第17話:女王様と自転車
月曜日。
いつもどおり、俺は予鈴ぎりぎりに登校し、席に着いた。
が、何かがいつもと違う。
――あれ?
不思議なことに、いつも隣に座っているはずの五十嵐の姿がなかったのだ。
この時間でいないとなると、欠席、なのだろうか。
でも土曜日に会ったときは元気そうだったように思う。
……となると、まさかとは思うが……。
悪い予感がしたその時
「――おはよう、瀬川君」
声が降ってきた。
見上げると、五十嵐がそこに立っていた。
「……おう、おはよう」
少し胸をなでおろしながら応える。ネイチャーと戦って怪我でもしたのかと思ったが、杞憂だったようだ。
彼女はいつもどおり、無駄のない動きで席に着いた。
だが、今朝の五十嵐はどことなく顔色が悪いような気がした。
「珍しいな、五十嵐がこんな時間に来るなんて」
俺が声をひそめて尋ねると
「……ちょっとね」
彼女は小さく息を吐きながらそうこぼした。
……何か触れてはいけないことだったんだろうかと考え込んでいると
「瀬川君。昼休み、いいかしら」
突然、五十嵐がそう言ってきた。
「え? ああ、うん」
俺は何も考える暇もなく頷いていた。
昼休み、俺は五十嵐に屋上一歩手前の階段の踊り場に連れて行かれた。
屋上は立ち入り禁止なため、ほとんど人が来ない場所だ。
「で? 何の話?」
俺が単刀直入に尋ねると、五十嵐は言った。
「……昨日、変なものと出くわしたわ」
彼女の顔は相変わらずどこか暗い。
もしかするとあまり口にも出したくないようなものなのかもしれない。
「変なもの?」
しかし気になるのであえて尋ねた。
五十嵐はこくりと頷く。
「ネイチャーの塊よ。ティンクチャーを食べてたわ」
一瞬、俺は耳を疑った。
だって、食べるって……。
「なんだよ、それ」
想像できない。
いや、想像してはいけない気がした。
「信じられないのは無理もないけど。……境界から連絡はあったでしょう? ティンクチャーの数が減ってるって」
確かに、その連絡はあった。
それを聞いたとき、俺も何となく察しはついていた。
ネイチャーに敗れるティンクチャーもいるのだと。
「けど、食べるって……なんで」
再度尋ねると
「シアンに聞いたんだけど、ティンクチャーの身体、主に翼がネイチャーにとっては栄養になるらしいわ。食べれば食べるだけ強くなれるなんて噂もネイチャー間では広がってるらしいし」
五十嵐も不快感を顕に、眉をひそめてそう言った。
おぞましいことこの上ない話だ。
しかし、そういえば。
俺が初めて出くわしたネイチャーは、オーアを見てこう言っていた気がする。
『ティンクチャーを殺して羽根を食ったらもっとすごい力が手に入る』、とか。
しかし、だ。
あいつらに羽根なんか生えていただろうか。
……普段は隠してるのか?
「でも問題はそこじゃないの。……ネイチャー以外の何かがその現場にいたのよ」
五十嵐はそう言った。
「……ネイチャー以外って……。どういうことだよ」
意味が分からなくなってきた。
「姿は見てないわ。けどあの声は、恐らく人間よ」
恐らく、と言いながらも、彼女は確信しているような言い方だった。
「人間!?」
思わず叫ぶ。
だって、そんな気持ち悪い現場に、生身の人間がいたっていうのか?
「とりあえず、どうも今回の騒動はおかしいわ。人為的にシェルブレイクが起こされているのかもしれない。……もうシェルブレイクはただの現象とは言い切れないわね」
五十嵐はそう言って階段に座り込んだ。
やはり顔色が悪い気がする。
「五十嵐、調子悪そうだけど大丈夫か?」
俺が尋ねると
「ただの寝不足よ、心配はいらないわ。昨日それを見てから色々考え込んでしまって、眠れなかったのよ」
彼女はあからさまに溜め息をついた。
どうも五十嵐らしくない。
いつもの彼女なら、もっと毅然としていそうなのに。
しかし、ひとつ気になることがあった。
「なあ。五十嵐は『今回』って言ってるよな? 前にもこういうことがあったのか? オーアも3年前にこっちに1度来たことがあるって言ってたんだけど」
俺が尋ねると、五十嵐は小さく頷いた。
「3年前にもシェルブレイクが起こったのよ。今よりもう少し狭い範囲だったと聞いているけど。……詳しくは私も知らないの。ホーテンハーグに聞くといいわ」
彼女はそう言うと、すっと俺を見上げた。
「……とりあえず忠告はしておいたわよ。危ないと思ったらすぐ逃げなさい。あれは正直、私たちの手に負える相手じゃない」
五十嵐の目は真剣だった。
彼女なりに俺のことを気遣ってくれているんだということを改めて実感する。
「……ありがとな。お前には助けてもらってばっかりで」
俺が突然そう言うと、彼女は不意を突かれたかのようにぽかんとした。
この際他のお礼も言っておく。
「言い忘れてたんだけどさ、塾の生徒が一斉にシェルブレイクさせられた事件あっただろ? あの時俺、小柴を助けられなくてさ。五十嵐がなんとかしてくれてなかったら俺、今頃すごいへこんでたと思う」
五十嵐は、ああ、そんなこともあったかという顔をしている。
ほんと、大物だよこの人は。
「あとこの間、緩衝してくれてありがとな。あれがなかったら死んでたよ、俺」
俺がそう言うと五十嵐は
「本当にね」
呆れ顔でそう言った。が
「……その割には意外とけろりとしてるわね、瀬川君。普通なら『やってられるか』ってヤケになりそうだと思うけど」
五十嵐はそう続けた。
俺は思わず苦笑する。
「……ちょっとヤケになりかけたけどな。俺はオーアの道具、らしいし」
すると五十嵐はじっと俺を見た。
「……なんだよ」
あまりじっと見つめないで欲しい。
最近は少し慣れたとはいえ、やっぱり五十嵐相手は緊張するのだ。
すると彼女はふ、と視線をそらして
「いえ、何も。……そうね、瀬川君じゃ道具って言われても仕方ない気もするわね」
そんなことを言った。
「ひどいなそれ」
俺が思わず不平を口にすると
「あら。使い勝手のいい道具っていうのは重宝されるものよ? 愛着も湧くし」
五十嵐は不敵な笑みを浮かべてそう言った。
俺がなんとも言えない表情を浮かべていると、彼女はくすりと一笑した。
「不服そうね。頼りにされる男になりたい、とか?」
俺は思わず硬直した。
……図星、なのかもしれない。
俺の反応を見て彼女もそれが分かったのか
「……健気ね。私には理解できないわ」
いつぞや言われたことをまたも言われてしまった。
「とりあえず頑張って、とだけ言っておくわ」
五十嵐はそう言って、ゆるりと立ち上がった。
その時。
「!」
五十嵐の身体が少しだが揺れた。
ここは階段だ。踏み外すとまずい。
俺は思わず彼女の腕をつかんでいた。
「大丈夫か?」
慌てて声をかけると
「……ちょっと立ちくらみがしただけよ。……ありがとう」
五十嵐はそう言って、ゆっくりと階段を降りていった。
……ほんとに大丈夫なのかな。
放課後、俺は五十嵐に切り出した。
「なあ五十嵐、お前今日も歩いてきたのか?」
唐突な問いに彼女は一瞬戸惑ったように見えたが
「ええ、そうよ」
彼女はそう頷いた。
相変わらず、顔色が優れない。
「俺の自転車、使って帰れよ。今までの借りがあるから見返りは求めないぞ」
俺がそう言うと、彼女は困った顔をした。
「い、いいわよ、別に。歩くのは慣れてるもの」
なんだか、妙に慌てているのは気のせいだろうか。
……いや、気のせいではなさそうだ。
「五十嵐、もしかして自転車、乗れないとか?」
俺が思わず尋ねると
「…………!」
五十嵐はなんとも言えない、屈辱のような羞恥のような、そんな色を顔に浮かべていた。
……なんと、図星っぽい。
「だからあんな遠くから歩いてきてたんだ。納得納得」
五十嵐のこんな表情を拝めるなんて思ってもいなかったので俺は少し得意になってしまったらしい。
軽快にそう言うと、五十嵐は妙に、穏やかな表情になった。
「……瀬川君。私を貶めるなんていい度胸ね」
「え!?」
微笑を湛えている割に五十嵐の台詞はとても怖い。
というよりその微笑すら怖い。
「いや、貶めたわけじゃ……ただ五十嵐にも出来ないことがあるんだなって親近感を覚えただけで!」
「ふうん。人間、出来ないことのほうが多いのよ? 貴方は一体私を何だと思っていたのかしら」
「え? いや、完璧な女王様……」
って、女王様って言っちゃったよ俺!?
