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『作り直しなさい!』〜味にうるさすぎて処刑された悪役令嬢、現代の潰れかけホテルを料理で再建します〜

作者: うらねこ
掲載日:2026/09/29

「作り直しなさい」


 公爵令嬢セレスティア・ヴァレンヌは、今日も当然のように言い放った。


 銀の皿に盛られた仔牛のローストを一口だけ食べ、ナイフとフォークを静かに置く。その所作だけを見れば優雅そのものだったが、向かいに立つ料理長の顔はすでに引きつっていた。


「火が入りすぎていますわ。ソースも重いですし、これではせっかくのお肉の甘みが台無しです」


「……お嬢様。こちら、本日四皿目でございます」


「あら」


 セレスティアは少し考えてから、首を傾げた。


「でしたら、四度失敗したということですわね」


 広い食堂が、しんと静まり返った。


 給仕たちは揃って視線を落とし、壁際に控えていた侍女は小さくため息をつく。


 昔から、彼女には人より少しだけ味が分かりすぎた。誰も気に留めない焦げや、わずかな臭み、ほんの少しの火入れの違いまで、どうしても気になってしまう。


 周囲がどんなに「美味しい」と笑う料理を口にしても、彼女だけは満足できなかった。生まれてからずっと、一日三度の食事をするたびに、不満だけが積もっていった。


 最高の食材を使い、最高の腕で調理し、一番美味しい瞬間に客の前へ出す。それを徹底させているというのに。

 なのになぜ、満足のいく一皿が、ただの一度も目の前に現れないのか。


 幼い頃から独りきりの食卓。潤沢すぎる富。その上に積み上がった幾千もの苛立ちが、彼女を次第に暴君へと変えていった。


「それから付け合わせの芋も水っぽいですわ。昨日のものより質が落ちています。仕入れ先を変えましたの?」


「お嬢様!」


 とうとう料理長が声を荒らげた。


「皆、朝から休まず働いております!」


 セレスティアは吐き捨てるように言った。


「だから、何ですの?」


 その迫力に、料理長の顔から表情が消えた。


「……失礼いたします」


 深々と頭を下げた彼は、その日のうちに屋敷を辞めた。


 そんな出来事は、一度や二度ではなかった。


 料理人、侍女、菓子職人、仕立屋。セレスティアの要求に耐えきれず去っていく者は後を絶たず、いつしか彼女は王都でこう呼ばれるようになった。


 ――史上最悪のわがまま令嬢。


 そして十年後。


 セレスティアは、処刑台の上に立っていた。


◇


「セレスティア・ヴァレンヌ! 度重なる浪費、使用人への虐待、王太子妃候補としての品位を著しく欠いた振る舞い――」


 罪状がひとつずつ読み上げられるたび、広場を埋め尽くした群衆から歓声にも似た罵声が上がった。


「悪女!」


「わがまま令嬢!」


「地獄に落ちろ!」


 セレスティアは何も言わず、それらを聞いていた。


 宝石は買った。ドレスも何十着と作らせたし、料理を突き返した回数など、もはや本人にも分からない。


 確かに、褒められた人生ではなかったのかもしれない。


 それでも。


「最後に言い残すことはあるか」


 執行人に問われ、セレスティアはゆっくりと顔を上げた。


 見上げた空は、腹が立つほど青かった。こんな日に死ぬのか、と妙に他人事のように思いながら、彼女は小さく唇を開く。


「わたくしは、ただ……」


 ざわめいていた広場が静まった。


「私の理想の料理に、出会いたかっただけですのに……」


「は?」


 誰かが、ひどく間の抜けた声を上げた。


 その直後。


 刃が落ちた。


◇


「起きて!」


「――っ!?」


 耳元で怒鳴られ、セレスティアは勢いよく身体を起こした。


 反射的に首へ手を伸ばす。


「……首が、ありますわ」


「何寝ぼけてるの! 朝食の仕込み始まってるよ!」


 目の前にいたのは、見覚えのない少女だった。白いシャツに黒いエプロンを着け、髪を後ろでひとつに束ねている。


 それだけではない。


 部屋そのものが異常に狭かった。


 公爵家で使っていた衣装部屋よりもずっと小さく、簡素な寝台が二つ並んでいる。壁も家具も見たことのない造りで、どう見ても自分の屋敷ではない。


「……ここは、どこですの?」


「従業員寮」


「ジュウ……なに? 豚小屋ではなくて?」


「リサ、本当に大丈夫?」


 リサ。


 知らない名前だった。


 セレスティアは不安になり、壁際の鏡を覗き込む。


 そこに映っていたのは、十七歳ほどの見知らぬ少女だった。茶色い髪に丸い目、派手さはないが愛嬌のある顔立ちをしている。


「……誰ですの、この女」


「だからリサだってば!」


 少女の叫び声が、狭い部屋に響いた。


◇


 数時間後。


 セレスティアは、自分がまったく別の世界に生まれ変わったらしいことを理解した。


 今の名前はリサ。


 十七歳。


 地方にある小さなホテルで働く、住み込み従業員だという。


 そして仕事内容は。


「……わたくしが、皿を洗うんですの?」


「そこから説明必要?」


 厨房に山積みされた皿を前に、セレスティアは本気で絶望していた。


 前世では、皿というものは誰かが持ってきて、誰かが下げ、誰かが洗うものだった。自分の手で触れるのは、食事中くらいのものだったのだ。


「早くして! 次の皿来るよ!」


「お待ちなさい。今、人生について考えておりますの」


「考えながら洗って!」


 容赦なく追加の皿が置かれる。


 しかも皿洗いだけではなかった。


 床掃除に客室清掃、食堂の片付け、配膳。朝から晩まで次々と仕事を言いつけられ、セレスティアは半日もしないうちに理解した。


 これは処刑より酷いのではないか、と。


「リサ! 三番テーブルお願い!」


 昼時になると、今度は料理を載せた盆を押し付けられた。


「わたくしが運ぶんですの?」


「配膳係なんだから!」


「今日は皿洗いでは?」


「人手不足なの!」


 どうやらこのホテルでは、身分どころか担当業務すら守られないらしい。

 セレスティアはぶつぶつ文句を言いながら、食堂へ向かった。


◇


 ホテルは古かった。


 壁紙はところどころ色褪せ、木製の床も長年使い込まれている。それでも掃除だけは丁寧にされており、決して不潔ではなかった。


 ただし。


 客が、少ない。


 昼食時だというのに、食堂の席は半分以上空いていた。


「本日の魚料理です」


 三番テーブルに皿を置く。


 白身魚のソテーに、焦がしバターのソース。付け合わせは人参と芋。


 一見すれば、何の問題もない料理だった。


 客がナイフを入れると、ぱさり、と乾いた身が崩れた。


 その瞬間、セレスティアの眉が動いた。


 魚は焼きすぎている。身の水分が飛び、せっかくの脂も抜けてしまっている。


 バターは焦がしすぎで、香ばしさを通り越して苦そうだ。付け合わせの人参は柔らかすぎるし、ソースからは作り置き特有の鈍い匂いがする。


 ――ひどい。


 そう言いかけて、セレスティアはぐっと唇を噛んだ。


 今の自分は公爵令嬢ではない、ただの使用人だ。ここで口を出せば……どうなるかわからない。


(ここは我慢ですわ、わたくし……いつかここを抜け出す日までの、辛抱ですわ)


 そう自分に言い聞かせ、今まさに魚を口に運んでいた客に、背を向けて歩き出した。


 その時だった。



 客が投げ出すように呟いた。


「……まあ、こんなもんか」



 その瞬間。


 セレスティアの中の何かが、ぷつんと切れた。

 セレスティア……もとい、ホテルの使用人リサは、客の方へばっと振り返った。


「お待ちくださいませ」


「え?」


 客の皿をさっと持ち上げる。


「こちら、作り直しますわ」


「リサ!?」


 食堂の端から、同僚の悲鳴が飛んできた。


「いやいや、別にいいよ」


「よくありません」


 セレスティアは真顔で答えた。


「この魚は焼きすぎです。バターも焦がしすぎ。ソースは昨日の残りでしょう?」


 その瞬間。


 厨房の奥で、がたん、と大きな音がした。

 扉が開き、大柄な男が姿を現す。


 五十代ほどだろうか。太い腕に白いコックコートを纏ったその男は、見るからに料理長だった。


 そして、その額には見事な青筋が浮いている。


「……今、なんて言った?」


 低い声が響いた。


 同僚たちの顔色が一斉に悪くなる。

 けれどセレスティアは、全く怯むことなく、皿を料理長に差し出した。


「作り直してくださいませ」


「リサ! 謝って!」


「なぜ?」


「なぜって……!」


 料理長がずかずかと近づいてくる。


「お前、皿洗いだろ」


「ええ」


「料理の何が分かる」


 セレスティアは少し考えた。


「分かりますわよ?」


「は?」


「少なくとも、これが美味しくないということくらいは」


「お前なあ!」


 怒鳴り声が食堂いっぱいに響き、客たちが一斉にこちらを見る。

 さすがのセレスティアも、少しだけ声が大きかったかしらと思った。


「そこまで言うなら」


 料理長が腕を組む。


「何が悪いか言ってみろ」


「よろしいですわ」


 セレスティアは皿へ視線を落とした。


「まず火入れ。この厚みなら、あと一分半は早く上げるべきでした。バターは焦がしすぎです。香りを出したかったのでしょうけれど、これでは苦味の方が勝っています」


 料理長の表情がわずかに変わる。


 セレスティアは構わず続けた。


「ソースは昨日作ったものを温め直しましたわね?」


「……なぜ分かる」


「香りが死んでいますもの。人参も茹ですぎですし、芋は水分を含みすぎています」


 当然、怒鳴り返してくるかと思った。

 けれど料理長は、しばらく黙って皿を見つめた。


「……魚は今朝入ったばかりのものだ」


「あら」


 セレスティアは目を見開いた。


「でしたら、なおさら勿体ないですわ」


 食堂が静まり返った。

 やがて料理長が、低く息を吐く。


「……作り直す」


「料理長!?」


「ただし」


 男はセレスティアを睨んだ。


「お前、厨房に来い」


「嫌ですわ。暑そうですもの」


「来い」


「わたくし、汗をかくのは好きでは――」


「来い!」


「無礼ですわよ!」


 首根っこを掴まれ、そのまま厨房へ引きずり込まれる。


「離しなさい! 前世でしたら極刑ですわよ!」


「意味分からんこと言うな!」


 食堂にいた客の何人かが、思わず吹き出した。


◇


 二十分後。


 新しく作り直された魚料理が、三番テーブルへ運ばれた。


 皮目はパリッと香ばしく。

 けれど火入れは前より浅く、身は旨味を閉じ込めたままふわりと仕上がっている。


 白身魚には、淡いクリーム色のソースがかかっていた。

 バターのまろやかなコクに、白ワインとビネガーの穏やかな酸味。そこへレモンの爽やかな香りが重なり、香ばしく焼かれた白身魚を軽やかに引き立てている。


 客が魚にナイフを当てる。皮目のパリッとした層を抜けると、新雪のようにふわりと身が解けた。切り分けた断面には、じゅわっと上品で透明な脂が滲んだ。

 その断面に、クリーム色のソースがとろりと流れてくる。


 客はごくり、と喉を鳴らした。

 そして、切り分けた魚をフォークに刺して口に運んだ。


「あ」


 小さな声だった。


 それでも、料理長も同僚たちも、全員がその顔を見た。


「……美味しい」


 たった一言。


 けれど料理長は、ほんの少しだけ目を伏せた。

 セレスティアだけが腕を組み、不満そうな顔をしている。


「火加減がまだまだですわね」


「まだ言うのかよ!」


「ま、先ほどよりは、多少ましになりましたわね」


「多少……」


「理想には程遠いですわよ、料理長」


 セレスティアはそう言いながら、改めて厨房を見回した。


 古い鍋、使い込まれた調理台。

 乾きかけた香草に、作り置きの脂ぎったソース。


 そして厨房の向こうには、空席の目立つ食堂がある。


 けれど。


 食材そのものは悪くない。それどころか、季節外れの食材まで当たり前のように手に入り、火加減を細かく調整できる魔法のような調理器具まで揃っている。

 前世の料理人たちが見れば卒倒しそうな環境に、セレスティアは密かに胸を躍らせていた。


それに、料理長の腕も、決して低くない。むしろ、少し手を入れただけでこれだけ変わるのだから、腕そのものはかなりのものだ。


 ただ、長い間客が来ないうちに、少しずつ手を抜くことに慣れてしまっただけなのだろう。


「……もしかして」


 セレスティアはぽつりと呟いた。


「このホテルなら……あと何年か作り直させれば……」


 すると、同僚が目を丸くした。


「リサ、何言ってるの。うち、もうすぐ潰れるよ」


「え?」


「半年もつかどうかって」


 潰れる。

 その言葉に、セレスティアは眉を寄せた。


 ここがなくなれば、この厨房もなくなる。


 つまりは、料理長もいなくなり、自分が理想の料理を追求する場所もなくなるということだ。


「それは困りますわ!」


 思わず大声を上げた、その時だった。


「何が困るんだ?」


 低く落ち着いた声が、厨房の入口から聞こえた。


 全員が振り返る。

 そこには、ひとりの青年が立っていた。


 黒いスーツを着た長身の男。少し長めの黒髪に、切れ長の目。整った顔立ちをしているが、その目元には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「支配人」


 料理長が呟く。


 青年は厨房を見回し、最後にセレスティアへ視線を止めた。


「何の騒ぎだ」


「レイさん、この子が……」


 料理長が説明しようとしたが、セレスティアが先に一歩前へ出た。


「レイさん? あなたが、このホテルの責任者ですの?」


「そうだが」


「でしたら話が早いですわ」


 セレスティアは堂々と彼を指差した。


「このホテル、料理から全部やり直しますわよ」


 厨房が凍りつく。

 レイは数秒黙ったあと、眉を寄せた。


「……誰だ、君は」


「ヴァレンヌ公爵家第一令嬢セレスティ……いえ、ええと……リサですわ」


「それは知っている」


「あら」


「聞いているのは、なぜ昨日まで皿を洗っていた君が、ホテルの再建に口を出しているのかということだ」


 もっともな疑問だった。

 だがセレスティアは胸を張る。


「わたくし、味にはうるさいんですの」


「理由になっていない」


「このホテルを立て直したいのでしょう?」


 レイが黙った。

 その一瞬で、セレスティアには十分だった。


「図星ですわね」


「……随分偉そうだな」


「よく言われますわ」


「だろうな」


 レイは疲れたように額を押さえた。


「それで。君に何ができる」


「不味いものが分かりますわ」


「……それだけ?」


「そして……」


 セレスティアは、自信を湛えた笑みを浮かべて言った。


「本当に美味しいものが分かります」


「……だから、それでホテルが立て直せるなんて……」


 そう言いかけて、レイはふと、どこか遠くを見て言葉を止めた。

 セレスティアがその視線の先を辿ると、そこは食堂の三番テーブル……セレスティアが料理を作り直したテーブルがあった。 


 その皿は、ほとんど空になっていた。そして何より……その男性客の顔が、料理を一口食べるごとに、子供のようにほころんでいた。


「……あの料理、君が作ったのか?」


「まさか」


 セレスティアは心外そうな顔をする。


「このわたくしが、厨房に立つわけがありませんでしょう」


「じゃあ何をした」


「作り直させましたわ、この料理長に」


 料理長が横から低い声で付け加えた。


「……言われた通りにやったら、確かに良くなった」


 レイの目が少し細くなる。

 その時、三番テーブルの客が、給仕に声を掛けた。


「今日の魚、美味しかったよ。明日もある?」


 支配人の動きが止まった。

 セレスティアも、その言葉を聞き逃さなかった。


 その直後、ほんの一瞬……。

 二人の視線がバチリと重なった。


「……一週間だ」


 レイが言った。


「はい?」


「一週間だけ、君のやり方を試す」


 セレスティアの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですの?」


「ただし、好き勝手していいという意味じゃない。仕入れも予算も、料理長と相談すること。それから――」


「細かいですわね」


「まだ何も言ってないだろ」


「一週間あれば十分ですわ」


 セレスティアはそう言って、空席ばかりの食堂を見渡した。古びた壁に、傷のある椅子。昼時だというのに半分以上の席が空いており、給仕たちは手持ち無沙汰に立っている。


 前世の自分なら、きっと見向きもしなかった場所だ。


 それなのに、今は不思議と胸が高鳴っていた。


「一週間後」


 セレスティアはレイへ向き直り、胸を張る。


「この食堂、満席にして差し上げますわ」


「随分大きく出たな」


「あら。できないとお思い?」


「無謀だな」


「では、見ていらっしゃいませ」


 セレスティアはにっこり笑った。


「わたくし、料理に関しては、絶対に妥協いたしませんの」


◇


 その日から、厨房に地獄が訪れた。


「作り直しですわ!」


「またかよ!」


「魚の火が入りすぎです!」


「三十秒だぞ!?」


「その三十秒が問題なのです!」


 翌朝には卵料理に駄目出しし、二日目にはパンの仕入れ先を見直し、三日目には朝食の品数を減らすと言い出した。


「メニューを減らすのか?」


 料理長が怪訝な顔をする。


「ええ。誰が四十種類もの“そこそこ”を食べたいと言いましたの?」


「……」


「十種類で十分です。その代わり、全部美味しくなさい」


 いつものように言い切ったセレスティアだったが、その日の昼、初めて厨房の中で最初から最後まで料理を見届けることになった。


「魚二皿!」


「スープ三つ上がります!」


「四番、付け合わせ変更!」


「パン足りないぞ!」


 怒鳴り声に近い掛け声が、狭い厨房を飛び交う。


 料理長は片手で魚の焼き加減を確かめながら、別の鍋を覗き、若い料理人へ指示を出していた。横では皿が次々に並べられ、その向こうでは別の注文がすでに火にかかっている。


「そちらの魚、もう上げた方が――」


「分かってる!」


「ですが、あと十秒で――」


「今こっちのソース見てんだよ!」


 言い返そうとして、セレスティアは口を閉じた。


 料理長の額には汗が浮かんでいる。


 それでも手は止まらない。


 一皿が完成する頃には、次の三皿が待っている。その三皿を仕上げている間にも、新しい注文が入ってくる。


 前世のセレスティアが見ていたのは、いつだって完成した一皿だけだった。


 温められた皿に、美しく盛りつけられ、自分の前へ運ばれてきた料理。


 それが出来上がるまでに、厨房で何が起きているのかなど、考えたこともなかった。


「……」


「何だ?」


 急に静かになったセレスティアを、料理長が訝しげに見る。


「……随分と、お忙しいのですわね」


 料理長の手が一瞬止まった。


「今さら気づいたのかよ」


「わたくしの屋敷では、料理は時間になれば出てきましたもの」


「勝手に生えてきてたわけじゃねえぞ」


「それくらい分かっていますわ!」


 思わず言い返したものの、声にはいつもの勢いがなかった。


 セレスティアはもう一度、厨房を見渡す。


 確かに、料理長の火入れは甘い。ソースにも改善の余地がある。


 けれど。


 ただ「もっと丁寧に作れ」と言えば済む話ではないらしい。


「……料理長」


「あ?」


「先ほどのソースですが」


「また文句か」


「いいえ」


 セレスティアは少し考えてから言った。


「一皿ごとに一から作る必要はありませんわ。土台になる部分まではまとめて仕込んで、最後の香りだけ注文が入ってから整えればよろしいでしょう」


 料理長が目を瞬かせた。


「それなら、味も落ちませんし、あなた方も少しは楽になるのではなくて?」


「……」


「何ですの」


「いや」


 料理長は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「やっと厨房のことも考えるようになったなと思って」


「失礼ですわね。わたくしは最初から最高の料理のことしか考えておりません」


「それを世間じゃ考えてないって言うんだよ」


「なんですって?」


 いつもの調子で睨み返しながらも、セレスティアはそれ以上反論しなかった。


 その日から、彼女の要求は少しだけ変わった。


 ただ「作り直しなさい」と命じるのではなく、どうすれば味を落とさず、厨房を回せるのかまで考えるようになったのだ。


 魚の仕入れ先は変えず、その日の状態を見て調理法を変える。朝食は品数を減らした代わりに、焼きたてのパンと卵料理に力を入れ、作り置きのソースもすべて捨てるのではなく、仕込み方そのものを見直した。


 高価な食材を増やすのではなく、今あるものを、一番美味しく食べられる形へ。


 セレスティアは相変わらず細かく、相変わらず偉そうだった。

 けれど前世とは違い、その言葉の先にいる料理人たちのことも、ほんの少しだけ見るようになっていた。


 それでもセレスティア自身が包丁を握ることは、一度もなかった。


「そこまで分かるなら、自分で作ればいいだろ」


 四日目の夜、料理長が呆れたように言う。


「嫌ですわ」


「何でだ。もどかしくねえのか」


 セレスティアはふいと顔を背けた。


「わたくしは公爵令嬢ですもの。厨房に立つなど――」


「いや、お前皿洗いだろ」


「お黙りなさい!」


 料理長がじっと見る。


「……で、本当は?」


 セレスティアの頬が、わずかに引きつった。


 前世で一度も厨房に入ったことがないわけではない。

 むしろ、理想の料理を自分で作れないものかと、夜中にこっそり厨房へ忍び込んだことは、数え切れないほどにあった。


 そしてそのたびに。


 卵は床に落とし、鍋は焦がし、包丁で指を切り、挙げ句の果てにはスープをひっくり返した。


「……向いていませんの」


「は?」


「ですから! わたくしは料理を作る才能だけは、少々……ほんの少々、欠けていますの!」


 料理長は数秒黙ったあと、腹を抱えて笑い出した。


「笑うんじゃありませんわ!」


「いや、だってお前……あれだけ偉そうに!」


「味が分かることと作れることは別問題でしょう!」


「じゃあ、お前は一生、人に作らせるつもりか?」


「ええ。それに、私が作ると、愛着が生まれてしまいますわ」


 セレスティアは胸を張った。


「愛着?」


「愛着は舌を鈍らせます」


 セレスティアの目が遠くを見つめる。


「わたくしが求めているのは、ただ美味しいだけの料理ではありません」


「それは、世界中の誰が見ても美しく、世界中の誰が食べても至高と呼ぶ……」


 その目には、あまりに自分勝手で、しかし切実な彼女の夢が映っていた。


「そんな完璧な、一皿ですわ」


 料理長はしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく笑った。


「本当に面倒な女だな」


「褒め言葉として受け取っておきますわ」


 図らずとも、その独りよがりな夢は……。

 古びた料理人のプライドにも、火をつけた。


◇


 五日目になると、最初に魚料理を食べた客が友人を連れてやってきた。


「この前の魚、あれ美味かったんだよ」


 六日目には、近所の客も増え始めた。どうやら誰かがインターネットというものに、このホテルの料理について書いたらしい。


『古いホテルだけど、料理が急に美味しくなった』


『白身魚のランチがおすすめ』


『朝食のパンが美味しい』


 セレスティアには、その仕組みがよく分からなかった。


「口コミ……?」


「まあ、噂話みたいなものだ」


 支配人にそう説明され、セレスティアは納得したように頷いた。


「ああ。社交界と同じですのね」


「たぶん全然違う」


◇


 そして、一週間後。


「二名様、お待たせしました!」


「三番テーブル、魚料理二つ!」


「パン追加お願い!」


「予約のお客様がお待ちです!」


 食堂には、朝から従業員たちの声が飛び交っていた。


 皿を持った給仕が忙しく行き来し、厨房からは次々に料理が運ばれてくる。ほんの一週間前まで空席ばかりだった店内に、今は空いている席が一つもなかった。


「……」


 食堂の入口で、支配人のレイが呆然と立ち尽くしている。


 その隣で、セレスティアは満足そうに腕を組んだ。


「どうです?」


「……満席だな」


「ええ」


「本当に一週間で」


「ですから、申し上げたでしょう?」


 セレスティアは得意げに顎を上げた。


「わたくし、料理に関しては絶対に妥協いたしませんの」


「その自信はどこから来るんだ……」


 レイは呆れながらも、どこか嬉しそうだった。


 その時。


「随分、賑やかになったねえ」


 背後から穏やかな声がした。


 振り返ると、小柄な老婦人が立っていた。上品なジャケットを羽織り、白髪を綺麗にまとめたその姿には、どこか品がある。


 レイの背筋が伸びた。


「オーナー」


「あら」


 セレスティアが目を瞬かせる。


「この方が?」


「ああ。このホテルの持ち主だ」


 老婦人はセレスティアを頭の先から足元までじっくり眺めると、楽しそうに笑った。


「あなたがリサちゃんね」


「わたくしをご存じで?」


「もちろん。支配人から電話をもらってね。“とんでもない従業員が現れた”って」


「ちょっと」


 レイが眉を寄せる。


「だって本当じゃない」


 オーナーはころころと笑いながら、満席の食堂へ目を向けた。


 客たちは楽しそうに料理を食べている。皿は次々と空になり、あちこちのテーブルから笑い声が聞こえてきた。


「この食堂ね」


 オーナーが静かに言う。


「昔は毎日、こんな感じだったのよ」


 レイの表情が少しだけ曇った。


「……すみません」


「責めてるんじゃないわ」


 老婦人は首を横に振った。


「また見られるとは思ってなかっただけ」


 そう言ってから、セレスティアを見る。


「ありがとう」


 セレスティアは、思わず黙り込んだ。


 前世では、料理を作り直させれば嫌な顔をされた。美味しくないと言えば、わがままだと陰口を叩かれた。


 ありがとう、などと言われた記憶はほとんどない。


「別に」


 セレスティアは少しだけ顔を背けた。


「わたくしが美味しいものを食べたかっただけですわ」


「あら」


 老婦人が微笑む。


「じゃあ、これからもお願いしようかしら」


「え?」


「オーナー?」


 レイまで驚いた顔をする。


「この子、皿洗いにしておくには勿体ないでしょう?」


 老婦人は少し考えてから、楽しそうに続けた。


「そうねえ。料理長と支配人の間に入って、メニューや料理について意見を言う係でもやってもらいましょうか」


「そんな係、ありませんよ」


「今作ったの」


「オーナー……」


 レイが額を押さえる。

 一方セレスティアは、ぱっと表情を明るくした。


「つまり」


 自分を指差す。


「好きなだけ料理に意見を言ってよろしいということ?」


「ええ、好きなだけ」


「素晴らしいですわ!」


「節度は守ってくれよ……」


 はしゃぐセレスティアを見て、ため息混じりにレイが呟いた。しかし口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。


◇


 その日の営業が終わる頃。


 セレスティアは食堂の隅に座り、今日の魚料理を口にしていた。


 皮目は香ばしく、身はふっくらとしている。あの日のものとは、比べものにならない仕上がりだった。


「どうだ?」


 向かいの席に、レイが腰を下ろす。


 セレスティアはゆっくりと噛み締めてから、静かに飲み込んだ。


「……まだですわね」


「まだ駄目なのか」


「あと少し、火を弱くした方が……」


 セレスティアはそこで言葉を止め、食堂を見渡した。


 すでに客はいない。それでもテーブルには、今日一日の賑わいの名残が残っていた。


 たくさんの人が料理を食べ、美味しいと言って、笑っていた。


「……ま、悪くありませんでしたわ」


「料理が?」


「今日が、です」


 レイは一瞬驚いた顔をしてから、ふっと笑った。


「そうか」


「何ですの、その顔」


「いや。君でもそんなこと言うんだなと思って」


「失礼ですわね」


 セレスティアは頬を膨らませたが、自分でも少しだけ可笑しくなって笑った。


 前世では、その性格のせいで嫌われた。わがままと呼ばれ、悪女と呼ばれ、最後には処刑された。

 けれどこの世界では、この厄介な舌が誰かの役に立つのかもしれない。そんな事実が、彼女の胸を優しくくすぐった。


 セレスティアはもう一度、魚を口へ運んだ。


 火入れはまだ完璧ではない。ソースだって、もっと良くできる。


 なのに。


「……おかしいですわね」


「何が?」


「先ほどより、美味しい気がしますの」


 レイは一瞬目を丸くして、それから笑った。


「気のせいじゃないか?」


「わたくしの舌を疑いますの?」 


「じゃあ、何でだろうな」


 セレスティアには、まだ分からなかった。


「ところで支配人」


「ん?」


「明日の朝食について、お話がありますの」


「……もう嫌な予感がする」


「パンを変えますわ」


「またか! とっくに予算オーバーだ!」


「昨日より美味しくするのですから当然でしょう?」


 セレスティアは楽しそうに笑った。


 味にうるさすぎて処刑された悪役令嬢は、現代の潰れかけホテルで、ついに自分のわがままが誰かを笑顔にする場所を見つけた。


 けれど、彼女の理想にはまだまだ遠い。


「明日も忙しくなりますわよ!」


 潰れかけホテルの再建は、まだ始まったばかりだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


少しでも「面白かった!」と思っていただけましたら、評価や感想をいただけますと、大変嬉しいです。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
彼女の望みはきっと、美味しい料理を「味わいたい」のではなく「作りたい」のだろう。そして、目指すべきは「至高」ではなく「至福」の一皿。 彼女が現代のホスピタリティーを身に付けた時、第2の地獄(じんせい…
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