第22話:ほつれる糸
静かな夜。
穏やかな寝息を立てて、彼女の妹分は眠っていた。
「……もう大丈夫そうだな」
オーアはそうひとりごちて、そっとクリムロワの額を撫でた。
「怪我をさせてしまって悪かったな。……その力、私以外の誰かのために役立ててくれ」
そして彼女はゆっくりと立ち上がる。
ふと、部屋に置いてある勉強机が目に入って、この部屋の主に思いを馳せた。
迷い、悩む、ただただ平凡な少年。
平凡なくせに、なぜかここぞというところで勇気を出す。
自分は自分勝手な奴で、そんな自分が嫌いだと泣いた、優しい少年。
「私はそんなお前が嫌いじゃないぞ、サツキ」
今は納戸で眠っているであろう彼にそう呟いて、彼女は前を向いた。
視線の先にはベランダ越しの夜空。
彼女はそっと、外へ出た。
すると。
「……やっとくたばりに行くのか」
屋根の上から、そんな女の声が降ってきた。
確認せずとも彼女にはその声の主が分かる。
なんだかんだで最も付き合いの長い女だ。
彼女はその言葉を否定せず、ただ言った。
「迷惑をかけたな」
そう言い残して、オーア・ホーテンハーグは夜空に飛び立った。
「…………馬鹿が」
銀色のティンクチャーのかすれた声は、あまりに小さく、彼女の耳には届かなかった。
昨日と同じ、マンションの裏手。
駐車場とマンションを結ぶ少し開けたブロック敷きの歩道に、彼はいた。
オーアはふわりとその場に降り立つ。
「……やっぱり来てくれたね」
そう呟いた結崎徹は、昨日と比較すると少々やつれた顔をしていた。
明らかに、目に力がないのだ。
(……ガタが来ているな)
彼女はそう判断した。
「宣言どおり、お前を殺しに来たぞ、トオル」
彼女がそう言うと、彼は穏やかに笑った。
「オーアには無理だよ」
それを聞いて、彼女は顔をしかめた。
「戦う前に油断するなと教えたはずだが」
彼はまた、笑みを浮かべて首をゆるゆると振る。
「強がりなのは相変わらずだね、オーア。そういうとこ、好きだったよ。……ううん、今でも好きかな」
これから殺し合うというのに、彼にはまったくと言っていいほど殺伐とした空気が感じられない。
そんな様子が、穏やかで、大人しかった頃の彼を思わせる。
「あの頃はとても楽しかった」
彼はそう言った。
「…………」
彼女もそれは否定しない。
黙したまま、2人は3年前を想起していた。
3年前。
地上界で初めてシェルブレイクという現象が観測された。
地上界の秩序が乱れる由々しき事態だと上の世界では騒がれていたが、規模は知れていたので、その調査、対処を任されたのは実力屈指のティンクチャー数名のみだった。
オーア・ホーテンハーグもそのうちの1人だ。
初めて見る地上界の景色に、彼女は心を奪われていた。
彼女が住まう境界という世界は、事実的にも神が創った箱庭だ。
小奇麗だがなんの変化もない退屈な世界。常に規則に絡めとられる息苦しい世界だった。
しかし地上界には色々なものが溢れている。
少し目を凝らせば、上空からでも色んな人間模様が確認できた。
上司にこびへつらう部下。
些細なことが原因で喧嘩別れするカップル。
外れた馬券を道端にまき散らかして帰る中年男。
金、欲望、男女のいざこざ、希望も絶望も全て存在する世界だ。
そんな自由な世界が、彼女には眩しく映った。
夜だというのに、空は街の明かりで妙に赤い。
大気は自動車の排気ガスでくすんでいる。
境界では絶対にありえないことだ。
しかし彼女は微笑んだ。
「……空気は不味いが、それもまた良い」
ゆっくりと滑空しながら、彼女が感慨深くそう呟いたその時。
ふと、あるものが目に入った。
ひときわ目立つ、近代的な建物。いわゆる高層マンションだ。
その、かなり上層階に位置する一室のベランダの柵に、人間が座り込んでいた。
彼女は何も考えず、ただ吸い寄せられるようにしてそちらに飛んでいった。
上層過ぎて、風の音しか聞こえないマンションの一室。
そこに住んでいるのは、いかにも薄幸そうな面構えをした少年だった。
実際、彼は幸薄かった。
中学に入りたての頃両親が離婚し、彼は母親に引き取られたのだが、すぐに母親は別の男と再婚した。
人見知りをする彼は新しい父親に慣れることが出来ず、それに苛立った母親は彼をこのマンションに1人で住まわせることにしたのだ。
天にも届きそうな高層マンション。
まるで地上に取り残された天空の城だ。
そんな、空虚な世界に彼は飽きてしまった。
高校には一応通っている。
けれど何の楽しみもない。
勉学、運動、友情、恋愛。
何かに懸ける情熱というものが、彼には明らかに欠落していたのだ。
彼はそっと、ベランダの柵に腰掛けた。
下を見れば、幾多もの人や作り物の光が溢れていた。
死にたいわけではない。
けれど生きたいわけでもない。
……だったら。
(このまま死んでも、いいかな)
彼はそう思い至って、上半身をゆっくりと前に倒した。
その時。
「それ以上乗り出すと落ちるぞ」
そんな、女性の声がした。
「……誰?」
驚きながらも、少年は声の主を確認した。
夜空に浮かぶ星よりも、より鮮やかに眩しい金色の光。
そんな光を纏った女性が、すぐそこに浮いていた。
美しい金糸の髪、宝石のような紫色の双眸。
その美顔に見惚れながらも、彼が最も心奪われたのは彼女が背負う、翼だった。
鳥の羽根のように大きく広げられたその黄金の翼は、力強くも柔らかく、繊細で、芸術作品のような美しさを持っていた。
「天使?」
思わずそう呟いたほどだ。
するとなぜか、彼女は不機嫌そうに眉をひそめた。
「違うな。あんなものと一緒にされては困る」
どうやら彼は彼女の機嫌を損ねるようなことを言ってしまったらしい。
「私はティンクチャー。天使なんぞよりもずっと働き者でずっと苦労人だ」
そんな彼女を微笑ましく眺めながら、彼は夢見心地で尋ねる。
「それが君の名前?」
すると彼女は首を振る。
「私の名前はオーア、だ。ティンクチャーは我々の総称だ」
それを聞いて彼は納得する。
オーア。
確か異国の言葉で『黄金』を意味する言葉だ。
「君にぴったりだね。羨ましいな」
思わず彼はそんなことを漏らした。
「……お前の名は?」
彼女の問いに、彼は儚げな笑みを湛えて答える。
「結崎徹。母さんは『何事も貫く』って意味で付けたらしいけど、そんな人間にはなれそうにないから」
すると彼女は言った。
「なら今からなればいいだろうに。今いくつだ? まだ若いだろう」
徹は首を振る。
「僕、何にも興味が持てなくなって。世界がつまらなく感じるんだ。だから、何かを貫こうなんて意志もないんだ」
するとオーアは強引に徹の隣に座り込んだ。
「この世界がつまらない? どこがつまらないんだ。地上界ほど面白い世界はないぞ」
その言葉に彼は首をかしげる。
「他にもあるの? 別の世界が?」
彼女は頷いた。
「神が住まう天上界、天使が住まう天界、我々が住まう境界、そしてこの地上界。それから悪魔や魔界人が住まう魔界、そして死者が住まう冥界だ」
彼はそれを呆然と聞いていた。しかし
「そんなに沢山の世界があるのに、この世界が1番面白いの? ……だったら僕はもう駄目だね。どこに行ってもきっと楽しくないんだ」
彼は悲しげにこうこぼす。
「毎日が退屈すぎて、死にそうだ」
オーアは次の言葉を紡げなくなった。
彼を励ますつもりが、余計に絶望を与えてしまったのだろうか、と。
しかし
「でも最期に君と出会えてよかったよ。今まで生きてきた中で、1番楽しい出来事だった」
彼はそう言って、笑った。
その笑顔は決して儚げなものではなく、妙に明るいものだった。
その笑顔を見て、オーアはある決断をした。
「そう死に急ぐな。死ぬ勇気があるのなら、それを別のものに活かす気はないか?」
彼女の誘いに、彼は首をかしげた。
「別のもの?」
オーアは不敵な笑みを浮かべて頷く。
「ネイチャー退治だ」
本来、力量の点からしても【金属色】であるオーアは人間とチャージする必要などなかったのだが、そんな成り行きで彼と正式な契約を結んだ。
とりあえず、目の前の死にたがりを助けるつもりだったのだ。
彼女の思惑通り、その目的は上手く果たされていった。
2人でネイチャー退治をしていくうちに、徹は見違えるほどに生き生きとしだしたのだ。
さらに驚くべきことに、結崎徹には尋常ならぬ適性があった。
彼女でさえ驚くスピードで、黄金の剣を使いこなしていったのだ。
「お前と私が出会ったのも何かの縁だな」
彼女がそう言うと、彼はとても嬉しそうに笑った。
「こんなに毎日が楽しいのは、初めてだよ」
そんな彼の顔を見て、彼女は安堵した。
彼が、自分にも夢中になって打ち込めるものがあったのだと分かれば、きっとこの先も死を選ぶなんて真似はしないだろうと。
しかし、彼女の読みは甘かった。
