高校三年生の手記ー僕は僕の苦い「宿命」に対して
この頃思うのだが、僕らは、それが如何なるものであれ、ただひとつの人生の軌跡しか描けないし、そのたったひとつの軌跡だって、自由に選択できるものではないだろう。
僕らの生来の資質や周囲の広い今での環境、そして、様々な予期できない偶然にによって方向づけられたものの外へ、僕らの人生を自分の意思で選ぶことは不可能ではないか。
個性というものも、そのようにして僕らに与えられたものだ。個性は、僕ら自身の所持品であると同時に、僕らの中の他者、異物であり、考えようによっては(人生に絶対の自由を願うならば)煩わしいお荷物でもある。
それは、善意と悪意をあわせ持ち、僕らを自負と自嘲の間で間断なく翻弄する。僕らは、個性的に生きることを何につけても強調しているが、個性がこのようなものであるなら、僕らは、僕らが自ら選びとったものではない、僕らにはとても請け負うことのできないもののために、僕らのなけなしの「自由」を放棄しようとしているのだ。
「個性的」というのは「盲目的」というのと同義ではないのか。
じき、十八歳か。僕もそろそろ「宿命」について考えて良い年頃になったようだ。僕らの意識ではどうすることもできないもの、それを昂めることも鎮めることもできないもの、彼方からこちらへただ一方的に働きかけてくるもの、それを「宿命」と呼べるとすれば、僕は自分の個性を明らかに「宿命」であると思う。
僕は個性の善意にあまり信を置かない。僕は、人生の「幸福」という実体不明の代物を喜々として謳うことはできないし、だから、その人生の導き手でいらっしゃる個性に善き志など認められるわけがないのだ。それでも、君たちは、個性を善きものとして信ずるだろうか。それは陰湿な力で、僕らの「自由」を人生を、規定するものではないのか。
では、僕は僕の苦い「宿命」に対して、どう処してゆけばよいのか。ーそれは要するに「諦める」ことだろう。僕らの「不幸」は当然のこととして認めるということだ。
何をおいても、これは覚えておくべきことだ。
しかし、僕はその、のほほんとした不幸に安住しようとは思わない。確かに「宿命」は僕の限界を限ってはいるが、いずれにせよ、それはまだまだ先の話だ。
僕は人生に「自由」を問うてみるべきなのだ。描ける軌跡はひとつに決まっている。その空しさはもうわかっている。それをわかった上で(つまり「諦めた」上で)僕の「宿命」の定めた結果を問うてみるのだ。
僕はようやく僕の「宿命」を知ったーそれだけでも、僕の理知に「宿命」に抗うだけの力を認めてやって良いではないか。
だが、その試みは行動において他にない。僕の(「宿命」および理知の)全存在を行動によって他者に問いかけなければならないのだ。しかし、これは身の安全を保証しない。
僕は「宿命」の強欲な反撃に傷つき、その傷口から焼き切れるかも知れない。しかし、如何にしてもその破滅は予知できない。「後悔先に立たず」というように。これは賭けだ。それも最も真摯な博打だ。もし、自己の全存在の意味を賽の目ひとつに賭けることができたなら。
僕らは、四方八方を閉ざされた「不幸」には耐えられない。「不幸」であっても、何かしら意味を、価値を置くために、僕は自己の「不幸」を(価値ある不幸を)真摯に生きるべきなのだ。
生きる意味というのは、「宿命」、「個性」によって規定され、不自由に限られた人生の「不幸」を認めた上で、僕の力ではどうすることもできなかったし、これからもどうにもならない、そして、僕自身には何の責任もないはずで、本来ならばとても請け合うことのできない「悪意」である自らの「宿命」に抗い、その限界を問いつづけることではないだろうか。
そして、おそらく、その問に対して「宿命」も何かしらは答えてくれるだろう。なぜなら、その「宿命」もやはり僕の中にあって僕以外には有り得ない固有の所持物だからだ。