第3話:チーズケーキとレモンティー
バスの程よい揺れが眠気を誘う。昨日、自転車が壊れてしまったので今朝はいつもより早起きをしてバスで登校する羽目になった。
しかしここまで眠いのは早起きだけのせいじゃない。昨日は色々ありすぎて、なかなか寝付けなかったのだ。
……ちなみに。
昨晩妹の部屋で眠ったらしいあの金髪女はというと、
「手ごろな物件を探してこようと思う」
朝一でそんなことを言い出してどこかへ出て行った。
一晩でえらく彼女に懐いた妹がべそをかいたのは言うまでもないが、
「決まったら挨拶をしにまた来る」
と、妙に律儀なところを見せて妹をなだめていた。
――しかしあいつ、住むとこ探すっていっても金とか持ってるのか?
そんな素朴な疑問を浮かべていると、高校近くのバス停が近づいてきたので俺は慌てて降車ボタンを押した。
バスを使ったせいでいつもよりも30分近くも早く学校に辿り着いてしまった。
うちの学校は一応進学校ということもあってか運動部の朝練が基本ない。この時間だと人とすれ違うこともなかった。
校舎に入っても人気がなく、しんとした澄んだ空気が廊下に染み渡っている。
こう言うと少し大げさだが、まるで世界にひとりだけになった気分だ。
たまにはこういうのも悪くはない、なんてことを思いながら教室の戸を開けると、意外にも、先客がいた。
黒くつややかな髪に、青いリボンが微かに揺れる。
学校指定の、臙脂色のカーディガンを羽織ったその少女は、コスモスを生けた花瓶を、まさに教室後ろの棚に置こうとしているところだった。
こちらを振り返った少女と目が合う。
「あ……」
目が合ってしまったからにはせめて挨拶ぐらいはしたほうがいいんじゃないかと頭は思っているのだが、口がうまく動きそうにない。
彼女の、その涼しげな、凛とした顔立ちを見ると、なんとなく身構えてしまうのだ。
ほんの数秒、そんな微妙な間が続いた後、軽く彼女が会釈した。恐らく挨拶のつもりなのだろう。
俺も慌てて会釈する。それでようやく、喉の硬直がほどけた気がした。
「それ、五十嵐が持ってきてたんだ」
俺が女子に話しかけることは滅多にない。この一言は話しかけた、というより感嘆、独り言に近いものだった。
うちのクラスの棚にはなぜか毎日違う季節の花が飾られているのだが、てっきりそれは担任の先生が趣味で置いてるんだとばかり思っていたのだ。
「…………」
彼女は口では答えず、ただ軽く頷いた後、自分の席に戻っていった。
――う……。
思わず心の中で唸ってしまう。
会話が成立しなかった気恥ずかしさもあるのだが、他の生徒がいない教室で彼女と2人きり、という空気がまず耐えられない。
さらに、俺の席は彼女の席のすぐ隣なのだ。
普段なら俺はもっと遅くに登校するから、周りにクラスメイトが沢山いて気にもならなかったのだが、この状況はさすがに息が詰まる。
その点で言うならば、俺の中で彼女という存在は、他の生徒と一線を画していた。
いや、俺にとって特別という言い方は妥当ではないだろう。他のクラスメイトにとっても彼女はそういう存在なのだ。
五十嵐揚羽。
彼女を一言で表すならば、とにかく『寡黙』。
友人の中には陰で彼女のことを『沈黙の女王』と呼ぶ者すらいる。
いや、ただ寡黙な生徒は他にもいる。皆に彼女を特別だと思わせる要因は、おそらくあのオーラだ。
どこか歳不相応な威厳を感じさせる孤高の空気。先生ですら彼女に一目置いている節がある。
