第33話:やきもちと姉妹喧嘩
午後7時。
もうすぐ夕飯の時間だというのに、彼は帰ってこない。
「……何をやっとるんだ、あいつは」
オーアはひとりでにそう呟いて、彼の部屋に入り込んだ。
机の上には開かれたままの英語のノートが置かれている。
(……遅れた分の勉強、教えてやるつもりだったのに)
なぜか溜め息をついてしまった、その時。
ガタリ、と。
「!?」
背後の、ベランダのほうで音がして彼女は振り返った。
すると、少年を肩に担ぐ形でアージェントが部屋に入ってきた。
「アージェント!? お前、なにを……」
ぐったりとして、意識のない様子の彼を見て思わずオーアが声を荒げると、アージェントは鬱陶しそうに眉をひそめて
「手は出していない。こいつが勝手に倒れただけだ」
そう言って、少年をベッドに降ろした。
彼が着ているジャージは泥だらけだった。
外傷は、そこまでひどくはなさそうだが、肌が露出している部分から微かに擦り傷、打ち身が伺える。
「勝手にって……一体何をしてたんだ、お前達」
オーアがアージェントに問うと
「修行だ。言っておくがこいつから私に頼んできたんだぞ。私はそれに応えただけだ」
彼女はそう言った。
「……修行?」
オーアは間の抜けた声を上げた。
運動を苦手そうにしていた彼が、朝から晩まで、ずっとそんなことをしていたのかと思うと彼女は驚かざるを得なかった。
と、いうより。
「……どうしてお前に頼むんだ。サツキの武器は私の剣。剣は私の分野だぞ」
今は気を失っている少年に対してなのか、それともアージェントに対してなのか、オーアはそんな恨み言を漏らした。
するとアージェントは一層眉をひそめて
「お前の教え方は昔から生ぬるい。生徒を甘やかすとろくなことにならん」
そんなことを言った。
そんな言葉に、オーアも表情を曇らせる。
「誰が、いつ甘やかした? 私が剣を教えた妖精たちは皆優秀な剣士になったと聞いているぞ」
アージェントはそんな彼女を鼻で笑う。
「確かに腕を買われて軍の上層にまで登り詰めたらしいが? どいつもこいつも情に流されて大事なところで判断を鈍らせると聞いているぞ」
教え子を、いや、自分の教育を否定されてオーアは思わず言い返した。
「そう言うお前の生徒はどいつもこいつも堅物ばかりで融通がきかないと聞いたことがあるぞ!」
するとアージェントも声を荒げて言い返す。
「軍人たるもの、常に鉄の精神を持ち合わせておかなければ駄目なんだ!」
「それ以前に柔軟な頭のほうが大事だ!」
2人はじりじりとにらみ合う。
ここまで激しく言い合いをするのは数年ぶりだということも、すっかり忘れてしまっていた。
アージェントは言う。
「大体貴様は昔からだな、無駄に生徒のウケを狙って生ぬるく指導するから生徒に言い寄られたりするんだ」
随分と昔の話を掘り起こされてオーアは思わず顔を赤くする。
名の知れた【金属色】のティンクチャーの元には、他の世界からもまれに武術の指導を請いに来る者たちがいる。
基本、境界は地上界にしか干渉しないので、他の4世界からすれば利害関係で争うことのない中立の世界にあたるという位置づけゆえの話だ。
教えを請いに来るのは天界に住む妖精、魔界に住む魔界人などなど。
その大半が、軍人の親に勧められるがままにちょっとした『留学』気分でやって来る幼い少年少女たちなのだが。
以前オーアは、魔界から剣を学びに来ていた魔族の少年に告白、もとい求婚されたことがあった。
……まあ、その相手も当然、年端もいかないような――言ってしまえば幼稚園児ほどの少年だったのだが。
「い、いつの話だ! それにちゃんとあしらっただろうが!!」
「私にしてみればそのあしらいかたもまだまだ生ぬるくて見ていられなかったがな。何が『もう少し大きくなったら考えてやろう』、だ」
アージェントの冷ややかな笑いを恨めしげに睨みながら
「他に言い方が見つからなかったんだ! というかどうしてこんな話になってるんだ、関係ないだろ!!」
オーアが喚くと、アージェントは微かに眉を上げて呟いた。
「……関係ない? 3年前の件も似たようなことが発端だったはずだが」
その言葉に、オーアは苦虫を噛み潰したようにぐっと黙り込んだ。
アージェントはふとベッドの上の五月に視線を落とし、低い声でこぼした。
「……こいつも似たようなことにならなければいいんだがな」
それを聞いたオーアは即座に反論した。
「言っただろう、サツキはトオルとは違う!」
