12話『gdgd欧州と根比べフレさん──1216年』
1216年。
日本の夏、ローマの夏。
いや、意味は無いがそんな勢いで、ローマと云う場所も夏になれば非常に蒸し暑く過ごしにくい。
なにせローマ帝国時代に使っていた下水道など、十数本あったのがこの時代では一本程度しか使われていないので夏の暑さとあわせて不衛生で病気も流行りそうな状態になる。というか風物詩の様に流行る。
整備を行わなかったのも帝国の崩壊と共に人口が流出して十分の一以下になったので、全部の上下水道を使わなくても十分だったから徐々に整備をしなくなっていった側面もある。
日本の夏ならば褌一丁になり団扇を扇いで湯屋に行き、風の通る二階で将棋か碁でも打ちながら日暮れを待つと云う避暑も仕えるが十三世紀のローマではそういうわけにもいかない。
なにせ前に述べた通り、風呂にも入れないのだ。湯で体を清めるのは病人か死者と言われていたのでゆったりと汗を流すこともできない。せいぜい布で洗う程度だ。行く先行く先で風呂を作っては隊長と混浴かましているフレデリカと価値観の違いが凄まじい。
帝政ローマが滅んだのは悪習のせいで、風呂や完備された上下水道も悪習だと云う蔑視や、異教徒のムスリムが風呂を好むのでそれを悪魔的風習だと云うレッテル張りなども身を清めるのを止めさせた原因だろう。
ローマの教皇や枢機卿ら、聖職者が行う避暑と云えば山間の療養地に一旦聖務機構を移してそこで過ごすのであった。
場所はペルージア。中部イタリアにある街だ。
ここに教皇イノケンティウスと十数名の枢機卿、そして世話役の従者や助祭などが訪れていた。
その修道院──と云うよりも避暑目的で作られた建物の一室、風通しの良く外の明かりが入る部屋にて、イノケンティウスは居た。
「ぬう……」
椅子に座ったまま難しげな顔をして机に積み上がった報告書の山に、持っていた一枚を丁寧に置き直した。
秘書の助祭らが囁き合う。
「この前の会議で一仕事終えたと云うのに、教皇はまだお忙しそうだな」
「呼びかけた第五回十字軍の兵が中々集まらないんだよ」
片方の助祭は予め教皇に報告するように資料に目を通していたので、大雑把なヨーロッパの形が描かれた地図を取り出して説明する。
「いいか、まず西からイベリア半島──スペインの[カスティーリャ][レオン][ナバラ][アラゴン]王国は半島下半分に居るイスラム勢力[ムワッヒド朝]相手に絶賛レコンキスタ中でこっちには兵は出せない。
なにせ1212年に行われた[ナバス・デ・トロサの戦い]では倍近い異教徒相手に勝利したものの被害も大きいんだ。無理に来いとは言えないさ。だって来たらせっかく叩いたムワッヒド朝が盛り返してくるし」
「確かにねえ。あそこはアフリカ北西からガッツリとイスラム入ってくるから」
続けて指をフランスに向ける。
「次に最高戦力と目されるフランス王フィリップだけど、こっちは南フランスの異端が最近活発でね。アルビジョア十字軍で忙しい。さすがに、異端狩りを放っておけとは言えないよね」
「あそこの異端も息が長いなあ。大体これも教皇が前にやれって言ってたから撤回もできないよね」
更にブリテン島、イングランド王国。
「ここはマグナ・カルタやって国内割れてガッタガタ。しかもジョン王に来てほしいと思う?」
「思わない」
「だよね」
そしてドイツ、神聖ローマ帝国。フレデリカの場所である。
「フレデリカさんはまだ皇帝になって間もないから国内から兵力を集められそうにない……人気はあるんだけどね」
「その点で云えば自分で戦力を集めて自発的に十字軍するって宣言したのはアレだよね。逆に言えば自分で戦力集められない限りやらないってことだ」
「内政優先してくるだろうなあ。まだオットーも生きてるし」
流れるように東欧を指した。
「ポーランド。例によって国内統一できてない上に北東の東方正教なルーシとも仲が悪く、おまけにいつ東から悪魔が襲ってくるかわからないと主張してる」
「悪魔?」
「ほらモンゴルの……」
「ああ、あの死ぬほど厄介な神の試練みたいな騎馬蛮族」
「殺した死体を集めて上に板を敷いて宴会するらしい」
「何その悪魔的発想……まじ怖い」
身震いをする二人である。
最後にポーランドから南へ下った国を軽く指で叩いて示した。
「となるとこの辺り……オーストリア、ハンガリーから参戦ってなるんだけど」
「だけど?」
