~不穏の始まり~ 一話
四月ももうすぐ終わろうというのに、彼の視界に入る山々の高い場所には白いものがまだ残っていた。春の風というにはまだ肌寒く、冬の残り香が漂っている。
彼の寝転がっている草原は山の中腹程度で、周囲の眺望は絶景と言って良いだろう。視界の真ん中には霊峰・剣山、そして右に目を移すと折宇谷山、首を更に曲げると彼の住む甚吉森が見えた。
山々の樹木は段々と青々と茂ってきていて活力を漲らせている。今いる石立山の木々もそうだった。
ふと彼が首を後ろに見上げると、見覚えのある女性の姿があった。おっとりとして落ち着きのあるその女性は、その雰囲気通りのゆっくりとした口調で彼に話しかけた。
「またこんなとこで昼寝なんてしてぇ」
「家よりもこっちのほうが居心地が良くて。向こうじゃゆっくり昼寝も出来ないしな」
「もう、また健一さんに怒られるよぉ?」
「別に今更兄貴に何言われようがいいんだけどな。まぁそろそろ帰るか」
よっ、と小さな声と共に腰を上げる。背中や腰についた草を払うのも忘れない。気分を切り替えるため、一度大きな伸びをして、彼女のほうを向いた。
「よし。帰るか、あずさ」
「うん。俊二は今日バイク?」
俊二と呼ばれた青年は首を振る。そして当然のようにここまでの交通手段を口にした。
「徒歩」
「またぁ? もぅせっかくバイクあるんだから使えば良いのにぃ」
彼の住む甚吉森から、今いる石立山まではざっと数えても十Kmある。しかもそれはあくまで直線距離で、その間には二つの山を挟んでいる。普通に行けばその倍の道程だが、俊二はありえないことにその直線距離を踏破してきていた。
しかしその点をあずさは特に重要視していない。さもされが当然だとも言うように。セミロングに赤いカチューシャを付けた彼女は、勿体ないと小声で言って文句を言うのを止めた。
「こっちのほうが近いだろ。それに何かあったとき乗り捨てなきゃならないしな。それなら最初から自分の足で来たほうが色々便利だ」
バイクより自分の足のほうが便利という、中々聞かない理屈を並べる俊二。彼は本気でそう思っていた。
普通の人間ならともかく、彼にとっては自分の足のほうが便利で速い。信じ難いことだったがこれは事実だった。
「じゃあ行くか」
「うん」
二人で甚吉森のほうへ歩いていく。あずさも家から自分の足で来たので当然二人ともこのまま甚吉森まで行くつもりだった。ちなみに彼女の家は甚吉森ではなく、さっきまで俊二が眺めていた剣山にある。距離は剣山までのほうが近いが、普通の人間が歩ける距離でも道でもない。だが彼女は俊二のようにバイクも持っていないし、車の免許もない。仕方なく自分の足でここまで来たのだ。今日も彼がここにいるのではないかという推測一つで。
その辺の事情を理解していた俊二は何も言わずに自分の家までの道なき道を歩む。わざわざこんな場所まで来たあずさを邪険にはしたくなかった。
「?」
彼にとっては歩き慣れた道を行く道程、不意に嫌な気配を感じた。周りを見回すが、それらしい姿も影もない。そのときには既に何の気配も感じ取れなかった。
気のせいだったらしい。もしかしたらただの動物かもしれない。たまたま彼らのテリトリーに入ってしまっただけかもしれない。そう判断すると止めかかっていた足をまた踏み出した。
「さて、そろそろ走って行くぞ」
「わかったよぉ」
返事を確認すると、二人は風のように走り出していた。木の枝も根も、河すらも彼らの障害にはなりえなかった。
四国・徳島県。日本の県の中でも知名度の低い県の一つ。悲しいことだが近隣の県に住んでいない限り、正確な位置を知っている人が少ないのは事実だ。
その徳島県と高知県の県境、そこに朝倉俊二の住む甚吉森が存在した。森といっても実質山で、標高は一四二三mと決して低くない。
中肉中背に短い黒髪と何の特徴もないが、彼には一つだけ普通の人々とは違う点があった。『退魔士』、それが彼の肩書き。隣のあずさも同じ肩書きを持っている。これがある意味普通に暮らす人々とは違う世界に住む彼らとの決定的な違いだった。
日本にはその土地によって『退魔士』たちを統括する組織が異なる。最も大きい組織は日本中央部を占める『白神会』だが、四国を纏めているのは白神会ではない。俊二とあずさが所属するその組織の名は『北斗七星』と呼ばれている。その名が示す通り七つの家が大きな権力を持ち、これまで四国の平穏を守っていた。組織の活動は主に悪霊の除霊と、領内の警察などからの依頼。これには秘密裏に行う要人の護衛なども含まれる。
こういった活動を地道に行ってきたが故、四国内の退魔士たちからの信頼を得、しっかりとした地盤を持つことが出来たのだ。だからこそこの百年ほどは内乱とは無縁だった。
俊二が退魔士となったのはこの世に生を受けてすぐのこと。彼の両親も、祖父も代々退魔士だった。彼と、先に生まれていた兄も退魔士になるのに何の疑問も持たなかった。父親は大きな力を持つ『七星』の一人であり、つまりは彼もその一家の一員だ。そういった環境の中で彼は自然と退魔士になり、そして北斗七星の次代を担う一人となった。
しかし彼自身には特別これと言った目標もなく、流されて生きて来たに過ぎない。何の疑いもなく歩んできた人生、ゆえに自分を特別だと思うこともなくここまで来た。だがある一人の男との出会いが彼の行く道を示した。
それは高校を出てすぐの春の日。周囲に流されるように通った高校を卒業し、自由の名の下に放り出された彼は旅に出た。とりあえず四国から出たかった彼は、まず大分から九州に上陸し、福岡を経て北上するように東京に向かう途中にその男に会うことになる。春風のような爽やかさと底知れぬ闇を同居させたような男は言った。
「人生なんて一度しかないし、そして残念なことにとても短い。些細なことでも終わってしまう儚いものだ。それなら自分勝手に、思うままに生きてもバチは当たらないよ。僅かでも自分が幸せを感じなければ生きている意味がない」
その男の言うことに感化されたのか、俊二は四国に戻ってきた。ここにしか自分のやるべきこと、自分が幸せを感じる何かがあると信じて。
「――あ、そういえばぁ」
「ん?」
山を一つ越え、帰路のおよそ三分の一程度のところまで来たとき、今思い出したという風な感じであずさが声をだした。相変わらずののんびりした口調に緊迫感は皆無だ。
「どうかしたか」
少しスピードを落として後ろについてきていた彼女に並んで、さも世間話といった彼女の言葉に疑問を覚えながら続きを待つ。
「さっき、石立山のところで変な影を見たよぉ。人間でも動物でもなさそうだったから、もしかしたら魔獣かもぉ」
「おいこらまて」
「なぁに?」
何の悪気もないのは付き合いの長さから知っている。声を荒げるのは無駄というものなので、彼は大きくため息をついた。
「一応、言っておくが。何でその時言わなかった?」
「言おうと思ったんだけどぉ、俊二が気にしてなさそうだからどうしようかと迷ってるうちに忘れちゃったぁ」
「……そうか」
このぼけぼけプリンセスは、と小声で言ってまたため息をつく。
喋ってるうちにもどんどん自分の家に近づいてくる。もう一度行くのは流石に億劫だ。俊二は諦めてこのまま家路を進むことにした。
「明日確かめに行くか。もし本当に魔獣だったら大事だしな。今日は親父か雄斗さんに報告して終わりにしておこう」
「うん、わかったぁ」
雄斗というのはあずさの父親にして、この北斗七星の頂点に君臨する剣雄斗のことだ。質実剛健という言葉が似合う、屈強な肉体を持つ日本でもトップクラスの剣士。十年前に日本最強の『四護将』の候補にもなったこともある、この世界で知らない者はいないと言っていいほどの有名人でもある。霊峰・剣山を拠点とし、そのことから『雄斗在る限り、剣は落ちまい』と言われるほどの存在感がある。
その一人娘がこのあずさなのだが、父親には欠片も似ていないと評判で皆首を傾げることが多々あった。特に初対面の者はほぼ間違いなく。彼女自身はこういった風評を全く気にする様子はなく、大物という意味では父親に通ずるものがあった。このおっとりとした雰囲気は数少ない仕事中でも同じで、正直周囲の人間のほうがハラハラしていることのほうが圧倒的に多かった。無論彼もその一人、というか筆頭だ。しかし退魔士としての腕は悪くなく、これまでの仕事で失敗などしたことがない。外見からは判断できないが、一人前と言っていい力量を持っていた。
「どうしたのぉ、俊二ぃ」
「いや、なんでもないよ」
あと少しで甚吉森に入る。気がつけば段々と空がオレンジに染まりつつあった。麓のほうではもう風は暖かく、春の足音を感じられるようになっていた。彼のお気に入りのあの場所もそのうちこの風が吹くのだろう。
俊二は眩しそうに手で日差しを遮り、茜色の空を眺めた。
遥か先には黒い雲。数日中にもしかしたら雨が降るかもしれない。そんなことを思ったが、それよりも深い嫌な予感が彼を覆っていた。
「帰ろうか」
「うん」
暗雲から逃げるように、彼は一度も振り返らないで家路を急いだ。




