世界を救う前に、まず腹を救え!~異世界食品衛生管理【入門】~
条文とにらめっこし続け、少々疲れました。
というわけで、暑い時期でもありますので、気分転換と注意喚起を兼ねて、勇者パーティの食中毒のお話です。
食品衛生の、入り口のさらに入り口くらいのお話ですが、何か一つでも覚えて帰っていただければ幸いです。
ご要望があれば、いつか真面目に扱います。
今回は腹痛までです。
地獄にクマがいた。
いや、おっさんだ。
訂正する。
クマより怖い顔をしたおっさんだった。
……もう駄目だ。
俺たちの旅も、ここまでらしい。
魔王は倒せなかった。
世界も救えなかった。
最後は森の中で、腹痛に屈するか、クマみたいなおっさんにとどめを刺されるか。
勇者の最期として、どちらもあまりに締まらない。
腹痛とおっさん。
どちらが先に俺を楽にしてくれるだろう。
そんなことを、わりと真剣に考えていた。
「勇者……」
戦士が木の根元で腹を抱えていた。
顔色は土より悪い。
「俺……先に行くかもしれん……」
「どこにだ……」
「分からん……明るい方へ……」
「行くな……」
「お前との旅……楽しかった……」
「遺言を残すな……」
俺も似たようなものだった。
腹が痛い。
息をするだけで、腹の奥が締め上げられる。
聖剣は手の届く場所に転がっていたが、拾う気力もない。
魔王を討つための聖剣も、腹痛には何の役にも立たなかった。
世界を救う力があっても、腹の中までは救えないらしい。
「勇者様……」
聖女が、聖女のしてはいけない顔をしていた。
王都で信徒へ向けていた慈愛の微笑みは、もうない。
今あるのは、脂汗と、半分閉じた目と、地面を掻く指だけだった。
口も少し開いている。
信徒には見せられない。
神にも、たぶん見せられない。
魔法使いは、少し離れた木の影にいた。
「誰も……こっちを見ないで……」
見ない。
というより、見る余裕がない。
何が起きているかを想像する余裕もない。
たぶん、想像しない方がいい。
その時、おっさんが動いた。
俺たちを助けるのか。
それとも、苦しまないように一息で仕留めるのか。
正直、どちらでもいい気がしてきた。
おっさんは戦士の前へしゃがみ込んだ。
「な、なんだ……」
戦士が顔を上げる。
おっさんは答えない。
目元は深い影に隠れ、何を考えているのかまるで分からなかった。
腰の袋から、小瓶を一本取り出す。
中には、濁った緑色の液体が入っていた。
毒だ。
直感的にそう思った。
「待て……」
俺は止めようとした。
だが、おっさんは戦士の顎を掴んだ。
「お、おい……」
戦士の口が強制的に開かれる。
そのまま小瓶の中身が流し込まれた。
「んぐっ!?」
戦士の喉が鳴る。
次の瞬間。
戦士は白目を剥いて倒れた。
死んだ。
そう思った。
いや、思わせる倒れ方だった。
「戦士ぃぃぃ!」
「チッ、うっせぇーな。死んでねぇよ」
叫んだ俺に、緑色のスライムが答えた。
おっさんの肩に乗っていた奴だ。
「喋った!?」
「今そこかよ」
「いや、戦士が白目を!」
「薬が苦くて落ちただけだ」
「中途半端に生々しいんだよ!」
もっとこう、光になって消えるとか、魂が抜けるとか、分かりやすい演出があるだろう。
白目を剥いて、喉を鳴らして、びくりと倒れる。
現実的すぎて怖い。
おっさんは戦士の脈を確かめ、毛布を掛けた。
その肩から、スライムが滑り落ちる。
「ちょい失礼」
「やめろ、戦士を食べるんじゃない!」
「誰がこんな筋張ったの食うんだよ。触診だ。騒ぐな」
「は?」
スライムは戦士の腹へ乗ると、身体を薄く広げた。
ぷに。
ぷに。
場所を変えながら、柔らかな身体で腹を押していく。
「ああぁ、戦士ぃ……」
「だから食ってねぇって」
スライムが戦士の右脇腹を押した。
眠っていた戦士の身体が、びくりと跳ねる。
「反応あり。まだ生きてる」
「確認の仕方が怖い!」
生きていることは分かった。
