働き台風3 風音1
頭のなかの自伝作家の話――
パジャマは一着しか持っていなかった。四年前、東京でひとり暮らしをすることになったとき、母が買ってくれた。
それまではTシャツとトランクスが僕の寝間着だった。
パジャマを使ってみたらとくによかったということもないので、使いつづけているのには理由があるのかもしれないが、わからなかった。
けれども、母が買い与えた理由のほうは、予約席か指定席のように明らかだ。別々に暮らさなければならないことを、わかりやすい形にしたかったのだろう。母は、はい、パジャマよ、と長いあいだ不足していたものをやっと補えるようなそぶりをしてみせた。それは見なれたしぐさであり、母にしてみれば僕にはいつも何かが不足しているようだった。ついついそのままになってしまっていたけれど。そんな風に母はいった。もちろんそんなことはなかったのだが、あればあったで使わない理由もなく、むしろ使うべきなのだろうと考えた。
僕が大学に入った年、二十年も東京支社にいた父が名古屋本社へ転勤になり、専業主婦の母と高校生の妹がついていき、僕だけ東京に残った。当時、有名私立女子高へ通っていた妹は喜んで共学の私立高校へ転校した。女子高が合わなかったというのもあるが、妹にとっては、女の声が女の声であるように、東京の人間は冷たく、名古屋の人は温かいらしい。
その理由について、妹から機会があるたび色々ときかされたが、僕にはなぜか、どれもとってつけたような後付けに思えた。しかし、そうはいっても何かと何かを比較した場合、どんなことだろうと客観的事実や多数決の論理とは無関係に、後付けの理由が妥当なのかもしれない。
妹は大学受験のとき実力試しで僕の母校の、しかも同じ学部を受けて合格した結果、今も名古屋で四年制大学の三学年に進級している。名古屋にいるくせに実家をでて、親の仕送りでひとり暮らしをしていて、自由気ままってやつだ。
僕の通っていた文学部は、その大学のなかでは最も偏差値が低かった。大学自体は一流ブランドだったので、妹が名古屋の大学を選ぶと両親は残念がった。そのとき、妹はかつて僕からきいた話を持ちだしたことを、あとになって母から知らされた。
両親が妹にさほど強く東京行きを勧めなかったのは、そばにいてほしい気持ちもあったのだろう。僕が妹にした話というのは、その大学の附属高校から上がってきた友人がいっていたことで、附属高校からは全員がエスカレーター式に大学へ進学できるのだが、成績が悪くて文学部へ行かされるくらいなら、偏差値は低くても別の大学を受験したほうがマシだという風潮が附属高校にはあったという、ただそれだけのことだった。
母は、よくわからないんだけどねえ、あの子はあの子のしたいようにさせるのがいちばんだから、といった。父も、妹には男女の区別というやつで僕とは違った方法で接していた。僕もまあそんなものだろうかと黙ってきいていた。
ところが、どういうわけか気になってあとでよく考えてみると、附属高校からの進学者数は文学部全体のごく一部にすぎず、文学部の学生全員が他の学部生から見下されるようなことはないとも伝えたのに対して、「お兄さんはマイペースだからそう思うのよ」といわれたことがあった。
つまり、妹には、僕の友人の話が強く印象に残ったのであり、考えすぎかもしれないが、ひょっとしたら妹にとっての重要性を両親も察したのかもしれない。
それというのも、ありふれた中流家庭を築いてきた両親がかりに足もとをみたとき、そこに何があるだろうか。下をみても、下があるようでないというのが正直な感覚で、たとえ錯覚でも「下があるようで」と感じられる設定こそが重要ではないだろうか。そんな風に僕は考えたからだ。ありふれていたが平和な中流家庭に育った長男の考えたことだ。
一方、ひとつの大学という尺度を檻にたとえるなら、最も偏差値の低い学部というのは底でしかないともいえる。
底では「下があるようで」と錯覚することさえできない。その底に僕はいた。けれども、理屈はともかく大学は外界と遮断される檻ではないのだから、在学中に僕が底にいると感じていたかといえば、とりあえずはなかったように思われた。
大学卒業後、僕は名古屋で携帯電話事業会社のM社に就職した。東京に残りたいとは思わなかった。就職しなくても、フリーターでもかまわなかったが、両親の希望で、というのはつまり父の希望で、名古屋の会社を手当たり次第に受けた。訪問販売の化粧品会社からも内定をもらった。販売員の女性に化粧の仕方を教える仕事で、なかなか面白そうだったけれど、両親に反対された(訪問販売の化粧品会社などとんでもない!)。そんな理由も僕には後付けに思えた。反対したのが両親以外の誰かだったとしても、あるいはほかの理由だったとしても、僕はやめただろう。
小学生の僕を剣道道場へ通わせ、中学へ上がるとバスケットボールをシュートするみたいに進学塾へ放りこんだ父らしい意見だったが、僕には子どもの頃のような反発も従順もすでになく、予めしらされているところへただ後からやってきたくらいの印象しかなかった。いってみれば、すべては同じ1分で、それほどやりたいことなど何もなかった。もちのかたちが、化粧品から携帯電話にかわっただけだった。