第16話:暴走家庭教師
日曜日。
普段なら昼までベッドでごろごろうだうだしているはずのこの日、俺はなぜか朝から机に向かわされていた。
「ではサツキ、手始めに英作文の練習だ」
傍らには、物置に置いてあった余りものの椅子に座ったオーアがいる。
「文法も大事だがな、やはりまずは簡単な例文を頭に入れて、それを発展させていくのがいいと思うんだ。というわけで……」
そう言いながら彼女はなにやら手製っぽいメモを取り出した。
「よし、最初はこれでいこう。『貧乳と微乳の違いについて述べよ』」
「知るか!!」
俺は思わず立ち上がる。
「馬鹿者! 授業中に立つ奴があるか!」
オーアは容赦なく俺の頭をはたく。
「って! 暴力反対!!」
抗議すると、彼女はふ、と遠い目をして
「噂には聞いていたが今時の若者はこの程度で暴力だの体罰だの言うのか。情けない世の中になったな」
一丁前にそんなことを言う。
「お前の出す課題がへんてこなんだよ!!」
俺は真っ当なことを言ったつもりだが、オーアはやれやれと肩をすくめる。
「分かってないなあ。教育にはインパクトが大事なんだ、インパクトが。……って昨日ネットで流れていた自主制作ドラマの主人公の養護教諭が言っていた」
「お前それ、100%エロいドラマだっただろ」
……あと勝手に俺のパソコン開いたのかコラ。
「む。これだけの情報でよく分かったな。狼のような男性養護教諭が女性教諭やはたまた女生徒までを『これも教育の一環です』なんて台詞で次々と手篭めにしてしまうという恐ろしいドラマだった。……お前は見るなよ、あれは教育上よろしくない」
今時にしてはすごいベタな内容だな。
……ちょっと見てみたい気もする……なんて思ってないぞ!
「つーかものの5分も経たないうちに脱線してるじゃねえかよ! お前に家庭教師なんか絶対無理だ!」
俺はずばりそう言った。
そう、昨日のことだ。
母さんが初めて会うはずのオーアたちを意気揚々と家に招いたのにはある理由があったのだ。
「オーアさん、イギリスから来られたんですよね? ということは英語は……」
チーズケーキを食べながら、母さんがオーアに期待の眼差しを注ぎながらそう言ったのだ。
「勿論喋れますよ」
オーアはその後、俺にはてんでついていけない速度で英語らしきものを喋った。
それを見た母さんはばっと彼女の手をとり、懇願したのだ。
「うちの五月に英語を教えてやってくださいませんか!?」
と。
「どうー? お兄ちゃん、はかどってるー?」
綾が部屋に入ってきた。
「ハヅキママから差し入れですよ」
クリムもお盆にお茶2つとせんべいを乗せて入ってきた。
「お、サンキュー。だがはかどってはいないぞ。むしろ停滞した」
俺はそう言いながら早速せんべいをくわえた。
「まあ今日はお試し授業だからな。明日からはもっとスパルタだぞ? 次のテストで+30点を目指すんだからな」
オーアもせんべいに手を伸ばしつつそんなことを言った。
「ちょい待てよ! もう正式に雇われるのかよ!?」
「既に昨日契約したぞ? 日給で5000円だ。お前の都合のいい日にいつでも駆けつけると言ったらハヅキさんはすぐにお願いしたいと言ってきた」
オーアは得意げに鼻をならす。
「……母さん……」
俺は頭を抱えた。
結局オーアの働き口が家ってどうなんだよ。
なんか色々おかしくないか!?