あまりに反射的で力の篭ったその反抗に、アージェントは一瞬ひるんだが、すぐに言い返した。
「違う違うと言ったところでこいつがアクティブブレイクを起こしたという事実は変わらないんだぞ? 分かっているのかお前は」
「……ッ、分かっている! だがお前の言い草も……」
2人の言い合いが、加速していったその時。
「……なあ、その、アクティブブレイクって、なんなんだ?」
少年の、か細い声が割って入った。
気が付けば、俺はベッドに横になっているようだった。
アージェントにしごかれて、地面に倒れふして、その後の記憶がないみたいだ。
身体が全く動かない。
筋肉痛を通り越して筋肉が固まってしまっているようだ。
……それにしても、さっきから周りがうるさいなあと思ったら、隣でオーアとアージェントが何やら言い合いをしていた。
「違う違うと言ったところでこいつがアクティブブレイクを起こしたという事実は変わらないんだぞ? 分かっているのかお前は」
アージェントのその言葉に、俺は引っかかった。
……あの、白い男もそんなことを言っていた。
「……なあ、その、アクティブブレイクって、なんなんだ?」
思わず、俺はそう声をかけた。
すると2人はぴたりと口論をやめて、こちらを見た。
「サツキ、大丈夫か?」
オーアがしゃがみこんで、俺の顔を覗く。
「……ふん、たかがあれくらいの修行で気絶するようでは、お前の器も知れている」
アージェントの痛い言葉も降ってきた。
「アージェント! お前の教え方は昔から厳しすぎると言っただろう!」
またそんな口論が始まりそうだったので、俺はオーアの手に自分のそれを伸ばして止めた。
「……なあ、教えてくれよ。アクティブブレイクって、なに?」
俺の問いに、オーアは言葉を詰まらせたように見えた。
すると、代わりにアージェントが口を開いた。
「シェルブレイクの一種だ。一般的なシェルブレイクはネイチャーによる外部からの攻撃によって起こるものだが、アクティブブレイクはその人間自らが殻を破って力を得る」
……シェルブレイクの、一種。
ああ、あの時の、胸の中の蓋が外れたような感覚はそれだったのか。
「あえて言っておくぞ。ユイサキもアクティブブレイクを起こしてああなった。境界の長老達はアクティブブレイクを危険視している。起こした者を見つけたら、即始末するよう指令も出ている」
アージェントの言葉に、俺は息を呑んだ。
始末するように指令が出ている、ということよりも、あの、結崎と同じ状況に自分があったのかと考えると、妙に気分が悪くなった。
「……アージェント……!」
オーアが彼女を睨んだ。
「本人に隠してどうする。無知は罪だ。教えなかったほうにも罰が下る」
アージェントの言うことはもっともだ。
俺は知るべきだ。自分のことを。
すると、今度はオーアが口を開いた。
「シェルブレイクに関しては、詳しいことは分かっていないが、恐らく人間の理性の殻が崩壊して、本能的なもの、ネイチャーが暴走する現象だと境界は考えている。つまりアクティブブレイクもその一種だと思っていたんだが……お前のは、それとは違うように見えた」
彼女の言葉に、首を傾げたくなった。
「……どういう、意味だ?」
彼女は言う。
「お前の殻は崩壊してからも、理性と本能が拮抗していたように見えた。殻が理性ならばそんなことはありえない」
……そういえば、そんな気もした。
あいつを殺せという声と、殺すなという声が俺の中で争っていたように思う。
不信そうに話を聞いていたアージェントが口を挟んだ。
「だったら殻はなんなんだ。ユイサキの件はどう説明する?」
オーアは答えに窮するように、黙り込んだ。
彼女にも、本当のことは分かっていないのだろう。
けど。
「……ちょっと、安心した」
俺がそう漏らすと、オーアは微かに首をかしげた。
そんな仕草を。
そんな彼女を守りたいと思った。
だから。
「……俺は、あいつみたいには、ならない」
俺がそう言うと、オーアは不意を突かれたように目を丸くした後、
「……ああ」
そう言って、笑ってくれた。
「…………」
アージェントはそんな俺たちを見てから、ふいに背中を向け、ベランダのほうへ出ようとした。
「アージェント」
思わずその背中に声をかける。
「今日は朝からありがとな。……この調子だと、明日は動けないかもしれないけど……」
今日のお礼を言うと、彼女は
「明日はせいぜい身体を休めろ。それが課題だ」
