼べないような鉄屑によって紙のように切り裂かれていった。
部下の1人が怯えた目を人質の娘に向ける。
「ボス、今からでもこいつを帰しましょう。あんなのに勝てるわけない」
「おいお前」
「は、はい」
ボスが手にした剣を振り抜く。
意見をした男の頭と首が切り離され、地面に転がった。
息を呑む部下たちを見回す。
「他に文句のあるやつは?」
言葉を発する者は誰一人としていなかった。
「確かに勇者は強い。だが、相手はたった一人だ。
腕輪で力を封印し、無理な要求で弱らせている。奴も人間である以上、必ず限界はある。
俺たちはただその時を待てばいい。最後に勝つのは俺たちだ」
◆
次の目的地に指定された港町オルガは、隣国との国境沿いにある大きな街だった。
真夜中だというのに、まだあちこちに灯りが残っていた。
海だけでなく陸路での交易も盛んで、王都の次に栄えているとも言われるくらいなんだ。
街に入ると同時に使い魔が新たに出した指示は、ここからさらに北にある街へ向かうことだった。
その途中には、天国に最も近い草原、と言われる場所がある。
それは決して風景の美しさのためじゃない。
先ほどの竜にも匹敵するモンスターたちの巣窟だからだ。
距離を考えると、今すぐにでも出発したいところだったけど、僕が最初に向かったのは宿屋だった。
もう2日もろくに寝てない。さすがに限界だ。
街の中央に、10階建ての巨大な宿屋がある。
前に来た時は5階建てだった気がしたけど、あれからさらに大きくなったみたいだ。
ここまで大きくなると、宿屋というより宮殿と言われた方がしっくりくる豪華さだ。
質素な家に住んでる僕としては入るのに躊躇ってしまう。
とはいえ、いつまでも入口でうろうろしてるわけにはいかない。
中に入ろうと扉に近づくと、手を伸ばすより先に内側から開かれた。
「ロイヤルホテルにようこそ。ご予約はおありでしょうか」
いかにも老紳士といった格好の人が出てきて、庶民の僕はついドキドキしてしまう。
「ああ、ええと。予約はしてないです。休憩のために少し部屋を貸してもらおうと思って」
「どのような部屋をご所望でしょう」
「静かで落ち着けるところを頼めますか」
「かしこまりました。他にご入用の物はございますでしょうか」
「それじゃあパンとワイン。それからオリーブをお願いします」
「オリーブの産地は?」
「リングランド産の一番大粒の物を」
「……」
執事さんの表情が一瞬だけ止まり、恭しく頭を下げた。
「承りました。お部屋は最上階の一番奥となります」
「ありがとうございます」
「とんでもございません。貴方様をお迎えできて大変光栄にございます」
僕が自動昇降機に乗って姿が見えなくなるまで、老執事さんは深々と頭を下げたままだった。
教えられた部屋に鍵はかかっていなかった。
中に入ると、広くて開放感のあるリビングが広がっている。
なんかここだけで僕の家2、3軒分くらいはありそうなほど広いのに、さらに奥には寝室と思われる部屋が続いている。
確かに静かでいい部屋かもしれないけど、広すぎてちょっと落ち着かないなあ。
使い魔の鳥も一緒に室内に入ってきた。
一通り室内を調べるようにぐるりと飛び回ると、観葉植物の枝に止まって大人しくなる。
僕もしばらくソファに座って休もうかな。
正面の大きな窓からは広い街が一望できた。
10階建てなんて建物は他にないから、周囲がよく見える。
ここは昔は小さな漁村だった。
休むためだけの汚い宿屋と、人々が集まってできた小さな市場。
国境沿いにあるため争いは絶えず、北には強力な魔物が住む草原がある。
行き交う人々はいるものの、定住しようと思う人はほとんどいなかった。
それなのに、村は年々大きくなっていき、やがて町になり、今では王都に並ぶほどの大都市に成長した。
それを行ったのがたった1人に人物だなんて、想像できないよね。
しばらくして部屋の扉がノックされた。
どうぞ、と声をかけると、仕立てのいい制服に身を包んだ男性が台車を押しながら入ってきた。
台の上にはパンとワイン、それから二粒のオリーブが置かれていた。
「ご注文の品でございます」
「ええと、ありがとう。場所はリビングでいいのかな?」
「奥の寝室の方がよろしいでしょう」
「じゃあそこに運んでくれるかな」
「かしこまりました」
男性が台車を押して寝室に向かう。
僕も後に続いて寝室に入る。
使い魔の鳥はついてこない。
枝に止まったまま窓の外を見ている。
男性が扉を閉めると、僕に向けて膝をついてかしずいた。
「お久しぶりです勇者様」
「そんなにかしこまらないでいいよ。もう僕は勇者じゃないし、今は君の方が偉いんだから」
「例えそうだとしましても、私にとっての勇者様は勇者様だけですので」
顔を上げないままそう答える。
彼はこのホテルの支配人。
世界中に支部を持つ一大宿屋ロイヤルホテルの総支配人でもあるんだ。
今はもう覚えてる人もいないけど、かつてここにあった小さな漁村は、リングランドと呼ばれていた。
そこでオリーブ売りをしていたのが彼なんだ。
「ここなら誰にも話を聞かれないんだよね」
「周囲は完全に人払いされておりますし、魔術的にも隔離されております。あの使い魔も今は幻覚を見せられていることでしょう」
「それならよかった」
「……ここに来られたということは、何か良くないことが起きたということですね」
「うん。実は僕の娘が誘拐されたんだ」
「……!!」
彼の顔が険しくなる。
僕はこれまでの経緯を簡単に説明した。
「……なるほど。了解いたしました」
そう頷いた彼の顔にはもう先ほどの感情は残っていなかった。
世界中に広がる視点を統括する、冷静な支配人の顔だ。
「その誘拐犯たちを見つけてむごたらしく殺したあと世界中にその姿を晒し、勇者様に手を出した者がどうなるかを世界中に知らしめればいいのですね。すぐに手配いたします」
「うん、そこまでは頼んでないよ」
全然冷静なんかじゃなかった。
「ですが、勇者様に手を出すなんて一万回死んでも許されません」
「僕はただ娘がどこにいるかを知りたいだけなんだ。娘が攫われたから、迎えに行く。僕がしたいのはそれだけだよ」
「……了解しました」
とても嫌々そうながらもそう呟く。
本当に了解してくれたのかな。
「そういえば国王様が『敵国が我が国を狙っている』と言っていた。そんな重要な話をあんな場でするとは思えない。きっと僕のことにも気がついていて、何かのヒントとして言及したんだと思う」
「あのたぬき親父がそう言ったのでしたら、そうなんでしょう。すぐに背後関係を調べます。明日の朝には結果をお伝えできるかと」
「ずいぶん早いね」
「あの使い魔もいますし、発信元を調べればすぐに裏が取れるでしょう」
「ありがとう。助かるよ」
「気にしないでください。こんな程度では、あなたから受けた御恩の1割も返せないのですから」
そう告げると、足早に部屋を後にした。
彼が朝までと言ったのなら、その通りになるだろう。
オリーブをひとつ摘むと、程よい甘味が疲れた体に染み渡っていった。
もう真夜中と言ってもいい時間だ。
少し仮眠を取ろうかな。
◆
夢を見た。
聖女だった妻セリアとの、短くも幸せだった頃の夢。
魔王を倒した僕たちは、凱旋して一年後に結婚した。
子供も産まれて、2人して喜んだ。
幸せな家庭にしようねと誓い合った。
だけど、聖女は短命だった。
歴代の聖女はみんな20歳の誕生日と共に永眠したという。
神の力を得た代償だと言われていたけど、理由は誰にも分からない。
確かなのはセリアも同じ運命だったということだけだ。
魔王を倒した後から、セリアは目に見えて衰弱し始めた。
運命に抗えないのなら、せめて幸せになろうと決めた。
セリアがしたいことは全部しよう。
セリアが望むことは全部叶えよう。
セリアを世界で一番幸せにしよう。
僕の残りの時間は全て、そのためだけに使おう。
そう誓った。
だけどセリアは、残された時間を全て娘のリサのために使った。
娘を愛することが私の幸せ。
この子が笑うと自分も笑顔になれる。
これ以上の幸せなんていらないの。
そう言って。
そうして。
19歳の最後の夜。
小さなベッドで幼い娘を抱きしめながら、最後の瞬間までその手を繋いでいた。
「そんな顔をしないで。私は自分が不幸だなんて一度も思っていないよ。
私は世界一幸せだった。
だってあなたと出会えた。この子と出会えた。私の大好きな2人から、数えきれないくらいたくさんの宝物をもらった。
これ以上の幸せなんてあるわけないでしょう。
だからね、私は。」
そこまで言うと、いったん言葉を区切って息を吐き出した。
少し話しすぎたのかもしれない。
休むように息を整えると、何かを思い出したのか、目を細めて幸せそうな微笑を浮かべる。
言葉の続きは、永遠に聞けなかった。
「ああ、あああああ……」
日付が変わっていたことにも気が付けないくらい、彼女は安らかに目を閉じていた。
「セリア……セリア……ああああああああああっ!!」
涙があふれ出す。
この2年間、絶対に見せないと決めていた涙が、一気にあふれ出す。
神は世界を救うために何度も奇跡を起こしたくせに、たった一人のささやかな願いを叶えることはしなかった。
号泣する僕の横で、リサが不思議そうに手を伸ばす。
「お母さん、ねんね?」
幼い娘には、母親の最期はまだ理解できないようだった。
でもすぐにわかるだろう。
母が目を覚ますことはもう二度とないのだと。
小さな手を握りながら、亡き妻に向けて固く誓った。
もう世界のためには戦わない。
ここから先の僕の命は、全てこの子のためだけに使う。
だから君は安心して眠っててほしい。
何があっても必ずリサを世界で一番幸せにしてみせるから。
心からそう誓ったとき、僕は勇者としての力を失った。
◆
目を覚ますと、大きなベッドの上だった。
同時に部屋の扉を叩く音がする。
入ってきたのは支配人の彼だった。
「調査が完了しました」
窓の外を見ると、朝陽がちょうど顔を見せたところだった。
「本当に朝までにわかったんだね」
「この程度なら造作もありません」
なんでもないことのように答える。
多分本当に、これくらいなら簡単なことなんだろう。
「勇者様の娘様を誘拐したのは、誘拐を生業とする犯罪集団です。
裏の世界ではそこそこ名が知られた集団ですが、大した組織ではありません。その気になればいつでも潰せるでしょう。
問題なのは、その背後です。勇者様が予想された通り、隣国の軍事国家ダリウスが支援しているようです」
僕はため息をつく。
「やっぱりそうだったんだ」
「誘拐犯たちは、ダリウス国内にある軍事施設を根城としています。娘様もそこにいるようです」
軍というのは非常に厄介だ。
数千の魔物よりも、統率された百人の軍隊の方がはるかに手強いくらい。
しかも相手は、世界最強とも言われる軍事国家ダリウスだ。
魔王を倒したのは僕と仲間達だったけど、もし僕らがいなければ、魔王を倒していたのはダリウス軍だったと言われている。
勇者に匹敵するほどの強大な軍事力を持っている。
それが軍事国家ダリウスだった。
「それにしても、なんでリサを狙ったんだろう」
「ダリウスはこの国を攻める計画を立てているようです。しかし今日までそれをしてこなかったのは、勇者様の存在があったからです」
「僕が?」
「彼の国の軍隊は、勇者様に匹敵する力を持つと言われています。逆にいえばつまり、勇者様は一国の軍隊に匹敵する力を持つということ」
「そんなことないと思うけど」
「ですが彼の国はそれを恐れていたのです」
なるほど。
だからこうして僕を弱らせ、しかも敵国内に誘い込んで遠ざけようとしていたのか。
「勇者様。このような事を言うべきではないとわかっています。それでも口にする無礼をお許しください。娘様の救出は諦めて、我々にお任せください」
多分そう言うんじゃないかと思っていたけど。
僕はベッドを降りて出発の準備を始める。
「ありがとう、助かったよ」
「待ってください! これはもはや国家間の戦争、個人の力でどうこうできる問題ではありません! たった一人で向かうなんて無謀すぎます! 国王様に助けを求め、準備を整えてから行くべきでしょう」
「でもそれじゃ遅いんだ」
誘拐されてから2日も経っている。
きっと今頃1人で怯え、泣いているだろう。
早く助けてあげないと。
「私は貴方様に命を助けられました。ですから、貴方様の命を救う義務があるのです。死にに行こうとする貴方を止めなければなりません」
「僕のことを思ってのことだってことは、ちゃんとわかってるよ。本当にありがとう」
「それでも、行かれるのですね。どうしてですか。無謀だとわかっているのに、なぜ……」
「リサは僕の娘だから」
短い答えに、彼は言葉を返すことができなかった。
「僕と妻の大切な娘なんだ。だから行かないと」
◇
教えてもらった軍事基地までは馬車で3日ほどの距離になる。
彼は早馬を用意してくれると言ってくれたけど、今は1秒でも早くリサのところに向かいたい。
なので走ることにした。
全力で駆けて、半日ほどでたどり着くことができた。
いきなり軍事基地に行ったって流石に入れないだろうから、まず向かったのは最寄りの町だ。
使い魔は宿屋に残したまま幻覚を見せ続けてもらっている。
とはいえ、いつかは気づかれるだろう。
その前にリサの所に向かわないといけない。
手段を選ぶ余裕はなかった。
多少手荒な方法になるけど仕方ないよね。
やってきた街は、血気盛んな人たちが多かった。
それなりに栄えているのは、近くに軍事基地があるから。
軍人相手の産業で儲かっているんだ。
適当な軍関係者を捕まえて話を聞いてもよかったけど、それだと時間がかかりすぎる。
それよりもっと簡単で手っ取り早い方法があるんだ。
表通りを外れて裏通りへと入る。
軍人が多い町は、自然と荒っぽい人たちも多くなるんだ。
人目のあるところから少し離れるだけで、すぐにそういう人たちが見つかった。
「おうおっさん、待ちな。ここから先は通行料が必要なんだよ」
お、おっさん? もしかして僕のこと?
「僕まだ30なんだけど……」
「何言ってんだ。30なんて十分におっさんだろうが」
ええ……そうなんだ……
まだまだ若いつもりだったのに……
そういえばリサにも無理して若者っぽくしてるのダサいとか言われてたっけ……
「……ええと、それじゃあ悪いけど、君たちをまとめている人の所に連れて行ってもらえるかな」
「何言ってんだ。そもそも無事に帰れると思うなよ」
ナイフを取り出して脅しかけてきたので、言葉の途中で足払いをかける。
きっと彼は何が起こったのかも分からなかっただろう。
宙に浮き上がって空中で3回転した挙句に近くのゴミ箱に突っ込んで、そのまま動かなくなった。
「て、てめえ!」
「何しやがった!」
近くにいた男たちが一斉に怒鳴り声をあげながら襲いかかってきた。
仲間の危機に駆けつけるなんて、なんて熱い友情なんだ。
僕も昔は仲間がいてね。共に世界中を冒険したんだ。
大変だったけど、いい思い出だよ。今頃みんな何してるのかなあ。
君たちも、今はちょっとくすぶっているかもしれないけど、こんなにいい仲間がいるんだ。
やり直すのに遅いなんてことはない。
今からでも真面目に働けば、きっと立派な人物になれるはずだよ。
なんて、説教をしたくなっちゃうのは、やっぱり歳をとったってことなのかなあ……
「と、僕は思うんだけど。サイファーはどう思う?」
「こ、これは勇者様!! このような薄汚いところまで足をお運びいただきありがとうございます!!」
さっきの男たちにまとめ役のところに案内してもらうと、ボスと思われる人は僕の姿を見るなり平伏するように地面に頭をこすりつけた。
「色々あって今まで別れていたけど、僕たちはかつて仲間だったよね」
「は、はい! 私なんかを仲間と呼んでいただけるのであれば!!」
いっそ惨めなくらい怯えるボスに、周囲の仲間も困惑している。
「お頭? こんなひ弱な野郎に何ビビってんですか。一発焼きを入れてやりましょうか」
「馬鹿野郎! このお方に手を出すんじゃねえ! この人はかの「百人斬り」の勇者様だぞ!」
その言葉に周囲がざわめく。
そういえばそんなこともあったなあ。
とある人から近くの盗賊を退治して欲しいと依頼があったんだけど、実はそれは罠で、勇者である僕の存在を邪魔に思う組織が殺しに来たんだ。
当時、勇者と名乗る人たちは世界中に現れていた。
しかも困ったことに、全員が本物だったんだよね。
まあ、魔王を倒すために神様もなりふり構わず力を与えたってことなんだろうけど。
だけど魔王は一体だけ。
魔王を倒して世界を救える勇者は一人しかいない。
誰が魔王を倒したかなんて関係ないと僕は思うけど、そう思わない人たちは多かった。
自分が魔王を倒したいから、なんて理由で僕を襲う人たちがいたんだ。
なんとか三日三晩戦い続けることで返り討ちにできたんだけど、その時のことが伝説になったみたいなんだよね。
「あの時は本当サイファーにはお世話になったよ」
「い、いやあ。あれは若気の至りと言いますか、はは……」
「あの時僕を襲った集団は盗賊を装っていたけど、明らかに統率が取れていたし、武器の質も遥かに高かった。あれは盗賊じゃない。軍隊だった。そうでしょ」
「なにぶん昔のことでして、記憶が……」
「今日はその話をしに来たんじゃないんだ。軍事基地の近くにいるってことは、まだ当時の人たちと取引があるってことだよね。むしろ前よりも繋がりが深くなっているかな?」
「は、はい、おかげさまで……」
「お願いというのはね、そのとある軍事施設に侵入する手伝いをしてほしいんだ」
「いや、それはさすがに……! バレたらあっしが殺される……!」
「お頭、やっぱりこいつ──!」
仲間の一人がナイフを抜き放つ。
だけど、その柄に刃は付いていなかった。
「……え?」
少し遅れて小さな金属音が床を打つ。
ナイフを抜いた男は、地面に落ちた刃を呆然と見つめた。
「切られた、のか? ナイフを抜いた今の一瞬で……?」
「そういえば「百人斬り」の夜も、相手は全員武器を壊されて無力化されていたって……」
「ねえサイファー。僕はね、仲間はとても大切だと思うんだ。サイファーもそう思うでしょ?」
「は、はい! もちろんです!」
完全に震え上がって答える。
サイファーは目がいいからね。
僕が剣を鞘に収める最後の瞬間くらいは見えたかもしれない。
怯える彼を安心させるように一歩近づき、ささやくような声で言い聞かせる。
「だから、僕の仲間を傷つける人は絶対に許さないし、仲間のふりをして裏切る人はもっと許せない。何年経っても必ず代償を支払わせる」
「ひぃっ……!」
「だけど、サイファーが今も僕の仲間だと証明してくれたら僕は安心できるし、昔のことも忘れることができるかもしれない。人は誰でも間違いをするものだからね」
ニッコリと笑顔で告げる。
「だから、手伝ってくれるよね?」
そうして、頼みたいことを彼に伝えた。
みるみるうちにサイファーの顔が真っ青になっていく。
「む、無理無理無理! 無理ですって! いくら勇者様の頼みでも、そんなことしたら絶対に殺されちまう! 奴らは本当にやばいんです! 俺だけじゃねえ、この街が潰されるかもしれねえんだ!」
自分だけじゃなくて、自分の仲間まで持ち出して懇願してくるなんて。
この様子だと本当にやばいみたいだ。
「はあ、仕方ないな。この手だけは使いたくなかったけど」
「な、何をする気ですか……! どんなに脅されたって、これだけはマジのマジに無理なんで……!」
僕は懐から一枚の紙切れを取り出す。
10億ゴールドの証文書を。
「手伝ってくれたら、これをサイファーにあげるよ」
「…………………………」
ゴクリ、と。
生唾を飲み込む音が聞こえた。
◆
「順調すぎる」
使い魔が伝える映像を見ながら、誘拐犯のボスがつぶやいた。
勇者は指示通りに北の魔物平原に向かっている。その後ろ姿に迷いは見られない。真っ直ぐに道を歩いている。まるで一切の迷いがないかのように。
「順調ならいいことだと思いますが」
「勇者のやつがこんなに簡単なら、あの時も負けなかった。平和ボケしてるように見せかけて、必要とあれば手を汚すこともためらわない。それがやつだ。……おい!」
使い魔を操作する魔道士に声を開ける。
「今すぐ娘を殺すと勇者に伝えろ」
柱に縛り付けられた勇者の娘がびくりと体を震わせる。
涙目でこちらを見上げるが無視した。
魔道士が言われた通りの言葉を伝える。
しかし勇者は反応することなく、北への道を歩き続けた。
「幻術だな」
ボスは確信した。
「たとえ脅しだとわかっていても、娘を殺すと言われて反応しないことはあり得ない。おそらく映像は偽装できても、声までは再現できないのだろう。だから今の言葉にも反応できなかった」
その言葉に魔道士が振り返る。
「しかし、この使い魔は軍の最新式の魔術暗号を用いています。その制御を乗っ取り、情報を偽装するなんて、事前に準備した一級以上の魔術工房がなければ不可能です」
「つまり、事前に準備してれば可能ということだろう。奴が泊まった宿は、奴の仲間が経営していたはず。いざという時のために魔術的偽装を施した部屋を用意しててもおかしくはない」
ボスは背中の長剣を引き抜くと、使い魔を突き刺した。
絶命する一瞬、道を歩く勇者の映像が消え、誰もいない宿屋の一室を映し出す。
「確定だな。勇者はここに向かっている」
その言葉に緊張が走った。
「あそこからここまで馬で3日……。奴の足なら半日というところか。お前ら、準備をしろ。ここで奴を迎え討つ」
「人質の娘はどうしますか。奴は約束を破った。見せしめに殺すべきでは」
「ダメだ。娘が生きてる限り奴は行動を制限される。奴が本気を出せば、建物の外からこの施設を粉々に切り刻むことだってできるんだ。しかし中に娘がいる以上、それはできない。奴は本来の力の半分も出せない状況なんだ。それに──」
ボスが忌々しそうな目を人質の娘に向ける。
「そいつも腐っても聖女の血を引いている。下手に手を出せばこっちが火傷をするぞ」
「はあ……」
仲間が胡散臭そうに縛られた娘を見やった。
娘は怯え切ったように涙を流したままこちらを見つめている。
声を出せないように口を布で縛られているため、何もいうことはできないが、その表情を見れば何を思っているのかはすぐにわかる。
どう見てもただの小娘だ。
自分が返り討ちにあうなど万に一つも考えられなかった。
「娘は勇者を殺した後でゆっくりと始末すればいい。それよりも迎撃の準備をしろ。奴は必ずここに来る」
「本当に来るんですか? ここはあの軍事国家のど真ん中ですよ。周囲には千人を超える軍人がいる。よほどのバカでなければこんなところに一人で来ようなんて思わないでしょう」
「いや、くる」
ボスは迷うことなく断言した。
「なぜなら奴は勇者だからだ。ここで諦めるような奴なら、そもそも勇者に選ばれない。
悔しいが、奴と正面からまともに戦っても勝ち目はないだろう。
だが、ここなら武器も人員もいくらでもある。たとえやつでも簡単には侵入できないし、戦いになればこちらが圧倒的に有利。
この状況を用意するために人質をとり、軍事基地のど真ん中に奴を誘い込んだんだ」
「ボス、例の武器が届きました」
「きたか」
奴との戦いのために、禁止されている呪法武器を大量に仕入れていた。
かすり傷ひとつで死に至る呪剣、悪魔召喚のスクロールに、一時的に能力を飛躍させる魔剤。
所持してるだけで死罪になるような禁呪品が合計数十個、人の背丈を超えるほど巨大なコンテナに大量に積み込まれていた。
「よし、すぐ全員に配れ。おい──」
そばにいるはずの部下に声をかけようとして、その姿が見当たらないことに気がついた。
「おい、あいつはどうした」
「そういや姿が見えないですね。トイレにでも行ったんじゃないですか。決戦中に漏すわけにはいかないっすからね」
部下たちは笑うが、ボスは妙な違和感を覚えていた。
全てうまくいっている。何もかもが計画通りだ。順調過ぎる、と感じるほどに。
柱に縛られた娘は、既に泣き止んでこちらを見ている。
あんなに怯えきっていたのに、今ではその怯えはどこにもみられない。
むしろどこか安心してるような……
……まさか。
「おい、今すぐ人数を数えろ! 今何人いる!」
突然の命令に部下たちが戸惑う。
「でもボス、100人以上いて正確な数なんて誰も知らないですよ」
「そういやさっきトイレに行った奴がまだ戻ってきてないぞ」
「武器を配りに行ったやつも戻ってきてないな」
「……あそこの見張り、あんなに少なかったっけ?」
……チッ、ボンクラどもが。
「既に勇者が侵入しているぞ! 全員戦闘体制を取れ!」
突然の号令に部下たちが呆気に取られる。
同時に、倉庫の奥から誰かの悲鳴が立て続けに響いた。
バレたことに気づいて、本格的に行動を開始したのだろう。
その悲鳴を聞いてようやく部下たちも事態を把握したらしい。
慌てて禁呪武器を取ろうとコンテナに殺到する。
その瞬間。
コンテナが爆発した。
群がっていた部下たちがまとめて吹き飛ばされ、あおりを受けてボスも地面を転がる。
「……クソッ、やられた!」
人の身長を超えるほどの巨大なコンテナだ。
人が一人潜り込むには十分なスペースがあった。
あのコンテナに潜り込んで侵入してきたんだ。
軍事施設に爆弾を送るなんて、軍事国家に宣戦布告するのと同じ。
そんな度胸のある仲間がやつにいるなんて想定外だった。
炎に包まれた向こうからは、幾つもの剣戟の音と、悲鳴が聞こえてくる。
相手はたった一人、こちらは100人以上。
障害物を複雑に配置することで迷路のように作り替えた倉庫内は、今や爆風によって更にぐちゃぐちゃになり、広がった炎が移動を制限している。
数の利も、地の利も、今まさに消されつつある。
ボスは愛用の長剣を構え、炎の中に踏み込んでいった。
◆
コンテナの爆発する音を聞きながら、障害物の影から影に移動して、誘拐犯たちを一人ずつ無力化していく。
そろそろ半分くらい片付けたはずだけど、それでもまだ50人くらい残っていた。
「本当はもっと数を減らしておきたかったんだけど、気づかれるのが思ったよりも早かったな。優秀な人がいるみたいだね」
一人、また一人と倒しながら、リサが捕まっている場所に近づいていく。
辿り着くと、柱に縛り付けられたリサと、そのそばに立ってナイフを構える男がいた。
僕に気づいたリサが、口を縛られた状態で何かを叫ぶ。
男が構えたナイフをリサに向けた。
「止まれ! この娘がどうなっていもいいのか!?」
僕は無視して近づく。
「やってみなよ。君じゃ傷ひとつつけられないから」
「舐めやがって……。だったらあの世で後悔するんだな!」
男が振り下ろしたナイフは、リサに触れると同時に粉々に砕け散った。
「馬鹿な!? 竜すら即死する呪法のナイフだぞ!」
「そうか。君たちには見えないのか」
この施設に入った時から僕には見えていた。
リサの体を包むように抱きしめる、優しげな女性の姿が。
「お前たちなんかに、彼女の愛は貫けないよ」
「クソッ──」
相手が驚いているうちに、僕は相手の懐へと潜り込んでいた。
「がっ──!!」
拳を下腹部にめり込ませる。
そのまま気を失って地面に倒れた。
すぐに縛られたリサの縄を解く。
「助けに来るのが遅れてごめん。怒ってるかもしれないけど──」
言葉の途中でリサが強く抱きついてきた。
「怖かった、怖かったよお……!」
「……うん。もう大丈夫だからね」
安心させるように抱きしめ、頭を撫でる。
いつもなら勝手に髪を触らないでとか怒られるところだけど、今だけは大丈夫だった。
しばらくそうしていると、やがてリサも落ち着いてきたみたいだ。
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。助けに来るのは当然なんだから」
「うん……ありがとう」
珍しく素直に謝ってくれた。
いつもこれくらい可愛いといいんだけどな。
いや、怒ってるリサも可愛いいけど。
やがて長剣を手にした男性が僕らの前に現れた。
「やってくれたな勇者め……!」
「お父さん! あいつがこいつらのボスだよ!」
「君がそうなのか」
今回の全ての元凶。
リサを無事に助けられたとはいえ、報いはちゃんと受けてもらわないと。
やがてボスの背後に残りの部下たちも姿を現し始めた。
約50人の仲間を背後に従えて、ボスが不敵に笑う。
「この爆発だ。外の連中も気づいてやってくるだろう。1000人もの軍人の大群だ。100人斬りの勇者様といえども無事で済むのかな」
「うん、そう思うよね。だから爆発させたんだ」
「なにを──」
「侵入する前に、この倉庫に幻術をかけておいた。外から見たからこの倉庫は今も平和なままだよ」
「──っ!!」
「応援を呼ぶために誰かを外に出されたら困るからね。少し誘導させてもらったよ」
相手の顔が怒りでドス黒く染まっていく。
「貴様ぁっ!」
剣を手に襲いかかってきた。
踏み込む力強さも、振り下ろされる剣先の鋭さも、そこに込められた魔力の練度も、全てが規格外だった。
並の一撃じゃない。
きっと裏の世界じゃ有名な人なんだろう。
けど。
「もうリサを巻き込む心配もない。悪いけど本気を出させてもらうよ」
魔力を込めて剣を振る。
生み出された巨大な光の刃が、倉庫の中を切り裂いた。
「──……ッ!!」
集まっていた部下たちが一斉に薙ぎ払われた。
かろうじて無事だったのはボスだけだった。
折れた剣で体を支えながら僕を睨みつける。
「貴様、勇者の力は失ったはずだろう……!!」
「失ってはいないよ。ただ、勇者の力は、自分のためには使えない。大切な物を守るためにしか使えないんだ。そして今の僕にはもう、世界の平和よりも大切なものがある。だから世界のためには戦えないってだけだよ」
「だったらなぜその力が使える!」
折れた剣で襲い掛かるボスに向けて、僕は鉄の剣を突き出す。
お互いの剣が交差したのは一瞬だった。
相手の剣を粉々に砕いて、僕の剣が相手の胸を貫いた。
「なぜ、だ……なぜ、俺が負ける……」
倒れる相手に向けて、僕は腕の中のリサを強く抱き寄せる。
「この世界に愛する娘より大切なものがあるわけないでしょ」
「お父さん……」
「ふざけるな……そんな、理由で……」
それ以上の言葉はなかった。
ようやく終わったんだ。
「さあ、帰ろうか」
「うん」
すべてが終わった後、合図を送ることでコンテナの回収部隊が来る予定だ。
それに紛れていけば帰れる。
はずだったけど。
基地中に警報が鳴り響いた。
『第一種警報発令発令。基地内への敵侵入者を感知。直ちに全軍警戒態勢を取れ。第一種警報発令発令。基地内への敵侵入者を感知。直ちに全軍警戒態勢を取れ──』
「お父さん……」
リサが不安そうに僕を見上げる。
うん、これはかなりまずいことになったな。
警報が鳴り響いている。もう間もなく兵士たちがここに殺到して来るだろう。
さすがに1000人もの兵士を相手にするのは厳しい。
しかも今はリサもいる。正面突破は不可能だ。
「お父さん、どうするの……?」
リサが不安そうにこちらを見た。
だけど僕は心配してなかった。
「……お父さん、どうして笑ってるの?」
「ああ、いや。そういえば昔もこんなことがあったなあって」
あれは魔王を倒した直後だった。
怒り狂う魔物が魔王城に殺到したんだ。
その数はここの兵士の比じゃない。
窓から見た魔王城周辺の景色は、怒り狂う魔物たちによって地平線の先まで取り囲まれていたくらいなんだ。
恐らくは何千、もしかしたら一万を超える魔物の群れに囲まれていたんじゃないかと思う。
僕たちはそこから脱出した。
敵意を奪う慈愛の魔法<聖女の光>によって。
語り終えた僕の話の意味に気付いたのか、リサが激しく首を振った。
「私には無理だよ……!」
強く否定する。
「私は今まで一度も魔法が使えたことないんだよ……なのに、お母さんみたいな力なんて、無理に決まってるよ!」
「そんなことない。リサならできる。僕は信じてるよ」
「そんなこと言ったって……!」
「リサは今もお母さんに愛されてる。必ず力を貸してくれるよ」
セリアがにこりと笑った。気がした。
「いいかい、リサ。力を使うために難しいことは何にも必要ないんだ。ただ思うだけでいい。ほら、こうするだけでいいんだ」
リサに手を重ねる。そこに3人分の温もりが重なる。
リサが手を開くと、そこには暖かな光があった。
「これが……」
リサが驚きながら光を見つめる。
「こんなに優しい光が、私の魔法……?」
「そうだよ。リサの魔法は怖いものじゃない。誰かを想う優しさから生まれる、誰よりも優しい魔法なんだから」
だから怖がる必要はない。
この光こそが自分なんだ。
それに気がつけばもう、僕が教えることは何もなかった。
「大丈夫だ。自分を信じて。リサは誰よりも優しい子だ。それは僕が一番知っている。そんな子の願いなら、世界は必ず叶えてくれる」
「……そっか。やっとわかったよ。
私はずっと、みんなに認められたくて力を使おうとしてた。
勇者の娘だから。聖女の娘だから。そう思うみんなをガッカリさせたくなくて、何かすごい力を使おうとしてた。だからダメだったんだ。
ずっと神様に祈り、ずっと神様を恨んできた。私を守ってくれるのは神様なんかじゃないのに」
だから、生まれて初めて違う人に祈った。
私を守ってくれる、私を愛してくれる、私が心から信じている、私の大切な人たちに願った。
「守りたいの。みんなを。家族を。だからお願い。助けて、お父さん、お母さん」
祈るように組んだ手から光があふれる。
目の前が真っ白で見えないくらいに強く塗りつぶされる。
なのに眩しさを感じない。むしろ心地よさすら感じてしまう。
実のところそれは魔法ですらない。
リサが持つ魂の輝きで世界を照らすだけ。
誰よりも優しく、やわらかく、あたたかな光が体の外側にあふれ出していく。
敵意を奪い、愛を与える、聖女の究極魔法。
魔物の大群ですらも落ち着き、やがて全員眠らせてしまったその光が、倉庫を包み込んでいく。
やがて警報が止まり、周囲を取り囲んでいた殺気が消えていく。
外に出てみると完全武装の兵士たちが地面で眠りこけていた。
「さすがだねリサ。きっとできると信じていたよ」
「これ、私がやったの……?」
「初めて使った魔法が聖女の究極魔法だなんて、やっぱりリサは天才だな」
「も、もう……やめてよ……」
いいながらも、まんざらではなさそうだった。
これならもう大丈夫だろう。魔力を暴走させることは二度とないはずだ。
自分の中にあるものが、優しい光なんだと知ったのだから。
眠りこける兵士たちの間を抜けて出口に向かう。
正面入口まできた時、たった一人だけ立ちはだかる人影があった。
「やってくれたじゃないか」
それは倒したはずの誘拐犯たちのボスだった。
貫いたはずの胸からは血が止まっている。
全身から異様な雰囲気が漂っていた。
リサの魔法で敵意を奪われたはずなのに、手にした剣を僕に向けてくる。
折れたはずのその剣は、禍々しい黒刀に生まれ変わっていた。
「貴様だけはここで必ず倒す」
「どうしてそこまでして僕を倒そうとするの?」
「貴様は知らないだろうが、俺はかつてこの国の勇者だった。
世界中にいた勇者のひとり。魔王を倒せなかった勇者の一人なんだよ。
お前にはわからないだろうな。魔王を倒せず伝説になれなかった勇者の悲惨さが」
「魔王なんて、誰が倒しても一緒じゃないか。世界が平和になったんだから、誰が倒したかなんて関係ないでしょう」
「生まれた時から勇者として育てられ、何年も修行を続けてきた。魔王を倒すことだけが俺の生きる意味だったんだ。なのに、その途中で目標を奪われた者の気持ちを考えたことがあるのか?
魔王に負けたのならばまだいい。魔王に挑むことすらできないまま、世界が平和になってしまった俺の気持ちが貴様にわかるのか?
勇者として生まれ、勇者として生きてきたのに、勇者になれなかった俺の気持ちが貴様にわかるのか!?」
体からあふれる力が徐々に強く、禍々しくなっていく。
胸の傷口が蠢き、新たな肉体を作り出した。
「貴様をここで倒し、俺が本物の勇者であると証明する」
「その力、まさか……」
「そうだ。悪魔と契約した。おかげで忌々しい聖女の力にも対抗できた。貴様を超える力も手にすることができた!」
言葉を一つ放つごとに肉体が変化する。
今やその姿は人間の範疇を超え、悪魔そのものになりつつあった。
「グハハハハハ! 見ろこの肉体を! 人間の限界を超えた圧倒的力で今日俺が新たな伝説となる!!」
怒り、憎しみ、悲しみ、絶望。
その感情は本物なんだろう。
勇者として期待され、その未来を奪われた気持ちは、僕にはわからない。
だけどその恨みこそが、彼が今まで生きてこれた理由なんだ。
だからこそ余計に悲しくなる。
「残念だけど、それはもう無理だよ」
肥大化する彼の姿を見ながらつぶやく。
「さっきまでの君なら僕に勝てる可能性は十分にあった。あの一撃は本当に見事だったんだ。僕にはとても真似できない、何十年もの研鑽を重ねた一撃だった。君にも正義があり、勇者の力を使うことができたのなら、きっと僕なんかよりもよほど強かったはずだ。
だけど、今の君にはもう、不可能になってしまった」
「ハッ。今更勇者の力など必要ない。俺にはこの悪魔の肉体があるんだからな。いっそ命乞いをしたら許してやらないこともないぞ」
「悪魔に魅入られた以上、君はここで倒さなければならない。本当に残念だ」
「まるで俺に勝てると言わんばかりだな」
「残念だけど、僕が負けることはもうない」
僕の体に、僕のものではない神々しい力が集まってくる。
「悪魔は神の敵。目の前に現れたら、神が放っておくはずがない」
「──……ッ!!」
何かを察知したのか、悪魔と化した彼が突如攻撃してきた。
手のひらから放たれた真っ黒な魔力波が僕を直撃し、何事もなかったかのように消えてしまう。
「バカな……!」
「神の祝福が僕を守ってる。今の僕を倒すには、神を超える力が必要だ」
鉄の剣を無造作に横に振るう。
光の奔流があふれ出し、悪魔の右半身が蒸発して消えた。
「グっ……!?」
半身だけとなった体でバランスを失い、地面に転がった。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……!! こんなことがあってたまるか!」
叫ぶその体が突然消える。
同時に、僕の真後ろ、リサの隣に瞬間移動していた。
「動くナ! 娘がどうなってもいいのカ!?」
鋭い爪をリサの首筋に当てる。
しまった。油断した。まさかあの状態からここまで動けるなんて……
「あんたのその気持ち、少しだけわかるよ」
だけどリサは冷静なままだった。
「私も勇者と聖女の子どもだって勝手に期待されて、その力がないとわかると勝手に失望された。ひどいよね。そんなの一度も頼んだことないのに。そのせいで力の使い方がわからなくなっちゃった」
「ウるせえ、てめえ如きに俺の気持ちがわかってたまるカ!」
「力は自分のためじゃなく、誰かのために使うものなんだ。それさえわかっていれば──」
リサの手に光の剣が生まれる。
僕も見たことのない魔法だ。
光の剣が悪魔を突き刺すと、そのまま灰になって崩れていった。
「バカな……バカな……バカな……
こんな終わり方……俺は、今まで、何のために……」
やがて声だけが残り、それすらも風の中に消えていった。
勇者と聖女、二つの力を持つ彼女だからこそ生まれた力によって、完全に消滅したみたいだ。
「リサ、いつの間にそんな力を……」
驚く僕に向けて、リサは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「勇者の力は、大切な人を助けるために覚醒するんでしょ」
と、そう言って。
「そうか……そうだったね!」
「何その顔。ニヤニヤしててきもい」
「ええっ!?」
「まあいいや、早く帰ろ。お風呂入りたいし」
「そうだね。みんなも心配してるだろうし。またニーナさんに迷惑かけちゃうな」
「……どうせ気がついてないんだろうけど。となりのお姉さん、お父さんのことが好きだからね」
「えっ!?」
いきなりそんなこと言われたので驚いてしまった。
「でも、30過ぎのおっさんなんて、あんな若い子からしたら興味ないんじゃ……」
「はあ……。ま、いいけど」
そういって、となりを歩く僕に一歩だけ寄り添った。
「もうしばらくは、お父さんと二人で暮らしたいからね」