『作り直しなさい!』〜味にうるさすぎて処刑された悪役令嬢、現代の潰れかけホテルを料理で再建します〜
「作り直しなさい」
公爵令嬢セレスティア・ヴァレンヌは、今日も当然のように言い放った。
銀の皿に盛られた仔牛のローストを一口だけ食べ、ナイフとフォークを静かに置く。その所作だけを見れば優雅そのものだったが、向かいに立つ料理長の顔はすでに引きつっていた。
「火が入りすぎていますわ。ソースも重いですし、これではせっかくのお肉の甘みが台無しです」
「……お嬢様。こちら、本日四皿目でございます」
「あら」
セレスティアは少し考えてから、首を傾げた。
「でしたら、四度失敗したということですわね」
広い食堂が、しんと静まり返った。
給仕たちは揃って視線を落とし、壁際に控えていた侍女は小さくため息をつく。
昔から、彼女には人より少しだけ味が分かりすぎた。誰も気に留めない焦げや、わずかな臭み、ほんの少しの火入れの違いまで、どうしても気になってしまう。
周囲がどんなに「美味しい」と笑う料理を口にしても、彼女だけは満足できなかった。生まれてからずっと、一日三度の食事をするたびに、不満だけが積もっていった。
最高の食材を使い、最高の腕で調理し、一番美味しい瞬間に客の前へ出す。それを徹底させているというのに。
なのになぜ、満足のいく一皿が、ただの一度も目の前に現れないのか。
幼い頃から独りきりの食卓。潤沢すぎる富。その上に積み上がった幾千もの苛立ちが、彼女を次第に暴君へと変えていった。
「それから付け合わせの芋も水っぽいですわ。昨日のものより質が落ちています。仕入れ先を変えましたの?」
「お嬢様!」
とうとう料理長が声を荒らげた。
「皆、朝から休まず働いております!」
セレスティアは吐き捨てるように言った。
「だから、何ですの?」
その迫力に、料理長の顔から表情が消えた。
「……失礼いたします」
深々と頭を下げた彼は、その日のうちに屋敷を辞めた。
そんな出来事は、一度や二度ではなかった。
料理人、侍女、菓子職人、仕立屋。セレスティアの要求に耐えきれず去っていく者は後を絶たず、いつしか彼女は王都でこう呼ばれるようになった。
――史上最悪のわがまま令嬢。
そして十年後。
セレスティアは、処刑台の上に立っていた。
◇
「セレスティア・ヴァレンヌ! 度重なる浪費、使用人への虐待、王太子妃候補としての品位を著しく欠いた振る舞い――」
罪状がひとつずつ読み上げられるたび、広場を埋め尽くした群衆から歓声にも似た罵声が上がった。
「悪女!」
「わがまま令嬢!」
「地獄に落ちろ!」
セレスティアは何も言わず、それらを聞いていた。
宝石は買った。ドレスも何十着と作らせたし、料理を突き返した回数など、もはや本人にも分からない。
確かに、褒められた人生ではなかったのかもしれない。
それでも。
「最後に言い残すことはあるか」
執行人に問われ、セレスティアはゆっくりと顔を上げた。
見上げた空は、腹が立つほど青かった。こんな日に死ぬのか、と妙に他人事のように思いながら、彼女は小さく唇を開く。
「わたくしは、ただ……」
ざわめいていた広場が静まった。
「私の理想の料理に、出会いたかっただけですのに……」
「は?」
誰かが、ひどく間の抜けた声を上げた。
その直後。
刃が落ちた。
◇
「起きて!」
「――っ!?」
耳元で怒鳴られ、セレスティアは勢いよく身体を起こした。
反射的に首へ手を伸ばす。
「……首が、ありますわ」
「何寝ぼけてるの! 朝食の仕込み始まってるよ!」
目の前にいたのは、見覚えのない少女だった。白いシャツに黒いエプロンを着け、髪を後ろでひとつに束ねている。
それだけではない。
部屋そのものが異常に狭かった。
公爵家で使っていた衣装部屋よりもずっと小さく、簡素な寝台が二つ並んでいる。壁も家具も見たことのない造りで、どう見ても自分の屋敷ではない。
「……ここは、どこですの?」
「従業員寮」
「ジュウ……なに? 豚小屋ではなくて?」
「リサ、本当に大丈夫?」
リサ。
知らない名前だった。
