かけがえのないもの
一度だけ母に、お父さんのことを知りたくはない?と聞かれたことがあった。
悪魔は人間のことをただの食料か己の性欲を満たすだけの下級な種族としか見ていない。
だから悪魔だった父もろくでもない奴なのだと決めつけていた。
僕にそう尋ねてきた母の表情があまりにも辛そうに見えたから……思い出したくもないほどの酷いことをされたのだと思い聞きたくないとだけ答えた。
僕の中で父は、完全に抹殺された存在だったのだ。
─────────昔、とても愛した女がいた。
もしかしたらあの時の母は……
もう戻らない幸せだった日々を語ることに、胸が張り裂けそうなほどの気持ちを抱いていたのかも知れない。
これ以上魔王様のそばにいたら自分が惨めなものに成り下がりそうで、こんな気持ちのまま仕えることなんてできないと思い飛び出してきた。
けれど……ちゃんと確かめなくてはならない。
真実は、一体何なのか──────────……
魔王城には魔王様のお姿はなかった。
庭に出ると血溜まりができている箇所を見つけた。きっとここに着陸したのだろう……酷い傷だ。
血溜まりから続く血痕を辿ってみると、あの蜂蜜色の石灰岩の壁に赤い屋根で彩られた建物へと真っ直ぐに向かっていた。
普段は近付くことさえ許されていないのだけれど……
開いたままの扉から、部屋で眠っている魔王様の姿が見えた。
痛々しかった羽根の傷がすっかり綺麗に戻っている。
治癒魔法は最高難度の魔法で魔力の消費量も半端ない。ただでさえあの玉のせいで相当量の魔力を失っていたのに……
血痕は玄関の手前で止まっていた。この家を血で汚したくなかったのだろう……
さすがの魔王様も、かなりお疲れのご様子だった。
本当は今直ぐにでも揺り起こして真実を知りたい。
けれど……今の魔王様を起こすのはあまりにも気が引けた………
にしても変なところでお眠りになっている。
魔王様は暖炉の前に置かれたローテーブルに、上半身を預けた状態で眠っていたのだ。
寒くはないだろうかとそっと中に入ると、暖炉の上に飾られていた大きな絵画に目がいった。
バラが咲き誇る庭で微笑む一人のうら若き少女。
この絵の……少女は………
その絵が全てを物語っていた。
それは、若かりし頃の母だった──────────……
母は素敵な笑顔の持ち主だったけれど、こんなはにかんだ潤いのある笑顔は見たことがない。
この絵の母は、恋する乙女の表情をしていた。
きっと魔王様のことが、大好きだったんだ………
思えば、いくら考えても腑に落ちないことがあった。
あの収穫祭の夜、人間だと思って普通に生活していた僕に尖った耳と羽根が生えてきて悪魔の姿へと変貌してしまった。
そのきっかけとなった襲ってきたあの悪魔……
食われると思った次の瞬間には、肉片となって四方八方に飛び散っていた。
当時は悪魔の力が目覚めて無意識のうちに魔法で倒したのだと思っていた。けれど……
魔力の弱いこの僕が、あんな風に悪魔を一瞬で倒せるわけがないのだ。
毎月母が渡してくれた本だってそうだ。
生活が苦しい中で母が無理をして買っているのだとずっと思っていた。
でもそれにしては毎月最初の日に、いつの間にか旧い本が新しい本へと替わっていたのだ。
どこに閉まってあっても必ず入れ替わっていた。
どうなってるのと母を問い詰めたら、まるで魔法みたいでしょ?って嬉しそうに笑ってた。
部屋の奥の壁一面に置かれた本棚にはたくさんの書物が並べられていた。
どれもこれも、読んだことのあるものばかりだ。
毎月、僕に本を送ってくれてたのは……
魔王様だったんだ………
魔王様は絵にすがるようにして眠っていた。
それだけでもう……母をどんなに愛おしく思っていたのかが伝わってきた。
「あっ……」
ローテーブルに置かれていた絵本の表紙を見て思わず声が漏れ出てしまった。
魔王様を起こさないように『テティス』と書かれた絵本を静かに手に取った。
テティスとはギリシア神話に登場する海の女神だ。
幼児向けの本にしては芸術性が高く、母が凄く気に入っていて何度も読み聞かせてもらったのを昨日のことのように覚えている。
魔王様もお好きなのだろうか……
懐かしんでいると本の間に挟んでいた紙がスルリと落ちてしまった。
紙は古く黄ばんでいて、右上がりの丸っこいクセのある文字が書かれているのが見えた。
久しぶりに見る、母の書いた文字だった──────……
『いきなりこんな手紙を渡してごめんね。
どうしてもルークに伝えたいことがあるの。』
これって……母が魔王様宛に書いたラブレター……?
見ちゃダメだと思いつつも当時の二人の様子が気になり、誘惑に負けてこっそりとのぞいてしまった。
『私が妊娠したと告げた時、心から喜んでくれてありがとう。
二人で育てていこうと約束してくれて、本当に本当に嬉しかった。』
お腹の中にいる子とはきっと僕のことだ。
僕ができたことをこんなにも喜んでくれたんだ……鼻の奥がツンとして、涙が出そうになってしまった。
『貴方との子供がお腹にいるだなんて今でも不思議。
だって貴方って無口だし無愛想だし表情ひとつ崩さないし……私は嫌われてるんだなって思ってたもの。』
魔王様の性格は昔から変わらないんだなと思ったらちょっと笑ってしまった。
その後も続く文面からは恋人同士である二人の仲の良さが伺えた。
これからも続くであろう幸せな未来が容易に想像できた……
でも現実は、僕が生まれた時には父はいなかった。
母の性格からして僕に内緒で会っていたとは考えられない。
こんなにも深く愛し合っていたのになぜ別れてしまったのだろう……
二枚目の手紙をめくってみると、そこにはその理由が書かれていた。
『父から………
どうしても産みたいのであればあの悪魔には二度と会うなと言われました。
家からの援助は一切しない。おまえ一人で育てろと。
そう言えば私が産むのを諦めると思ったのでしょう。
何度も父を説得しようとしました。一度でいいから会って欲しいと……
でも父は怒るばかりで、貴方の名前を口にすることさえ許してくれません。
貴方と逃げることも考えました。でもそうすれば父は地の果てまでも追ってきて、貴方に酷いことをするでしょう……
私のせいで二人が争うことになるなんて私には耐えられない。
貴方とした約束を、守れなくてごめんなさい……』
これはラブレターなんかじゃない……
母が魔王様に送った、別れの手紙だ………
『この子は私一人で立派に育ててみせます。
だからあなたはもう、私のことは忘れて。
今までたくさんの愛をありがとう。
さようなら。』
文面からは母の切ないほどの愛情と、揺るがない決意を感じた。
「もう私の世話はしないんじゃなかったのか。」
魔王様は僕がかけたブランケットを指でなぞりながら尋ねてきた。
「どうして……150年も一緒にいたのに黙ってたんですか……」
そうだよ……150年間も………
僕が一番そばにいたはずなのに、魔王様のなにを見ていたんだ。
──────だって魔王様がエミルを見てる時って、とっても愛おしそうな表情をされてますよ?
魔王様はみんなが言うような血も涙もないお方ではないって、僕は分かっていたはずなのにっ……!
魔王様は僕から黙って手紙を受け取ると、丁寧に折りたたんで絵本に挟み……本棚へと戻した。
──────人間とは脆く短命な生き物だ。我々が手を貸そうがそれは目の前の死がほんの少し遠のくだけ。そんなものをいちいち気に止めるなど時間の無駄だ。
よく言うよ…………
自分は、母が亡くなったあとも変わらず思い続けていたくせに。
僕のことも子供の頃からそばで見守ってたんじゃないか。
ずっと分からなかった魔王様が魔王になられた理由。
それも……きっと、僕のためだ。
行き場のなかった僕に……
居場所を、作ってくれたんだ─────────……
僕がどれだけ尋ねても魔王様は何も話してはくれないだろう。
自分が父親だともはっきりとは名乗らないし、父親らしいことも何一つしない。
僕がここを出ると言っても止めやしないだろうし、また使用人として働いていても何事もなかったように普段と変わりなく過ごすのだろう……
「……魔王様に、お願いがあります。」
僕が知っている魔王様はそういう人だ。
それでこそ、魔王様なのだ。
でも────────……
「一度だけ、強く抱きしめもらってもいいですか……?」
──────今この瞬間だけは、魔王様に甘えさせて欲しい。
魔王様は驚いたように少し目を見開いたが、口元をフッと緩ませると両手を広げて迎えてくれた。
応えてくれたことが嬉しくて、魔王様の腕の中へと飛びつくように抱きついた。
初めて全身に感じた魔王様の体温はとても温かくて……
とても……優しい香りがした。
今までの僕への愛情がいっぱい詰まっていて、このまま全身が溶けてしまいそうなほどに気持ちが安らいだ。
魔王様は僕を包み込むように柔らかな羽根を重ねてきた。
夢にまでみた魔王様のモフモフ……最っ高に気持ちが良いっ。
外で雨が降り出したのだろうか……
僕の背中にポタポタと雫が落ちてきた。
これって………?
きっとどこからか雨漏りをしてるんだ。
明日朝イチで屋根にのぼって直さないと……
大丈夫。分かってる。
何事にも冷静沈着で動じることのないあの魔王様が涙を流しただなんて……
知られたくないだろうから───────……
でも魔王様ならきっと……
碧い海の中ではかなく揺らめく泡のような
綺麗な涙を、流すのだろうな………
気付くと朝の光がさんさんと降り注ぐベッドの上で寝ていた。
あれっ……なんで僕、服のままで寝てるんだろう……?
ムクリと起き上がってみたけれど、なんだか頭がぼうっとしていて上手く働かない。
すっごく幸せな夢を見ていたような気がするんだけれど……
──────────……違う!夢じゃない!!
モフモフのあまりの気持ち良さに寝てしまったんだ!
一生に一度のお願いだったのにっ!寝落ちするだなんてっ……なんてもったいないことをしてしまったんだっ!!
ジタバタと暴れてみたところで時を巻き戻すことはできない。
くっ……くやじいっ!!
でも待てよ……僕の部屋まで魔王様が運んでくれたんだよね?
てことはまたお姫様抱っこしてくれたのかな……うわ、照れる。
まだ体に微かに残る魔王様の香りを……
ギュっと、胸に抱きしめた──────────