エピローグ『老人はシチリアの晩に祷る──1282年』
1266年。
ベネヴェントの戦い。
フランス王の末弟、シャルルが兵を率いてシチリア王マンフレディに挑んだ一戦である。
ほぼ初戦とも云えるその戦いでマンフレディは敗北を喫して、戦死した。
それによりシチリア王国は、フランス国内にまともな領地が無かったことから領地への渇望が強かったシャルルが手にすることになったのである。
それから時は経過した。
新たなシチリア王となったシャルルは良い統治者ではなかったようである。
まずマンフレディ派とも云える前王の方が良かったと思う住民を厳しく弾圧し、重税をかけた。
兵による略奪も横行して王に治められているのか、盗賊に治められているのかわからぬ状態になる。
これまで低い税に公正な裁判を享受していたシチリアの住民は不満を募らせていった。
「俺様の国だぜ~? 自由にやるっつーの!」
そうして己と、連れて制圧させたフランス兵達にも好き勝手させるシャルルであった。
1282年。
シャルルの部下が公然と首都のパレルモで、婦人に暴行を働いたことでその怒りは頂点に達した。
住民らは手に武器を持ち蜂起を起こす。
「フランス人を追い返せ!!」
「シチリアを取り戻せ!!」
「皆よ、鐘を鳴らせ! シチリアの鐘を響かせ、蜂起を伝えろ!」
パレルモだけではない。一気にシチリア島に反乱の狼煙は広まり、島中で鐘が鳴らされた。
フランス軍が反撃に出ようとした途端に、蜂起に援軍がかかった。
海軍。
スペイン、アラゴン王国の旗を掲げた海軍がパレルモに来襲したのだ。
大型のガレー船に先んじて、小型の船が急ぎ着岸してきた。
「毎度失礼ェ! マルタ海賊団の案内により、アラゴン海軍の参戦だァ! カエル食いのフランス人どもをぶっ殺すぞ! 野郎ども、丸太は持ったか!」
「おおおおおお!!」
フランス軍を追い払うべく現れたのは、遠くスペインの海軍であったが。
気づかれもしない唐突の奇襲には地元の海を知り尽くした海賊が案内を買って出たのである。
一行は丸太を持ち港周辺を制圧に掛かる。薄汚れた塗笠を被った若い海賊頭が先頭でフランス軍を蹴散らしていた。
そして。
一人の女性と白衣の老人が船に乗りあわせて上陸した。
白衣の老人はジョバンニと云う医者だ。
彼は、フレデリカの臨終を看取った医者である。マンフレディの死後シチリアから脱出して、アラゴン王国に仲間を連れて潜んでいたのである。
もう一人の女性は、
「皆さん、聞いてください! 私はマンフレディの娘コスタンツァ! 嫁いだアラゴン王国と共に、このシチリアをシャルルの手から解放に参りました!」
──マンフレディの子であった。
彼女の大声は鐘の音が響くパレルモでも、大勢を沸き立たせた。
「おお……!」
「マンフレディ様の姫が」
「我らの王の血統がやって来た!」
「シチリアを救ってくれ! 偉大なる王の娘よ!」
「マンフレディの娘、コスタンツァを迎えろ! アラゴンの皆と共に、フランス野郎を追い返せ!!」
勢いを持ったシチリア住民は、鬨の声を上げた。
鳴り続ける鐘の中、港に立つコスタンツァを旗印にシチリアは再起の道を歩む。
小型船でやって来た彼女に続いて、大型のガレー船も港にやって来る。共に来た海賊らはそれを誘導に回っていた。
この時──。
民衆に紛れたフランス兵が、彼女に接近をする。
新たに現れた前王の娘を殺すしかこの騒動を鎮火させる手段は無いと判断して暗殺を仕掛けに来たのである。
護衛とも云えない海賊らは離れている。
先行して上陸するのは彼女の願いであった。父の愛した国を取り戻すために。
そして──凶刃は振り上げられた。
フランス兵の数は三人。同時にコスタンツァへ斬りかかった。
「コスタンツァ様! 危ない!!」
慌ててかばうのは侍医であったジョバンニである。
彼の体など切り捨てられて、次の瞬間にはコスタンツァに刃は届くだろう無意味な防御である。
だがもはや、自分の目の前でかつての友人の一族が死ぬのを決して見たくはなかった。
救えぬ命に涙するのは死ぬよりもごめんであったのだ。
しかし。
金属音が先にした。
斬りかかり掛けたフランス兵は、三人同時に──動きを止めて地面に崩れ落ちた。
鮮血が飛び散っている。
「ふう、やっと折れたかのう」
声がした。
コスタンツァとジョバンニが顔を向けると、倒れたフランス兵らの近くに刀身半ばから割れた剣を持っている老人が一人立っていた。
右目を眼帯で隠し、首元に古ぼけたスカーフと花の飾りをつけた背の高い老人であった。
「あっ……あんたは……」
ジョバンニが口を押さえて、その老人を見ている。
老人の体には無数の傷と返り血があり、パレルモで戦うフランス兵をここまで斬り倒しながらやって来たことが知れた。
コスタンツァが彼を見ながら云う。
「助けて下さいまして、ありがとうございます」
「なんの。先走った若者をフォローするのは先人の役目だ」
「一瞬で三人を倒す腕前……もしや貴方は、名の知れた騎士では……?」
コスタンツァのその問いに。
かつて老人が憧れた姫と同じ名を持つ彼女の問いに、彼は大笑して応える。
「いいや。俺はただの──シャルル嫌いのシチリア住民だよ。ほれ、アラゴン王が港に付くぞ」
彼が指差した方を向くと、王家の紋章を付けた船が港に着岸しているところであった。
コスタンツァの背中を老人は押すと、彼女は数歩押されて進み、そのまま進みだした。
「じゃあな。頑張れよ、皇帝フレデリカの孫よ」
老人のその言葉に。
コスタンツァは嬉しくなった。彼女が云われるのは、マンフレディの娘と云うことが多い。
フレデリカの名は類まれなる悪名として広まり、口にするのも恐れられるのだ。
だがその業績を彼女は悪とは思わない。だから、彼女の孫だと認めてくれる人に嬉しくなったのである。
「──はい! ありがとうございます! お爺さん!」
そうして、コスタンツァはアラゴン王のところに駈け出した。
やや迷ったジョバンニであったが、老人に深々と一礼して彼女の後に続いた。
それを見送って、老人は折れた剣を持ったまま港の階段に座り込む。
パレルモの鐘が鳴っていた。いつかのように。そして未来の為に。
座り込んだ老人の体は、刃物で切られた傷や背中には矢が突き刺さっていて、血が流れている。
「なあ……見ているか……」
懐かしそうな声で、呟いた。
「未来は……子供達のものだ……頼もしいものだのう……」
掠れる声でそう云う。
口の端から血が垂れてきて、慌てて拳で拭った。
「いかんな……」
首に巻いているくたびれたスカーフを外す。
朽ちかけた白い花の飾りが付いているそのスカーフには一滴も血が付いていなかった。
どうしようかと悩んだ挙句、傷のない頭にそれを巻いた。
「剣もようやく折れた。騎士は止めたが、住民として戦う分にはいいだろう……?」
そう呟いて、鐘の音を聞きながら彼はゆっくりと霞んだ目を閉じて、折れた剣を手放した。
乾いた金属音が、石畳とぶつかって鐘の音に紛れる。
いつか憧れていた、後世に語り継がれる物語の騎士にはなれなかったが。
充分な人生であったと振り帰ることができる。
友人は皆先立ったが、彼らと過ごした日々を思えば、決して不幸せではなかった一生であった。
だから、これから先を行く者達に。
「せめて……いのるか」
神に祷れる立場ではないが──。
「このシチリアに、祷ろう……」
……そうして。
老人は、長い生を終わらせた……。
[シチリアの晩祷]と呼ばれる、住民の蜂起とアラゴン王国の介入によりシャルル率いるシチリア王国はシチリア島を奪われる。
シャルルはこの後に失敗続きの人生となり憤死するが、契機となったのはこのシチリア奪還だとも云われている。
新たなシチリアの夜明けを、パレルモの港で静かに冷たくなっている老人は迎えた。
シチリアの鐘が鳴り響く中、名が残っていない誰かの満足した最期であった……。