セレスティアは不安になり、壁際の鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、十七歳ほどの見知らぬ少女だった。茶色い髪に丸い目、派手さはないが愛嬌のある顔立ちをしている。
「……誰ですの、この女」
「だからリサだってば!」
少女の叫び声が、狭い部屋に響いた。
◇
数時間後。
セレスティアは、自分がまったく別の世界に生まれ変わったらしいことを理解した。
今の名前はリサ。
十七歳。
地方にある小さなホテルで働く、住み込み従業員だという。
そして仕事内容は。
「……わたくしが、皿を洗うんですの?」
「そこから説明必要?」
厨房に山積みされた皿を前に、セレスティアは本気で絶望していた。
前世では、皿というものは誰かが持ってきて、誰かが下げ、誰かが洗うものだった。自分の手で触れるのは、食事中くらいのものだったのだ。
「早くして! 次の皿来るよ!」
「お待ちなさい。今、人生について考えておりますの」
「考えながら洗って!」
容赦なく追加の皿が置かれる。
しかも皿洗いだけではなかった。
床掃除に客室清掃、食堂の片付け、配膳。朝から晩まで次々と仕事を言いつけられ、セレスティアは半日もしないうちに理解した。
これは処刑より酷いのではないか、と。
「リサ! 三番テーブルお願い!」
昼時になると、今度は料理を載せた盆を押し付けられた。
「わたくしが運ぶんですの?」
「配膳係なんだから!」
「今日は皿洗いでは?」
「人手不足なの!」
どうやらこのホテルでは、身分どころか担当業務すら守られないらしい。
セレスティアはぶつぶつ文句を言いながら、食堂へ向かった。
◇
ホテルは古かった。
壁紙はところどころ色褪せ、木製の床も長年使い込まれている。それでも掃除だけは丁寧にされており、決して不潔ではなかった。
ただし。
客が、少ない。
昼食時だというのに、食堂の席は半分以上空いていた。
「本日の魚料理です」
三番テーブルに皿を置く。
白身魚のソテーに、焦がしバターのソース。付け合わせは人参と芋。
一見すれば、何の問題もない料理だった。
客がナイフを入れると、ぱさり、と乾いた身が崩れた。
その瞬間、セレスティアの眉が動いた。
魚は焼きすぎている。身の水分が飛び、せっかくの脂も抜けてしまっている。
バターは焦がしすぎで、香ばしさを通り越して苦そうだ。付け合わせの人参は柔らかすぎるし、ソースからは作り置き特有の鈍い匂いがする。
――ひどい。
そう言いかけて、セレスティアはぐっと唇を噛んだ。
今の自分は公爵令嬢ではない、ただの使用人だ。ここで口を出せば……どうなるかわからない。
(ここは我慢ですわ、わたくし……いつかここを抜け出す日までの、辛抱ですわ)
そう自分に言い聞かせ、今まさに魚を口に運んでいた客に、背を向けて歩き出した。
その時だった。
客が投げ出すように呟いた。
「……まあ、こんなもんか」
その瞬間。
セレスティアの中の何かが、ぷつんと切れた。
セレスティア……もとい、ホテルの使用人リサは、客の方へばっと振り返った。
「お待ちくださいませ」
「え?」
客の皿をさっと持ち上げる。
「こちら、作り直しますわ」
「リサ!?」
食堂の端から、同僚の悲鳴が飛んできた。
「いやいや、別にいいよ」
「よくありません」
セレスティアは真顔で答えた。
「この魚は焼きすぎです。バターも焦がしすぎ。ソースは昨日の残りでしょう?」
その瞬間。
厨房の奥で、がたん、と大きな音がした。
扉が開き、大柄な男が姿を現す。
五十代ほどだろうか。太い腕に白いコックコートを纏ったその男は、見るからに料理長だった。
そして、その額には見事な青筋が浮いている。
「……今、なんて言った?」
低い声が響いた。
同僚たちの顔色が一斉に悪くなる。
けれどセレスティアは、全く怯むことなく、皿を料理長に差し出した。
「作り直してくださいませ」
「リサ! 謝って!」
「なぜ?」
「なぜって……!」
料理長がずかずかと近づいてくる。
「お前、皿洗いだろ」
「ええ」
「料理の何が分かる」
セレスティアは少し考えた。