加えて容姿端麗、という点も彼女の格調を高める一要因となっていることは間違いない。
……とまあこんなところでいつまでもぼけっと突っ立っているわけにもいかず、俺はしぶしぶ席につく。
彼女はというとこちらには目も振らず古典の教科書を黙読している。この様子なら俺も気にせず英語の予習が出来そうだ。
そう思って鞄から教科書を取り出そうとしたその時。
「瀬川君」
隣からそんな声が投げかけられた。
16年間慣れ親しんだ自分の苗字なのに、この時ばかりは全く聞きなれない言葉に聞こえた。
「え!?」
意識せずとも大げさに振り返ってしまった。
これは流石に失礼だったのでは、と一瞬後悔が頭をよぎったが、彼女は顔色ひとつ変えないまま
「……首、どうかしたの?」
ただ、そう問いかけてきた。
「首?」
なんのことか即座には思い至らなかったが、首に手を回して気が付いた。
昨日、あいつに噛まれたところだ。
「あ、ああ、ええと、噛まれたんだ! い、妹に!」
……すまん綾。流石に得体の知れない金髪女に噛まれたとは言えないし。
「……そう」
それで納得してくれたのかは非常に怪しいところだが、彼女はそう呟いてまた手元の教科書に視線を戻した。
「…………」
しかし驚いた。彼女に話しかけられることなんて一生ないと思ってた。
……なんか今日も変な1日になりそうな予感がする。
ホームルームを知らせるチャイムから少し遅れて、担任の三上先生が教室に入ってきた。彼女はうちの学年の教師陣の中でも時間には厳しいタイプなのでこういうことは珍しい。
恐らく何かあったんだろうと思ったら、案の定
「最近流行ってる病気のことは皆もう知ってるわよね? 他のクラスにももう何人か休んでる子がいるんだけど、うちのクラスの中林君もかかっちゃったみたいで、今朝お母様から連絡がありました」
と、心底心配そうな表情を浮かべながら彼女はそう告げた。
途端周りがざわめきだす。
『最近流行っている病気』。これが流行りだしたのはつい2週間ほど前だったと記憶しているが、今では新聞の一面を飾るほど大きな問題となっていた。
インフルエンザとか、そういうものではないらしく、原因不明でそこがまた厄介なんだとか。これといった症状もないのだが、意識のない状態が長いこと続くらしい。
原因不明なだけあって、治療法もまだ確立されておらず、不治の病かと思えば、ふと回復する人もいるらしい。
「感染症ではないと国が発表しているから大丈夫だとは思うんだけど、皆気をつけてね」
どう気をつけるのかという疑問は誰しもが抱いたことだろう。が、先生も他に言えることがなかったのだろうと察することは容易だったので誰もそんなことは言わなかった。
放課後になる。俺は何の部活にも所属していないのでそそくさと荷物をまとめて帰る準備をしていると
「さーつきちゃーん」
わざと某アニメ映画のワンシーンを真似たように声をかけてきた奴がいた。
「なんだよ小柴」
あえてそのノリにはのらずにそっけなく返す。
「ちぇっ、相変わらずつれないねえ」
コミカルに口を尖らせつつそう抗議したのは、高1にしては長身で、男らしい顔つきの男子。クラスメイトの小柴だった。
このクラスで最初に口をきいたのが彼だったので、他の奴よりかはなんとなく深い付き合いにある友人だ。
「今日暇? 塾ない日だよな? 遊びに行かね?」
とめどなく質問をたたみかけてくる小柴。彼はどっちかというとお調子者の部類に入る。たまにはしゃぎすぎて先生に怒られたりもしているが、なぜか成績は俺より良い。
「ちょい待て。今日はお前が塾の日だろ。ちゃんと記憶してるぞ」
俺がそう返すと
「そんなん覚えなくていいのに。最近だるくてさ、行っても居眠るだけだし。それなら久々に五月ちゃんとランデブーしたいな〜みたいな?」
小柴は屈託のない笑顔でそう言った。そういえば最近こいつと遊んでなかった気がする。小柴も帰宅部のはずだが、その社交的な性格からか顔が広いので他にも友人は沢山いるはずだった。今こうして声を掛けてくれているのは彼なりの気遣いなのだろう。
そういう気遣いはとてもありがたい。ありがたい、が。
「男同士でランデブーはごめんだ。俺も我慢して塾に行ったんだ。お前も月謝を無駄にするな」
塾をさぼらせてまで付き合ってもらうのは気が引けたので俺は諭すように彼の肩に手を置いてそう言った。
「うわー、最近つめたいわー五月ちゃん。女でも出来た?」
「そんなわけないだろ」
そう言いながら溜め息をついた。
高校生にもなれば彼女の1人くらい出来るものかと期待していたがそんなものは愚かで儚い夢物語だったのだと最近悟ったところだ。
……いや、夢物語といえばまさしく夢物語的な出来事をつい昨夜体験したような気もするが。
「溜め息つくなよ。そのうち来るって、モテ期」
そんなに深刻そうな溜め息に見えたのか小柴にそんなことを言われてしまった。
「お前こそちゃんと塾行けよな。じゃ」
俺はそう言い残して教室を後にした。
特段寄り道もせず帰宅する。
「ただいまー」
返事がない。いつもならパートに出ている母さんの代わりに大抵リビングにいる妹が返事をしてくれるのだが。
「?」
2階がやけに騒がしい。妹が部屋に友達でも連れ込んでいるのだろうか、とも思ったが、2階に上がるとその予想ははずれだったとすぐに気付かされた。
妹はなぜか俺の部屋の机を陣取っていて
「あ、お兄ちゃんおかえりー」
「今帰りか」
今朝出て行ったばかりの奴が、その傍らに当然のように立っていた。
「……なんで?」
俺が呆然と突っ立っていると
「あのねー、算数の宿題やろうと思ったんだけどね、難しくて分からなかったからお兄ちゃんの部屋の算数の本取りに来たの。そしたら窓からお姉ちゃんが入ってきたの!」
妹は嬉しそうに語った。
……綾よ、嬉しそうで何よりだが、それ不法侵入だし。
「もう住むとこ見つかったのか?」
呆れつつも俺が尋ねると
「ああ、いや、一応不動産屋に行ってみたんだがな。この世界の貨幣のことをすっかり失念していてな」
彼女は「ははは」と苦笑交じりにそう言った。
半ば予想していたことではあったが、溜め息が出る。
「流石に金は渡せないぞ。うちだってそんなに裕福じゃないからな」
俺がそう念を押すと
「む、そこまで私は図々しくないぞ。とりあえず働き口でも見つけようかと思っているところだ」
意外とまともな返事が返ってきた。が。
「そこでまあ相談なんだが、その働き口が見つかるまでここに置いてくれないかな、と」
……やっぱり図々しいよ、あんた。
「ずーっとうちにいればいいよ!」
綾は無邪気にそう言う。
「お兄ちゃん聞いてよ! お姉ちゃんすごいんだよ! わかんなかった算数の問題、さらっと解いちゃったの! 教え方も分かりやすいし!」
妹の目が輝いている。こりゃあ完全に篭絡されてるぞ。
ていうか
「あんた算数なんて分かるのか?」
ふと素朴な疑問が浮かんだ。そりゃまあ、小学2年生の問題といえど、この人にとっちゃなんていうか別次元の問題っぽいんだけど……?
「当然だ。私がお前達とこうして普通に会話できているのも私がこの地上界における全ての言語を知識として得ているからであってだな、つまるところ大抵のことは理解できる」
胸を張って彼女はそう主張した。
妹はそんな彼女を「すごいねー」と敬意のこもった眼差しで見つめているが、俺はというと
――じゃあなんで物を買うのに金がいるという社会の基本ルールを失念してるんだ。
という突っ込みを入れたくなった。
「それで? まだお前の返事を聞いていないぞ、サツキ。私を置いてくれるのか置いてくれないのか?」
俺に向き直って彼女は問う。
「いや、そもそもあんた、いつまでこっちにいるつもりなんだ? 昨日の話やさっきの話を聞いてるとどっか違うとこから来たんだろ?」
俺が問い返すと彼女はしばし考え込んだ。
「いつまで、と言われるとそれは私にも分からないな。今回起こっている問題を片付ければ帰ることになるだろうが……いかんせんこの状況ではな……」
煮え切らない返事が返ってくる。が、慌てて彼女は付け足した。
「ああ、しかし心配は要らないぞ。ティンクチャーに食事は基本不要なのでな、私が欲しいのは寝床だけだ。迷惑は極力かけないよう努力する」
……既になんとなく迷惑を被っている気がする、というのはあえて言わないでおいた。
「ねえお兄ちゃん、いいでしょ? 泊めてあげようよー」
綾がじっと見つめてくる。
「…………」
まあ、なんだ。昼間はどっかに出てってもらって、夜は昨日みたいに大人しくしててくれれば問題はない気もする……かな。
「仕事が見つかるまでだぞ」
俺がそう言うと、彼女は綻ぶような笑顔を見せた。
「感謝する。私は良い人間と出会ったようだ」
不意打ちの笑顔に、思わず鼓動が高鳴る。
……その顔でその褒め言葉は、なんていうか、ずるい。
「あ、お兄ちゃん赤くなってるー」
綾が余計なことを言う。
「う、うるさい! お前らいつまでも俺の部屋に入り浸るな!」
俺は火照った顔を隠すように2人を強引に部屋の外に追い出した。
日も落ちたころ母さんがパートから帰ってきて、すぐに夕食をとったのだが、この日母さんは勤め先のスーパーで売れ残りそうになったケーキを少し多めに買い取ってきていた。デザートとして1つずつ食べ終わった後
「残りはどうする? 明日の朝食べる?」
という母さんの問いに
「あ、あのね! もう1個食べていい? 上でお兄ちゃんと食べるから!」
妹が俺に目配せしながらそう答えた。
恐らくあいつにやるつもりなんだろう。
「あらそう? どれがいい?」
母さんは少し首を傾げながらも止めはしなかった。
妹はチーズケーキを選んでそそくさと階段を登っていく。俺もやれやれとついていった。
チーズケーキを目の前に出された彼女は、明らかに目を輝かせていた。
「お姉ちゃん、チーズケーキ食べれる?」
少し不安げに妹は尋ねたが
「大好物だ!」
なぜか鬼気迫る勢いで彼女は叫んだ。
「よかったー。私たちもう食べたからこれ全部あげるね」
「いいのか!? すまないなあ、迷惑は掛けないと言った矢先に……」
しみじみと感動したように彼女はそう言う。
「あんた食事は要らないって言ってたけど、もの自体は食べられるのか?」
俺が尋ねると
「勿論だ。人間のように生命活動維持のための食事は必要ないだけで趣味嗜好としての食事はする」
そして
「サツキ、チーズケーキを完璧たらしめるためには何が必要か分かるか?」
なぜか妙に熱い視線をよこしながら彼女は俺にそう尋ねた。
「知らねえよ」
呆れつつそう返すと彼女は勇ましげに立ち上がり、拳を握ってこう言った。
「午後の紅茶レモンティーだ!!」
……知るか。
「午後の紅茶じゃないと駄目なの?」
綾は純粋に首を傾げながら問う。
「チーズケーキにはかのレモンティーが最も私の舌に合うのだということを私は3年前確信したのだ!」
何を熱弁してるんだこいつは。
「言っとくけどうちには午後ティーなんてないぞ。どうしても欲しいなら買って来い」
俺は適当にそう言ったのだが
「うむ、買ってくる!」
彼女はそう言ってベランダのほうに歩き出した。
「っておい、本気かよ! あんた金持ってないんじゃなかったのかよ!?」
俺が呼び止めると、はた、と足を止めて彼女はこちらに向き直った。
「……サツキ、おごってくれ。……1本で我慢するから」
……。
……迷惑は極力かけないようにするって言ったのはどこの誰だ。
プロローグになかなか追いつけませんあべかわです(汗)。
この話自体最終的にどの程度の長さになるのかもあまり見当をつけていないので(←え)気長に読んで下さるとありがたいです(といってもそこまで長くはならないと思うのですが)。
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。