6話『旅立ちの日とフレさん──1212年』
1212年。
オットーはイタリアから引き上げてドイツの軍勢を纏めフランス王の侵略に睨みを効かせていた。
このオットーと云う──破門されては居るが少なくともまだドイツ王神聖ローマ皇帝は、戦争はそれなりに強いがひたすら兵にも諸侯にも人気はなかった。
そもそもドイツ語が覚束ないドイツ王ってなんだとか思われている。当たり前だが。
しかしそれでも、北部ドイツに大きな勢力を持つザクセンの地では地元貴族であった為にそれなりに兵を動員できる立場ではある。
彼はフランスに対抗するために相手の背後を付く形で同盟を組むことにした。
相手はイングランド王国──或いはアンジュー帝国とも云うが──のジョン失地王である。
「ジョン王! お互いに破門された者同士、いい子ちゃん振るフランスと戦う為に同盟を組もうぜ!」
オットーの呼びかけに、フランスに大陸の領土を取られまくったイングランドも挽回とばかりに呼応した。
「くくく……了解だオットー。だがまどろっこしいことは止めにしよう。お互いに利用しあってフランスを奪うのだ」
「ふっ……ジョン王も最初からそう言ってくれるのはむしろわかりやすくていい。俺らは利益で繋がる関係だ。信仰なんて関係ねえ! くっつく破門を使うぜ!」
「破門戦士の力を見せてやろうではないか……!」
ドイツとイングランドが破門同盟を組んで挟み撃ちの形でフランスに対抗するのであった。
そして即座にジョン王が教皇に土下座かまして彼だけ破門が解かれる。
オットーは思わず、
「あいつ目先の事しか考えてなくねえ!?」
と、ツッコミを入れる勢いである。
この戦いの行方は果たしてどうなるのか。敗北の神のカキタレみたいなジョン王と組んだ時点で彼の運命は決まっていたのではなかろうか。
*****
そんな戦いがドイツ・フランス・イングランドで始まっていた1212年。
ドイツ諸侯──特に前教皇派だった貴族を代表して特使がシチリアを訪れた。特使はフレデリカに謁見をして、
「オットーの不人気っぷりがドイツ国内で半端ありません。しかしこのままではどこぞの馬の骨が新たに選ばれても納得が行かないでしょう。故にフレデリカ様にドイツ王になって頂きたいのは、我らホーエンシュタウフェン一門の願いであります」
「うーん……」
フレデリカはその要請に腕を組んで悩む。来るとは思っていたが存外に早かったのである。
まだまだシチリア王国は統治と云うほどに権勢が行き届いていない。特に南イタリアは後回しにしていたのと、オットーが攻めてきたのもあって勝手に防備を固めてほぼ独立したように振舞っている。
これから内政やるぞーと気合を入れてすぐだった為にシチリアを放り出してドイツへ向かうのは気後れもあったのだ。なにせ、自分の初めての国である。
「ドイツ王になれば今度はドイツを治めてからじゃないと戻ってこれそうに無いんだよねえ」
「あそこはシチリアよりも貴族の権力が大きいですからね。王さえも選帝侯と云う貴族諸侯と、聖職者諸侯が選出するぐらいで」
モチを食いながらグイエルモが云う。
フレデリカの背後に控えた隊長が意見を述べた。
「俺はさっさとドイツ王になったほうがいいと思うな。オットーがフランスに勝ってドイツ国内の基盤を固め直さないとも限らない。そうなる前にフレさんが後ろからせっつかせるように動けば焦るだろうよ」
「教皇もまた、このベラルドを派遣したぐらいですのでフレデリカさんをドイツ王、神聖ローマ皇帝にする方針で固まっていますよ、断り続けたら法王庁からの印象が悪くなる」
細い目をしたパレルモの大司教の青年、ベラルドも同意をする。
確かにこの様子ではシチリアを悠長に統一している場合ではないかもしれないとフレデリカも思う。
「うん……よし、わかった! ドイツに行こう。その為の作戦を練るよ!」
ひとまず行動を決めて、次にその手法を相談する。自分で動き自分で学ぶことを教えられたフレデリカの、人によっては向こう見ずとも思える判断であった。
フレデリカ、17歳。飛躍の旅へ出かける年である。
******
ドイツ行きの会議もこの面子で行われた。フレデリカとその教師グイエルモ、それに騎士隊の隊長と新たな仲間となったベラルドである。
とはいえこの場では立場として、単なる聖職者というだけのグイエルモは一歩下がって皆の意見を聞くだけにしたようだ。モチを食って見守っている。
「とりあえずドイツに行くんだけど、ルートと目的地はどうなるかな」
「このベラルドが思うに、ドイツならばひとまず中心のフランクフルトでしょう。そこで戴冠が行われればアピール度は高い」
「なら最短はジェノバに行ってミラノを通り北上。アルプスを抜けてドイツ入りだが……」
「そりゃ駄目だよ隊長」
フレデリカが改めて確認の為に云う。
「ミラノは教皇派でも皇帝派でもない、反体制勢力というクソ厄介な都市なんだから。誰か攻め滅ぼしとけよって思うぐらい」
「ああ。フレさんの爺さんが滅ぼしたが倍返し食らったらしいな」
自治意識が高いだけあって再起能力も高いのである。
『何度吹き飛ばされても……僕は花を植えるよ』とか云いながら即回復して逆襲してくるミラノに、フレデリカの祖父フリードリヒもさすがに手を焼かされた。
「だからミラノ的にはドイツは永遠に内乱してろって思うわけで、我が統一の為に行こうとしてたら確実に妨害してくるし」
「ま、そうだな。一応言ってみただけだ」
北部イタリアに多く存在する自治都市は、それぞれ都市内部の権力者によって教皇シンパかドイツ王シンパかに別れるのであるがとにかく誰が王になろうが反抗してくるのがミラノで、それを筆頭に反体制勢力として存在するのがロンバルディア地方を中心とした自治都市の同盟[ロンバルディア同盟]である。
なぜ攻め滅ぼさないのかと云う疑問には、特に一番拗らせているミラノで云うとこの都市は人口がヨーロッパの中でもトップレベルに多い上に、支配されるぐらいなら戦う精神の者が多い。
おまけに都市は頑強な砦に囲まれていて、攻城兵器と云うと破城槌か投石機なこの時代では攻め切れない可能性がある。街全体で中に畑まである都市が籠城を仕掛けていれば、取り囲んだ軍がそのうちに戦費が嵩んで弱る寸法であった。
更にガチで滅ぼしても数年後復活してくる。
そんなわけで非常に面倒臭い反体制な連中が国内に──しかもイタリアとドイツの境目に居る、ドイツ王からすれば面倒な状況なのである。
しかも一貫して敵と云えるのはいくつかであり、何処の都市にも皇帝派と教皇派と云う対立した勢力が渦巻いており、状況に寄って敵に回ったり味方についたりするのが更に問題が多い。
「ちょっと待ちなァ! その会議、俺も参加させて貰うぜ!」
会議室にすごい勢いで入ってきた青年が現れた。
日に焼けた浅黒いサラセン人のような肌に、傷の多いガッチリとした筋肉。頭に塗笠を被っているのを見て、フレデリカは記憶の隅から人物を照会し呼んだ。
「ジェノバの海賊、アンリじゃん。やっほー」
十年程前に一度だけパレルモの港で会った海賊であった。中国から渡ってきた塗笠を被っているのが特徴的で覚えていたのだ。
すっかり一端の海の男めいた雰囲気になったアンリは、首元に[フレデリカちゃんファンクラブ]タオルを巻いていて、堂々と云う。
「おうさ。俺っちの派閥はジェノバでも皇帝に対して穏健派でな。嬢ちゃんをドイツ王にするって動きは掴んだから船の用意をしてきたわけだ」
「じゃあアンリが送ってくれるの?」
「だが一気にジェノバに行くのは無理だって教えに来たのさ」
アンリは会議室に置かれた紙を適当に掴んで裏返し、炭でさっと海図を描く。
ずっと地中海で海賊をしていただけあってイタリア西部のティレニア海を正確に記した。
「こっちのジェノバに行くってのは確かに陸路で行くよりいいんだ。陸は山賊も多いし、軍に介入されやすいからな」
「ふむふむ」
「だが問題はこのピサの自治都市だ。こいつら、ジェノバと仲がクッソ悪いもんでジェノバの船を無差別に襲いやがる。だから俺が船に乗せて行っても途中で襲われる可能性があって安全が保証できねえ」
そして、ティレニア海側を交易や移動に使う船はたいていジェノバの護衛船を付けなければ安全に運行ができないので襲われるのはどこから乗ろうが確率の問題だという。
逆にイタリア東部のアドリア海ではヴェネツィアが護衛船を出しているので、この当時のヨーロッパが持つ地中海海軍はジェノバとヴェネツィアの二つがメインである。
それぞれ独立した国家ではあるものの、イタリアとドイツ両国との関係は常に考えて動いている。
「じゃあどうすんの?」
「このベラルドにいい考えがあります」
「関係ないけど君一人称が[このベラルド]なんだね」
「話の腰を折らんでください。ここはフレデリカさんの持つ権力をフルに使えばいいのです。即ち、後見人というか背後に教皇の支援があるということを公表しつつ進みます」
ベラルドは地図のローマに印を付けて続けた。
「まずはローマに向かい、教皇と対面。以後の道中への支援を取り付けます。船に法王庁の印を付ける許可と、このベラルドの強化ですね。教皇パワーを一時的に分与してもらう大司教パワーアップ大作戦です」
「教皇の許可か。そりゃいい! ピサの連中はイノケンティウスにマジビビリしてるからさ」
そう云うのもジェノバと同じく貿易を行い、海軍を持つ自治都市であるピサなのだがつい近年貿易拠点としてシチリア島の東端にある港町、メッシーナを襲撃して占領したことがあった。
イノケンティウスは自分の後見人──フレデリカの土地を勝手に攻めて自分の領土としたことで、
『よほどォ……ブチ破門されたいようだな……』
と、脅されて即座に泣きながら撤退した過去がある。
そんなわけで最初から公表して堂々と教皇の威信シールド全開で進めば、余程の反フレデリカ勢力──オットーやミラノである──以外からは襲撃が抑えられるであろう。
モチを食っていたグイエルモは満足気に頷いていた。
話を纏めて決定権を持つフレデリカは海図に線を引いてルートを示す。
「それじゃあパレルモを出て、一旦ガエタに寄ってちょいとピサの情報収集。それからローマの外港オスティアに向かい陸路でローマ入りだ。許可を取ったらジェノバ……っと」
「そこから先はミラノに気をつけないといけませんね」
「んんー……さすがに我も行ったことの無い土地だと不安が残るけど」
フレデリカはジェノバのアンリに目を向けるが彼も塗笠をつつきながら気まずそうに云う。
「オレも海専門だからなあ……さすがにそっからは海賊連れて行くわけにもいかねえだろ。ドイツ王が」
「では俺が提案しよう」
隊長が軽く手を上げて進み出て、鉛の棒を受け取った。
沿岸部を描いたイタリアの上に幾つか丸と線を入れて云う。
「ジェノバから北に上がってポー川近くにある都市パヴィアを目指そう。ここはミラノに近いが今のところは皇帝派だ」
イタリアの根本をアルプスから切れ目が入ったように流れる大河の一点にチェックを入れた。
「パヴィアで補給をしたら川を下って都市クレモナを目指す。ここは割と明確に皇帝の味方だと云われている。まあ、敵対しなければだが。この旅程が一番ミラノから襲われる可能性が高いだろう。近いから」
「隊長の危険予測?」
「当たるから厄介なんだがな。後は皇帝派の都市を味方につけつつ、アルプス東の方のブレンネロ峠を超えてドイツ入りでどうだ」
川沿いに進み、北上して東の古道を進むルートを指し示した。
全員は顔を見合わせながら考えて云う。
「うーん……ドイツ行ったこと無いからなんとも言えないけど、隊長のルートにはそう間違いは無いような気がする」
「と云うかこのベラルドが聞いた話では元々、アラゴン王国の騎士でしたよね? どうしてドイツのことを?」
「卓上旅行が趣味なんだ」
「なるほど、良い趣味で」
ベラルドが真顔で云う。この時代、そう珍しい趣味ではない。エルサレムや欧州の四大教会などは敬虔な信徒ならば行く旅程を思うのは普通のことだった。
フレデリカはちらりとグイエルモを見たが、彼はモチを食ったままだったので苦笑して考えを戻した。
「じゃあひとまず隊長のルートで。後は高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するってことで!」
「そんな事言って更迭された海軍司令官居たなあ……」
「はいそこうるさい!」
隊長はひとまず話が進んだことに頷きつつ、続けて発言した。
「それじゃあ……こっちもフレさんの判断が必要だが、連れて行く兵力を隊長としての意見からいいか?」
「いいよー」
「最大で10人。最小は俺だけ。後はここで待機」
「おおおーい!?」
フレデリカは思いっきり隊長の服を掴んで彼の体を揺らそうとした。体格差でむにむにとフレデリカの体をくっつけるだけで終わったが。
「王の旅路だよね!? アルプスキャンプ大会じゃないんだよっ!?」
ニコリともせずに隊長は云う。
「少ない人数で行くのには理由がある」
「なんだよー」
「まず大人数で動くと一発でバレる。そしてフレさんが動員できるのは騎士が最大400人程度。従士も付くとはいえ、動きがバレてそれ以上の戦力を持ってくるのはオットーどころかミラノでも余裕だ。ミラノ軍は軽く一万人を超える」
「うっ……」
「次に人数が多いと旅費が嵩む。シチリア内では連れ回すのに問題はないが、他所の国を進むには自前で食費なども用意しなければならない。何ヶ月掛かるかわからない旅費をフレさんは払えない」
「むう……」
「船旅で病気になることも考えられる。騎士隊がこの島に来たときも船酔いが酷かった。人数が多ければ疫病が流行った時に一発で終わる。連れ出したのに捨てていくのは無駄だろう」
「……じゃあ、逆に少ない人数で行く利点は?」
隊長の提案の妥当性を認めつつフレデリカは尋ねた。
「まさに逆なんだが、まず見つかりにくい。相手が妨害や拿捕に向かわせる軍勢も少なくなる。10人足らずの俺達に1000人も兵は回さない筈だ、ヒマじゃないんだから。ついでに少ない方が逃げやすい。各都市でのフレさんの権勢は教皇からの威光で補助できるだろ、少なくとも病気か飢えて死にそうな兵士を連れ回すよりは」
関心したようにアンリが塗笠を摘んで上げて、眼帯の騎士へ丸くした目を向けた。
「考えてるんだなあ、あんた」
「確かにこのベラルドからしても意外です。フレデリカさんと一緒に風呂に入ってるのでただのクソエロ騎士かと思っていました」
「ぬあっ!?」
ベラルドの言葉に、パレルモでの生活を知らないアンリが驚いて別に平然としているフレデリカとやはりどうとも思っていなさそうな隊長へ視線を行き来させた。
そして驚愕したように、
「そりゃクソエロ騎士だろ!」
言われた隊長はきっぱりと馬鹿にした顔で云う。
「……マタイの福音書5章27から28節曰く[『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 ]
つまりだ。別にフレさんの裸を見ようがさっぱり欲情せんから俺はエロでも何でも無い。はい論破」
「おかしくねえか!?」
アンリの意見は完全に無視する隊長である。フレデリカさん17歳。まだ混浴しているという恥じらいが消し飛んでる系女子だ。当事者二人はまったく気にしていないようだが言い訳は一応考えたらしい。
隊長は眼帯を押さえている紐を掻きながら、モチを食っている司祭を見て云う。
「……言い訳は堂々と相手にバレるぐらいにやって煽れと教わってな。まあ、実際どうと云うこともない」
「行動には必ず利益と不利益があるから考えろ、誰かを利用したら礼はしておけ。グイエルモから学んだもんね、我と隊長は」
「教師ですから」
二人の生徒──隊長は途中参加だが──に見られてグイエルモは悪びれも照れもせずに、モチを頬張っているのみであった。
隊長は三年前、このパレルモに来てからグイエルモに考え方の方向性を学んだのである。それが良いか悪いかはともあれ、知れることは知れというのも教えられたことだった。
聖職者としてはともかく、二人に取っては良い先生でだったのがこの俗人の司祭であった。
フレデリカは嬉しそうにしながら、云う。
「さて! それじゃドイツ行きのメンバーを決めようか! まず我と隊長、それにドイツの使者君! 教皇と対面するからベラルド。秘書に書記官も連れて行って、モチのロンにグイエルモも──」
「ああ、拙僧は行きませんので」
「えーっ!?」
あっさりと。
至極あっさりとドイツ行きを断られてフレデリカは不満の叫びを上げた。
グイエルモはモチを飲み下して、注目が集まっているなかで云う。
「拙僧は序盤の教師で、もう役目は果たせましたので。大丈夫ですよ、二人共。拙僧にできることは二人共、もう自分たちでできます」
「でもっ……」
食い下がるフレデリカにグイエルモは微笑んだ。
「そして、拙僧にできないことが二人ならできます。教師とは導く者。導いて、生徒が自分で歩ける様になったら手を離す者です。だから行ってらっしゃませ。君たちの行く道を楽しみに見守っています」
「グイエルモ……」
フレデリカにとって、十年以上の付き合いになる、親よりも教皇よりも親しい教師からそう言われて、寂しそうに呟いた。
隊長は彼女の肩に手を当てて、頷く。確かにグイエルモがいれば安心こそできるが、役目的には必ずしも必要ではない。聖職者枠はグイエルモより高位にあるベラルドがいれば十分なのだから。危険な旅に無理に付き合わせることはないだろう。
グイエルモは若干血の気の引いた顔をして、肩で息を初めながら、
「と、いうか拙僧。モチによる誤嚥性肺炎で今凄い体調悪いので旅には付き合えそうも……」
「家で寝てろ!!」
全員が同時に怒鳴った。
******
フレデリカがシチリアから離れドイツに行く為に。
彼女はまず、統治不可能になる故郷の王を辞めることにした。
故に、シチリア王国の諸侯や法王庁へ公的な手紙を送る。
話は変わるが、この時代。まさに中国から入り中東で主流だった製紙技術がその中東と公益が盛んだったシチリア王国に伝わる頃である。
シチリアには紙製の本が多く出回り、それを読む少女期を送ったフレデリカも紙媒体の使用を行うことが多かった。
文通の王とまで言われるほどにあちこちに手紙や公文書を送りつけまくる彼女の性質はまずこのシチリアで発揮されるのであった。
内容は簡単だ。
『息子のハインリヒをシチリア王にする。成人するまで妻コスタンツァを摂政にする』
と、云う内容だった。
彼女が、個人的に非常に気に入っているこの温かなシチリア王国を手放したのには理由がいくつかある。
理由の一つが法王庁がドイツと南イタリアの同時に王になることを望んでいないことはベラルドに知らされたからだ。
息子に継がせるという明らかに支配下のような形であれ、別の王にすることで法王庁の協力が取り付けやすくなる。法王庁からしても、いざとなれば息子のハインリヒを籠絡して決別させれば良いという意識が生まれて認めやすくなるだろう。
さすがに神聖ローマ皇帝に戴冠させるつもりとはいえ、向こうもシチリアを完全に放り出せとは言いづらい。これは双方の折り合いの問題である。
ハインリヒ王子はまだ一歳だが、支配の届いていない南イタリアはまだしもシチリア島ならばそれほど問題も起こらずに残していた部下達で緩く統治はできるであろうことは目算済みであった。
「向こうの政情が安定したら呼ぶからそれまでシチリアをよろしくねっ!」
「はい……」
浮かない顔をしているコスタンツァを、フレデリカは抱きしめて背中を撫でながら優しい声で言った。
「コスタンツァ。ハインリヒが立派になって暇ができたらシチリアでバカンスでもしようか。暖かくていいところだろう。今度は南イタリアにも足を伸ばして観光旅行に行こう。忙しくてさ、今はあんまり一緒に居られないけど……我はお前のこと好きだよ! 我が初めての妻、愛するコスタンツァよ!」
「この不肖コスタンツァ! ハインリヒとこの国をお守りいたして起きますのかしら! いってらっしゃいませ!」
「ちょれぇ」
「姫様アホだからなあ……」
悪い顔をするフレデリカと呆れる隊長であった。
別段、フレデリカがコスタンツァを嫌っているわけではない。むしろ仲はいい方だろう。子供もできて落ち着いたのか、よく安らいだ様子で過ごしている様子もここ一年ほどは見られた。
ただその姿はどう見ても夫婦では無いのだが。なにせ十七の少女と二十七の女だ。奇妙な友情関係と云った様子に隊長は思えた。それでも確かに絆はあるのだが。
「隊長」
コスタンツァから話しかけられて隊長は顔を向ける。
彼女は微笑みながら隊長に告げた。
「どうか、フレデリカ様のことを宜しくお願いしますわね。[物語の騎士]様」
その言葉に、隊長は珍しく恥ずかしそうな顔で頭を掻いて応えた。
「ああ、任せてくれ」
「隊長。物語の騎士って?」
「あー……ええと、昔は騎士物語にちょっと憧れていてな。姫様が小さい頃にその設定で遊んだことがあったんだ。ほんの一時期だがな」
「へえ……意外と可愛い時もあったんだねえ」
からかうようににやにやと笑みを浮かべるフレデリカから視線を逸らす隊長であった。
ともあれフレデリカは摂政となるコスタンツァに政務のやり方を教え込み、彼女をサポートする官僚を選び抜いて、そしてハインリヒをパレルモの大聖堂で即位させるのであった。これでひとまず、シチリアから離れても大丈夫である。
それから二週間後、出発の準備をするに、船に旅の道具と馬を載せていく。
少人数の旅だ。最低でもフレデリカは追手や刺客が現れても逃げ切れなければならない。
「と云うわけでフレさんは俺の馬に乗るといい。足は早く物怖じしない性格だ。乗馬技能は騎士連中にも劣らないからな、乗りこなせるだろう」
「おおう。いいねいいね。中々頼りになりそうだ」
フレデリカはそのスペイン産の馬を撫でてにやにやと笑った。騎馬の育成はやはり海洋国家に近いシチリア、イタリアなどよりも大陸のほうが優れている。特にイベリア半島は千年以上前から騎兵が強いとされている。
「ちなみに名前とかついてるの?」
「……まあ、な。笑うなよ。[バビエカ]だ」
「バビエカって言うと……エル・シッドの馬の名前じゃん」
百年と少し前に活躍したスペインの貴族にして英雄だ。その伝説は彼の生前から既に作られて今なお語られている。