「分かりますわよ?」
「は?」
「少なくとも、これが美味しくないということくらいは」
「お前なあ!」
怒鳴り声が食堂いっぱいに響き、客たちが一斉にこちらを見る。
さすがのセレスティアも、少しだけ声が大きかったかしらと思った。
「そこまで言うなら」
料理長が腕を組む。
「何が悪いか言ってみろ」
「よろしいですわ」
セレスティアは皿へ視線を落とした。
「まず火入れ。この厚みなら、あと一分半は早く上げるべきでした。バターは焦がしすぎです。香りを出したかったのでしょうけれど、これでは苦味の方が勝っています」
料理長の表情がわずかに変わる。
セレスティアは構わず続けた。
「ソースは昨日作ったものを温め直しましたわね?」
「……なぜ分かる」
「香りが死んでいますもの。人参も茹ですぎですし、芋は水分を含みすぎています」
当然、怒鳴り返してくるかと思った。
けれど料理長は、しばらく黙って皿を見つめた。
「……魚は今朝入ったばかりのものだ」
「あら」
セレスティアは目を見開いた。
「でしたら、なおさら勿体ないですわ」
食堂が静まり返った。
やがて料理長が、低く息を吐く。
「……作り直す」
「料理長!?」
「ただし」
男はセレスティアを睨んだ。
「お前、厨房に来い」
「嫌ですわ。暑そうですもの」
「来い」
「わたくし、汗をかくのは好きでは――」
「来い!」
「無礼ですわよ!」
首根っこを掴まれ、そのまま厨房へ引きずり込まれる。
「離しなさい! 前世でしたら極刑ですわよ!」
「意味分からんこと言うな!」
食堂にいた客の何人かが、思わず吹き出した。
◇
二十分後。
新しく作り直された魚料理が、三番テーブルへ運ばれた。
皮目はパリッと香ばしく。
けれど火入れは前より浅く、身は旨味を閉じ込めたままふわりと仕上がっている。
白身魚には、淡いクリーム色のソースがかかっていた。
バターのまろやかなコクに、白ワインとビネガーの穏やかな酸味。そこへレモンの爽やかな香りが重なり、香ばしく焼かれた白身魚を軽やかに引き立てている。
客が魚にナイフを当てる。皮目のパリッとした層を抜けると、新雪のようにふわりと身が解けた。切り分けた断面には、じゅわっと上品で透明な脂が滲んだ。
その断面に、クリーム色のソースがとろりと流れてくる。
客はごくり、と喉を鳴らした。
そして、切り分けた魚をフォークに刺して口に運んだ。
「あ」
小さな声だった。
それでも、料理長も同僚たちも、全員がその顔を見た。
「……美味しい」
たった一言。
けれど料理長は、ほんの少しだけ目を伏せた。
セレスティアだけが腕を組み、不満そうな顔をしている。
「火加減がまだまだですわね」
「まだ言うのかよ!」
「ま、先ほどよりは、多少ましになりましたわね」
「多少……」
「理想には程遠いですわよ、料理長」
セレスティアはそう言いながら、改めて厨房を見回した。
古い鍋、使い込まれた調理台。
乾きかけた香草に、作り置きの脂ぎったソース。
そして厨房の向こうには、空席の目立つ食堂がある。
けれど。
食材そのものは悪くない。それどころか、季節外れの食材まで当たり前のように手に入り、火加減を細かく調整できる魔法のような調理器具まで揃っている。
前世の料理人たちが見れば卒倒しそうな環境に、セレスティアは密かに胸を躍らせていた。
それに、料理長の腕も、決して低くない。むしろ、少し手を入れただけでこれだけ変わるのだから、腕そのものはかなりのものだ。
ただ、長い間客が来ないうちに、少しずつ手を抜くことに慣れてしまっただけなのだろう。
「……もしかして」
セレスティアはぽつりと呟いた。
「このホテルなら……あと何年か作り直させれば……」
すると、同僚が目を丸くした。
「リサ、何言ってるの。うち、もうすぐ潰れるよ」
「え?」
「半年もつかどうかって」
潰れる。
その言葉に、セレスティアは眉を寄せた。
ここがなくなれば、この厨房もなくなる。
つまりは、料理長もいなくなり、自分が理想の料理を追求する場所もなくなるということだ。
「それは困りますわ!」
思わず大声を上げた、その時だった。