ネイチャー討伐が順調に進み、出現頻度も随分と低くなってきたある日、境界から帰還命令が下ったのだ。
彼女がそれを切り出すと、彼はまるで駄々っ子のように反対した。
「嫌だよ! せっかく生きるのが楽しくなってきたのに、君が帰っちゃったら僕はもう何も出来ないじゃないか!!」
いつもは穏やかな空気が漂う高層マンションの一室に、初めてその主の大声が響いた。
フローリングの床に置かれていた物に当り散らしながら泣き喚く彼を見て、彼女は悲痛な思いを抱いた。
彼を助ける方法を、自分は見誤ったのではないか。
余計な希望を持たせてしまっただけだったのではないか、と。
泣き崩れた彼を諭すように、彼女は彼の肩に手を置いた。
「私が帰ってもお前の功績は残る。お前が何かに必死になれたのは、これが初めてなんだろう? お前が思っているほどこの世界は狭くない。お前に出来ることが、他にもきっとあるはずだ」
しかし彼はその手を振り払う。
「そんなきれいごとは沢山だ!!」
涙で血走った眼。
彼女が今までに見たこともない表情を、彼はむき出しにした。
「オーアはいつもそうだ! 模範じみた言葉で全部流そうとする! 君がこの世界を楽しいと思えるのは、君のいた世界が楽しくなかったからじゃないのか!?」
彼女は言葉を失った。
答えることが出来なかった。
それは、事実だから、だ。
そんな彼女の動揺を見て取ったのか、彼は嗤った。
「ほら、答えられないじゃないか」
オーアはそんな彼から視線を逸らした。
これ以上踏み込まれるのは流石に苦痛だった。
たとえその相手が、ここまで共に戦ってきた彼であっても。
しかし、彼は続ける。
「そんなところに帰る必要なんてないよ。僕と一緒にここにいてよ」
途端、彼は油断の隙を突いて、彼女を押し倒した。
「……!」
予想しなかった事態に彼女は息を呑む。
しかし手を押さえられて身動きが取れなくなってしまった。
徹はそんな彼女を見下ろして、言う。
「知ってた? 僕、オーアのことが好きなんだ」
彼女は目を見開く。
「な、にを……」
その目には明らかに困惑の色が滲んでいた。
それを見て彼は目を細める。
「馬鹿なことをって? いつもそうだよね。君は僕を子供扱いしてる」
けど、と彼は続けた。
「僕は男だから」
そう言って、露出していた彼女の鎖骨をゆるりと唇でなぞった。
「! やめ、」
拒絶するように、彼女は身じろぎした。
けれど彼は続ける。
「誰かを好きになったのも、これが初めてなんだ。……だから」
――僕と、ずっと一緒にいてよ、と。
彼は彼女の耳元で、そう囁いた。
しかし。
「…………違う」
彼女は声を絞ってそう言った。
目を開いて、真っ直ぐに彼を見る。
「お前は現実から逃げているだけだ」
彼女がそう言うと、彼は顔をしかめた。
「そんなこと、」
その言葉を遮って、オーアは続ける。
「お前は誰かから何かを与えられない限り何も出来ない奴だ。今まで、自分から何かを掴もうとしたことはあったか? あるなら言ってみろ」
語気を強める彼女に、徹はひるんだ。
自分から、何かを掴もうとしたこと?
親? 友達? 確固たる目標?
……それらは全部、彼が自ら掴もうとする前に諦めてしまったものたちだ。
「……っ」
しかしそれを肯定すれば、今までの彼の人生は否定される。全てを失ってしまう。
自分はまともに生きていけない駄目な奴だと、自ら認めてしまうことになる。
「……う、るさい。君に何が分かるんだよ! ティンクチャーなんて、世界の秩序を守るとか言って、実質は人間を助けるための道具じゃないか!!」
彼は叫んだ。
「君は僕のそばにずっといればいいんだ!!」
その言葉は、彼女にとって、彼と過ごした時間の否定だった。
共に戦い、共に苦しみ、共に笑った。
例えつかの間の関係だったとしても、彼とは戦友のつもりだったのだ。
しかし結局、彼は彼女を人としてではなく……
「……私は、お前の玩具じゃない!!」
紫の目に涙をためて、そう言い放った彼女は力を振り絞って脚を蹴り上げた。
徹の身体がバランスを崩した隙に、彼女は拘束から逃れる。
そのまま、彼女は窓から飛び出した。
回想編ですが……3年前の話はちょっと痛いところが多いので申し訳ないです。
いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます。