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「あ゛〜っ、疲れた」
帰宅直後、俺は靴を脱ぐとそのまま玄関で崩れ落ちた。
長時間のバイト明けだ。疲労感が半端ない。何でバイトの俺が発注やら何やら、ほとんど店長の仕事までやらされてるんだか……。そんならその分の給料くれよな。
……まー、今はいい。マジで疲れたんだ。いっそこのままここで寝てしまおうかという誘惑にも駆られる。
時刻はもうすぐ0時。風呂すらもメンドイ。
が、同時に空腹が襲いかかってきやがった。
このままじゃ寝られそうにない。かといって何か作る気力もない。どうしたものか。
……仕方ねェ。冷蔵庫を漁って何かテキトーな可食物でもでっち上げるか。
ごくわずかな逡巡ののち、俺は人として最低限の欲求を満たすべく、ボドボドと廊下を這い歩く。
その先、台所へと辿り着くと、電気ケトルに水を入れてスイッチオン。
その間に冷蔵庫を開ける。
……が、中には何も入ってなかった。
「マジかよォ……」
思わず膝から崩れ落ちながら独りごちる。
何でだ? ……ああ、そういえば先日買ってきた食材は全部食ってしまったな。インスタント食品も先週使い切ったばかりだった。
しまった。
帰りに何か買って帰るつもりだったが、疲れ切っていたためにそのことは完全に失念していた。
今から買いに行くのも面倒くさい。寒いし眠いしな。何よりそこまでする元気がない。
……あー、もしかしたら。
俺は冷凍庫を開ける。冷食でも入っていたら良いんだが。
そして、その中にあったのは……
「おっ……うどんか、コレ?」
アルミの鍋(?)が一つ。その中には白く細長い物体が絡み合っている。そしてそれにまとわりつく茶色いゲル状の物体。
鍋焼きうどん……だろうか? にしちゃ具が見当たらんが。
……まぁ、いい。今更何をするのにもメンドい。とりあえずコレでも食うか。
思考がほぼマヒした状態で、ラップを剥がしたのちアルミ鍋をコンロにかける。そして、電気ケトルの湯でお茶を入れた。
「……ふぅ」
腹の底があったまり、ほっと一息。
と、ようやく幾らか頭が回り始めた。
……にしても、鍋焼きうどんなんていつ買ったんだっけ? 記憶にないんだがな。
それに、アルミ鍋にラップだけかけてある状態だったんだよな。梱包材も何もなく……。
今考えると怪しすぎる。う〜む。マズった?
……などという考えが頭を過ぎる。
が、
「……そろそろ煮立ったか」
グツグツという音に、再び脳が食欲に支配された。
「……どれどれ?」
正直、味はともかく腹さえ膨れればそれで良い。
俺はコンロに歩み寄り……
「なっ……何じゃこりゃ〜〜ッ!」
鍋の中で“うどんの様な何か”が踊っていた。茹ってるとかそういうレベルじゃない。まるでうどんに似た生物が足掻いてるような姿だ。そして漂う異臭。
「え゛⁉︎ 何? 何だよ、コレ!」
慌てて火を止め……いや、何かキモくて近寄りたくない。ケド、このまんま置いておくのもマズそうだし……
などと逡巡していると、玄関のドアが開く音がした。
ン? 鍵かうのを忘れたっけ? いや、それとも……まさか!
そう思う間もなく誰かが台所に駆け込んできた。
そして、
「ア゛〜〜ッ! 何てことを! それ、あたしの研究用サンプル!」
入ってきたのは、従姉の美和だ。彼女はすぐさまコンロの火を止め、そこから鍋を……
……って、
「うわっ! 熱ッ!」
そらそうなるわな。ミトンもなしで鍋つかめばさ。
そしてその鍋は宙を飛び、床に叩きつけられる。
ひしゃけた鍋から溢れるうど……白い蠕虫的なモノ。
「あっつ! 熱い! ヤバイこれ超熱い! ああもう、火傷しちゃったじゃないのよぉ~」
涙目で悶える彼女。
「大丈夫か」などと声をかけたいが、ここは心を鬼にせねば。
「いや、そもそも……アレ、何?」
俺が指差す先には、床上で蠢くあの謎の物体Xがある。
「え? ちょっ、ちょっとォ! 少しぐらいあたしの心配したらどうなのよ!」
「いやいやいや。それはそれ。これはこれ。つか、何であんなブツが俺の冷蔵庫に入ってるんだ……」
前にも得体の知れないモノが知らないうちに冷蔵庫に入れてあった事がある。もっと警戒すべきだったが、今回は空腹のあまりそれを怠ってしまった……。
「ちょっとぐらい良いじゃない〜。空いてたんだし。あたしの資料用冷蔵庫は一杯だったんだからさ」
「好きで空けてたんじゃねーよ。というか、一声かけてくれ。……多分断るけど」
「陽介ちゃんのケチぃ。減るモンじゃないでしょ!」
「いつぞやコーラが一本減ってた……」
「そそそッ、そんなコトもあったわね」
目をそらしよる。
……いや、それよりもだ。
「だからアレは何?」
「う……うどんでしょ。見ての通りの」
「ヲイ……」
「そっ……コレが、うどん」
自信満々な回答である。美和姉がそう思うのならそうなんだろう。美和姉の中ではな。けどよ、
「ビチビチ跳ね回るうどんなんてねーよ! 研究のしすぎで頭おかしくなってんのか!」
「ちょっ……ひっど〜い! もう少しこう手心というか……」
目を潤ませて俺を見る。
まぁ、以前ならそれに引っかかっていたかも知れんが、もう慣れた。
容姿は美人の範疇であるが、何せ、奇人変人の類だ。
それに、すっぴんかつボサボサ頭、スウェット上下に半纏を羽織った姿では色気もナニもない。
この美和は、大学院で何やらアヤシゲな研究をしている。本来の専攻は地球科学って話だったのだが、“こんなブツ”やら何やら……一体何を研究してるのやら。
しかも、大学内じゃ飽き足らず、自宅の一室を研究室に改造してしまった。大学教授の両親が海外出張なのを良いことに……。
で、俺はというと、庭の一角にある離れに下宿させてもらっている。元々、明治ごろは食客用の部屋。それ以降は改装して書生、学生を下宿させていたそうだ。
こっちの大学を受けると聞いた美和の両親が、「もし受かったらこの離れを使って良い」と言ってくれたので、喜んで飛びついた訳だが……そんな甘い話はなかった。
体のいい見張り役なんだな、俺……。
まぁ、それはともかく。
「で、本当は何だ?」
「それは、その……えっと、」
「……ふむ」
俺はスマホを取り出した。
「伯父さんたちにそいつを見せて、一体何か聞いてみようか」
「そっ……それだけはっ! それだけはヤメテ!」
いきなり物凄い勢いで土下座する美和。
止めてくれよ……一応は憧れた事がある人なんだが。
い……いや、ここで同情してはイカン。
「じゃあ、俺にだけでも正直に話してくれよ。それでいいだろ?」
……この辺が妥協点か。
いや、かなり甘いかも知れんけど。
「それは……その」
そこで視線を逸らす美和。
「……その、何?」
「なっ、南極うどん……」
「……ナンだ、ソレ?」
“南極”で“うどん”ってどういうコトだよ。南極観測隊用のうどん……なワケねーよな。そういや伯父さんは隊員として南極に行ったんだっけか。
いやそもそもこんなアヤシゲなブツはうどんなワケねーよ。
「で、実態は何?」
「その……ね。父さんたちが南極から持ち帰った石にくっ付いていた細菌っぽいのを寒天培地で培養したらこんなになって……」
……ヲイ。
「あンたはたーけか!」
ブチ切れて思わず名古屋弁が出てまったなも……
オホン。
「いやそンなモンからナンでうどんみてェなンが出来るんだよ! ンな訳あらすか!」
「だってぇ……」
上目遣いで俺を見上げる美和。……クッソ可愛いな、おい。
だが騙されるな、俺。コイツがこういう仕草をする時は大抵ロクな事がネぇ。今までの経験からしてな……。
「そもそも、だ。確か南極って、氷の中に未知の細菌やウイルスが眠ってるって話だよな? コレ、ヤバいヤツを目覚めさせたんじゃね?」
「でででも、常温で保管してあったヤツだし……」
「待てや。そんなんでもテキトーに培養したらアカンわ! ……いいからコレ、ちゃっと捨ててしまえ!」
棚からゴミ袋を取り出すと、それを一旦裏返しにして腕を突っ込む。そしてその状態で、蠢く南極うどんこと、物体Xを掴んだ。
「あ゛〜〜ッ、待って!」
彼女の制止は無視だ、無視!
うわっ……やっぱしキモっ! 鳥肌が立つぜ。
それでもすぐに袋をひっくり返すと、アルコール消毒液やら塩素系漂白剤をぶちまけて口を縛って密封。そして汚れた床を拭き取ったキッチンペーパーなども、まとめてゴミ袋に入れてから同様に消毒、密封する。
「ああ゛アぁあ……あたしの、あたしの研究が〜〜〜」
床にへたり込んで泣き崩れる美和。
「煩ェ、この奇人変人が。コレは没収だ。月曜日に燃えるゴミで捨てるぞ!」
「うぅ……陽介ちゃんのいけずぅ」
「はいはい」
「ぶ~っ!」
子供みたいに頬を膨らませる美和。
う……む。だが、ここで流されてはいかん。
「もういいから今日はとっとと寝る。正直、俺はかなり疲れてるんだ……。美和姉も部屋に帰った、帰った」
「……はぁい」
彼女は渋々立ち上がると、トボトボと母屋へと戻って行く。
まったく……あんなワケのワカランもの培養しようとか、正直理解に苦しむ。頭のいい人たちの考えるコトはワカラン。……もしかして美和は紙一重の方なんだろうか?
にしても、アレは何だったんだろう……。
俺は厳重に密封したゴミ袋を見つめた。
と、袋がゴソリと動く。
……うむ、そうだな。
さて、寝るか。腹が減って仕方がないが。
俺はゴミ袋を庭先に出すと、着替えてベッドに潜り込んだ。