第1話:【黄金】のティンクチャー
建物を出ると、秋の夜独特の肌寒さを感じて、俺は軽く身震いした。
紺碧の空には小さな月がぽつんと昇っている。
そんな寂しげな月を時折眺めながら、家の方向に向かって自転車をこぎ始めた。
今日もしかり、毎週月曜日は特に憂鬱な日だった。何せ嫌いな英語をわざわざ金を払って習いに塾へ通う日だからだ。
今年の春、俺は無事第一志望の地元の公立高校へ入学できた。それまで特段塾なんてものに行かなくてもなんとか勉強は間に合ってきていたのだが、高校生にもなるとそうもいかなかったのである。
特に英語が壊滅的で、入学して最初の中間考査の成績表を見た母さんが俺の意見も聞かずに申し込みをしてしまったのだ。
……あんまり気が進まないのに勉強がはかどるわけもなく、今日も小テストでひどい目に遭ってしまった。
やっぱりそれなりにへこむわけだが、どうしてこんなことでへこまなくちゃいけないんだろう、なんて思ってしまう。
そりゃあ将来、英語は使えたほうが便利だろうが、英語を使わない職業だって沢山あるだろうし。
いや、そもそも何のために勉強をしているのか分からない。大学入試のためか? まだ高1なのに?
まったく、面倒くさい社会を造ったもんだよな、人間てのは。
そんな他愛のないことを悶々と思いながら信号待ちをしているときだった。
「?」
空に1点、黄金に光るものが見えた。
動いている。星ではない。飛行機にしては点の動きが速すぎる。
いや、むしろその点は落下しているように見えた。落ちる先は、ちょうど俺の家がある方向だ。
「……なんだ?」
思わず首を傾げてから、俺はまたペダルをこぎ始めた。
俺の家はとある団地の一角にあって、その団地の北側には昔よく虫取りをしたちょっとした雑木林がある。それが夜は特に陰鬱な雰囲気をかもし出すので、女性はあまり歩きたくないという。
そんなわけで塾帰りのこの時間にはいつも人通りがない。
……はずだった。
「?」
目を細めると、前方に人影らしきものが見えた。
珍しく通行人か、とも思ったが、周りの静けさが妙にその人影を不気味なものに感じさせた。
いや、このご時勢いつどこで誰に刺されるか分からない時代だから、例え俺が男でも夜道でこういうマイナスな思考が働いても不思議ではないのだ。
そう自分に言い聞かせながらペダルをこぎ続ける。
しかし反射的に、脚が止まってしまった。
……なんだ、あれ。
この距離なら、外灯の明かりに照らされたその人物の顔は把握できるはずだった。
けれど、把握できなかった。
目も、鼻も、口も、人間らしいものは何も確認できない。
そこに立っていたのは、頭から足の先まで真っ黒の、『何か』だった。
――なんか、あれ、まずい。
本能的に悟った俺は自転車ごとUターンしようとして、
「っ!!」
脚がもつれて自転車ごと引っ繰り返った。
――なにやってんだ俺!!
するとその瞬間に身体のすぐ横を黒い暴風が走っていった。
さっきまで俺が乗っていた自転車を巻き込んで。
「んな!?」
数メートル先で自転車が派手な音を立てて電柱に激突した。フレームが折れてもう粗大ごみにしか見えない。
そのすぐ横にはさっきまで俺の前方にいたあの黒い人影が立っていた。
そう、人影だ。それはただの影のように真っ黒でいて、なぜか立体的な『何か』だった。
「運のイい奴」
そいつが赤い口を開いた。
――喋った!?
俺は半分抜けかけの腰を奮い立たせてなんとか立ち上がった。
「お前もシェルブレイクさセてやルよ」
影がそんな、意味不明なことを口走った瞬間。
「貴様ァーーーーー!!!」
この緊迫した空気に不似合いな、しかし相当怒り狂っているのがひしひしと分かる女の声が降ってきた。
「今度はなんだよ!?」
俺が思わず叫んだと同時に、それは地上に降り立った。
「下等ネイチャーごときがよくも私をコケにしてくれたな!! とっとと殻に戻れ! むしろ死ね!! 絶滅しろ!!」
黄金の粒子のような光が、火の粉のように宙に舞う。
そんな神々しい光を纏って降り立ったそれは、物騒な物言いとは似つかわしくないくらいに、綺麗な女性の形をしていた。
女性、ではなく『女性の形』、と形容したのは光を纏って空から降ってきた時点でただの人間とは思えなかったからだ。
彼女が纏っている衣服もまた異様と言えば異様だった。白を基調としたやけに裾の長いその衣装は、どこか異国の情緒を感じさせる。
ふわりと風になびく黄金色の長い髪も、その印象をより強くさせた。
「しつコいティンクチャーだナ。お前ほどしつコい奴は初めテだ」
半ば呆れたような声で影はそう呟いた。
「お前ほど逃げ足の速い下等ネイチャーも初めてだ!」
金髪の彼女はそう叫んでから影に向かって跳躍した。
目にも留まらぬ速さで彼女は影との間合いを詰めたが
「!」
影の手が急に大きくなって容赦なく彼女を弾き飛ばし……
「ぅお!?」
受身を取りきれなかったらしい彼女は背中から俺に激突。そのまま共々後ろに倒れる羽目に。
視界がぼやける。
痛みより衝撃のほうが勝ったようだった。
……次に感じたのは重み。
「……ぐぇ」
俺の口からはそんな呻き声が自然と漏れていた。
すると彼女は驚いたようにこちらを振り返って
「人間? いたのか」
そう呟いた。
こうしてぶつかるまで俺の存在に気付いていなかったらしい。
……ていうかマジで重い。頼むから早く退いてくれ。
そうこうしていると耳障りな笑い声が響き渡った。
「キャハハッ、大口叩いてソれか? お前ほど弱いティンクチャーは初めテだ!!」
影が馬鹿にしたようにけらけらと嗤う。
「〜〜〜〜うるさい! こっちにも事情があるんだ!!」
下敷きにしている俺のことはそっちのけに怒る彼女。
すると影は一瞬俺と目を合わせ、ニヤリと嗤った、ような気がした。
「いイことを思いつイた! そこのガキも仲間にしテやるんダ! 2人いレばお前程度のティンクチャー、殺セる!!」
「な!?」
彼女は怒りと困惑が入り混じったような声を上げた。
そんな彼女を馬鹿にするかのように影は続ける。
「ティンクチャーを殺シて羽根を食っタらもっとすごイ力が手に入るッて聞いたことガある!」
……正直、奴のその言動はうまく理解出来なかったのだが、なんとなく嫌悪を覚えた。
が、そんなことは勿論お構いなしで
「手っ取り早クいくゼーーーー!!」
影はこちらに向かって駆けてきた。
「うわあ!?」
――こんな状況じゃ逃げられない、と思った次の瞬間、身体が浮いた。
「へ?」
気がつくとすぐそこに例の金髪の女性の顔がある。
間近で見ると、やっぱり美人だった。
柔らかくも凛々しい眉に、すっと通った鼻筋。造りに無駄がないのにどこか愛嬌をも感じさせる頬。
端整、と言ってしまうと月並みすぎるかもしれないが、その言葉が最も相応しいと思える、そんな顔立ちだった。
ふと違和感を覚えたのは、その眼だ。
両目で色が違う。こういうのをオッドアイ、というのだろうか。
……ていうか。
「何!? なんで俺、女の人にお姫様抱っことかされてるんだよ!?」
やっとこのみょうちくりんなシチュエーションに気付いて俺は叫ぶ。
「つべこべうるさい! お前にまでシェルブレイクされると厄介なんだ!!」
そう叫んだ彼女の顔には余裕というものがないような気がした。
「逃げても無駄無駄ァッ!!」
そんな影の声が聞こえたかと思うと、
「ぁッ!!」
後ろから何かぶつけられたのか、彼女の身体は前にのめって倒れる。無論、抱えられていた俺も倒れる。
「っつー……」
本日2度目の転倒。
正直背中が痛い。勢いよく地面に落とされたんだからそれは仕方がない。
が。
妙に息苦しいのは背中を打ったせいだけじゃない。
俺を抱えていた彼女の身体が俺に覆いかぶさるように倒れているのだ。
「……あの野郎……!」
そう悪態づいた彼女の吐息すら頬で感じ取れるこの近距離。
緊張からか、まるで凍ってしまったかのように動かない俺の身体。
それとは対照的に、顔はどんどん熱くなっていくのが分かる。
――アホか俺は! こんな状況で赤くなってる場合じゃないだろ!?
頭でそう分かっていてもこればかりはどうにもならなかった。
「……やっぱり弱イ。ティンクチャーなら羽根を使っテ戦エばいいノに」
影の声がする。足音こそしないが、こちらに歩み寄ってきているのが分かった。俺の上に乗っかった形になっている彼女は一層厳しい顔つきになる。
「……こうなったら……!!」
彼女がそう呟いたので、何か奥の手でもあるんだろうかと心持期待したところ
「人間、身体を貸せ」
彼女は突然、そう言った。
「……は?」
……さっき、なんて?
「承諾を得ている暇はない。借りるぞ」
彼女は有無を言わさぬ様子でそう言い切って……
俺の首筋を、思い切り、噛んだ。
「痛ーーーー!?」
思わずそう叫んだ次の瞬間、何かに吸い込まれる、いや、吸い込むような衝動を覚えて、目の前が真っ白になった。
「!?」
激しいストロボに影がひるむ。
「〜〜いきなり何すんだよ!?」
目を開けた瞬間に俺は跳ね起きてそう叫んでいた。
が、さっきまでそこにいたはずの彼女がいない。
その代わりといってはなんだが。
「なんだ、これ」
俺の右手に、固いものが握られていた。
――剣だ。
長い刃は一点の曇りもなく白く輝いている。凝視すればうっすらと黄金がかって見えた。
初めて手にした本物の武器を前に、半ば呆けていると
『さっさと立て! その剣であのネイチャーを切り伏せろ!』
あの女性の声がした。……俺の中から。
「ちょ!? なんで俺の中からあんたの声が聞こえて来るんだよ!?」
『身体を借りただけだ! 早く出て欲しければ言うとおりに動け!』
……無茶苦茶だ!
とりあえず立ち上がろうとしたら、何かに引っ張られてまた尻餅をついた。
『おい! 何勝手に転んでるんだ! 遊んでる暇はないんだぞ!』
彼女の怒声が聞こえてくるが
「いや、だって……」
俺だって好きで転んだわけじゃない。転んだのは剣のせいだ。
この剣……
「重い! 重すぎる! こんなの持ち上げられねえし振るなんて論外!!」
自然と半泣き状態で叫んだところ
『何ーー!? 貴様、健康そうな顔をして実はもやしか!?』
「失礼な奴だな! もやしは今時差別用語だぞ!?」
そうこうしていると
「キャハハッ! 重くテ使えない武器!? どこまでいっても使えないティンクチャーだナ!?」
影が高笑いを始めた。
俺の中にいるらしい彼女が怒りに震えている様子が手に取るように分かる。
『ち、馬鹿にしやがって。やはり原色がいないと厳しかったか』
彼女はそう悪態づいた。
「遊びはここまでダ! サヨウナラァッ」
影が突進してくる。
このままじゃ本当にまずい。
「っ!!」
腕に力を込める。鉛のような剣が少し持ち上がった。
『振れないなら突き刺せ!!』
彼女がそう叫んだ。
影は目と鼻の先にいる。
「ああああああ!!」
俺はありったけの力で、剣を前方に突き出した。
終わりは、意外とあっけなかった。
本当に、あともう少し遅ければ刺し違えていたくらいのタイミングだったが、こちらの剣が相手に届くほうが早かった。
次の瞬間影は黄金の糸に絡めとられるようにして小さくなっていき、最後には光の玉となってどこかへ飛んでいった。
「ふう。ひやひやさせられたが、まあ上出来だ。ご苦労だったな」
いつの間にか剣は消えて、あの女性が俺の前に立っていた。
「何が『ご苦労だったな』、だよ。あんた何なんだよ」
俺はその場にへたり込んだ。なんかもう、くたくただ。
「ふむ、助けてもらった礼だ。名乗ろう」
彼女はそう言って俺と同じ目線になるように片膝をついてしゃがみ込んだ。
「我が名はオーア・ホーテンハーグ。お前の名はなんという?」
そんな風に改まられると妙に緊張してしまった。
いや、先ほどまで険しい表情しか見せなかった彼女が、急に穏やかな笑みを見せるので、どぎまぎしてしまったというところが本当のところだ。
「……せ、瀬川五月だ」
なんとか名乗る。
「ファーストネームはサツキ、か。女の子みたいな名前だな」
……一言多い。気にしていることをさらっと言わないで欲しい。
そんな顔をしていたのが分かったのか
「ああ、すまない。気にしているのか? 清々しい響きだし、呼びやすくて良い名前だと思うが」
彼女はそう付け加えた。その言葉に嘘偽りはないようだったので俺もそれ以上不機嫌な顔をするのはやめることにした。
「立てるか?」
彼女が手を差し伸べてきた。その手をとって、立ち上がろうとしたら……
――あれ?
また、さっきみたいに尻餅をついてしまった。
……まさかとは思うが
「なんだ? 腰でも抜けたのか」
彼女は可笑しそうに笑った。
悔しいがその通りらしい。今になって身体にガタがきたようだ。
「さ、さっきまで立ってただけマシだろ!!」
彼女があまりにも可笑しそうに笑うので、思わず負け惜しみのような言葉を吐いてしまった。
すると彼女は
「はは、そうだな。家はどこだ? 抱えていってやろう」
そう言って、また俺を『お姫様抱っこ』した。
「ちょ!? 降ろせ! 送ってくれるならせめて負ぶってくれ!!」
「おんぶは苦手なんだ、文句を言うな」
そんな理不尽な理由で、俺は家に辿り着くまでの5分間、この恥辱に耐えなければならなくなった。
シェルブレイク1話を読んでくださってありがとうございます!
どうもこんにちは。はじめまして、そしておひさしぶりです。実は1年間くらい活動を休止してたんですがぼちぼち動き始めようかと思い立って半ば衝動的に投稿ボタンを押してしまいましたあべかわです(←もう引き返せない)。
絶滅しそうな亀更新でのろのろと歩いて参りたい所存です、はい。
今回のお話も前々作から続く現代もので主人公のピンチになぜかどうしてもヒロインが登場してしまうといういつものパターンなんですが、今後いろいろと新しいものを模索していけたらと思っています。
相も変わらず手探りな状態ですが最後まで書ききれるよう頑張りたいと思います。