診察していることも、たぶん分かった。
だが、見た目だけならスライムが戦士を溶かし始めたようにしか見えない。
おっさんは、その間に薬草と小瓶を取り出していた。
診察はスライム。
薬はおっさん。
そういう役割分担らしい。
顔は怖いが、手つきだけは丁寧だった。
「勇者様……」
聖女が震える手で杖を持ち上げた。
「戦士を……助けないと……」
「待て。今ヒール使うな」
スライムが止める。
「私は……聖女です……」
「知ってるよ。だから杖を下ろせって」
聖女の目に、使命感らしきものが戻った。
他の部分は全部限界だった。
「《ハイ・ヒール》……!」
「人の話を聞け!」
白い光が広がった。
俺たちの身体を包む。
一瞬だけ、腹痛が引く。
「助かっ――」
腹の中で、何かが跳ねた。
「――――ッッッ!」
声が出なかった。
戦士は眠ったまま、びくりと身体を跳ねさせた。
茂みの奥から、魔法使いの悲鳴が上がる。
「何したのよぉぉぉ!」
聖女は杖を落とし、その場へ崩れた。
聖女のしてはいけない顔が、さらにしてはいけない顔になっている。
「神よ……」
地面へ額をつける。
「お願いですから……今は見ないでください……」
神へ救いを求める声を届ける職業の人間が、神へ視線を逸らすよう頼んでいた。
歴代の聖女に、こんな祈りを捧げた者がいるのだろうか。
いたとしても、絶対に記録には残っていない。
「だから止めろって言っただろ」
スライムは淡々としていた。
「紅牙猪の肉には、よく火を通せば死ぬ腹虫がいることがある」
「腹虫……?」
「身体とは別の生き物だ。回復魔法じゃ取り除けねぇ」
一拍置く。
「身体と一緒に、腹虫まで元気になったんだろうな」
森が静かになった。
「……は?」
俺は聞き返した。
「俺たちの腹の中に?」
「たぶんな」
「回復魔法で?」
「元気になった可能性は高い。体内にいる別の生き物まで、回復魔法は見分けられねぇから」
聖女がゆっくり顔を上げた。
泣いていた。
「私……腹虫を……」
「一緒に回復させたんだろうな」
「言わないでください……」
「二度目やられる方が困るんだよ」
正しかった。
正しいが、今の聖女にはかなり酷だった。
聖女は杖を遠くへ投げた。
今の彼女には、それが正しい判断だった。
おっさんが立ち上がる。
今度は茂みへ向かった。
「え」
魔法使いの声が止まる。
「ちょっと待って」
おっさんは止まらない。
「来ないで」
止まらない。
「お願いだから来ないで!」
「診察だ」
スライムが答えた。
「無理!」
「状態を見なきゃ薬も決められねぇ」
「おっさんもスライムも嫌!」
「アタシはメスだよ。元だけど」
「……元?」
「細けぇ話はあと。診せな」
「嫌!」
「乙女には尊厳というものがあるの!」
「命よりか?」
返事が止まった。
本気で考えているらしい。
俺は腹を押さえながら待った。
魔法使いは、王宮付きの賢者からも一目置かれる天才だ。
複雑な術式を一目で読み解き、戦場では常に最善手を選ぶ。
そんな彼女なら、命と尊厳を冷静に比較できるはずだった。
「尊厳を守って死ぬ!」
できなかった。
スライムが小さく舌打ちする。
「しゃーねぇな。おい、聖女。手ぇ貸せ」
「わ、私が……?」
「女同士の方が安心だろ」
聖女は腹を押さえたまま、茂みを見た。
次に、少し離れた場所へ投げた自分の杖を見る。
杖を拾うか。
魔法使いを助けるか。
しばらく悩んだ末に、杖は諦めた。
「……分かりました」
「聖女様!?」
「大丈夫です」
聖女は、聖女のしてはいけない顔のまま立ち上がった。
足元はかなり危うい。
それでも、一歩ずつ茂みへ向かう。
「私も一緒にいますから」
「でも、あのおっさんも来るでしょう!?」
「おっさんは薬作るだけだよ」
スライムがおっさんの肩から飛び降りた。
「ほら。あっち向いてな」
おっさんは無言で背を向けた。
そのまま腰の袋を開き、薬草と小瓶を並べ始める。
「本当に背を向けた……」
「必要なことは聖女から伝えてもらう。これで文句ねぇな」
「……ない」
「じゃ、腹の力抜け」
「それができたら苦労しないわよ!」
茂みの奥から、二人の切羽詰まった声が続く。
俺は黙って空を見上げた。
今は何も聞かない方がいい。
男には分からない戦いもある。
たぶん。
しばらくして、聖女が茂みから戻ってきた。
足取りは、行く前よりさらに危うい。
「どうだった……?」
「聞かないでください……」
「分かった……」
聖女は、そのまま地面へ倒れ込んだ。
茂みの奥から、魔法使いの声が聞こえる。
「……ありがとう、聖女様」
小さな声だった。
聖女は地面に伏したまま、片手だけを上げた。
「どういたしまして……」
おっさんは何事もなかったように、調合した薬を茂みの前へ置く。
魔法使いの手だけが伸びてきて、小瓶を受け取った。
「先に言っとくけど、クソ苦いぞ」
スライムが言った。
「言い方!」
「戦士で学んだからな」
「それなら少しずつ――」
茂みの奥から、声にならない悲鳴が上がった。
薬は、少しずつ飲んでも死ぬほど苦いらしい。
おっさんは俺と聖女にも薬を差し出した。
拒否する余裕はなかった。
正直、もう限界だった。
意を決して、小瓶の中身を口へ流し込む。
苦い。
死ぬほど苦い。
苦いという言葉だけでは足りない。
口へ入れたことを、身体のすべてが後悔している。
なるほど。
戦士は薬で眠ったのではない。
苦さから逃げたのだ。
俺の意識も、急速に遠のいていく。
「安心しな。起きたら原因を確認すっから」
スライムの声が聞こえた。
先に言ってほしかった。
そう思ったところで、俺の意識は途切れた。
* * *
目が覚めた。
腹はまだ少し痛む。
だが、さっきまでの地獄に比べれば天国だった。
「……生きてる」
「残念ながらな」
隣では戦士が毛布に包まれていた。
顔色は悪いが、もう話せる程度には回復している。
「苦かったな」
「苦かった」
「あれ、薬だったのか」
「薬なんだろ」
俺たちの感想は、それだけだった。
腹が治れば、男の尊厳などだいたい元に戻る。
少し離れた場所では、聖女が木の根元で膝を抱えていた。
「大丈夫か?」
声を掛けると、ゆっくりこちらを向いた。
「神様に……」
一拍。
「今日は見ないでください、と言ってしまいました……」
「そこを気にしてるのか」
「聖女ですよ、私……」
確かに。
聖女としては、寄生虫を元気にしたことより重大らしい。
「きっと神様も忙しかったんだ」
「そうでしょうか……」
「たぶん」
「そうだと……いいのですが……」
かなり引きずっている。
その隣では、魔法使いが毛布にくるまっていた。
おっさんを見る目は、少しだけ険しい。
ただし、先ほどほどではない。
「大丈夫か?」
「身体はね」
「それ以外は?」
魔法使いは聖女を見る。
「聖女様に救われたわ」
「私は何も……」
「色々よ」
聖女は察したらしい。
膝を抱えたまま、小さく頷いた。
「神様にも黙っておきます……」
「絶対よ」
「善処します……」
「絶対」
「神様に隠し事を求めないでください……」
聖女の悩みが一つ増えた。
おっさんは、何事もなかったように焚き火の前へ座っていた。
相変わらず顔が怖い。
肩のスライムだけが、いつも通りだった。
「全員起きたな。じゃ、原因確認すっぞ」
「あの薬は何だったんだ?」
「腹虫を弱らせる薬」
聖女の肩が小さく震えた。
「元気にしてしまった腹虫を……」
「今は神様の方を気にしてたんじゃないのか」
「どちらも忘れたいです……」
「はいはい。反省はあと」
おっさんが昨夜の残り肉を持ち上げた。
無言で裂く。
中は赤かった。
見事に赤かった。
「焼いたか?」
「焼いた」
戦士が答える。
「中まで?」
「……たぶん」
「生焼け。そりゃ意味ねぇよ」
戦士は静かに俯いた。
次に、おっさんは短剣を持ち上げた。
「洗ったか?」
「洗った」
今度は俺が答えた。
「沢の水で」
「洗えてねぇよ」
「そんな一刀両断する?」
「肉切ったあと、刃物は変えたか?」
「そのまま野菜を切った」
「つけてんな」
「何を?」
「いろいろ」
聞かない方がよさそうだった。
前世の俺なら、生肉を切った刃物で野菜を切るなと知っていた。
知っていたはずだ。
回復魔法がある。
解毒魔法もある。
聖女もいる。
多少の失敗は何とかなる。
そうやって前世の常識を一つずつ雑に捨てた結果が、今だった。
腹が痛い。
反省は、かなり深かった。
おっさんは鍋の蓋を開けた。
作った煮込みが残っている。
「この暑さで、放置したか?」
「したわ。少しだけど」
魔法使いが毛布の中から答えた。
「置くと美味しくなるから」
スライムが少しだけ間を置く。
「対価は、さっきの尊厳だったな」
「それとこれを結びつけないで!」
魔法使いが毛布から顔を出した。
元気になってきたらしい。
「つまり」
俺は並べられた肉と短剣と鍋を見た。
「全部、駄目だったのか」
「そういうこと」
スライムは短く答えた。
「いいか。覚えるのは三つだけだ」
おっさんが短剣を指さす。
「つけない」
次に鍋。
「増やさない」
最後に肉。
「やっつける」
「以上」
戦士が首を傾げた。
「詳しい説明は?」
「元気な時に聞け。今のあんたらにゃ入らねぇよ」
全員で頷いた。
今日は聞きたくない。
というより、これ以上は頭に入らない。
おっさんは鍋へ新しい水を入れ、火に掛けた。
しばらくすると、薄いスープが出来上がる。
「食べていいのか?」
「おっさんが作ったんだ。大丈夫だよ」
戦士が恐る恐る口をつける。
俺たちは、しばらく見守った。
「……うまい」
何も起こらない。
俺も一口飲んだ。
薄い。
でも、身体に染みる。
少なくとも、腹の中で何かが喜んで跳ねる気配はなかった。
「料理もできるのか」
おっさんは答えない。
「やっぱり腹話術じゃない?」
魔法使いが言った。
「違ぇよ」
スライムが即答する。
「証明して」
おっさんは黙ってスープを飲んだ。
「ほら」
「証明になってない」
「おっさんは喋れる」
「じゃあ喋って」
おっさんは黙っていた。
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
誰も何も言わない。
戦士が小さく呟いた。
「俺、この人が喋ったら、それはそれで怖い」
「それは分かる」
誰も反論しなかった。
たぶん、全員同じことを考えていた。
* * *
翌朝。
目が覚めると、おっさんもスライムもいなかった。
焚き火は片付けられ、鍋も消えている。
「帰ったのか」
「ええ」
魔法使いは、すでに起きていた。
毛布にくるまったまま、手には小瓶と紙を持っている。
「それは?」
「薬」
小瓶を軽く振る。
「出発前に起こされて、飲み方を聞いたわ」
「ちゃんと説明してくれたのか」
「一日三回。水と一緒に。症状が治まっても、決められた分は最後まで飲む」
「ずいぶん真面目に聞いたな」
「私が一番ひどかったそうだから」
魔法使いは、もう一本の小瓶を聖女へ差し出した。
「聖女様の分も預かっておいたわ」
「ありがとうございます……」
「昨日のお礼よ」
聖女は小瓶を受け取り、少しだけ微笑んだ。
ようやく、聖女がしてもいい顔に戻っていた。
魔法使いは紙を広げる。
不器用な字で、薬の飲み方が書かれていた。
その一番下に、大きく一行。
肉は中まで焼け。
「戦士」
「分かってる」
戦士は深く頷いた。
聖女も杖を抱えたまま、静かに呟く。
「回復魔法も、使いどころを考えます……」
「神様の方は?」
「まだ謝っています……」
そちらは、しばらくかかりそうだった。
俺は聖剣を拾い上げた。
魔王を倒す。
世界を救う。
その旅は、まだ続く。
ただし。
次から肉は、中まで焼く。
勇者としての誓いより、今はそちらの方が切実だった。
食中毒には気をつけましょう