そう言い残して、出て行った。
しばらく沈黙が続いた後
「……サツキ。どうしてよりにもよってアージェントに修行を頼んだんだ。私に言えばまだ、身体に負担をかけない教え方が出来たのに」
オーアがそんなことを言ってきた。
昨日のことは、彼女には秘密だから言えない。
それに、なんていうか。
彼女を守るために強くなりたいと思っているわけだから、それを本人に言うのは流石に憚られる。
だから
「……なんだよ、妬いてるのか?」
そんな風に、誤魔化してしまった。
すると、意外にも彼女は顔を赤くして
「な、そ、そんなわけないだろう!」
慌てたように、そう言った。
「だ、だいたいな、お前は私の生徒なんだ! 他の教師につくなど言語道断だッ!」
そうまくし立てる彼女を見て、
「なんだよそれ。結局生徒を取られて妬いてたんじゃないか」
つい笑ってしまった。
オーアは年下にいいようにあしらわれているのが気に食わないのか、ふくれっ面をかまし始めたが
「……ふん。まあ私の授業を放り出した理由が修行だったのがまだ救いか」
ふとそんなことを漏らした。
「? なんだと思ってたんだよ」
思わずそう尋ねると、彼女は
「アヤたちが、お前が朝からアゲハとデートしに行ったんじゃないかと憶測していた」
そんなことを言った。
俺は思わず目を丸くして、
「そんなわけあるか!」
この場にいない2人に突っ込みを入れた。
――ていうか五十嵐に失礼だ、それは。
俺がそう叫ぶと、オーアは微かに笑みを浮かべた。
「……そんなわけ、ないか」
なぜか彼女は俺の言葉を、安堵したように反芻した。
「?」
そんな彼女の素振りに疑問を浮かべたのもつかの間
「ご飯よー」
下の階から、母さんの声が聞こえてきた。
「……やべ、どうしよう。こんな身体じゃ動けねえよ」
俺がそう漏らすと
「仕方ないな。アヤに適当に理由をつけてもらって、食事をここに運んでもらおう」
オーアはそう言って、部屋を出て行った。
一際静かな縁側。
庭の木々たちも眠ったようにそよがない。
霞んだ空にぼんやりと浮かぶ月を見上げて、彼女は溜め息をついた。
すると
「何物思いに耽ってんだ?」
お盆に茶を乗せて、廊下をシアンが歩いてきた。
彼は彼女の隣に腰を降ろすと、湯飲みに入った茶を彼女の傍らに差し出した。
「気が利くじゃない」
揚羽はそうこぼして、茶を手に取る。
ひと口、口に含んで
「……味もまずまずだわ」
珍しく褒め言葉を贈る。シアンは苦笑して
「ここに来てから随分しごかれたからなあ」
そう言いながら、自分も茶をすすった。
一息ついて
「悪いな、アゲハ」
彼はそうこぼした。
「何よ、いきなり」
突然の謝罪に彼女は首をかしげる。
「こっちに来てから大分経つのに、なんの手がかりもつかめないままで悪いなって言ってるんだよ。……親父さん、どうだった?」
シアンがそう尋ねると、彼女は微かに俯いた。
今日、彼女の父親が入院している病院に行った際、主治医から聞いた話を振り返る。
「もう3年になるから、やっぱり身体が弱ってきているみたいよ。……でも最近の医療技術は進んでいるらしいから、あのまま死ぬことはないでしょう」
「……そうか」
シアンはそれだけ言って、また茶をすすった。
そんな時。
「邪魔するぞ」
突然、庭先に人影が現れて、2人は反射的に身構えた。
が
「……なんだ、ミリオンハーグか」
現れたその人物を【白銀】のティンクチャーと認めると、2人はほどなく警戒を解いた。
が、アージェントのほうは気を緩めない。
「ダーザイン、お前にひとつ聞きたいことがある」
厳しい表情のまま、彼女は言った。
「……お前が一番親しくしていたエルダーを、地上で見かけなかったか」
1話で話があまり進まないせいでタイトルつけるのが毎回本当に苦痛です(笑)。でも一応あとで見返そうとしたときに何話がどんな話だったかというのを分かりやすくするためにサブタイトルをつけるようにしているのですが……いらぬお世話だったらすみません(汗)。
……実は昨日になってからオーアとアージェントの会話を修正したんですが(修正前はもうちょっと真面目な喧嘩だった)、アージェントはアージェントでやいてるんですオーアの八方美人さに(笑)。
ということでダブルやきもちでした。(いつもあとがき長くてすみません)
いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます!