第29話:本心
「!?」
俺は慌てて声がしたほうを見た。
公園の入り口に、夜の闇を背負ったような漆黒の男が現れる。
「……ブラック……」
オーアはそう漏らした。
濡れたような漆黒の髪、血のような赤い双眸。
見たものを凍らせてしまいそうな美顔。
……デパートの屋上で、オーアと話していた男だ。
「やはりお前は落ちぶれたな、ホーテンハーグ。昨日、あのガキを殺そうと思えば出来ただろうに……。いや、お前はあいつを助けようとしただろう」
男は容赦なく彼女を責めた。
「ひどい契約違反だ。しかも人間ごときのエネルギーを取り込んで生きながらえるとは」
男の鋭い眼光が俺を貫く。
黒い力を感じる。
ネイチャーのそれとはまた違う。
もっと純粋で、貪欲で、鋭いもの。
彼の本質が、そういうものなのだろう。
……彼は、悪魔なのだから。
「お前がそれ以上落ちぶれたら魂の質も落ちる。その前に奪いにきたぞ」
男がオーアに向かって歩き出した。
俺はとっさにオーアの前に出る。
が、彼女は諦めたように言う。
「……サツキ、もういい。あいつにも借りがあるんだ。本当なら3年前、私は死んでいたんだから」
……そんなことは分かってる。
彼女とチャージしたとき、3年前の記憶も流れ込んできたんだ。
羽根を捥がれたあと、彼女をその場から救ったのもこの黒い悪魔だ。
そしてその後、境界の病室で死に掛けていた彼女に契約を持ちかけて、魂が抜け出ないよう、特殊な糸で身体に縫い付けたのも彼だ。
『お前が目的を果たしたとき、もしくは契約を破ったとき、俺がお前の魂をいただく』
男はそう言っていた。
オーアの言葉を聞いた彼は、妙に優しげな笑みを浮かべた。
「今日はやけに聞き分けがいいじゃないか。……まあいい。俺とてあのガキほど性格は歪んでいないからな、抵抗されるよりかは大人しくされていたほうが奪いやすくて良い」
「……!」
俺はとっさに奴に殴りかかる。
が、
「……本当に貴様は邪魔だな」
男は苛立たしげにそう漏らし、手から黒い糸を放った。
「!?」
途端、身体に糸が巻きついて、身動きがとれなくなった。
無様に地面に転がる。
「サツキ!」
オーアが悲鳴を上げたが、その瞬間に奴はオーアの顎を掴んだ。
「そう喚くな。目障りなガキだが、殺しはしないさ。ことが終わるまでああしてもらって、邪魔されないようにするだけだ」
男は勝ち誇った眼で俺を見る。
「……ッ!」
俺は歯を食いしばってもがくが、一向に糸は緩まない。
一方、オーアは抵抗を見せない。
駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ!
せっかく、助けられたのに。
なんで。
なんで、なんで!
「なんで諦めてるんだよ!!」
俺は必死に叫ぶ。
「お前が俺に言ったんだろうが! 他の奴より自分のほうが大事なのは当然だって!!」
つい昨日、彼女が言ってくれた言葉。
それで、少しは救われたのに。
「嘘だったのかよ!? お前、ずっと嘘つく気か!?」
ずっと自分を偽って、飾って。
本心を誰にも言おうとしない。
本心が、醜くたっていいじゃないか。
濁ってたって、いいじゃないか。
あいつが背負ってる【黄金】の名が重いのはもう重々分かってる。
けど。
「死にたくないなら死にたくないって言えよ!! 誰かに助けてって言ったらいいだろ、馬鹿オーア!!」
少年の叫びに、彼女の心は揺れる。
――嘘。
そう、オーア・ホーテンハーグはいつも嘘をついてきた。
境界にクリムロワがやってきた日も。
厄介な出自のせいであからさまに白い目で見られていた彼女を進んでかばったのはいいが、本当は他のティンクチャーから自分の陰口まで言われるのではないかとやきもきしていた。
しかし、そんな臆病なところを悟られないように、少女の前では常に立派な姉として振舞った。
誰に言われるまでもなく、彼女自身がそう振舞うべきだと勝手に自分に言い聞かせていた。
それが、客観的に見て正しいことだと思ったから。
【黄金】は常に正しくあるべきだと。
そんな刷り込みがいつの間にかなされていた。
いつもそうだ。
周りが自分に望むことを立派に果たそうとすることだけに必死になる。
自分の意思なんて関係ない。
まるで見えない糸に操られる人形だった。
息苦しかった。
辛かった。
だから地上界に降りたとき、言い知れぬ解放感を感じた。
そこには彼女を縛るものなんてなかったから。
けれどあんなことが起こって、彼女は全てを失った。
地上界でせっかく出来たと思った友人も。
一族が築き上げてきた大事な名声も。
最高位のティンクチャーとして持っていた微かな誇りでさえ。
彼女は、自分を偽り続けた罰が当たったんだと思うことにした。
そう思わないとやっていけなかった。
最大限に努力してきたつもりだった。
たとえ自分の本心を押し殺してでも、【黄金】としては立派に振舞ってきたつもりだった。
それなのに。
それなのに。
『馬鹿らしい! 人間ごときに翼を奪われただと? 口に出しただけでもおぞましい!』
『彼女には失望しましたわ。大方、人間に心を許しすぎたのではなくて? 一歩間違えば規則違反。ああ恥ずかしい! 恥を知るべきですわ!』
『まだしぶとく生きながらえているらしいな。いっそ死んでしまったほうがいいんじゃないか? そのほうがまだ偉大なる双翼の名を汚さずにすむ』
『手遅れだよ、君。ホーテンハーグの名は既に汚れた。ああ、嘆かわしい』
『権威にしがみつくつもりだな。強欲な女だ』
白い病室の外から聞こえてくる雑音。
それまで親しくしていた者たちの声まで聞こえる。
微かだが彼女を哀れむ者の声も混ざっていたが、ほとんどすべてといっていいティンクチャーが、彼女に死ねと言っていた。
悔しくて。
痛くて。痛くて。痛くて。
心が痛いのか、身体が痛いのか、もう分からなくなって。
いっそ死んでしまおうかと思ったが、ここで死んだら一体自分の生は何だったのだろうと悔やまれた。
彼女は憎んだ。
結崎徹も。
他のティンクチャーも。
自分を創った神でさえ。
痛みに喚いて、やがて声が枯れてしまったとき、彼女の前に残ったのは悪魔だけだった。
そのとき彼女は全てを諦めかけていた。
けれど、まだ生きられると聞いて、彼女は思わずその手をとってしまった。
もし生きながらえるのなら。
この憎しみを、転落のきっかけになった彼にぶつけよう。
そうじゃないと死に切れない。
叶うのならば、もうこんなしがらみからは解放された生を。
自分の意思で生きられる生を。
彼女はそう望んで、再び蘇った。
……けれど、実際はあまり変われなかった。
他のティンクチャーの目に怯えて、隠れるようにして過ごした3年間。
妹分に、やはりきれいごとしか教えられない自分。
……こんなはずじゃない。
こんなはずじゃなかった。
まだ彼との決着も着けていない。
まだ自分は自由じゃない。
本当はもっと。
もっと……
「……生きたいんだ……!」
彼女は初めて、胸の奥底にしまっていた本心を吐露した。
大粒の涙が頬を零れ落ちる。
厚かましいとか醜いとか、そんなことはもうどうでもいい。
生きていて何が悪い、と。
ただ、胸を張りたかったのだ。
オーアが、ようやく言った。
やっと言ってくれた。
なら、早く助けないと、と。
俺の心は急かすが、身体が言うことを聞かない。
悔しさに歯噛みしたとき、俺は悪魔の異変に気がついた。
「……ッ」
悶えるように、自身の頭を押さえ始める男。
オーアはその隙にとっさに男から離れた。
すると。
「……ち、時間切れか。お前にもようやく運が巡ってきたようだぞ、ホーテンハーグ」
男は負け惜しみのようにそう呟いて、崩れるように、がくんと倒れた。
瞬間、俺を拘束していた黒い糸がほどける。
「……なん、だ?」
一瞬の出来事に驚きながらも、俺はその場にしゃがみこんでしまったオーアに駆け寄る。
「大丈夫か!?」
オーアはただ頷いて、俺の服の裾を握った。
嗚咽がこぼれている。
まるで、子供みたいな泣き顔だった。
自分がしてしまったいけない悪戯を、誰かにやっと告白できたときのような顔。
けど、何が罪になるんだろう。
こいつは、生きていていいはずだ。
しばらくそのままの状態が続いた。
そして。
「!」
急に、目の前に倒れていた男がむくりと身体を起こした。
俺はオーアを引っ張って思わず後ずさったが、男の纏う空気は、さっきまでとは比べ物にならないくらい暢気なものだった。
まるで長い昼寝から覚めたように男はぼりぼりと頭をかいて、眠そうな目をこちらに向けた。
「……んー? あれ。オーアだぁー。ひさしぶりぃー」
そんな、間の抜けた声を男は発した。
「……は?」
俺は思わずそう漏らした。
男は、さっきまでとはまるで別人だった。
いや、姿格好こそ同じだが、目つきが全然違うし、そもそもオーラが違う。喋り方までなんだか違う。
「どしたの? 泣いてるの? めずらしいねぇ、君が泣くなんて」
聞いているこっちがいらいらしてくるくらいのんびりとした口調で、奴は話しかけてきた。
どういうことだよと言おうとしたとき、オーアが俺に耳打ちした。
「今のブラックは一応ティンクチャーだ。あいつとは別物と考えていい」
それを聞いて、俺はひとつの用語を思い出す。
「……それってまさか……」
「いわゆる二重人格、というやつだ」
オーアはそう言った。
この話もまた1つの山でしたが……。
タイトルのとおりオーアの本音が出てます。たまに変態発言してましたが大体要所では型にはまった感じのことしか言わないヒロインだったんですけど、まあやっと本音を出せたのかなと。
……書きたいことは山ほどありますがそれは完結してからにしましょう。
いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます!
……ちょっとストックが危なくなってきた気がするので少し時間をあけるかもしれません、すみません(汗)。