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南天に七星は瞬いて  作者: 榎元亮哉
~不穏の始まり~
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~不穏の始まり~ 二話

 夕陽を背にして俊二とあずさが玄関をくぐると、間もなく話し声が聞こえてきた。その二つの声は聞き慣れたもので、足元にある靴を見て来客が誰かを確信する。見慣れた赤いストライプの入ったスニーカー。これはきっとあの人のものだろう、と見当をつけて板張りの廊下を歩き出した。

 隣に併設されている道場に繋がった扉を開くと、案の定彼の予想した通りの男女がいた。彼らはこちらに気がつくと、男はむすっとした表情になり、女のほうは軽く手を振った。


「ただいま、兄さん、みどりさん」

「こんにちはぁ」

「またこんな時間までふらふらと。少しは鍛錬に力を入れたらどうだ」

「まぁいいじゃない。もしかしたらあなたの見ないところで頑張ってるのかもしれないし。お説教なんてするほうもされるほうも嫌なだけでしょ?」


 碧に言われ、渋い表情になるとそれきり口を閉ざす。それを見てあずさと碧が小さく笑った。


 今説教をしたのは朝倉健一。俊二の実の兄になる。中肉中背で眼光は鋭い。やや神経質なところが俊二には苦手だった。三十歳になり風格が出てきていて、世代交代は近いうちになると噂されていた。まだ父親の泰蔵は健在だが、その父親に勝るとも劣らないと言われ、父自身もそれを喜んでいた。

 そして説教を諌めたのは竜崎りゅうざき碧。彼女は香川県と徳島県の県境に位置する竜王山りゅうおうざんを守護する『七星』の一人だ。二年前に彼女の父親が亡くなり、それ以後その跡を継いで竜王山の纏め役をしている。年齢は健一の二つ下の二十八だ。相続の際、彼女の弟も候補に上がったが、まだ十二歳と年若いため成人するまではという条件で現在『七星』の肩書きを持っている。

 二人の関係は俊二とあずさたちに似たようなもので、幼い頃から二人一緒に行動していてそれが今でも続いている。昔から健一は頭が上がらず、今の遣り取りを見てもそれは変わっていないようだ。


「親父は?」

「父さんなら今日は仕事だ。明後日の夜までは帰ってこないぞ」

「明後日の夜か……」


 もし本当に、あずさの見た影が魔獣だった場合、この二日のタイムラグは大きいかもしれない。杞憂かもしれない可能性もそれなりにあるにはあるが。


「なにか父さんに用か?」

「いや……うん。ちょっと気にかかることがあって」


 ちらと隣のあずさに目をやって言って良いかを尋ねると、すぐに彼女は頷いた。


「さっきまで石立山いしたてやまにいたんだけど――」


 簡単に説明する。とは言ってもただ影を見たというのと嫌な気配がしたというだけなのだが。それ以上のことは俊二にもあずさにもわからないので仕方ない。もしかしたらあずさが何か忘れているかも、という可能性もあるがそれはそれで思い出したときにまた言えばいいだけの話だ。


「う……む。なるほど」


 考え込むような仕草で手を顎に当てる。これは昔からの癖だ。


「まぁとりあえず明日見に行ってもらえば? 特に危険だとは思わないけど」


 ここ十数年、大きな事件などは起きていない。健一自身そういった事件に取り組んだのは退魔士となってから一度もない。碧が楽観的に考える理由もわかる。彼は結論を出し、顔を上げた。


