人魚伝説
観光客に紛れ、男は久しぶりにこの島を訪れた。小さな港には、『ようこそ人魚の島へ』と書かれた大看板が観光客たちを迎えていた。
この島には人魚にまつわる伝承があった。
昔々、ひとりの若者がいた。
若者は漁師で、今日も小舟に乗り漁に出ていた。
空は晴れ渡り、海は凪いでいた。
静かな海が突然膨れ上がり波頭が割れ、白波が若者の小舟を襲った。
若者は海に投げ出され死を覚悟した。
そんな若者を救ったのは、ひとりの人魚だった。
人魚は若者を助け、この島へと導いた。
島には若者と同じように、海で事故に遭った者たちが暮らしていた。
それぞれを助けた人魚と共に……。
若者も彼を助けた人魚と共にこの島で暮らした。
今の島民たちはその若者たちと人魚たちの子孫だと言う物語だった。
そんな人魚伝説も今は夢物語。『人魚』の文字さえ、今ではビーチに寝転ぶ水着美女と共に看板に残るだけとなった。
男がここで暮らしていた頃は、温暖な青い海に囲まれているだけの退屈な島だったが、この島をロケ地とした映画がヒットしてから、若者たちがこぞって訪れるようになった。映画で若い男女の出会いの場となった所為だろう。
観光客目当ての小綺麗なホテルがビーチ周辺に建ち並び、土産物屋も数多く出来た。
白いビーチでは、色とりどりの水着をまとった女たちが、サングラス越しに男を値踏みしている。男たちは歩き回り、ビーチに寝転ぶ女たちの中から今宵の相手を物色している。ここに来れば映画のような素敵な出会いがあるとでも思っているのだろうか?
「チッ、この島も変わっちまったなぁ」
男は舌打ちと共に嘆きの言葉を吐き捨て、観光客相手の賑やかさに背を向けて歩き始めた。そして街外れにひっそりと佇む一件の酒場の扉を押し開けた。
「いらっしゃい、ずいぶん久しぶりじゃない。また仕事に行き詰まったのかい?」
カウンター越しに女が親しげな声を投げかけてきた。
「ああ、最近はどうもダメだな。歳かなぁ」
「ははは、歳じゃしょうがないねぇ。もう宿は決めたのかい? うちに泊まったって良いんだよ」
「いや、それは遠慮しておくよ。夜中に襲われたくはねえからな」
「誰が襲うって! アタシにだって選ぶ権利くらいあるんだからね」
「いまだに若い男漁りでもしているのか?」
「もうあがっちゃったよ。今はおとなしいものさ。いつもの奴で良いんだろう?」
「ああ、いつもの奴を頼むよ」
女はグラスに琥珀色の酒をついでからそこに水を差す。するとグラスの中は見る間に白濁し、まるでミルクのような色へと変貌した。氷を浮かべてマドラーで混ぜてから男の前に置く。
酒の名前はパスティス、ニガヨモギを使った香草系のリキュールで、此処ら辺ではおなじみの酒だ。
この酒は製造販売を禁止されたアブサンの代替品として広まったもので、その名前のパスティスにも『似せる』とか『まがい物』と言う意味があるらしい。
「宿はいつもの安宿かい?」
「ああ、意外と気に入っているんだ」
「うちの方がよっぽど良いと思うけれどもねぇ」
「安宿と言っても部屋にはカギが付いているからな。年増女に襲われる心配は無い」
「あんな美人の嫁さんを家に残して、一人でこんな所に来るような情無し野郎を誰が襲うもんかね!」
男は苦笑いを浮かべながらパスティスを煽った。
「嫁さんは元気かい?」
「ああ、元気にやっているよ」
「卒業以来この島に帰って来て無いんだろう? たまには連れておいでよ」
「何故か島には帰りたがらないんだよなぁ。嫌な思い出でもあるのかな? 同級生にイジメられたとか……」
「アタシ達がイジメたって? そんな事をするわけが無いだろう!」
「ははは、島の皆は外から来る奴に無関心だったからな」
「何を言っているのさ。外から来る転校生達がアタシ達に無関心だっただけじゃないか」
「そうかなぁ」
「そうさ、アンタだってアンタの嫁さんだって、結構人気があったんだよ。それなのにすぐに転校生同士でくっついちゃうんだから、あの時男子も女子もガッカリしたもんさ」
「おいおい、今更かよ。その時に言ってくれよな」
「ばーか、島の子供達は純朴だから、そんな事は言えないんだよ」
「そんなもんかねぇ」
二杯目のパスティスを飲み干した男は、勘定をカウンターに置いて立ち上がった。
「ごちそうさん、また来るよ」
男は岬の突端にある古いホテルへと向かっていた。この辺りまで来るとビーチの喧噪も聞こえず、観光客の姿も見当たらない。岬を越えれば、男が思春期を過ごした島の風景が待っている筈だ。
