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間章 1

過去編(三年前)です。

前皇帝の死後、プラピアが即位する前の時点です。

 最後の一小節。

 鍵の上に、軽く指を置く。

 負けじと跳ね返ってくるのは、独特の静かな重み。それを振り切って鍵を下へ押し込むと、槌が弦を打って、直情的な響きを奏でた。

 ソ♭(オーヌ)の音、三七〇ヘルツ(三二〇レシュ)

 魔子増幅のされていない、本来の音色。

 楽器自身に備わっている、生来の声質。


 演奏者が弾きながら、音を思い通りに補正できる魔法装置――そんな呪いのような理性が、時代錯誤なこの打弦式鍵盤楽器(ネルグクリット)に宿っているわけもなかった。

 小手先の脚色は通用しない。理性の仮面を引き剥がし、本質的な打鍵の技巧を、純粋に要求する。表現者の根っこの部分、本当の性質を切り抜き、容赦なく作品に埋め込んでしまう……。

 これは、そういう類の器だ。

 基本的に素直なのだ。

 ともすれば、無神経なほど。

 だが実際、表現の器としては、これくらいがちょうどいいのだ。

 でないと、自分の立っている場所すら、見えなくなるから――。


「――珍しいね。ニコールが非魔子式の楽器を弾いてるなんてさ」


 入口のあたりで声がした。少女らしい高さながら、しかしその響きはむしろ、悪戯好きな変声期前の少年に近い。茶目っ気をたっぷり含んだ、炭酸入りの白葡萄酒みたいな声。

 あいつの声――。


「遅かったじゃねえか。糞でもしてたか」


 ニコルフィ・トラヴィットは、振り返らずに、ぞんざいな挨拶を返した。


「ちっげーよ! ニコールが音楽室で待ち合わせっていうから、私はてっきり部室のほうだと思ったんだよ。ずっとあっちで待ってたのに、ニコール全然来ないし。こっちで待ち合わせるんなら、第三音楽室でって、そー言えや。私の失われた貴重な貴重な三六分間(半ヒクト)を返せってーの!」

「知らねえよ。俺に言わせりゃ、勝手に第二音楽室だって決め付けたお前が悪い」

「んだよ、他人のせいにすんなや! ばーかばーか!」


 文句を垂れる彼女の声は、けれどどこか、楽しげに弾んで聞こえた。

 変なやつ、とニコルフィは思った。


「防音結界が張られてなけりゃ、もっと早く気付けたのに……けど、ほんと想定外だったんだよ。ニコールって、魔子増幅方式の楽器以外にはあんまり興味がないんだとばかり思ってたし。ていうか、非魔子式の製品なんてみんな骨董品だとか何とか、前に自分で言ってたよね?」

「……骨董品にしか出せない音もある。こういうのを弾きたくなる時もあるんだよ」


 実は俺も第二音楽室で待ち合わせのつもりだった――ということを、ニコルフィはしかし、あえて口にはしなかった。下手なことを口走って深く突っ込まれたら、面倒だ。


「へえ……まあ、別にいいけど。それじゃ早速、例のファイルを――」

「その前に二つ、訊きたいことがある」

「……なに」

「まず、一つ目。お前自身はどう捉えてるんだ」

「どうって」

「サーシャ自身はこの計画について、納得してるのかってことだ。土壇場で泣き言吐かれちゃ敵わないからな。失敗した場合は当然だが、仮に何もかも上手く行って、考え得る最高の結末を迎えられた……そういう場合の最低限の覚悟も、ちゃんとできてるんだろうな」

「もちろん。覚悟はできてるよ」


 彼女は即座にきっぱり言い切った。本心からの言葉らしかった。


「何度も何度も、自分の中で天秤にかけたから。私にとって、結局は何が幸せで何が不幸か。その判断基準は、頭の中でしっかり線引きできてるつもりだから――」


 ニコルフィはとうとう耐え切れず、背後を振り返った。

 学内一の元気印は、けれどおよそ似つかわしくない、年寄りじみた達観の相を、その整った顔面にべったりと貼り付けていた。

 醜い。

 美しい。


「もう、終わりにすべきなんだよ」


 白く落ち着いた声で、サーシャは穏やかに言い放った。灰青の瞳は、前向きなんだか後ろ向きなんだかよく分からない強固な意志で、静かに研ぎ澄まされている。

 とっさに返す言葉を見失うくらいには、迫力のある眼光だった。

 これ以上引き留めても無意味だと、ニコルフィは悟った。


「……分かった。お前のその馬鹿みたいにまっすぐな面拝んだら馬鹿馬鹿しくなった。お前はそういうやつだったな。つまんねえこと訊いて悪かった」


 俺はもうお前を引き留めない――ニコルフィは、心の中で叫んだ。

 俺はもうお前を引き留めない。

 だが、それはつまり、俺もお前に引き留められる義理はなくなった、ってことだ。

 俺がしたかったのは、覚悟の確認でもなければ、共闘の合意でもない。

 決別の決心だ。


「さすがは、私の永遠の好敵手。よく分かっていらっしゃる」


 彼女は頬だけを器用に緩めて、薄く微笑んだ。

 一体全体、どこでそんな笑い方を覚えたのか。

 そんな笑い方するな、くそったれ(スカッフ)

 お前は何一つ、分かっちゃいねえ――。


「んで、二つ目の訊きたいことっていうのは?」

「ああ、そうだったな……サーシャ」

「うん」

「来週の第七曜日に、デートしないか」

「えっ」


 彼女の顔が固まる。

 あのサーシャに、不意打ちを食らわせてやった。

 ニコルフィは、内心してやったりだ。


「知り合いから、余ってた遊園地の入場券を二枚、もらったんだよ。ほら、お前も知ってるだろ? 去年の末あたりだったかに、帝都に新しくできたやつ。確かお前、行きたいって言ってただろうが」

「まあ、確かに、言ったけど……私でいいの? 彼女さんは?」

「先月振られた」

「ああ……うん」


 サーシャは目を逸らした。


「分かった。いいよ、一緒に行こう」

「そりゃよかった。これで入場券が無駄にならずに済む」

「なにさー、その言い方。ほんっと、ニコールは次期皇帝に対する敬意が足りないよね」

「次期皇帝だろうと何だろうと、お前はお前だからな」


 そうニコルフィが言うと、サーシャはにっと白い歯を見せて笑った。

 何が嬉しいんだか。

 ほんと、変なやつ――。


「さーて、無駄話はこれくらいで! 今度こそ本題に入ろう、ニコール」


 サーシャは制服のポケットから小さな魔子記憶端末を取り出すと、ニコルフィに差し出した。

 ついに始まる――ニコルフィは端末を受け取り、制服のポケットにしまった。

 後回しにされてきた最後の一小節がようやく、始まる。

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