「あらそう。私が女王なら貴方は勿論、下僕ね? だったら下僕らしく働いてもらおうかしら」
五十嵐の女王様オーラは、このとき最大値を記録した。
彼女は高らかに、俺に宣言する。
「――身体で償いなさい、瀬川君」
閑静な町並み。錆びれかけた商店街、いかにも老舗そうな和菓子屋。少し遠くを見渡せば、紅葉しだした山も見える。
普段は行かない道を走るのは、新鮮だ。
この季節は風が涼しいし、空気も澄んでいる。
サイクリングにはちょうどいい。
けど、なんていうか、この状況を、素直に楽しんでいいのかよく分からない。
俺の腰には、これでもかといわんばかりにしがみついてくる手。
そう堅く握られると、痛いというより逆にこしょばくて笑ってしまいそうになる。
それをこらえるのに今の俺は必死だった。
どうせなら腰を掴むんじゃなくていっそ腕を回してくれたほうが運転的にも安定するんだが、それを俺から彼女に提案するのはとてもじゃないが無理だった。
「次、右ね」
「はい」
後ろから飛んでくる五十嵐の方向指示に答えてハンドルを切る。
2人乗りはあまり慣れていないのでちょっとだけぐらいついた。
「!」
途端、ついに我慢できなくなったのか彼女の腕が腰に回る。
――う。
急に背中に彼女の身体が触れて、正直、どきりとした。
「瀬川君、転倒したら殺すわよ」
その台詞がなければとても素晴らしいシチュエーションなんだが、なんて思いながらも
「頑張ります」
そう答えて、転ばないように、慎重にペダルをこぐ。
……ていうか2人乗りは禁止されてるよね、なんて後ろに乗っかっている五十嵐には口が裂けても言えそうにない。
「……あ、見えてきた」
前方に大きな屋敷の塀が見える。五十嵐の家だ。
こうして、日が昇っているうちに改めて見ると、本当に大きな家だと思う。
これまた慎重にブレーキをかけると、軽やかに五十嵐は地面に降り立った。
「ご苦労様。この労働に免じて今日の行いは許してあげるわ」
そう言い放つ五十嵐に、前籠に乗せていた彼女の鞄を手渡し
「それはどうも。じゃあ俺帰るな」
俺が言うと
「あら、お茶くらいは出すわよ?」
なんて五十嵐が言った。
珍しいこともあるもんだ。
けど。
「ああいや、今日は塾が休みなかわりに家庭教師が来るんだよ」
そう、今日はせっかく先週の事件のせいで塾が臨時休業を発表したというのに、母さんのせいでそんなことになってしまった。
軽く腕時計を見ると、時刻は5時前。
5時過ぎには授業が始まることになっているのだ。
「家庭教師? 意外と勉強熱心なのね」
五十嵐は少々驚いた様子で俺を見た。
「……はは、無理矢理なんだけどな」
俺は苦笑しつつ、自転車を方向転換させた。
その際、五十嵐の家の立派な門が視界に入った。年季の入った道場の看板も掲げられている。
しかしふと思った。
「五十嵐の家、剣道場やってるんだよな? 妙に静かだけど、いつもやってるわけじゃないのか?」
剣道場っていうのは、竹刀を交える音や声が響き渡っているものだと思うのだが、五十嵐の家はとても静かだった。というより、以前に来たときも思ったのだが、彼女以外の人気をあまり感じない。シアンだって悠々と庭をうろついているくらいだったのだ。
疑問を投げかけると、今度は彼女が苦笑して
「道場は3年前から父が床に臥せっていて今は閉めてるの。まあその前から生徒数は減ってきてはいたんだけど、ね」
そう言った。
その時の彼女は、少し寂しそうな顔を浮かべていた。
なんだか悪いことを聞いてしまったな、と軽く罪悪感を覚えつつ、
「じゃあな。今日はちゃんと睡眠とれよ」
軽く手を挙げて、ペダルを漕ぎ出す。
「瀬川君は勉強中、居眠らないようにね」
後ろから飛んできた、相変わらずのそんな言葉に安堵しつつ、俺は急いで自宅を目指した。
各キャラ均等なイベント配分を! ということで(笑)揚羽フィーチャーなお話でした。
女王にも弱点があるようです。自転車と、あと流行にもちょっと疎いみたいです。
それからもうご覧になった方もいらっしゃると思いますが活動報告にシェルブレイクのミニコントみたいなのを2本掲載しています。強化月間のつもりだったつもりで楽しんでいただければ幸いです。
いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます。