23話『メルフィ憲章とフレさん──1231年』
1231年。
神聖ローマ皇帝フレデリカの朝は早い。
イタリア半島のくるぶしの辺りにある街、メルフィに幹部勢揃いで合宿している時の朝である。
ようやく太陽が東の空を薄明かりに照らし始めたと同時にフレデリカは目を覚まし、日課である水時計をセットする。
アル・カーミルから送られてきた歯車式水時計は正確な時を刻み、彼女の一日の経過を区切る重要なアイテムとして重宝している。
中東から帰っても、アル・カーミルに対する文通は途絶えていない。結局一度も会えないまま戻ってきてしまったが友情はそのまま残っている。
さて、目覚めたフレデリカは顔を洗い口をゆすいで、寝着から動きやすいハーフパンツとシャツに着替える。マントを付けて鏡を見ながら頭にターバンを軽く巻いた。
中東に居るときからつけ出したこのターバンは、巻いた経緯こそ隊長がつい、
「フレさんのデコが強い日差しに反射して眩しい」
などという非常に失礼なことを口走ったからだが、割りと気に入っていた。
そして颯爽と馬屋に行けば既にいつもの面子が揃っていた。隊長にエンツォ、司法大臣エンリコの息子ルッジェロと云う若者などの参加者に早起きの医者であり、アル・カーミルの紹介で中東からやって来たテオドールなどだ。
総勢十数名と云ったところだろうか。
「よーし、行くよー!」
フレデリカはまだ薄暗いメルフィの町中を、まだまだ現役で中東さえも踏破した馬のバビエカを乗り回し蹄の音を響かせる。
「ヒャッハー! 狩りだー!」
鷹を連れた息子やクロスボウなどを担いだ隊長を引き連れて郊外へ向けて走る。
行進ではなく緊急の早馬のような足音を響かせるのだから、
「くっ! 今朝も来やがった!」
「眠い……」
「もう出社時間か……」
などと街の住人もその騒音で目を覚ますのであった。
一般人ならばまだ早いと二度寝を始めるところだが、シチリアの官僚や貴族などがメルフィに集められているこの時期だ。
皇帝が起きて、セットした水時計が二時間を経過する頃には朝の会議が始まる合図なので眼をこすって彼らものそのそと起きだすのである。
朝の眠気を覚ましつつ部下を叩き起こすのが目的なので鷹狩りは僅かな時間で終わる。
鷹を自由に飛ばせるのも訓練の一つだ。
「イーグル号! ベアー号! ジャガー号! 合体だ!」
「合体は無理だろ」
3羽の鷹に指示を出しているフレデリカに冷静に隊長がツッコミを入れた。
そして城に帰った後はまず温水浴から始まる。
どこの城でも風呂を用意する皇帝である。あいも変わらず隊長を付き合わせているが、そこであまり人に聞かせられない密談などもするのでちょうど良いのだ。
「教皇の洗顔料に脱毛剤を混ぜると云うのはどうだ」
「駄目駄目。あいつ顔洗ってないみたいな汚さだったもん。うっぷ、思い出させないでよ」
「すまんな。ほら、エンツォの顔でも想像して浄化しろ」
「エンツォマジ天使……」
破門を解かれたばかりなのに破門を受けそうなことはここで喋っているのである。
そして朝食。格式張ったものではなく、朝食は塩スープにモチが多い。昼食は塩パスタならぬ砂糖パスタを食べて糖分を補給する。夕食は肉入りスープとパンを食べるぐらいで皇帝だと云うのに質素な生活である。
フレデリカと云う少女は他人を呼んで宴会をするときは豪華に金を使うのだが、隊長や幹部連中と食べるぐらいならばこんなメニューが多かった。
「ご飯に時間かかるしねー多いと」
「フレさん、食べながら本を読むのをやめなさい。子供が真似をする」
「へーい」
読書好きは子供の頃から変わっていないようだが、ここ暫くはエンツォを連れての行動が多いので行儀について時折言われるようになった。
朝食後には会議室へ向かう。そこには早朝に起こされたメルフィ合宿参加者の幹部連中が既に勢揃いしている。