ホテルのチェックインを済ませた男は、夕食までの時間を散歩で潰すことにした。岬を越えて海岸の岩場に沿った道へと歩を進めた。この先には男にとって生涯忘れ得ぬ場所があるのだ。
男は、まるで思春期に戻ったような胸の高鳴りを感じていた。
波の浸食に角を失った岩たちがひしめく海岸には、流れ着く海藻や流木とカモメくらいしか訪れない。やがて青い海に迫り出した大岩が見えてきた。
大岩の先端に目を向けると、そこには少年と思しき人影が海を見詰めて座り込んでいた。
「先客在りか」
男はそう呟くと、近くの岩に腰掛けて煙草に火を点け、青い海と少年の姿を眺めながら暫しの時を過ごした。男の見詰める先の少年は、一向にその場を動く気配を見せない。
「ここに先客が居るとは思わなかったな。また明日来るか」
男は残念そうに来た道を引き返した。
翌朝、朝食を済ませた男は海に迫り出す大岩へと向かった。
大岩にたどり着くと、まるでそこで夜を明かしたかのように、昨日の少年の姿があった。しかし、今日の男は大岩の先端へと向かう歩を止めようとはしなかった。
男はまるで少年など存在しないかのように、その隣に腰掛けると青い海を見詰めながら煙草に火を点けた。男の気配を感じている筈の少年も、振り返ることもなく海を見詰め続けていた。
「この辺の子か?」
突然の男の問いかけにも、少年は海を見詰めたまま何も答えない。
「ここは時折大波に洗われる場所だ。地元の子供ならそのくらいは知っているだろう?」
少年はうるさそうに隣に座った男を睨むと、吐き捨てるように言葉を投げ付けた。
「知っているさ。去年の今頃、その大波にさらわれたからな」
「そうか、よく助かったな。ここでさらわれた者のほとんどは、離岸流に乗って沖合へと運ばれる。生きて戻って来る者はまず居ない」
少年は黙り込んだまま、海を見詰め続けている。まるで海と会話でもしているかのように……。
男は思った、『この少年、俺に似ているな』と。
「人魚にでも助けられたのか?」
振り返って男を見る少年の目に、明らかな狼狽の色が浮かんだ。それをごまかすように少年が口を開いた。
「人魚だって? オッサン、いくつだよ! そんなモノを信じているのかよ」
男は少年の狼狽振りに微笑みを見せた。
「あれはおまえと同じくらいの年の頃だったなぁ。俺もここで大波にさらわれたんだ。離岸流に沖合へと運ばれながら思ったね。死ぬんだなって。その時にアイツが現われたんだ」
驚きを隠せない少年を焦らすように、男はゆっくりと煙草を銜え火を点けた。少年は男の発する次の言葉を待っていた。男はそれに気付いていながら、少年を焦らすようにゆっくりと紫煙を吐いてから思い出話をはじめた。
「俺は都会生まれでね。子供の頃から協調性って言うやつが解らなかったんだ。そんな奴はだいたいイジメられる。ご多分に漏れず俺も学校でのイジメにあった。そして、そこから逃げるようにこの島にやってきたんだ。この島ではイジメられることは無かったけれど、都会からやってきた協調性のない奴に友だちなんか出来るわけも無い。だからいつも一人で海を見ていた」
少年は無言で男の顔を見詰めていた。
「おまえ、歳は?」
「十五」
「十五か、流されたのは十四の時って訳だ、ちょうど同じ頃だな。俺も十四の時にここで大波にさらわれたんだ。静かだった青い海が突然膨れ上がって上端が割れると、白波がまるで俺をつかみ取るように海に引きずり込んだ。波に翻弄され、上も下も解らない状況で当然息も出来ない。意識が朦朧としてきたときだった。誰かの手が俺の手を掴んで海面に導いたんだ。浮上した俺は大きく息をしたが、離岸流はそんな俺を容赦なく沖合へと引きずって行く。俺は必死で泳いだけれど、流れが強くてすぐに力尽きた。もう身体は動かない。ギラギラと照りつける太陽から遠ざかるように、海底の暗がりへ向かって沈んでいった。ぼやける意識の中に、アイツが現われたんだ」
男は言葉を切って少年を見た。
「どんなヤツだった?」
少年は興味を惹かれたようで、男の話に目を輝かせていた。
「緑色の長い髪が海中で揺れ、白い腕が俺の身体を抱きしめた。息も出来ない俺の鼻先に、美しい女の白い顔があった。女の唇が俺の唇に触れたとき、何故か息苦しさが消えてなくなった。俺は海の中で息をしていたんだ。女はそんな俺の回りをクルクルと回りながら楽しそうに笑っていた」
「…………」
少年は無言のままだったが、ゴクリと唾を飲む音が大きく聞こえた。視線は男を捉えたまま、次の言葉を待っている。