「何が困るんだ?」
低く落ち着いた声が、厨房の入口から聞こえた。
全員が振り返る。
そこには、ひとりの青年が立っていた。
黒いスーツを着た長身の男。少し長めの黒髪に、切れ長の目。整った顔立ちをしているが、その目元には隠しきれない疲労が滲んでいた。
「支配人」
料理長が呟く。
青年は厨房を見回し、最後にセレスティアへ視線を止めた。
「何の騒ぎだ」
「レイさん、この子が……」
料理長が説明しようとしたが、セレスティアが先に一歩前へ出た。
「レイさん? あなたが、このホテルの責任者ですの?」
「そうだが」
「でしたら話が早いですわ」
セレスティアは堂々と彼を指差した。
「このホテル、料理から全部やり直しますわよ」
厨房が凍りつく。
レイは数秒黙ったあと、眉を寄せた。
「……誰だ、君は」
「ヴァレンヌ公爵家第一令嬢セレスティ……いえ、ええと……リサですわ」
「それは知っている」
「あら」
「聞いているのは、なぜ昨日まで皿を洗っていた君が、ホテルの再建に口を出しているのかということだ」
もっともな疑問だった。
だがセレスティアは胸を張る。
「わたくし、味にはうるさいんですの」
「理由になっていない」
「このホテルを立て直したいのでしょう?」
レイが黙った。
その一瞬で、セレスティアには十分だった。
「図星ですわね」
「……随分偉そうだな」
「よく言われますわ」
「だろうな」
レイは疲れたように額を押さえた。
「それで。君に何ができる」
「不味いものが分かりますわ」
「……それだけ?」
「そして……」
セレスティアは、自信を湛えた笑みを浮かべて言った。
「本当に美味しいものが分かります」
「……だから、それでホテルが立て直せるなんて……」
そう言いかけて、レイはふと、どこか遠くを見て言葉を止めた。
セレスティアがその視線の先を辿ると、そこは食堂の三番テーブル……セレスティアが料理を作り直したテーブルがあった。
その皿は、ほとんど空になっていた。そして何より……その男性客の顔が、料理を一口食べるごとに、子供のようにほころんでいた。
「……あの料理、君が作ったのか?」
「まさか」
セレスティアは心外そうな顔をする。
「このわたくしが、厨房に立つわけがありませんでしょう」
「じゃあ何をした」
「作り直させましたわ、この料理長に」
料理長が横から低い声で付け加えた。
「……言われた通りにやったら、確かに良くなった」
レイの目が少し細くなる。
その時、三番テーブルの客が、給仕に声を掛けた。
「今日の魚、美味しかったよ。明日もある?」
支配人の動きが止まった。
セレスティアも、その言葉を聞き逃さなかった。
その直後、ほんの一瞬……。
二人の視線がバチリと重なった。
「……一週間だ」
レイが言った。
「はい?」
「一週間だけ、君のやり方を試す」
セレスティアの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですの?」
「ただし、好き勝手していいという意味じゃない。仕入れも予算も、料理長と相談すること。それから――」
「細かいですわね」
「まだ何も言ってないだろ」
「一週間あれば十分ですわ」
セレスティアはそう言って、空席ばかりの食堂を見渡した。古びた壁に、傷のある椅子。昼時だというのに半分以上の席が空いており、給仕たちは手持ち無沙汰に立っている。
前世の自分なら、きっと見向きもしなかった場所だ。
それなのに、今は不思議と胸が高鳴っていた。
「一週間後」
セレスティアはレイへ向き直り、胸を張る。
「この食堂、満席にして差し上げますわ」
「随分大きく出たな」
「あら。できないとお思い?」
「無謀だな」
「では、見ていらっしゃいませ」
セレスティアはにっこり笑った。
「わたくし、料理に関しては、絶対に妥協いたしませんの」
◇
その日から、厨房に地獄が訪れた。
「作り直しですわ!」
「またかよ!」
「魚の火が入りすぎです!」
「三十秒だぞ!?」
「その三十秒が問題なのです!」
翌朝には卵料理に駄目出しし、二日目にはパンの仕入れ先を見直し、三日目には朝食の品数を減らすと言い出した。