隊長は少し気恥ずかしげに頬を掻きながら、
「長生きした馬だからな。あやかって付けたんだ。俺だけじゃないぞ。結構騎士では人気の名前なんだから」
「隊長も結構ロマンチストだねえ。まあいいか。よろしくねバビエカ!」
「バビエカァァァ……」
「そんな鳴き声なの!?」
謎の言葉を喋る馬に驚きながらも、ひとまずその頑健な体格の白馬を船に載せた。
旅に出るのは結局僅か七人。フレデリカにベラルド、隊長とドイツの使者。それに秘書と書記官に従者である。後は船旅の間は、海賊アンリとその仲間達が加わる。
後世の歴史家から見ても「無謀」としか言いようのない少人数の旅であった。だがそれでも勝算を持ってフレデリカは出発することにしたのだ。要は敵に合わなければいい。戦わなければ兵力は必要無い。山賊の警戒は必要だが、ある程度の対策があった。
隊長が云うに、
「名付けて『この印籠が目に入らぬか』作戦だ」
「なにそれ」
「まず盗賊に囲まれたら俺と従者がドン引きするぐらい残虐に暴れる。そこで相手が怯んだらベラルドが『こちらにおわす御方をどなたと心得る!』とフレさんを紹介すると相手の戦闘意欲が削れまくり平伏する戦法だな」
「上手くいくのかなそれ」
「さあな。上手くいかなかったら俺が残虐に全滅させてる間に離れておくんだ」
「凄い自信だ……」
兵数を少なくするのは軍に攻められにくくなる一方で、山賊などからは襲い易いとみなされる難点もあるのであったが。
大軍に攻められるか山賊に攻められるかのリスクを考えて選んだのである。
そうしてパレルモから出発のときが訪れた。港に騎士隊とコスタンツァ、パレルモの住民達が見送りにやってきている。
フレデリカ初めての臣民達だ。
船の前で横断幕などを作って見送りに来たファンクラブの面々を見ながら、
「必ずまたこの島に帰ってこよう」
「ああ」
「ドイツもイタリアも、我の物にしてやろう! なんでもやってやるぞー!」
「そうだな、フレさん」
そして出発の時間になり、病状がやや快復してきたグイエルモが前に出てきた。
彼は大きな袋を隊長に渡す。
「中に聖なるモチが入っています。道中でどうぞ」
「いつでも旦那はこれだな」
苦笑しながらモチ袋を受け取る。
グイエルモの前にフレデリカは歩み寄り、彼の手を取って云った。
「グイエルモ」
「はい」
「お前はモチばっかり食べていたけどさ、我に学ぶことも動くことも教えてくれた。一番の教師だったよ。ありがとう、グイエルモ! この恩は忘れないからね! 長生きしろよっ!」
「ええ、フレデリカさん。───お達者で」
グイエルモは微笑んで握り返した手を離して、フレデリカの両肩を掴み振り向かせ、その背中を押した。
どこへでも行けそうな一歩を踏み出した気分だった。なんでもできると彼女は勇気を貰った。
だから意気を込めて──叫ぶ。
「よおし、出発じゃあ! 者ども行くぞー!」
おお、と七人の仲間、船乗りの皆が声を張り上げた。見送る観衆も貴族も聖職者も手を振った。
大きなマントを海風に翻し、フレデリカは船に乗り込み出発していく。
それを見送ってグイエルモは、ぽつりと呟く。
「さて、モチでも……」
云って、懐や袖を探るがもうモチは持っていなかった。全て、彼女らに渡したからだ。
彼は両手を叩いて空っぽであることを確認し、苦笑気味に云った。
「まあ、いいですか。暫くはお腹もいっぱいですので……」
そして、海の向こうに進む十年来の付き合いの生徒を見送った。
史実に於いても、フリードリヒ2世は恐らくこの幼少時に世話になったグイエルモ・フランチェスコと云う家庭教師にずっと、特別に恩義を感じていたようである。後にまた関係することになるが、ひとまずここで別れるのであった……。