「俺の回りを楽しげに泳ぎ回る女は美しかった。俺は彼女の下半身が魚の様である事に気付いていたが、既に俺の恋心はそんな事で冷めるようなレベルではなくなっていた。彼女は焦らすように俺の周りを泳ぎ回り、俺は彼女を捕まえようと必死で泳いだ。彼女が俺から逃げ切ることは容易いことだっただろう。しかし俺の腕は彼女の身体を捉えることが出来た。二人は抱き合ったまま海中で戯れた。暫く楽しい時間を彼女と過ごした後、俺は意識を失った様だ。次に俺が目覚めたのは病院のベッドの上だった。海岸に打ち上げられているところを保護されたらしい」
「人魚は? その人魚はどうしたの?」
「それは解らない。だいたい人魚に助けられたなんて言ったって誰も信じやしないさ。俺でさえ夢だったんじゃないかって疑ったほどだ。あの時までは……」
「会えたんだね、人魚に」
少年の華やぐ表情に男は確信した。少年は男と同じように人魚に助けられた。そして、男がそうであったように人魚に恋をしたのだと。男は柄にもなく少年を応援したいと思った。
「まあな、人魚とは意外な形で再会したんだ」
男は遠い記憶を引きずり出すように話し始めた。
「俺が人魚と再会したのは、波にさらわれてから一年ほど経ってからだった。退屈な日々に戻った俺は、相変わらず独りぼっちだった。友人も無く勉強への意欲さえ無い俺は、教室の隅に溜った埃のような学校生活を送っていた。そんな退屈な毎日が続いたある朝、担任教師がひとりの転校生を連れて教室に現われたんだ。転校生を一目見た途端、俺は海の中にいる感覚に襲われた」
「その転校生が人魚だったんだね!」
少年は瞳をキラキラと輝かせていた。その輝きが男には眩しすぎて、思わず視線を海面の煌めきへと移していた。
「俺は唯々(ただただ)転校生を見詰めていた。俺の瞳に映っていたのは、長い緑色の髪に白い肌、大きな目に薄桃色の唇。あの時に会った人魚そのものだった。俺が彼女の下半身に視線を落とすと、スカートの裾からは二本のすらりとした色白の足が生えていた。あのヒラヒラと艶めかしく動くヒレや、光沢のある鱗に包まれた魚の下半身では無かったが、彼女は紛れもなくあの時の人魚だと俺は確信した」
少年はキラキラと輝く瞳を男に向けたままだったが、男は少年の視線を避けるように俯いて煙草に火を点けた。少年は男の焦らすような態度に幾分のいらだちを覗かせながら言った。
「それで、人魚とオジサンはどうなったの?」
男は更に少年を焦らすように、紫煙を長く吐いた。
「当然の様に俺と彼女は恋に落ちた。毎日がバラ色に輝くような日々だった。それは年月を経ても変わることは無かった。今でも俺と彼女は堅い絆で結ばれている」
「今でも? オジサンは今でも人魚と暮らしているんだね」
「ああ、彼女が本当にあの時の人魚だったとしたらね」
「えっ、違ったの?」
「解らない、本当にあの時の人魚なのか、それとも別の女なのか。そもそも人魚と出会ったことが現実なのか夢なのかさえ判断が付かないんだからな」
「彼女に聞いてみなかったの?」
「ははは、『君は人魚なのか?』って聞くのか? 残念ながら俺にはそんな勇気は無いね」
「どうして?」
「おまえはまだまだ子供だな。いいか、もしもおまえの前に人魚そっくりな女が現われても、『君はあの時の人魚なんだろう?』なんて絶対に聞くなよ。それが男と女が平和に暮らす秘訣だ。男は余計なことを言わない方が良い。今を大切に思うならば」
「うん、解った。絶対に聞いたりしないよ。約束する」
男は煙草をもみ消しながら少年に言った。
「こんな所で時間を無駄遣いしていても人魚には会えないぞ。人魚は平凡な生活の中に現われるんだ。海ばかり見ていないで学校へ行け。じゃあな」
少年は遠ざかって行く男の背中を、いつまでも見詰め続けていた。
男はホテルをチェックアウトすると、酒場へと向かった。
「いらっしゃい」
カウンターから女が声をかけてきた。
「相変わらず客の居ない店だな。何か昼飯になるような奴を頼むよ。」
「大きなお世話だよ。リゾットで良いかい?」
「じゃぁ、それで。あと、パスティスも」
「何か良いことでもあったのかい?」
「そうだな、あったかも知れない」
男はリゾットを平らげてから煙草に火を点けた。
「何をニヤついているんだい? 昨日来たばっかりなのに、もう美人の女房が恋しくなったのかい?」
男は苦笑いと共に、煙草の煙を天井に向けてゆっくりと吐き出してから、パスティスを飲み干して酒場を後にした。
男は笑顔を隠そうともせずに、船着き場へと続く道を足早に歩いて行った。
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