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残飯の女神ノコリ  作者: 久保田ルカ


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第25話 鉄板の下の玉子焼き

 山あいの小さな集落にある、古びた商店兼休憩所。平日の午後の気怠い空気の中、研修医の宅麻(たくま)は注文した定食の丼を前に、箸を持つ手をわずかに震わせていた。


 白いご飯の上にのった豚肉はすでに白く脂が固まり、味噌汁の表面には湯気ひとつ立っていない。当直の夜、モニターの異常を見落とし、先輩に報告するわずかな判断が遅れて患者を重篤化させてしまったあの悪夢から、宅麻は自宅待機を言い渡されていた。医療安全の確認が終わるまでの間、彼はこの山あいの実家に身を寄せ、自問自答を繰り返していた。「自分には医者の才能などないのではないか」と。医師を辞めるべきだという思いが、頭の中で何度も渦巻いていた。


「……それ、本当に残すの?」


  ――残飯の女神ノコリ。


 不意に、目の前の席から声がした。

 顔を上げると、いつの間にかそこに一人の少女が座っていた。動くたびにふわりと揺れる茶色の髪と、深い色の瞳。見慣れないその少女――ノコリは、宅麻が箸をつけたきり放置している冷めた定食をじっと見つめていた。


 宅麻が何か言い返すより早く、外で空気を切り裂くような金属の音が響いた。


「――っ!」


 反射的に窓の外へ視線を走らせた瞬間、轟音と共に、隣接する公民館の改修現場から巨大な鉄板が滑り落ちた。砂埃が舞い上がり、バス停から走り出たばかりの小さな影が、その重い鉄板の下へと呑み込まれるのが見えた。


「きゃあぁっ!」


 誰かの悲鳴が上がった。

 少年がその場に倒れ込み、持っていた布製の弁当袋が放り出される。蓋の開いた弁当箱から、黄色い玉子焼きが一つ、乾いたアスファルトの上へと転がり落ちた。


 宅麻は立ち上がった。頭の中では「助けなければ」と警報が鳴り響いているのに、足がまるで鉛のように床に張り付いて動かない。失敗したあの夜と同じように、恐怖と無力感が全身を支配し、最初の数秒間、彼の身体は完全に硬直していた。


 動けない。また自分は何もできないのか――。


 その絶望的な沈黙を破るように、周囲から男の低い声が響いた。


「おい、しっかりしろ! 下に誰かいるぞ!」


 動いたのは、店内の隅にいた男たちだった。

 一人は、この集落で長年自動車の整備士を務め、つい先日定年を迎えたばかりの男だった。彼の腰には古傷があったが、反射的に自分の軽トラックへと走り寄り、車載のジャッキと頑丈な工具をひっ掴んで現場へ駆け出す。


 もう一人は、客を送り届けて休憩所に立ち寄っていたタクシー運転手の男だった。彼は開業したばかりで、まだ満足に客がつかず、焦燥感を抱えて生きていた。だが、目の前の惨状を見るやいなや、自分の車から飛び出し、整備士の後を追った。


 そして、学校帰りの子供をバス停へ迎えに来ていた一人の女性がいた。彼女は再婚した夫の連れ子であるその男の子との距離感に悩み、まだ一度も「お母さん」と呼ばれていないことに胸を痛めていた母親だった。女性は青ざめた顔で我が子の名前を叫びながら、鉄板へと駆け寄っていく。


「どいてくれ! 一人で支えるのは無理だ、ジャッキをかける!」


 整備士が叫び、重い鉄板の隙間にジャッキを差し込んで渾身の力で持ち上げようとする。しかし、古傷の痛む腰に激痛が走り、男の顔から一気に血の気が引いた。鉄板の重さは、一人で支え切れる限界を超えていた。


「くそっ、重すぎる……!」


「俺がやる!」


 タクシー運転手が飛び込み、自分の肩を鉄板の端に潜り込ませた。だが、そのポケットの中では、午後三時半に予定されている遠方への長距離送迎の予約客からの電話が、激しく鳴り響いていた。ここで電話に出なければ、開業したばかりの貴重な顧客を完全に失うことになる。運転手の額から冷汗が流れ落ち、息が詰まるような選択の瞬間が訪れた。


 その時、動けずにいた宅麻の背中を、冷たい風が押した。


「……っ!」


 宅麻は自分の頬を両手で激しく叩き、硬直していた足を踏み出した。医者としての技術があるわけじゃない。だが、自分が今やるべきことは分かっている。


「頭を固定して! 無理に引っ張らないで、そのまま圧迫を支えて!」


 宅麻が声を張り上げ、震える手で少年の脈と呼吸を確認する。

 鉄板の下で、少年は恐怖と痛みでパニックを起こし、「痛いよ、苦しいよ」と泣き叫んでいた。助けなければならないのに、男の子は母親の顔を見てもなお、怯えたように体をこわばらせている。女性は「私なんかじゃ……本当の母親じゃないから、この子を安心させられない」と、その場で足がすくみかけていた。


 だが、女性は震える唇を噛み締めると、少年の顔のすぐ傍らに膝をつき、その小さな手を強く握りしめた。


「大丈夫よ、お母さんがここにいるから。ずっとそばにいるからね、怖くないからね」


 本当の母親と呼ばれていない彼女が、懸命に、何度もその言葉を紡ぎ続ける。その温もりに触れ、少年の激しい震えがわずかに和らいだ。


「今だ、持ち上げろ!」


 宅麻の叫びに合わせ、整備士が歯をくいしばってジャッキを押し上げ、運転手が自分の仕事の予約電話を完全に無視して、全体重で鉄板を下から支え続けた。その隙間から、宅麻が少年の身体を引き抜く。


 一瞬の静寂の後、少年の泣き声が周囲の空気に響き渡った。

 生きている。救い出されたのだ。


 山あいで携帯電話の電波が届かず、救急車を待つ余裕などなかった。運転手は自分のタクシーの後部座席のドアを大きく開け放ち、「俺の車に乗せろ! 一番近い診療所まで最短で飛ばす!」と叫んだ。


 誰もが自分の「できないこと」を抱えながら、それでも目の前の命のために、自分の持てる力を差し出した瞬間だった。


 騒ぎが少しだけ落ち着き、人々が救急処置のために散らばったあと。

 アスファルトの隅には、先ほど少年の弁当箱から転がり出た、一欠片の玉子焼きがぽつんと取り残されていた。

 

 その場にしゃがみ込んだノコリは、誰にも気付かれることなく、その冷めた玉子焼きの表面にそっと指先を触れさせた。


 ——魔法『残響』。


 ノコリの脳裏に、そして空間の微細な震えを通して、その玉子焼きに刻まれた記憶の断片が流れ込んでくる。


 昼下がりの小学校の教室。

 弁当を開いた少年は、大好物の玉子焼きを一番最後に残しておいた。友達から「それ、食べないの?」と聞かれた少年は、少し顔を赤らめ、「これ、お母さんの……」と言いかけて、照れくさくなって口を噤んだ。本当は誰よりも母親のことが好きで、一番美味しいそれを最後に取っておいただけだったのだ。


 母親が思っていたような「反抗心の現れ」などではなかった。そこにあったのは、言葉にできなかった不器用な愛情の残骸だった。


 ノコリは静かに指を離し、ふうと息をついた。

 残響が見せた記憶は、人間が勝手に勘違いし、勝手にすれ違いながらも、生きているという事実をそこに見出しただけだった。


 夕暮れ時。

 茜色の光が山あいのバス停を赤く染め上げていた。


 それぞれの現実へと戻っていく人々の中に、劇的な変化など起きやしない。

 タクシー運転手は、切られた顧客からの電話に自ら折り返し、怒号を浴びせられながらも頭を下げて謝罪した。そして再び「空車」の札を掲げ、静かに街へと走り出した。

 女性は、家に戻ると冷えた台所に立ち、明日もこの子が一番好きな玉子焼きをたっぷり入れてやろうと、静かに包丁を握りしめた。

 そして宅麻は、公衆電話の受話器を握りしめ、かつての指導医である先輩の番号を自ら押していた。


「――先生。俺です……。もう一度、当直の基本から、すべて教えてください」


 自分の無力さを認め、それでも逃げ出さずに頭を下げる、その声はもう震えていなかった。


 少し離れた道路のガードレールの上。

 ノコリは足をパタパタと揺らしながら、その手元に使い古された古い日記帳を開いていた。


 彼女はペンを走らせ、今日ここで起きた人間たちの営みを、淡々とした筆致で文字として刻み込んでいく。



『整備士は、古傷の痛む腰で鉄板を支えられなかったが、ジャッキをかけた』

『運転手は、長距離の予約を失ったが、車で命を運び、自ら謝罪した』

『女性は、お母と呼ばれていなかったが、必死に名前を呼び続けて子供を救った』

『研修医は、己の迷いを断ち切り、震える手で指示を出した』

『冷めた玉子焼きには、照れくさくて言えなかった一番好きな人の味がした』


 書き終えると、ノコリはパタンと日記帳を閉じた。


「……まったく。人間って、自分が何者かなんて分かんないくせに、いざとなると勝手に動き出しちゃうんだから」


 ノコリの口元に、わずかに呆れたような、けれどどこか温かみを含んだ笑みが浮かんだ。


 彼女は深い色の瞳で、夕闇に沈みゆく山あいの空を見上げる。

 薄青い空の向こうで、今日も遠くの星が不器用に生きる人間たちの頭上で静かに瞬き始めていた。

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