「メニューを減らすのか?」
料理長が怪訝な顔をする。
「ええ。誰が四十種類もの“そこそこ”を食べたいと言いましたの?」
「……」
「十種類で十分です。その代わり、全部美味しくなさい」
いつものように言い切ったセレスティアだったが、その日の昼、初めて厨房の中で最初から最後まで料理を見届けることになった。
「魚二皿!」
「スープ三つ上がります!」
「四番、付け合わせ変更!」
「パン足りないぞ!」
怒鳴り声に近い掛け声が、狭い厨房を飛び交う。
料理長は片手で魚の焼き加減を確かめながら、別の鍋を覗き、若い料理人へ指示を出していた。横では皿が次々に並べられ、その向こうでは別の注文がすでに火にかかっている。
「そちらの魚、もう上げた方が――」
「分かってる!」
「ですが、あと十秒で――」
「今こっちのソース見てんだよ!」
言い返そうとして、セレスティアは口を閉じた。
料理長の額には汗が浮かんでいる。
それでも手は止まらない。
一皿が完成する頃には、次の三皿が待っている。その三皿を仕上げている間にも、新しい注文が入ってくる。
前世のセレスティアが見ていたのは、いつだって完成した一皿だけだった。
温められた皿に、美しく盛りつけられ、自分の前へ運ばれてきた料理。
それが出来上がるまでに、厨房で何が起きているのかなど、考えたこともなかった。
「……」
「何だ?」
急に静かになったセレスティアを、料理長が訝しげに見る。
「……随分と、お忙しいのですわね」
料理長の手が一瞬止まった。
「今さら気づいたのかよ」
「わたくしの屋敷では、料理は時間になれば出てきましたもの」
「勝手に生えてきてたわけじゃねえぞ」
「それくらい分かっていますわ!」
思わず言い返したものの、声にはいつもの勢いがなかった。
セレスティアはもう一度、厨房を見渡す。
確かに、料理長の火入れは甘い。ソースにも改善の余地がある。
けれど。
ただ「もっと丁寧に作れ」と言えば済む話ではないらしい。
「……料理長」
「あ?」
「先ほどのソースですが」
「また文句か」
「いいえ」
セレスティアは少し考えてから言った。
「一皿ごとに一から作る必要はありませんわ。土台になる部分まではまとめて仕込んで、最後の香りだけ注文が入ってから整えればよろしいでしょう」
料理長が目を瞬かせた。
「それなら、味も落ちませんし、あなた方も少しは楽になるのではなくて?」
「……」
「何ですの」
「いや」
料理長は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「やっと厨房のことも考えるようになったなと思って」
「失礼ですわね。わたくしは最初から最高の料理のことしか考えておりません」
「それを世間じゃ考えてないって言うんだよ」
「なんですって?」
いつもの調子で睨み返しながらも、セレスティアはそれ以上反論しなかった。
その日から、彼女の要求は少しだけ変わった。
ただ「作り直しなさい」と命じるのではなく、どうすれば味を落とさず、厨房を回せるのかまで考えるようになったのだ。
魚の仕入れ先は変えず、その日の状態を見て調理法を変える。朝食は品数を減らした代わりに、焼きたてのパンと卵料理に力を入れ、作り置きのソースもすべて捨てるのではなく、仕込み方そのものを見直した。
高価な食材を増やすのではなく、今あるものを、一番美味しく食べられる形へ。
セレスティアは相変わらず細かく、相変わらず偉そうだった。
けれど前世とは違い、その言葉の先にいる料理人たちのことも、ほんの少しだけ見るようになっていた。
それでもセレスティア自身が包丁を握ることは、一度もなかった。
「そこまで分かるなら、自分で作ればいいだろ」
四日目の夜、料理長が呆れたように言う。
「嫌ですわ」
「何でだ。もどかしくねえのか」
セレスティアはふいと顔を背けた。
「わたくしは公爵令嬢ですもの。厨房に立つなど――」
「いや、お前皿洗いだろ」
「お黙りなさい!」
料理長がじっと見る。
「……で、本当は?」
セレスティアの頬が、わずかに引きつった。
前世で一度も厨房に入ったことがないわけではない。
むしろ、理想の料理を自分で作れないものかと、夜中にこっそり厨房へ忍び込んだことは、数え切れないほどにあった。
そしてそのたびに。
卵は床に落とし、鍋は焦がし、包丁で指を切り、挙げ句の果てにはスープをひっくり返した。
「……向いていませんの」
「は?」
「ですから! わたくしは料理を作る才能だけは、少々……ほんの少々、欠けていますの!」
料理長は数秒黙ったあと、腹を抱えて笑い出した。
「笑うんじゃありませんわ!」
「いや、だってお前……あれだけ偉そうに!」
「味が分かることと作れることは別問題でしょう!」
「じゃあ、お前は一生、人に作らせるつもりか?」
「ええ。それに、私が作ると、愛着が生まれてしまいますわ」
セレスティアは胸を張った。
「愛着?」
「愛着は舌を鈍らせます」
セレスティアの目が遠くを見つめる。
「わたくしが求めているのは、ただ美味しいだけの料理ではありません」
「それは、世界中の誰が見ても美しく、世界中の誰が食べても至高と呼ぶ……」
その目には、あまりに自分勝手で、しかし切実な彼女の夢が映っていた。
「そんな完璧な、一皿ですわ」
料理長はしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく笑った。
「本当に面倒な女だな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
図らずとも、その独りよがりな夢は……。
古びた料理人のプライドにも、火をつけた。
◇
五日目になると、最初に魚料理を食べた客が友人を連れてやってきた。
「この前の魚、あれ美味かったんだよ」
六日目には、近所の客も増え始めた。どうやら誰かがインターネットというものに、このホテルの料理について書いたらしい。
『古いホテルだけど、料理が急に美味しくなった』
『白身魚のランチがおすすめ』
『朝食のパンが美味しい』
セレスティアには、その仕組みがよく分からなかった。
「口コミ……?」
「まあ、噂話みたいなものだ」
支配人にそう説明され、セレスティアは納得したように頷いた。
「ああ。社交界と同じですのね」
「たぶん全然違う」
◇
そして、一週間後。
「二名様、お待たせしました!」
「三番テーブル、魚料理二つ!」
「パン追加お願い!」
「予約のお客様がお待ちです!」
食堂には、朝から従業員たちの声が飛び交っていた。
皿を持った給仕が忙しく行き来し、厨房からは次々に料理が運ばれてくる。ほんの一週間前まで空席ばかりだった店内に、今は空いている席が一つもなかった。
「……」
食堂の入口で、支配人のレイが呆然と立ち尽くしている。
その隣で、セレスティアは満足そうに腕を組んだ。
「どうです?」
「……満席だな」
「ええ」
「本当に一週間で」
「ですから、申し上げたでしょう?」
セレスティアは得意げに顎を上げた。
「わたくし、料理に関しては絶対に妥協いたしませんの」
「その自信はどこから来るんだ……」
レイは呆れながらも、どこか嬉しそうだった。
その時。
「随分、賑やかになったねえ」
背後から穏やかな声がした。
振り返ると、小柄な老婦人が立っていた。上品なジャケットを羽織り、白髪を綺麗にまとめたその姿には、どこか品がある。
レイの背筋が伸びた。
「オーナー」
「あら」
セレスティアが目を瞬かせる。
「この方が?」
「ああ。このホテルの持ち主だ」
老婦人はセレスティアを頭の先から足元までじっくり眺めると、楽しそうに笑った。
「あなたがリサちゃんね」
「わたくしをご存じで?」
「もちろん。支配人から電話をもらってね。“とんでもない従業員が現れた”って」
「ちょっと」
レイが眉を寄せる。
「だって本当じゃない」
オーナーはころころと笑いながら、満席の食堂へ目を向けた。
客たちは楽しそうに料理を食べている。皿は次々と空になり、あちこちのテーブルから笑い声が聞こえてきた。
「この食堂ね」
オーナーが静かに言う。
「昔は毎日、こんな感じだったのよ」
レイの表情が少しだけ曇った。
「……すみません」
「責めてるんじゃないわ」
老婦人は首を横に振った。
「また見られるとは思ってなかっただけ」
そう言ってから、セレスティアを見る。
「ありがとう」
セレスティアは、思わず黙り込んだ。
前世では、料理を作り直させれば嫌な顔をされた。美味しくないと言えば、わがままだと陰口を叩かれた。
ありがとう、などと言われた記憶はほとんどない。
「別に」
セレスティアは少しだけ顔を背けた。
「わたくしが美味しいものを食べたかっただけですわ」
「あら」
老婦人が微笑む。
「じゃあ、これからもお願いしようかしら」
「え?」
「オーナー?」
レイまで驚いた顔をする。
「この子、皿洗いにしておくには勿体ないでしょう?」
老婦人は少し考えてから、楽しそうに続けた。
「そうねえ。料理長と支配人の間に入って、メニューや料理について意見を言う係でもやってもらいましょうか」
「そんな係、ありませんよ」
「今作ったの」
「オーナー……」
レイが額を押さえる。
一方セレスティアは、ぱっと表情を明るくした。
「つまり」
自分を指差す。
「好きなだけ料理に意見を言ってよろしいということ?」
「ええ、好きなだけ」
「素晴らしいですわ!」
「節度は守ってくれよ……」
はしゃぐセレスティアを見て、ため息混じりにレイが呟いた。しかし口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
◇
その日の営業が終わる頃。
セレスティアは食堂の隅に座り、今日の魚料理を口にしていた。
皮目は香ばしく、身はふっくらとしている。あの日のものとは、比べものにならない仕上がりだった。
「どうだ?」
向かいの席に、レイが腰を下ろす。
セレスティアはゆっくりと噛み締めてから、静かに飲み込んだ。
「……まだですわね」
「まだ駄目なのか」
「あと少し、火を弱くした方が……」
セレスティアはそこで言葉を止め、食堂を見渡した。
すでに客はいない。それでもテーブルには、今日一日の賑わいの名残が残っていた。
たくさんの人が料理を食べ、美味しいと言って、笑っていた。
「……ま、悪くありませんでしたわ」
「料理が?」
「今日が、です」
レイは一瞬驚いた顔をしてから、ふっと笑った。
「そうか」
「何ですの、その顔」
「いや。君でもそんなこと言うんだなと思って」
「失礼ですわね」
セレスティアは頬を膨らませたが、自分でも少しだけ可笑しくなって笑った。
前世では、その性格のせいで嫌われた。わがままと呼ばれ、悪女と呼ばれ、最後には処刑された。
けれどこの世界では、この厄介な舌が誰かの役に立つのかもしれない。そんな事実が、彼女の胸を優しくくすぐった。
セレスティアはもう一度、魚を口へ運んだ。
火入れはまだ完璧ではない。ソースだって、もっと良くできる。
なのに。
「……おかしいですわね」
「何が?」
「先ほどより、美味しい気がしますの」
レイは一瞬目を丸くして、それから笑った。
「気のせいじゃないか?」
「わたくしの舌を疑いますの?」
「じゃあ、何でだろうな」
セレスティアには、まだ分からなかった。
「ところで支配人」
「ん?」
「明日の朝食について、お話がありますの」
「……もう嫌な予感がする」
「パンを変えますわ」
「またか! とっくに予算オーバーだ!」
「昨日より美味しくするのですから当然でしょう?」
セレスティアは楽しそうに笑った。
味にうるさすぎて処刑された悪役令嬢は、現代の潰れかけホテルで、ついに自分のわがままが誰かを笑顔にする場所を見つけた。
けれど、彼女の理想にはまだまだ遠い。
「明日も忙しくなりますわよ!」
潰れかけホテルの再建は、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも「面白かった!」と思っていただけましたら、評価や感想をいただけますと、大変嬉しいです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