「ハンガリー君主のアンドラーシュさんがちょっとアレな人でさあ。イスラム教徒もユダヤ教徒も保護してるわ人気取りの為に領地売り払って貴族からナメられてるわで……」
「ヨーロッパ全体がグダグダすぎるね……」
「さすがの教皇パワーでも無い袖は振れないからねえ」
と、助祭個人の意見ではあるもののヨーロッパ情勢を分析するのであった。
なにせどんな小さな村にでも教会の手は入っていて大きな都市からは定期的に報告なども届くので法王庁こそが当時の欧州で一番の情報通になるのは当然だ。
それにしても、教皇自身も十字軍が集まらない理由は理解しているものの、それでもピリピリしているので周りの者は恐る恐ると言った雰囲気になっている。
十字軍に兵を差し出した結果、スペインをイスラムに、フランスを異端のカタリ派に、東欧をモンゴルに取られれば何の意味も無い。
絶対的な指示を得て数万の兵士を中東に連れていけるリチャードやフリードリヒの時代が懐かしく思えた。と、云うかそれぐらい送らねば中東のイスラム国家アイユーブ朝を打倒できない。
慣れぬ長旅で疲弊して中東にたどり着いた後で、十万を超える元気な兵力を持つイスラム軍と戦う羽目になるのだから並な兵力や統率者では敵わないのも当然だろう。そこでも連勝していたエクスカリバー持ってた人がおかしいのだ。その彼でもエルサレムまでは落とせなかったが。フィリップ王がここぞとばかりに足を引っ張ったせいもあるし、内部でのごたつきが原因になった。
「期が悪かった……か」
イノケンティウスは助祭に聞こえぬ程度の声音で呟いた。
殆ど同時期にイギリス、フランスが国内問題の悪化により行動不能に陥ったのが痛かった。
花の第三回十字軍には参戦したフィリップだが、今は聖地開放よりもイギリスから奪った大陸領の統治に執心しているようだ。
「ぬう……」
「きょ、教皇」
「なんだ……」
「フレデリカさんからお手紙です」
差し出された新たな書類──というか手紙を教皇は開いた。
フレデリカの手紙はいつも、王から教皇に渡すような書き方では無い。悪筆なわけではないのだが要件が率直に書かれていて無駄な装飾語や表現をあまり使わない。
別にそれはイノケンティウス的には構わないのだが、いざというときにそれでは困る場合が出てくる──この時代では無駄な装飾語をつけるのが公式文書の正式なやり方である──ので、早く腕の良い書記を見つけろと云っているのだが。
ともあれ、内容はこういうことだった。
『こんにちは教皇元気ですか。我は超元気です。この前は公会議で皇帝認めてくれてありがとうございました。ところで、ドイツでの戴冠式でシチリア王が云々言ってたけど我ちゃんと教皇との約束守るからね。あくまで息子のハインリヒがシチリア王だからね』
ここぞと言い訳をしているフレデリカである。手紙は続いている。
『ところで第五回十字軍大変そうですね。我は国内がまとめきれてないので参加無理っぽいです。でもご安心あれ。ちゃんと国をしっかりさせてから十字軍するから。絶対するから。準備の目処が立ったらいいますのでその時はお小遣いください。フレデリカより』
凄い図々しい自分勝手な内容であったが、ここ暫く悩んでいたイノケンティウスはそれを見て肺腑に溜まっていた空気が抜けたような、すっきりとした笑いを漏らした。
「ふっ……ふはははは」
(云うではないか、小娘。人は宣言した後で悩んでいるのに、なんとも自由に突き進む者よ……)
その道に躓くか、転んでも先に行くか。立ち止まるも綱渡りを走り続けるのも、全ては神の思し召しだ。
イノケンティウスはふと、フレデリカに賭けてみたくなった。
奇妙な運命に祝福された彼女に神は微笑むか罰を与えるか。
「我が考える、是非にも及ばぬことか……」
そう言って薄く目を閉じ、遠く離れたドイツに居る元気な少女の姿を思い浮かべた。
暫く経過して、助祭の一人がイノケンティウスの前に来て声を掛ける。
「教皇? どうなされました」
いうが、反応は無い。
「教皇……はっ」
顔に手を近づけて、助祭は震えながら言った。
「し、死んでる……馬鹿な、イノケンティウス様が、神の身許に……」
──1216年。教皇最盛期を代表する欧州最強のラスボス、イノケンティウス3世没す。
生涯に於いて恐れられ、怒りの表情には王でさえ震えが止まらなかったが、その死に顔は安堵したように安らかであった……。
*****
さて。
教皇が死んだはともあれ、次の教皇が必要になる。
普通は枢機卿が[集会]をして選出されるのだが、幸いと言っていいのかこのペルージアの避暑地に全員揃っていた。