「……石立山は甚吉森うちの受け持ち範囲だったな。二人で様子を見てくれ。もし何か危険な兆候を発見したらすぐに連絡すること。わかったな」

「わかった」

「わかりましたぁ」


 相変わらず緊張感のないのんびりとした口調で言うあずさ。もう慣れたもので、他の三人は苦笑するばかりだ。

 正直なところ、今回の調査に危険などほとんどないと俊二は考えていた。そもそも彼女の見間違いの可能性もあるし、もし本当に魔獣だとしてもそんな強力な魔獣はさすがにこんな田舎に生息していないだろうとの考えだ。誰かが()び出したのであっても、それなら何か目的を持ってだろう。四国領内に今のところそんな不穏な空気はなく、周囲の組織とも俊二の知る限り交戦状態にはない。もしそうなら何かしらの警告なり命令が出ているはずだ。健一の反応を見てもそういったことがないのは明らかだった。


「ああ、一つだけこれだけは頼む」

「ん?」


 報告すべきことを終え、とりあえず自室に戻ろうと思っていた彼に兄の声が飛んだ。


「一応あずさはちゃんと雄斗さんの許可を得ておいてくれ。あずさは甚吉森こっちの所属じゃないからな」

「はい、ちゃんと言っておきますぅ」


 手を上げて笑顔でそう答える。いつも俊二と一緒にいて勘違いするが、あずさはあくまで剣山の所属だ。その統括者たる雄斗の許可を得なければならないのは当然のことだった。更にそれとは別に彼女の親という観点でも報告は必要だろう。


「じゃ、何かあったら教えて」

「わかりました」


 碧の言葉に答えて道場を二人で出る。これで明日の予定は決まったらしかった。ただ彼にとっては単なる暇潰し以外の意味はないだろう。いつか訪れる何かの為に鍛えておく、漠然とした目標だが鍛錬を欠かしたことはない。碧が言っていたのは的外れではなかった。

 元々ほぼ毎日基礎体力の向上の為に石立山に行っているのだ。景色が好きなのは本当だが、気持ちよく鍛錬出来ればとあの場所を選んでいた。自分は自分の思うとおりに試してみたい。ここに居れば健一から細かい指導を受けざるを得ないのを確信していたがゆえ、自宅から離れた場所で打ち込んでいた。今日もいつもの日課を一通りこなしてからあずさが来ていたので、厳密にはサボってなどいなかった。

 あずさはよくあの時間帯に石立山に来る。最初のほうはまばらだった時間帯も、いつしかあの時間帯に固定されていた。それはきっとあずさなりの気遣いだろう。俊二が鍛錬を人に見られたくない心情を的確に理解しているのだろうと彼は見当をつけていた。いつもはぽぅっとしていることの多い彼女だが、こういった機微については人一倍気づくのが速い。彼が一目置いている理由の一つでもある。


「どうしたのぉ?」

「いや、なんでもない」


 そんなことは表に出さずに自室へと歩き出す。その後ろを当然のようについてくるあずさ。これもいつものことだった。

 彼女が俊二の部屋に泊まっていくようになったのは高校を卒業してからで、それから週に一度くらいの頻度であった。高校を卒業してからというタイミングなのは、周囲への彼女なりの配慮なのだろう。このことに関してもう雄斗も泰蔵も何も口出しをしない。ある意味諦めているのだろうが、俊二としてはそれは不気味でもあった。


「とりあえず今夜中に連絡だけはしておいたほうがいいぞ」

「うん、わかってるよぉ」


 別にあずさとは何もないのだが、誰もそれを信じようとしないこの状況に少々うんざりはしていた。しかし自分を慕って泊まりに来る幼なじみを邪険には出来ない。

 彼はため息を吐きながら自室の扉を開けた。










「さて、早速行くか」

「うん……」


 時刻は午前十一時。俊二はいつも通り九時には起きていたのだが、あずさは寝起きが悪く結局グダグダとしていたらこの時間になってしまっていた。しかし彼は昼過ぎに出れればいいと思っていたので、この時間はむしろ早いほうだった。


「そろそろ起きろ。また木の枝に顔ぶつけるぞ」


 寝起きの悪さは昔からで、つい先日も寝ぼけたまま走り出して痛烈に木の枝に顔を激突させたばかりだった。そしてそれでも眠そうにしていたのを見てある意味の尊敬の念を抱いた。そんな彼女だったからこんなことを言っても無駄だろうなとは思いつつ、それでも一応忠告しておく。後で文句を言われてもこれなら言い訳も立つだろう。

 そして、当然覚醒しない彼女を連れて石立山へと歩き出した。








「うーん、まだ冷たいよぉ……」

「自業自得だ」


 案の定寝ぼけたまま、川を飛び越え損ね腰まで浸かることになったあずさが鳴きそうな声を上げる。とりあえず服を脱いで絞ったが、それでもまだ湿っているし冷たさも残っている。今日の気温はさほど高くないので乾くにはまだまだ時間がかかるだろう。特に彼らが走っているのは基本的に一目のつきにくい山中なので陽の光は届かない。乾きにくい原因の一つでもあった。


「さ、もうすぐ石立山だ。そろそろ警戒しながら行動するぞ」

「うん、わかったぁ……」


 服をしきりに気にしながら生返事をする。その様子を見て少々苛立ったが、相手はあずさなので気にしても仕方ない。視線を前に向けて集中しだした。

 昨日気になった場所の五百m手前から完全に気配を消して周囲を窺う。背後のあずさもそれに倣って気配を消す。もはや先ほど抱いた雑念はない。

 道なき道をゆっくりと歩いていく。人間の気配も動物の気配もない。遮蔽物の多い山中、視界は狭く気配を探る技術がメインとなる。


「俊二ぃ」

「どうした」


 小声で視線を動かさないまま返事をする。一瞬の油断が死を招くこともある。簡単に後ろを振り向いたりは出来ない。


「えっとね、あのね」

「なんだ」

「うん……右の奥のほうに猿がいるよぉ」

「……猿?」


 のんびりとした口調に乗せられて、右を向く。大きな木の陰に、彼女が言ったとおり確かに其処に猿がいた。


「……おい」


 猿。間違いなくそれは形からしたら猿が一番近い。それは間違いないだろう。

 だが。


「魔獣だな……」

「うん、そうだねぇ」


 普通の猿は、あんな紫と黒の斑点状の模様はない。眼も赤く光ってはいないだろう。身体は全身が斑点状になっていて、気持ちが悪くなるほどだ。

 というか。


「見つけたんなら早く言えよ」

「えぇ、言ったよぉ」


 そこで彼女に対する文句は打ち止めになった。彼の気が済んだわけではない。『猿』がこちらに気づいたのだ。赤い瞳はしっかりとこちらを見据えていた。目が合った瞬間、膨れ上がる殺気。どうやら二人を敵と認識したようだ。同時に俊二たちも転魔石を構える。


 ざっ、と『猿』が一歩踏み出した瞬間転魔石を起動させて武器を手に取る。俊二の手には『地聖ちせい』と銘をつけられた両刃の剣。数年来の相棒だ。そしてあずさが持つのは『あずさ』と自分と同じ名を持つ、やや細身の両刃剣。実はこの二本の剣はあずさが作成したものだ。彼女が自分と、俊二のためだけに想いを込めて創り上げた世界に一本ずつの剣。ゆえに彼らの手に馴染まないわけがなかった。この世界唯一の専用の武装。それを彼らは構えた。


「……ちっ!」


 予想外の速度で襲い掛かってきた『猿』の手が髪を掠める。やはり普通の猿よりずっと動きが機敏で獰猛だ。着地した『猿』が今度はあずさへと向かって飛ぶ。背後からの攻撃に、やっと気づいたあずさが振り向く。


「あずさっ!」

「え、あれ?」

「……おい」


 断末魔の叫びも残さないで消えていく『猿』。その姿は胴で真っ二つになっていた。『猿』は何が起こったかわからないまま果てただろう。傍観者であった俊二ですら信じられないものを見てしまった。


「なんつー出会い頭だよ……」

「ねぇ、何がどうなったのぉ?」

「ああ……」


 起こった現象事態は実に簡単なことだ。

 背後を振り向こうとしたあずさの剣が、襲い掛かってきた『猿』の進行方向に出てきたのだ。両手で持っていたため『猿』の勢いで剣を落とすこともなく、まるでゴールテープを切るようにして『猿』が切られてしまったのだ。


「そんなことになったんだぁ」

「……信じ難いことにな」


 これまでも、こんなラッキーで何とかなったことの多いこと多いこと。段々本気で当てにしたくなってきたが、当てにしだしたら途端になくなりそうに思えてとてもできない。

 武器を喚んだだけ無駄になってしまったが、これはこれで楽なのでそれでもいいかと思う。見せ場が全くなかったが仕方ない。

 衝撃があったせいか、両手を軽く握ったり開いたりして確認するあずさ。

 彼女が顔を上げると、俊二の後方に人差し指を指した。


「あれ、人じゃないかなぁ」

「あ」


 彼が振り向くと其処には痩身のいかにも不健康そうな男が、何かを探すようにきょろきょろとしながら歩いていた。

 ぼろぼろの黒いローブ姿のその男は、ぎょっとしてこっちを見たかと思うと一目散に反対側へと駆け出した。


「待てよっ!」


 この状況、おそらくあの男があの魔獣の使役者だろう。眼を放した隙に何処かへ行ってしまった、あの『猿』の魔獣を探しているうちに俊二たちと遭遇してしまった、そう考えると辻褄は合う。もし違うのなら、先ほどの魔獣との戦闘を見ていないと思われる以上俊二たちを目撃してすぐ逃げ出すのはおかしい。

 そう思った俊二だが、本当は一般人がこの光景を見たら即逃げ出すだろう。何故ならば、彼らの手には剣が握られている。そんな人間に関わろうとする人はそうはいない。


「あっ!」


 彼女の声と、がすっ、という音が響いたのはほぼ同時だった。


「あっぶな!?」


 俊二の目の前の木に刺さる『梓』。あと一歩前に出ていたなら俊二に刺さっていただろう。これにはさすがの彼も肝を冷やした。顔からも血の気が引いてるのは当然だろう。


「ごめぇん、木の根に足引っ掛けちゃって……」


 そして手に持っていた『梓』がすっぽ抜けて木に刺さったと。彼は大きくため息を吐いて、男の去った方向を見る。既に影も形もない。俊二が剣に気を取られているうちに逃げ去ったようだ。


「……まぁ、いつものことだから仕方ないか」

「ごめんねぇ」


 しかしこれでわかったことがある。

 まず先日見たのはさっき倒した魔獣だろうこと。そしてその魔獣を使役している者がいるということ。目的はわからないが、このまま放っておいていい問題でもない。

 これからどうしようかと考え出したが、相変わらず湿って気持ち悪そうに服を気にしているあずさを見て今回は諦めることにした。彼女の気が乗らない状況で行動すれば、またさっきみたいなことが起こるかもしれない。次は命の危険があるかもしれない、そう考えると強硬な追撃は避けたほうがいいだろう。彼もまだこんな場所で死にたくはない。

 彼女を見守ってる神様は、いつも彼女のしたい方向に幸運をもたらすようだ。今までの経験上、彼女の嫌がってるほうに傾いたことはない。つまり彼女と同じ方向性で行動していればその恩恵に与れるかもしれない。彼は自分の受ける幸運は信じないが、不運に関しては出来れば避けたいと思っているので験を担ぐこともあった。


「今日のところはこの辺で終わらせるか。報告もしないといけないしな」

「そうだねぇ。それが良いと思うよぉ」


 嬉しそうに同意するあずさ。その笑顔を見るとこの選択で良かったと思える。

 あずさが『梓』を木の幹から抜こうとするのを微笑ましく眺めながらそんなことが頭に浮かんだ。


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