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残り香

作者: 無限葱

怪物のような暑さもようやく終わりに近づき、僕のここでの生活も終わろうとしていた。この猛暑のせいで、避暑とは名ばかりの静養になった。


朝、僕のいる高台から麓まで散歩するのが日課だった。20分程下ると、畑の真ん中に小さなバス停がある。そこから雑貨屋や土産物屋が並ぶ通りに出るには、バスでまた20分かかる。バス停のトタン屋根以外には、じつに平たんな眺め。

そのバス停には、ほんの一瞬だけ、暑さを忘れさせてくれる風景があった。

いつも、膝辺りまでのジーンズを履き、髪を三つ編みに束ねた君が、自転車で僕の前を通り過ぎるのは、車が行き来しだす時間の少し前、まだ早い時間だった。

何年か前、初めて見た君の白い肌が、みるみる小麦色に変わっていくのに、さほどの日数はかからなかったことを、今年も僕は確認した。僕の不健康そうな蒼白い顔も、君につられて浅黒くなっていく。



「おはよう」



驚いたのは僕の方だった。でも、それだけ。僕は何も言葉にならなかった。


君が通り過ぎるスピードは、次第に遅くなっていく。


僕の横には、いつの間にか君がいた。今年、いや昨日が初めて。

君はとても何気ない顔をしていた。

君は僕に、1時間後のバスに乗ることを告げる。僕の朝の散歩の時間は、確実に長くなった。


街の方には避暑客が増えてきたようだ。

毎年のように僕は、彼等より早くここに来て、最後に帰っていく。そして彼等と顔を合わせることは、ない。

君は、両親がやっている店も忙しくなってきて、手伝いに行っているのだと言う。賑やかな空間から、ここの時間だけが完全に取り残されていた。

静かな緑だけが僕の目に映った。


去年の夏、君は僕のいる高台に登ってくるとき、いつも両親の後ろを恥ずかしげについてくる、まだとても幼い少女でしかなかった。

少し年上の僕が気に掛けると、もっと恥ずかしげにうつむいた。

たった1年、僕にとってはいつもと変わらないものだった。ただ一つ違うのは、君が確実に成長したことだけ。

君は、僕や僕の友人達のように頼りなげな足取りではなかった。確かに、肉が全くついていないようではあったけれど、その真っ直ぐ伸びた足で、跳ねるように地面を蹴りつけては毎日、僕のところに来た。辺りに、ほんの少しの汗に混じった甘い香りを、満面の笑みに撒き散らしながら。

そして君は、時折僕を驚かせた。散歩道の脇の林から突然顔を出したり、バス停で冷たい罐ジュースを、後ろからいきなり僕の首筋に押し当てたり。



「私は、ね」



言い掛けると君は、1年前の顔に戻る。

君に聞きたいことは山ほどあった。話してあげたいことも。君のこれまでとこれから、僕の中にある、形にならない微かな希望さえも。


毎年、確実に夏は終わりを告げる。時としてそれは唐突に。

君はまた僕を驚かせた。僕がここを去るはずだった日、君は現れなかった。


その前の夜、僕は激しく咳込んだ。ここに来て初めて、そして実に2年ぶりの発作だった。僕の体は快復期であったはずなのに。

母は付きっ切りで介抱してくれた。真夜中を過ぎ、朝が近づいたころ発作は治まりかけてきたが、僕には漠然とした不安と希望が訪れた。

本当なら昼過ぎに父の運転する車でここを去らなければならない。けれどこの夜の発作で、僕のここでの静養は永遠になる気にさえなった。


結局、もう1週間ここにいて、発作からの快復の様子を見ることになった。僕の浅黒くなった顔も、今では滑稽でしかなかった。


ようやくのことで深い眠りについた僕は、あまりにけたたましい電話のベルに起こされた。意識ははっきりしていたはずなのに、何故か記憶が曖昧だ。多分、その電話が告げたことを、必死に忘れようとしたからだと思う。

君の事故を聞かされた僕は、とかく希望は脆いものであることを知った。

朝の空気は軽やかであるはずなのに、澱んだ空気は辺りを十分に湿らせていた。

僕は夕べ、死の淵をさまよっていた。そして君は生きる活力に溢れていたはずなのに。



夏の終わりは、本当に唐突で、時として振り回されてしまう。



僕は、本当にここで一生を終えることを考えていた。永く永く、君の記憶の何%かに残ることを望んで。

君の亡骸は、奇跡的に外傷を負っていなかった。その顔は明るく微笑んでいるようにも、深い悲しみにいるようにも見えた。


確かに僕は快復期にあるらしい。発作も一時的なもので、命に別状があるようなものでもないだろう、とも。

けれど君に伝えられなかった全てのことが、わずかに1週間ではあるけれども、僕のここでの生活を引き伸ばしたのかも知れない。


父の車が僕を乗せて今、緑の中のバス停を通り過ぎようとしている。夏も終わろうとしているのに、容赦のない陽射しがトタン屋根を照り付けている。

瞬く間に車はスピードを増し、一瞬のうちに小さなバス停を通過した。

君のわずかな残り香が、そこにはあったような気がした。そしてそれは、僕の胸の微かな痛みとなって残った。

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