助祭はごくりと唾を飲み込んで、会議が始まった部屋の外で云う。
「つまり……犯人はこの中に居るってことか」
「冗談でもそういうこと云うなよ!? っていうかそれやるとウゴリーノ枢機卿が顔からして容疑者になるだろ!」
「顔つきがもう利権を貪りたい悪役そのものだもんね、ウゴリーノさん……」
などと失礼な事を言い合う。
無駄なほどに、知り合い全員から共通した印象を与えるウゴリーノである。
コンクラーヴェと云う教皇選出の会議に分かるように、教皇は世襲制ではなく全員一致の推薦が行われることで選ばれる方式になっている。
選ぶ、と云うが実際はともかく、名目上のことを云えば枢機卿が集まっているが選ぶのは枢機卿ではない。
集まった枢機卿達に、神が聖霊を通して「次の教皇は誰々にするのだ」とエコーを聞かせて語りかけてくるのでその通りに選ぶのである。
つまりは神の判断は絶対なので、選ばれた教皇も絶対となるのであった。まあ、イノケンティウスは一度選ばれたのに辞退したこともあるが。
「次の教皇誰になるかなあ」
助祭の集まりが言い合う。
「そうだね。普通に、立場だけを考慮して凄く順当に考えれば、イノケンティウス様の甥であり神学法学にも詳しい、教会内部の立場も大きくて名門の出なウゴリーノ枢機卿になるんだけど」
「凄い怪しいって言われる!」
「だよねー」
イノケンティウスが急死して次に教皇になるのが悪党面だった場合、いやもう失礼な話なのだが口がさ無い噂が流れるのは目に見えていた。
見た目もそうだが野心も多い印象を皆が覚えているのも悪条件になる。才覚はそう悪いものではないのだが。
なにせ立ち会っている助祭達が云うぐらいだ。重ね重ね酷いことを云うようだが。
「ちなみに僕ら助祭の立場だった人が教皇に選ばれた例もあるよね」
「[カノッサの屈辱]で有名なグレゴリウス7世だね。1073年に教皇になった人で、当時の神聖ローマ皇帝なハインリヒ4世を破門にして雪中土下座させたんだ」
「あれだよね。もしかしたら皇帝と教皇が仲悪いのって伝統なんじゃ」
「い、今のフレデリカさんとイノケンティウス様は仲よかったじゃん」
「なんであんなにフレデリカさんを推しメンしてたんだろうイノケンティウス様……」
しみじみと言い合う助祭達。
優秀で強力な教皇、と云う立場と仕事のみを評価していて、結局あのイノケンティウスが仕事以外にどう考えていたか窺い知れる者は居なかった。
「で、次の教皇の話に戻るけど。多分フレデリカさんとの関係も考慮してチェンチョ枢機卿になるんじゃないかな」
「ああ、あの人。確か……フレデリカさんの家庭教師も一時期やってたんだっけ。あのオモチ大好きグイエルモさんの上司の」
「そう。穏健派で権力にあんまり興味が無い学者肌だから、逆に裏がないって思われるじゃん」
「お爺ちゃんだしね。穏健路線かー、まあ胃が痛くならなそうだからいいね」
などと話し合っているとコンクラーヴェが終わり、枢機卿らが姿を現した。
助祭の予想通り、先頭に居る白髪に白髭の、杖をついた老人が教皇の帽子を被っていた。
「これからは儂が教皇になることになった。ホノリウス3世と名乗ろうか……よろしくのう」
口髭をふごふごと動かして老人、ホノリウス教皇は云う。
これまでの全身から雷状の聖霊を常に放ちまくっていたイノケンティウスに比べていかにも覇気の無い老人風で、助祭らはほっと胸を撫で下ろす。
後ろに黒い口髭をたくわえたウゴリーノ枢機卿も見えるが、彼からしても上司にあたるホノリウスの選出に不満の色は顔に現れていないようだ。
なんとも穏健かつ即急に新たな教皇が選ばれて良かった。
ホノリウスは覇気の無い声でまたふごふごと云う。
「とりあえず異教徒と異端者は儂がやってるうちにぶっ殺したいのう」
「穏健!?」
一応驚く助祭であった。
なおその二つの目標は教皇ならばデフォルトで持っていて当然なので、過激と云うわけでもないのである……。
******
「イノケンティウス教皇が死んで次はホノリウス教皇になりました」
フレデリカはドイツ、マインツの会議室でその報告を部下たちに告げる。
書記やら秘書やら大臣が集まっているが、部下の筆頭とも云える側近はシチリアから仕えるベラルド大司教と、即信者化したヨーロッパ中に名が聞くチュートン騎士団長ヘルマンだろう。隊長は政治ではなく護衛の懐刀として側に控えている。
フレデリカは皆の顔を見回して、問題点を告げた。
「──このラスボス立ちはだかってないじゃん!? なんか凄い優しいおじさんのままお亡くなりになったんだけど!?」
「いや、本当にこのベラルドが云うのもなんですが欧州一怖い人だったんですって」
「拙者思うにイノケンティウス様もフレたんファンクラブだったのでござらぬかと思うぐらい支援アゲアゲでござった」
と、大司教と聖騎士が云うのである。
最強のラスボスオーラを出すだけ出して死んでいった。フレデリカとしては拍子抜けにも程がある話であった。
イノケンティウスがフレデリカにしてくれたことを纏めると、
・シチリア王に戴冠。その後の身の安全を後見人として保証。
・やたら融通の効く家庭教師グイエルモをつかせる。
・勝手に親政始めたのに許してくれた。
・ソッコーで叙任権問題で争ったのに許してくれた(同じく争ったジョン王は破門食らった)
・嫁を紹介。普通に良い嫁でした。
・ベラルドを紹介。今ではナンバー2です。
・ヘルマンを紹介。ナンバー2タイの重要な部下です。
・ドイツ行きの資金援助。ベラルドにパワーまで預ける。
・借金を安い領地と交換してくれた。
・ドイツで二回も勝手に戴冠式したのに許してくれた。
・しかもちゃんと公会議で皇帝になったって認めてくれた。
贔屓されてるのかと云うぐらいの支援っぷりである。
フレデリカはひとまず次の教皇の情報を確認して、
「ええと、ホノリウスって言うとあれだね。我がちっこい頃に何度か家庭教師にやってきた爺さん」
「俺は会ったことないな」
「我が十歳より前ぐらいだからね、来てたの。ちょっと頭は固いけど本好きなのは認めてくれて、いっぱいあの爺さんの金で本を買ったなあ」
思い出にひたると、顔見知りなベラルドが解説をする。
「歴史学に詳しい方ですからね。ドメニコ宗派もかくやと云った様子で、書物に親しんでいる方なのです」
ドメニコ宗派と云うと、過去に残されたキリスト教系の史書や記録を無心に書き写して後世に伝える修道会である。
重要な役目ではあるのだが、しばしその性質から記録に残る事象や法こそが正しく、それを曲げた行いは間違っていると融通の効かない性格になることが多くて[神の忠実なる犬]と云うアダ名で煙たがれることさえあった。
フレデリカが云う。
「そうそう。アラビア語の書物は駄目だって捨てられてさ。腹いせに複数の魔導書ミックスした内容で書いた本の著者名に爺さんの名前書いちゃったよ」
「最悪ですな!」
「後に魔導教皇ホノリウスとかちょっとカッコイイ名前が残るかも」
「悪名だからそれ! しかもデマから始まった!」
※残った。
それはさておき。
「あの爺さんは頑固だけど、これはチャンスかもしれない」
フレデリカの言葉に怪訝そうにヘルマンが返した。
「チャンスとはどういうことでござる?」
「うん。頑固ってのはね、つまり思考の視野が狭いってことなんだ。ただの一枢機卿なら好きな学問にその頑固さを向けられるけど教皇となればそうもいかないでしょ。
そしてイノケンティウスおじさんみたいに、聖職者の汚職を減らそうとか教義をしっかり正そうとかそんな事は考えてなかったはずだ。でも、信仰心だけはあるから教皇となれば掲げる目標はあるよね」
「……十字軍か」
隊長の言葉にフレデリカは頷いた。
「そう。十字軍を行うのは教皇としての仕事をしましたっていう証明みたいな風潮があるからね。だから我にも再三、十字軍を早く編成しろって言ってくると思われるわけ」
「このベラルド疑問に思いますに、どのあたりがチャンスなので?」
すると彼女は邪悪な笑みを浮かべて云う。
「今まで通り、十字軍はちゃんとやると教皇に伝える。かつ、前教皇が居たらできなかった他のデカイ内政を進めるんだ。なにせ十字軍を編成するのに必要だって主張すれば我の内政はかなーりギリギリのラインまで黙認せざるを得ないはずだよ。破門にだってそうそうできるものか。イノケンティウスおじさんは視野が広いから、十字軍と関係ない内政してたらキレられるだろうけどホノリウス教皇なら押しに弱いし大丈夫!」
「うわあ完全に敵対ルート入るわ」
「そんなわけで、[十字軍やるやる詐欺]作戦は続行! この延長期間を目標十年とします!」
「大胆すぎる後回しだこれ」
隊長から淡々とツッコミが入ったが、会議場に集まった皆は息を呑みつつも覚悟を決めた。
教皇からの十字軍遠征への追求を、ひたすら言い訳と誤魔化しでスルーしつつ国内を纏める神聖ローマ帝国の基本戦略が始まったのである。