働き台風4 出社3
阿寸さんは黙ったままだった。
「今日からカスタマセンターで研修です」
どうでもいいことでも、こうして誰かの前に自分をさらしていると、ただシンプルに、どうでもよくないように思えてくることがあった。
阿寸さんは人材育成の仕事をしている。
阿寸さんの担当は新人ではなく、モバイルインターネットのエキスパート技術者を育成するほうだときいていた。
「全員を販売店で研修させるわけにもいかないからなあ。これも経験だと思って」
すぐにはわからなかった。
励ましてくれたのだろう。
販売店へ行きたいわけではなく、不満をいったつもりもなかったけれど、適当にうなずく。
これも経験だと思って、という言葉には闘牛士の赤マントのような印象があった。
相手をいなすようなところがあり、便利な言葉だと思う。
しかし、ぬるい蒸し風呂のようでもある。
「名古屋には東京のような通勤ラッシュがないですね」
「新入社員らしい意見だな」
これも最初はわからなかった。
阿寸さんも名古屋へ移住してきた時期と新入社員の時期がかさなっていたからかもしれない。
適度に混みあった地下鉄に乗り、栄駅の改札口で別々になる。
本社ビルとカスタマセンターのある多目的ビルは、どちらも街中にあったが離れていた。
栄という街は、名古屋の新宿であり、渋谷であり、六本木であり、池袋であると同時に、そのどれでもない(と阿寸さんが前にいっていた)。
「名古屋は偉大な田舎だから。東京と地続きだと思わないほうがいいよ。日本であることは間違いないし、名古屋の人が東京に憧れたり、吉本新喜劇が人気あったり、東京と大阪の間にあることもよくわかるんだけど、別世界というか、異世界というか、最初はそんな感じだったよ。まあ、そのうちなれるだろうけれど」
配られた地図を片手に地下道を歩く。
両側の店はほとんどシャッターを下ろしている。
パン屋とクリーニング屋とドラッグストアが営業を始めていた。
地上へでてからも道順はわかりやすい。
9時15分には目的のビルに着く。
芸術文化センターの隣にあるきれいなガラス張りのビルだ。
一階は広いロビーで大画面テレビがあり、地下から最上階まで吹き抜けになっている。
どこかでみたようなビルだった。
何度みても忘れるようなビルだ。
植木鉢のかげや、整然と並んだ椅子の間や、ロビーの中央にも、堂々と大小の樽がおかれている。
いたるところに樽があった。
サラリーマンやOLが樽の間をするすると通り抜けて、エレベーターへ向かっていた。
するするするするするするするする
それも、どこかでみたような場面だ。
テレビか、映画か、小説か、ゲームか、現実か、あるいはそのどれでもない場面がただそこにある、と適当に思いながら、僕も彼らと同じようにする(するするするすると出社した)。
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ポケベルが鳴らなくて、恋が待ちぼうけしてる大学生の阿寸さん