「おはよう諸君! 今日も[メルフィ憲章]を作るための会議を、始めるよー!」
「フレたんイェーイ!!」
ヤケクソ気味に叫ぶ幹部である。なお、当然ながら参加者は全員フレデリカより年上のおっさんから爺さん揃いであった。
メルフィ憲章。
シチリア憲法とも呼ばれるそれは、以前に作ったカプア憲章を更に煮詰めて税や法を細かく制定したものである。
十字軍への時間が迫っていた時とは違い今度こそシチリアを法治国家として統一する為にフレデリカが帰ってきたまず行った事業がこれであった。
なお彼女の本拠であると云うことになっている神聖ローマ帝国ことドイツは、割りと放っておいても封建領主が治めていて税も出してくれるので後回しだ。それよりもイタリアは自治都市が独立しかねない問題を常に抱えているので、早急に改革の必要があった。
「早速法の話をしよう。法的にな」
この憲章でも主役となるのはナポリ大学の学長を務めている法律の専門家、ロフレドである。
その伝手からボローニャでの法律学の教授を更に引っ張ってきて自らの陣営に付かせている彼が法の骨組みを作り、それを諸侯や貴族が肉付けをして、皇帝が突飛な発想を加える。
「あー……それより先にこのベラルドいいですかな?」
ベラルドがおずおずと手を上げた。
彼はシチリアで最高の大司教であり、イタリア中で誰もが一目置く高位聖職者だ。彼と、カプアの大司教は[十字軍帰り]という実績持ちなので同じ大司教位の者よりも上の権威を持つ。
憲章を宗教的側面から見て指摘するのも重要なことなので合宿へ参加しているのだが。
「どうしたの? ベラルド」
フレデリカの声にベラルドが書状を取り出す。
「この憲章作りに教皇が即座に文句をつけてきましたぞ。ええと、『その悪意に満ちた法令作りはキリスト教全体を脅かし、秩序を破壊する行為だ。神の恩寵を自ら失うような行為をどの邪悪な者から吹き込まれたかは知らぬが、即座に止めろ』と」
「しゅごい……この前双方平和したばかりなのにもう破門をちらつかせてる……」
思わずフレデリカも呆れ返って呻いた。
隊長もやれやれと首を振って云う。
「イノケンティウス3世は破門と許しを繰り返した司教を呼びつけて強く叱ったらしいがな。軽々しく破門をするな、許すなら二度と破門をさせるなと」
「まあ今の教皇は比べ物にならない小物だし。ベラルド!」
「はい?」
「完全にスルーの方向で」
「わあ不安」
早速教皇の横槍が入ったが、無視することにした。
だがしかし、それじゃあヤバいのは誰もが思うことである。この時代で破門されても気にしないのはフレデリカぐらいだ。
次に挙手したのがピエールという書記官である。
「それじゃあ自分が教皇を騙くらかす言い訳文を書いておくっす。ヘルマンさんと共同で何とか誤魔化しましょうっす」
ピエールもボローニャ大学の出で、文法学の教授をしていた者である。
公的な文書だろうと、教皇に送る場合は美辞麗句を駆使して読み心地の良いものにしなければ一読されただけで捨てられるのも珍しくない。
そこで彼に頼めばこれはもうやたらいい気になれるファンメールを読んでいるような気分で持って回った言い回しで有耶無耶にしている内容を受け入れてしまうのである。
名文家とでも云える才能があり、フレデリカも重宝している。
彼女に書かせたら以前に破門を受けた際に反論を掲げたように、率直に論破し出したりずばりと相手が触れられたくない核心を突いたりと、第三者からすればある種痛快にも見えるが相手を怒らせる可能性が大いにある。
「じゃーピエールとヘルマンに任せよう」
「教皇の宥め役になってるでござるな拙者……」
「実質聖地解放させたと公式に認めてられている騎士団の団長だからな。教皇側では元破門皇帝なフレさんよりヘルマンの方が立場が大きいんだ」
隊長が解説をして、フレデリカが大きく肩を竦めた。
「さしずめ教皇は、我が聖職者を追い出すか傀儡化して国を治めようと企んでいるように見えるんだろう。しかし違うからね。我はただ、法が国民の安全を守り、キリスト教が国民の心を守る国にしたいだけさ。それぞれ担当するところを分けさせるんだ。それじゃあ大体これまで決まったことをざっくりと説明し直そうか。いい機会だから」
彼女はボードに書き込みながら改めて説明する。
「教皇達が望むのは、聖職者とキリスト教による一括支配だ。衣食住全て、キリスト教の管理下に置いて税を収めさせ、争いが起きても聖職者が叱れば泣いて許しを請う。全ての王侯貴族は教皇が持つ領地を頂いて彼に恭順し異教徒を攻める。まあ、大げさに言えばこれが最上だと思っているんだね」
続けて云う。
「我が作る国では、聖職者は聖職者の仕事をするだけに留める。洗礼、結婚、ミサ、葬式、祈り……どれも大事なことじゃないか。一方で聖職者ではない、役人や軍人は民が安全に暮らせるように彼らの土地や法を守らせる。教会は安心を、軍人は安全を。別に間違っては無いよね」
ふと、フレデリカは中東の友人アル・カーミルを思い浮かべた。
彼の叔父であるサラディンは、エジプトのカリフから信頼を受けて彼の死後に全てを委ねられたが、エジプトに新たなカリフを立てるということはしなかった。
遠く離れたバグダッドのカリフから影響を受けないエジプトの地で政治を行っていたのだから、或いは彼の一族も完全にではないが政教分離の考えがあったのかもしれない。
妙な共感を覚えつつ会議を進める。
「というわけで重要になるのが法だ。ざっくりと説明してロフレド!」
「法的に説明しよう。まずは裁判だ」
眼鏡を掛けた学者のロフレドが立ち上がり云う。
「シチリア王国では諸侯でも農民でも争いは全て法的に解決する。勝手な判断で裁判を行ってはいけないと云うのはカプア憲章のままだが……」
続けて云う。
「裁判は貴族が行うのではなくナポリ大学で鍛えた法律学の専門家が裁判官として付く。法的に一つの地に任期は一年」
「一年は短すぎではありませんか?」
疑問の声にロフレドが応える。
「法的に利点がある。一つは任期が短いことで土地の者から懐柔されにくいことだ。一年ごとに賄賂を変えなくてはならない相手は買収がしにくい。買収を発見したら報告しろ。二つ目はだらだらと判決を引き伸ばすな。長い裁判は害悪だ。任期間際に時間の掛かる訴訟が来た場合は報告しろ」
ロフレドはきっぱりと告げた。
「また、裁判官、弁護士、検事には組合を作らせた。これで法的に裁判などで掛かる費用に差が出ることも少なくなる。そして貧しい者が裁判を起こす際は全て費用は国が負担することで、あらゆる者が法の下の平等を享受できるようになる。当然、控訴権も認められている。最高の裁判権を持つのは皇帝だが、皇帝も法に則り判決しなければならない」
「フレさん、ちゃんと法は覚えたか?」
隊長の呼びかけに、フレデリカは不敵な笑みを浮かべてこめかみをトントンと指で叩いた。
「くふふ、ここに既に入ってるよ」
「……」
「……」
「え、えーと。ちゃんと法典にもしてるから皆も読んでね?」
とりあえずまだ正式ではないが、レジュメが配られる。
出されたレジュメに目を通して、司法大臣のエンリコが手を上げた。
「憲章の正式な文書もこの書式で書くのですか?」
「うん。折角だから新しい言葉でやりたいじゃん。わかりやすいし」
「ははあ……読めますが、なんとも変わった文体で……」
と、歴史ある大貴族のエンリコが気にした通り、メルフィ憲章に使われるのはラテン語やフランス語では無かった。
イタリア語である。まだこの時代では口語としてはあるが、文体にはそう使われていない言葉をふんだんに盛り込んだ文書であったのだ。
イメージ出来ない場合の解説として、あくまで例だが、日本で云うならば古文などの古めかしい記述を、そのまま語り口で翻訳したようなものだろうか。昔は喋る言葉と書く文字は必ずしも一致しないものである。
新しい国体、新しい法律、新しい言語。
フレデリカは更に中間発表を続けた。
「じゃあ次は経済・税制に関しての発表を行うよー! これは王たる我から。まずは国が行うメイン通商を、以前までのヴェネツィア、ピサ、ジェノバ依存の状態から、海軍を転用した海運業を作って行うことにします! 航路が変わるけどこれで富が外に流出せずダイレクトに儲けが発生することになるよ! よろしくねアンリ!」
「おうさ! 任せときな」
海軍提督のアンリが威勢よく告げる。
元海賊だった彼からすれば、襲われやすい海域に詳しく、他の都市の航路と被らないルートを開拓するのもそう難しくないだろう。
「また、アル・カーミルからの紹介で北アフリカの領主とかとは話を付けて貰ってるので、そことも通商ルートを作るよ。サンキュー我が友!」
北部アフリカの沿岸地域を支配しているイスラム勢力であるが、最大勢力のスルタンとことを構える気は無く、シチリアとの交易を持つことになっているのである。
「続いて領主の皆さんが気になる、農民への税率を発表します!」
フレデリカは重要事項とばかりに宣言する。シチリアは豊かな農地が多くて小麦の大生産地であるので、多くの住民は農民である。
ここで当時の適正な税率というか、通常の農民が支払っていた税の一例を簡単に紹介しよう。土地や国によって違うので一つの目安だが。
まず農家一年の収入が金に換算して600とする。
ここからキリスト教会へ60を支払う。10分の1税と云い、これは檀家が支払う費用で、支払い続けることで結婚式や葬式を行ってもらうのである。
更に普通の領主ならば税率が6割程度なので、教会に払った分は考えずに360の税を支払う。農民は残り180の金で暮らすのである。
良心的な領主ならば5割の税で済む。こうなれば農民の残金は240と大きく違うので「うちの領主様は聖人か何かや……」と涙を流すレベルである。
今回、フレデリカがメルフィ憲章で決定した税率は、
「農民の税は──収入12分の1とする!」
会議場はどよめいた。
600の収入のうち、僅か50しか国に収めなくて良いとしたのだ。教会に支払ったあと残る税は600のうち、490も残っているのである。
こんなもの聞いたら農民の目から高圧の涙が射出させて岩の柱程度なら切断せんばかりに感動する。
「教会には今まで通り払うとして、12分の1以外の農作物は農民が市場に出すもよし、貯蓄するもよしとする! さらにさらに、我が所有する国有地の農地開拓を行う場合は十年間無税としちゃおう!」
会議場の困惑した顔を見回して、皆では言い難いとばかりに代表で隊長が問いかける形を取った。
「フレさん。それで軍が養えるのか?」
「国内の問題は法で解決。反乱鎮圧の軍が足りないなら反乱を起こさせなきゃいいんだよ。それで低税方針。ってか最近が取り過ぎなんだよぶっちゃけ。サラディン税の時代は終わったんだ。帝政ローマでも国の農地では10分の1税だったんだから」
この時代に税が高かったのも、軍人が守護しなければならないという状況が非常に多かったからである。
その為に軍を整備しておかねばならず、農民から絞れるだけ絞っていたのだ。それ故に反乱が起きてまた軍が必要になり税を上げる悪循環があった。
フレデリカは今までの王としての活動から、反乱を起こさせないように人気取りをする必要性を知っていた。
また、この場では言わないが──彼女は諸侯を軍縮させると同時に、自らの軍も一万人以下の少人数に絞り軍費を抑えることで、この低税でやっていける体制を作ろうとしていたのである。
若い頃から大軍を率いたことはなく、それでもやってこれたフレデリカである。実際に大軍を持たなくてもそれを維持するのにどれだけ金が掛かるか計算して知っていた。故に、少数の軍である。
それで大丈夫かと思うかもしれないが、情勢が情勢だ。
イスラム側とは講和を結び、問題がなければ次の十年もまた継続されるだろう。
隣国のポーランド以下東欧はドイツの一部みたいなもので、内乱も飛び火してくる様子はない。
フランスとはかの尊厳王フィリップが死去し、現在フランス王である孫のルイ9世は17歳で年若く、敬虔なキリスト教徒である彼はエルサレムを解放したフレデリカを素直に尊敬しており、愚直とも云えるまっすぐな心を持っていてフランスドイツ不可侵協定は大事に守っている。
あと国内の問題が解決したようなしてないような状況のイングランドだが、マグナ・カルタで問題を起こしたあと即座に赤痢で死んだジョン王の息子のヘンリーが王位に着いたものの、何故か彼はフレデリカのファンを自称している。
北欧はデンマーク、スウェーデン、ノルウェーはバルト海の海洋国家がメインであり、更にそれぞれ独自路線か何かかとばかりに、争ったり暗黒時代入ったり搾取したりされたりしあっていて南征してくることはない。
そう、ドイツ・イタリアに隣接する勢力の中で問題なのは、教皇とミラノぐらいであり、内乱レベルで収まるのである。
十字軍を成功させたヨーロッパの覇者とも云える状況になったので、軍事費を押さえて国内経済を優先させるという潔い政策であった。
「一応国庫の為に国の専売品を指定するよ。[塩][鉄][真鍮][タール]……これらの値段は国が指定した、高めの値段設定で販売を行う。それといざ戦時下になったら特別徴税を行う。普段はかなり低いんだから、これぐらいは我慢してもらおう」
そうしていざとなれば兵を集めれる余地を作っておく。また、国庫を潤すことで傭兵なども雇えるだろう。
彼女が視察しまくり税制見まくりでシチリア中を何周も回り、様々な経済学や農業の専門家から話を聞いて、そして決めた税率である。
更に農地は次々にフレデリカが中東から取り寄せた最新農業を取り入れてどんどん収穫率は上がり、サラセン人も受け入れて農地を開拓させるのでこれでやっていける程度には豊かな国がシチリアなのであった。
そのうちには神聖ローマ帝国でもやりたいのだが、そのテストケースとして運用を試すには持ってこいである。
「そして、農民の税を安くしても貯めこませては経済がなり行かないし、使わせたほうが税の回収になるよね? というわけで経済発展策として[楽市]の開催を行うよ。これは誰でも売り買いに参加できる大規模商品市で、これを各都市ごとに順番に行わせる!」
「これまでは都市が好きなときに市を立ててたからな。それを王国がコントロールするわけか」
「そそ。で、その気になれば全ての市に参加できるぐらい開催期間を調整するわけ。あっちの都市の楽市で買った商品を今度はこっちの都市に……って感じで、個人の旅商人もやりやすく」
そうなれば都市間の交流も通気性がよくなり、中東からの輸入品が出回ればその利便さから貿易額で財政を賄える。
また、ルチェラの町に移住させたサラセン人達が作る織物やイスラム模様の彫刻品なども売れて彼らも儲けるだろう。一度は反乱を治めたものの、キリスト教の本拠であるローマから200kmと離れていない位置にあるイスラム教徒の町だ。なるたけ優遇してやる必要もある。
ヘルマンが頭痛薬にと貰っている、煎った麦と砂糖を混ぜた薬を飲みながらレジュメを確認している。
「しかしユダヤ人まで国に入れて金融に関わらせるとなると、教皇がまたキレるでござるなあ」
「丁度オーストリアから追い出されたユダヤ人の組合が居たからね。なあに適材適所だって。彼らにも金利の上限は決めて両替なんかをさせる。ユダヤ人だろうが我のルールに従うならおっけーさ」
ユダヤ人を国に入れていると金融を纏めてくれて発展に繋がるが、野放しにしているといつの間にか経済を完全に握られていたりするのがヨーロッパでは悩みどころなのであった。
特に各自治都市で経済をやっていっている上に、キリスト教の本拠であるイタリアではユダヤ人の姿は少なかったのだが、フレデリカは首輪をつけつつ受け入れていく。
なお、人種がバラバラなユダヤ人だが見分け方が当時はあった。
市場で商品を出さずに机を前に座っている奴がユダヤ人である。その机の名前がバンコ(banco)と呼ばれ、銀行であるバンクの語源となった。
「続けていくよー。税、流通と来たら次に提案するのは貨幣です! 我は国際的に通用する新貨幣を作ることに決定しました~!」
「新貨幣?」
どこからか疑問の声が上がったので、ボードを前にした隊長が軽く解説をする。
「基本的にヨーロッパで流通している国際通貨は、皆の給料にも振り込まれていることから判るだろうが[ディナール]と[ソルド]だ。これはドイツでもフランスでも使える。だが、ディナールはイスラム社会で作られた通貨で、ソルドはギリシャ正教の通貨だな。キリスト教社会で流通する国際通貨は現在殆ど無い」
「そうだね。経済と先進性に定評のあるヴェネツィアもまだ作ってない……けど時間の問題だろう。だから先んじて、キリスト教の最高権力者たる我がキリスト教社会で通用する国際通貨を作るのは何も問題はない! はず!」
特にこの時期、エルサレムを解放したフレデリカの権威がヨーロッパと中東に響いている時期でこそ彼女の作った通貨は信頼性があるだろう。
「というわけで試験的に作ったのがこの[アウグスターレ金貨]だよっ!」
フレデリカが会議場の全員に一枚ずつそれを配った。
直径2cm、裏面に神聖ローマ帝国の象徴でありフレデリカが好む鷹の紋章を刻み、表面にラテン語で[FRIDERICUS]と名を記して、フレデリカの横顔が彫刻されてある精巧な出来のコインであった。
配られた皆──フレデリカファンクラブ会員が新たなファングッズに「おお」と感嘆の声を漏らした。
「ぶっちゃけこれの作り帝政ローマ時代の[アウレリウス金貨]のパクリ……」
「しゃらああっぷ!」
隊長のツッコミをフレデリカが遮る。
「ともあれ! これと、この半分の金量で作った[小アウグスターレ金貨]を流通させるよ! かなり高価すぎるって顔をしてるね? そりゃ一般には中々出てこないだろうけど、ぶっちゃけ今流通してる小銭まで全て改革するのは難しいからさ。大物取引の時に通用する貨幣があるってだけでもかなりの貿易儲けになると思うわけよ」
皆が頷くのを見て、フレデリカは満足そうにした。
「基本政策は今のところ大体こんな感じで、これから色々詰めていって通用するような法律にしていこうか! どんどん意見は出して欲しい! 後世の教科書に掲載されてテストに出るぐらい重要なヨーロッパのターニングポイントを作るよ!」
彼女の意気込みに、シチリアの官僚達はやる気を出して取り組むのであった。
メルフィに留まる幹部合宿の会議は熱心に行われた。なにせ別段娯楽もない町メルフィである。早く会議をするぐらいしかやることはない。
日に百も二百も、様々な連絡用の馬が街を出入りして、ナポリ大学から官僚候補生がこぞって拝聴と勉強に訪れる。
そうして1231年、[メルフィ憲章]は発布された。
同時にアウグスターレ金貨も流通を始め、これが特にイスラム商人に大ヒットすることになる。
「これは……金貨だから……偶像崇拝じゃない」
「偶像崇拝じゃない」
「異教の君主へのファン活動でもない」
などと言いながら、イスラム教徒ながらフレデリカのファンであったイスラム商人は多かったようで、アウグスターレ金貨とディナールを交換できたものは大喜びで自慢して回るほどであった。
しかしながら、メルフィ憲章は完成したのであるから、それを怪しんでキリスト教社会への悪質な行為と誹っていた教皇にも当然憲章の書かれた法典全三巻を送っただろう。
この、別段キリスト教を迫害もすること無く、ただ役目を明確にして民の日頃の生活は王が守ると云う内容に教皇の不安は解消されただろうか。
勿論。
教皇はキレた。
「このアンチクライスト皇帝! 教皇と皇帝が同格だと思っているのかああ!!」
メルフィ憲章には神、引いては教皇の権威的な内容は一切記されておらず、条文には[皇帝が命ずる]と前書きがいちいち書かれているのである。
教皇が信じることは、叔父にして偉大なイノケンティウス教皇が宣言した様に、「皇帝は月、教皇は太陽」とあくまで皇帝の権威は教皇から与えられているものであると断じているのである。
皇帝が命じるのではなく、教皇が命じた内容を皇帝が実行するのが確かなキリスト教社会である、と考えているのである。
一方でフレデリカは違った。
「聖書にも書いてるだろーが! [皇帝のものは皇帝のものに、神のものは神に]ってな! 皇帝は神と独立してんだよ! あっごめん今の発言でちょっと部下のキリスト教徒が引いた! ええと、百歩譲って、皇帝は神に権威を与えられているのであって教皇から与えられてるんじゃないっつーの!」
慌てて発言を変更する。
と云うのも彼女が思うには、幼い頃にグイエルモ教師と共に見に行ったパレルモ近くのマルトナーラ聖堂にある絵画では、シチリア王は教皇ではなくイエスから直接戴冠させられていたのだ。
あくまで教皇自身も、神の代理であって神ではない。しかしそこを明確に皇帝や王よりも上と思っているのが教皇側であった。
和解後凄まじい早さでグレゴリウスとフレデリカの争いは再発しようとしていた。
「貴様~! また破門にしてくれようか!」
「へえー教皇サンはこの前破門許したばっかりなのにまた軽々しく破門しちゃうんだ~別にいいけど、前に二連続で破門したとき周りドン引きだった上に効果薄れてたけどもう一回やっちゃっていいの~? っていうか我、国内法作っただけなのに破門理由それにするの? それだとヨーロッパ中の王が法律作る度に機嫌とらないといけなくなるんじゃないの?」
完全に煽るスタイル復活である。
別段彼女はキリスト教が嫌いなわけでも、教皇を煽りたいわけでもないのだが。ただ自らの施政を邪魔してくる教皇にはもはや取り繕おうとせずに非合理的で非論理的だと小馬鹿にしているのであった。
ここでもう少し我を抑えられるか、空気を読むことに長けた性格をしていたのならば問題はもっと少なく済んだのかもしれない。
ウンコを被って反乱を抑えることはできても、理解不能にキレてくる教皇に土下座するのは御免だと云うのがフレデリカの性格である。互いに和睦をするなら歩み寄るが、一方的に自分が間違っているとは決して認めない。
間に立つヘルマンは胃がきりきりと傷んで隊長が作った砂糖菓子で精神を宥める。
しかしながら煽られたグレゴリウスも、この神を神とも思わぬ傲慢にして厚顔無恥な皇帝には、破門しても気にしないという嫌な特性があることは理解していた。おまけに人気取りだけは一流なので、破門を理由にした反乱を起こさせにくい。
だがこのまま野放しにするつもりは一切無かった。
この暴虐な皇帝を許しておくことは、敬虔なる信徒として許容できない。
そこでグレゴリウスは後世にまで伝家の宝刀となる、聖なる刃を大々的に作り上げた。
「教皇が命ずる! [異端裁判所]を設立することを!」
後世に、教皇とキリスト教の権威を傷つけた事と認められる伝家の宝刀を。