「けどハヅキママは心配もしていたです。姉さまはとっても、とーっても美人ですから、サツキが勉強に集中できないんじゃないかって」
クリムは自慢げに、しかしとげとげしい目線を俺に送ってきた。どうやら釘を刺しているつもりらしい。
が
「ふん。貧乳だの微乳だの言ってくる変態教師に誰がときめくかっつーの」
俺は決して嘘ではない言葉を口にしながらお茶に手を伸ばす。そんな時
「んー? お姉ちゃんの胸、大きいよねえ?」
綾がそんなことを言ったので俺は思わずむせた。
「あ、アヤ! そんな破廉恥な会話はまだ早いですよ! ……あ、姉さまの胸が破廉恥だと言っているわけではないですよ!?」
クリムがなんとも言えないフォローをしている。
オーアはただ苦笑していた。
こんな会話をされると否が応でも思い出してしまうではないか、あの事故を。
……確かにあいつのは……
って何考えてるんだ俺。
「それよりお前、ほんとに雇われるんだったらもっとマシな授業してくれよ? 特に例文。もっと普通なのでいいから」
仕切りなおしてそう言うと
「ふむ。仕方ない、今日もネタを探しにネットサーフィンするか」
オーアはそう言って、机の影に隠れている小さなラックを引き出し、ノートパソコンに手を伸ばした。
「あ、その手際! お前やっぱり昨日勝手に俺のパソコン使っただろ!」
俺が抗議すると
「む。お前と私の仲じゃないか。いいだろう? 減るものでもなし」
オーアは口を尖らせた。
「つーかいつの間に使ったんだよ! まさか夜中か!?」
俺が問い詰めるとオーアは妙に視線を泳がせた。
図星らしい。
「男の部屋に勝手に忍び込むなこの変態!!」
「ええい! さっきから変態変態うるさいわ!」
逆切れし始めたオーア。
そんな時。
ピピピピピ……
そんな、軽い電子音が耳に入った。
「?」
目覚ましの音ではない。携帯の音でもない。
何かと思えば
「……お。端末の音だな」
オーアがポケットから何か、携帯電話のような白い機械を取り出した。
彼女がどこかのボタンを押すと、ヒュン、と目の前に薄い半透明の画面が広がった。
「!?」
驚いて一歩下がってしまった。
……なんというか、SFっぽい。
画面に現れたのは、片眼鏡をかけた女性の顔。
鮮やかな緑色の髪が印象的だった。
が、もっと印象的だったのは彼女の態度だ。
一見真面目そうに見える女性なのに、片手になぜかビールの缶、もう一方の手にはするめっぽい何かが握られている。
「ん。あら繋がった」
この状況から、恐らく自分から通信をしかけたはずなのに、相手はそんなことをぽそりと呟いていそいそと缶とするめを横に置いた。
そして
「久しぶり、オーア。生きてて何よりだわ」
ものすごい営業スマイルを浮かべてこちらに手まで振ってきた。
そのスマイルは0円なんてものじゃない。下手すりゃ金を取られそうなスマイルだ。
……なんていうか、すごく胡散臭い。
「エメラ。……そっちも相変わらず元気そうだな」
オーアも半ば呆れた顔で応対した。
「また勝手にこっちのお酒仕入れてるですね」
クリムもやれやれといった感じでそうぼやくと
「ん? あ、クリムロワもそこにいるのね。生存確認完了っと」
エメラと呼ばれた緑色のその人は、そう言って手元に何かメモをしていた。
「何か連絡か? ものくさなお前のことだから、この端末が鳴ることはまずないと思ったんだがな」
オーアがそう言っても向こうは平然と
「私もそのつもりだったんだけど、上から各チームの生存確認を取れって命令が来たのよ。報告しないといけない仕事じゃない? 流石にサボれなかったのよねー」
そう言い放った。
こんなことには慣れているのか、オーアはそれをさらりと流して
「どうして生存確認を取っているんだ? まだ降りて間もないじゃないか。途中経過にしては早すぎる」
そんなことを尋ねていた。
すると向こうの彼女は、少し真面目な顔をして
「どうもここのところ連絡が取れないティンクチャーが増えてるらしいの。特に今、貴女たちがいる地域でよ」
そんなことを言った。
……連絡が取れない、ということは、つまり……。
オーアもクリムも、神妙な顔をしていた。
そんな空気を打ち消すように、緑髪の女性は口を開いた。
「まあ1番隊の連絡係としては、貴女たちの無事が確認できただけ良かったってことで。……ところであとのメンツはどこにいるの? ちゃっかりペア替わってるじゃない」
「はぐれた。連絡はとれないのか?」
オーアが尋ね返すと
「アージェントは……多分端末取る気がないんでしょうね。あれの心配はするだけ無駄だわ。心配なのはブラックのほうなんだけど」
彼女はそう言った。
……ブラック。
あの、デパートで見た、黒い男のことではないだろうか?
「ブラックの姿は遠目だが見かけた。心配ないだろう」
オーアがそう言った。
……遠目?
いや、嘘だろう。すごく、近かったじゃないか。
「え? 姉さま、いつ見たですか?」
クリムも気になったらしい。
「昨日だ」
オーアは短くそう答えた。それ以上語る気はないらしいということがそれで読み取れる。
「ふーん。じゃあうちの班は問題なし、と。じゃあ頑張ってね」
緑のその人は、そう言って通信を切ろうとしたのだが
「あ、お土産よろしくね? お酒のストック切れそうなのよ」
最後に付け足すようにそう言って、笑って手を振ってきた。
「……こっちのものは持ち帰り禁止になってるはずだぞ」
オーアはそう言いながらも微笑を返して、通信は終了した。
「ねえねえ! さっきの何!? テレビ電話!?」
早速綾が食いついてきた。
「ん? ああ、そんなものだ。境界にいる連絡係と連絡が取れるようになっている」
オーアが説明した。
「まあ1番隊の場合ほとんど連絡網は機能してないですけどね」
クリムは遠い目でそうぼやいた。
「なんか怠惰そうな人だったな」
俺が言うと
「エメラは超がつくほど面倒くさがりなんですよ。その割には地上界の物品に目がなくて、どんなルートを使ってるかは知らないですけどこっそり色々仕入れてるです」
クリムはやれやれと溜め息をついた。
「ばれたら境界追放ものだな。私たちも連帯責任を負わされるかもしれん」
オーアはそう言いながら忍び笑いを漏らしている。
……それって笑い事じゃないような。
しかしふと思った。そんなに地上界に興味があるならどうしてあの人は居残りの連絡係なんてものをやっているんだろう、と。
……単に面倒なだけか?
「そういえばサツキ、勉強はしなくていいですか?」
クリムが話を戻してきた。
「う」
俺が唸ると、オーアはそうだったそうだったと俺に向き直った。
「では再開だ。ほらサツキ、まだ課題に対する答え聞いていないぞ」
「まだそれで引っ張るのか!? つーかそもそも知らねえよ貧乳と微乳の違いなんか!!」
……そんなこんなでその日は珍しく、穏やかに過ぎていった。
夜の見回りは、彼女の日課だった。
彼女の相棒のネイチャー探知能力にも限界がある。
実際に見回りをしたほうが出くわす可能性は高いとも言える。
今日も、五十嵐揚羽とシアン・ダーザインは夜の街を歩いていた。
「しかしよ、夜中に年頃の女子が出歩くのはあまり感心できないと俺は思うんだがな」
彼女の傍らにいるティンクチャーがそう漏らした。
「それはどういう意味で?」
揚羽は会話を愉しむように、そう聞き返した。
「いやーほら、変な男に引っかかったりとか……それはないか。女王様はホーテンハーグに興味津々だもんな」
対するシアンも愉快げにくっくと笑う。
が、揚羽はそれをただ聞いているだけだった。
シアンはふと首を傾げる。普段の彼女なら何か言い返してくるはずだと思っていたのだ。
「どうした? もしかしてもう諦めたのか?」
彼がそう問うと、彼女は頭を横に振る。
「まさか。けど瀬川君と彼女を引き離すのも少し難しくなってきたんじゃないかと思って」
真剣にそう呟いた彼女を見て、シアンは思わず吹き出した。
「何よ」
流石に気分を害されたようで、揚羽はシアンを睨み付けた。
「いや。お前の台詞、どこの昼ドラかと思ってよ」
笑いを必死にこらえながらシアンは言う。
揚羽はそんな様子を見て大きく溜め息をついた。
彼女にとっては笑い事ではないのだ。
正式な契約を結んでいないとはいえ、オーア・ホーテンハーグは瀬川五月を選んだということになる。
ティンクチャーにだってこだわりはあるはずだ。
1人を選んだら、他の人間とチャージすることはまずありえないだろう。
「他の手も考えないといけなくなってきたわね。……ほんと、瀬川君たら間抜けに見えて案外抜かりがないわ。どうやって落としたんだか」
揚羽がそうぼやくと、今度はシアンが黙りこんで、彼女をじっと見ていた。
「何よ」
またも彼女が彼を睨むと、
「いいや。お前が他人に嫉妬するなんて珍しいこともあるもんだなって」
彼はふふんと笑って先を歩き出した。
「失礼ね、私だって嫉妬ぐらいするわ。嫉妬心のない人間なんてただの木偶じゃない」
揚羽は不機嫌気味にそう言って彼の後を追い始めた。
(……誰に対する嫉妬なんだか)
シアンは彼女に見えないように苦笑した。
夜の散策は町のサイクリングロードの終わりに近づいて、そろそろ帰ろうかと思い始めた、その時。
「!」
2人は同時に足を止めた。
「……何、これ」
妙な、空気を感じたのだ。
「……ネイチャーの気配、だが」
シアンも言葉に詰まる。
しかしネイチャーの気配にしてはどうも『濃すぎ』る。
集団、なのだろうか。
「様子だけ見よう。これはまずい気配だ」
シアンの言葉に頷いて、揚羽も息を殺して足を進めた。
緑色に塗装されたサイクリングロードの終わりには、小さな広場がある。休憩所だ。
そこに、それはあった。
「……!」
塊、だ。
黒い影の塊。
ネイチャーの集団、なのだろうが形が溶けて合わさったのだろうか、泥のようなものと化している。
しかも。
「……っ」
シアンが舌打ちした。
黒い塊は何かに群がるようにして集っている。
その何か、が彼には分かってしまったのだ。
消えていく同胞の気配。
塊が蠢くと時折散る光の粉は、翼から出る力の残滓だ。
(……翼を出しても逃げられなかったのか?)
その事実に、彼は驚愕した。
そして。
「……また、来た」
こんな地獄にそぐわない、無邪気な肉声が響いた。
「!?」
声のした方を揚羽は見る。
黒い塊の向こう側に、誰かが立っていた。
確認、しなければいけない。
彼女はそう思って足を踏み出そうとしたが、足が震えて先に進めない。
「……アゲハ、ここは退く!」
シアンがそう言って、彼女を抱えた。
即座に飛翔する。
シアン・ダーザインは速度系のティンクチャーだ。
境界でも速さで彼に追いつけるのは【金属色】のティンクチャーのみだった。
つまるところ、【原色】の中で最も速いティンクチャーなのだ。
しかし。
「シアン、右!!」
彼の腕の中にいる揚羽が叫んだ。
即座に状況を理解した彼は、やむなしと翼を展開する。
「……!」
揚羽は思わず息を呑んだ。
ティンクチャーの翼。
各々が象徴する色の光を纏った、荘厳な器官。
彼のそれは、夜の色に透けて光る、深く蒼い薄羽だった。
(……綺麗)
一瞬、この状況を忘れて彼女はそれに見入っていた。
それほどまでに、美しかったのだ。
シアンは翼を展開したことにより、軌道を微妙にずらした。
すると、彼のすぐ右横をとてつもないエネルギーの塊が白刃のようにして掠めていった。
「……あぶねえ」
もう少し反応が遅れれば命はなかっただろう。
冷や汗を感じながらもシアンは翼から供給されるエネルギーをフルに利用して速度を上げる。
全てのエネルギーを逃げることに回したことは、結果として正解だった。
あっという間に空に消えていった青い点を見上げて、彼は呟いた。
「……逃げ足の速い奴だな」
追おうか、とも彼は考えたが
「まあいいか」
そうひとりごちて、黒い塊に向き直った。
塊はまだ蠢き続けている。
「……君達はどうして食べるの?」
彼はしゃがみこんで影に問いかけたが、影は食事に夢中らしく、答えなかった。
彼はやれやれと、空を見上げた。
星が綺麗な夜だ。
いくつもの光の点が見える。
彼にはその点が、金色に見えた。
「……早く会いたいなあ」
そんな星々に何を想ったのか、彼はそう呟いて、夜空に手を伸ばした。
またオーアが変な発言を……。連載前から悩んでた部分なんですけど結局出してしまいました(汗)。
真面目にやってるのかそうでないのかわからないのが彼女です。
ところで一身上の都合によりこれからしばらく更新がスローダウンしてしまいそうです。せっかくこれからってときなのに本当に申し訳ないというか私が不甲斐ないです(汗)。
いつも読んでくださっている方々、ありがとうございます。