陽だまりの癒し、月光の剣
AIを使用した作品です。
連載中のクロッシング・ディメンション・クロニクルに関連した短編です。
意識の淵から私を掬い上げたのは、乾いた薬草の匂いだった。ツンと鼻をつく刺激の中に、どこか土や日の光を思わせる温かさが混じっている。次に感じたのは、瞼越しに滲む、微かな陽光。まるで薄い布一枚を隔てて、世界がゆっくりと白んでいくようだった。
重い瞼をこじ開けると、見慣れない節くれだった木の天井が目に入る。空気が乾いている。森の湿った土の匂いとは違う、誰かの生活が染み付いた匂い。
任務中、森で追っていた魔物の鉤爪が脇腹を抉る、肉が裂ける鈍い感觸。それが最後の記憶だった。状況を把握しようと身じろぎすると、熱を帯びた鋭い痛みが走り、思わず息を詰める。傷だけが、確かな生命力をもって熱く脈打っていた。
「気がつきましたか? よかった……」
穏やかで、少し間延びしたような声。
その声が鼓膜を揺らした瞬間、私の体は思考より先に動いた。染み付いた戦士の反射。咄嗟に懐の短剣へ手を伸ばす。だが、指先が触れたのは硬い革ではなく、柔らかな寝具の感触だけだった。その手は虚しく空を掻き、あるべき場所に相棒はいない。武装は解かれている。
全身の血が、一瞬で凍りつくような緊張に変わった。最悪の事態を想定し、視線を声の主へ向ける。そこにいたのは、心配そうにこちらを覗き込む、一人の青年だった。歳は私とさほど変わらないだろうか。窓から差し込む午後の光が、彼の亜ま色の髪を透かして、輪郭を柔らかく縁取っている。戦士の手ではない、土いじりでもしているような、少し節の目立つ指。そして何より、人の良さだけが取り柄だと顔に書いてあるような、気の抜けるほど穏やかな眼差し。脅威も、害意も、そこにはない。ただ、純粋な安堵だけが浮かんでいた。
「ここはどこだ。何の目的で私を助けた? 金か、情報か」
警戒心を最大限に引き上げ、睨みつけるように問う。この世界で、見返りのない善意ほど信用できないものはない。優しさの仮面を被った裏切りを、私は嫌というほど見てきた。
しかし、青年はきょとんと目を丸くするだけだった。
「目の前で苦しんでいる人がいたら、助けるのは当たり前でしょう?」
そう言って、彼は温かい薬草のスープがなみなみと注がれた木皿を、両手でそっと差し出した。ふわりと立ちのぼる湯気には、滋養に富んだ根菜と、わずかに苦みのある薬草の香りが混じり合っている。使い込まれてすべすべになった木皿は、彼の体温でほんのりと温かい。
だが、私の視線を釘付けにしたのは、彼の瞳だった。疑うことを知らない、あまりに無防備で、愚かしいほど純粋な光。それは、裏切りと計算で塗り固められた私の世界には存在しない色だった。その真っ直ぐな光を前に、私は戸惑い、苛立ち、そして心の奥底に押し殺したはずの何かが、小さく疼くのを感じた。
調子が狂う、とはこういうことか。
彼の名はリアム。森の麓にある「陽だまりの村」で、たった一人で診療所を営む治療師らしい。彼は私の傷が深いこと、そして無理に動けば命に関わることを、専門家の冷静さと、子供に言い聞かせるような優しさの両方で説明した。
私としては一刻も早くこんな無防備な場所から立ち去りたかったが、自分の体がまだ反抗期の子どものように言うことを聞かないのも事実だった。この男の言葉を信じるわけではない。だが、この傷を癒し、万全の状態で任務に復帰することが、今の私にとって最も合理的な判断であることは認めざるを得なかった。
不本意ながらも、私は彼の厄介になることを決めた。傷が癒えるまでの数日間、この警戒を解くにはあまりに長すぎる時間だった。
リアムは私の古い包帯を解くと、新しい薬草を塗り込もうとした。その手つきは驚くほど不器用で、私の肌に刻まれたいくつもの古い傷跡に指が触れるたび、彼は眉を下げて悲しそうな顔をする。
「あなたは…ずっと、戦ってきたんですね」
その問いは、私の強さを測るものでも、探るものでもなかった。ただ、その裏にある痛みを労わる響きを持っていた。思わず彼の腕を振り払いそうになり、できなかった。この男の前では、心の鎧がうまく機能しない。
診療所の寝台から見える窓の外には、貧しいながらも穏やかな村の日常が広がっていた。私は、窓枠を額縁にして、リアムという男を、そしてこの村を観察し続けた。きっとどこかで化けの皮が剥がれるだろうという、冷めた確信と共に。
だが、彼は私の期待を裏切り続けた。
痩せた農夫が、なけなしの銅貨を差し出しても、リアムは「薬草代だけで結構ですよ」と首を横に振る。代わりに、今度畑で採れた野菜を少し分けてほしい、と笑うのだ。幼い子供が転んで膝を擦りむいて泣きながら駆け込んでくれば、彼はまずその子の目線まで屈みこみ、「痛かったね」と頭を撫でてから、手際よく傷の手当てをする。その手つきは、私へのそれとは違って、驚くほど手慣れていた。
日が暮れても診療所の明かりは消えず、彼は遅くまで薬草を煎じている。すり鉢で薬草を潰すゴリゴリという音が、子守唄のように響く夜もあった。彼は誰に対しても平等だった。私のような素性の知れない流れ者にも、村の長老にも、悪戯好きの子供にも、あの気の抜けるような笑顔を向けるのだ。
その全てが、私の心をじわじわと侵食していく。理解できない。だが、目が離せない。この男の行動原理を、私はどうしても知りたくなっていた。
ある日の午後、窓から差し込む光が橙色に変わり始めた頃、私は忠告めかして彼に声をかけた。リアムは昼食もろくに取らず、村人のために解熱剤の調合を続けていた。その肩は落ち、時折よろめきそうになるのを、机に手をついて必死に堪えている。
「馬鹿な男だ。その優しさがお前を殺すぞ」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。それは純粋な忠告というより、理解不能なものに対する苛立ちの発露だった。
彼はすり鉢をかき混ぜる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。そして、いつものように、疲労の色を隠しもせずに穏やかに笑う。
「それでも、誰かの痛みが和らぐなら本望です」
自己満足も甚だしい。私は心の中でそう切り捨てた。救世主を気取って、悦に入っているだけだ。そうに違いない。
だが、私の目は、その結論を執拗に拒んだ。ランプの光に照らされた彼の目の下の隈は、まるで殴られた痕のように青黒い。数日前に見た時より、明らかに頬がこけている。彼が着ている簡素なチュニックは、今や彼の体を覆うには少し大きすぎるように見えた。私が飲むスープにはいつも滋養のある肉や野菜が入っているのに、彼が口にするのは、ほとんど水のような薄い粥だけだ。
その事実が、私の喉の奥に小骨のように突き刺さる。この男は、本気で自分を削って、他人を生かそうとしている。その途方もない事実が、私を混乱させ、苛立たせた。
腹の底から、どうしようもない苛立ちが湧き上がってきた。この男を見ていると、私の世界が、私が生きるために築き上げた全てが、根底から揺さぶられるような感覚に陥る。こんな感情は非効率的だ。思考の邪魔になる。
私はその衝動を振り払うように寝台から立ち上がると、「借りを返すだけだ」と自分にだけ聞こえるように呟いた。
動けるようになった体で、私は森へ入った。そこは私の庭だ。風の匂いを読み、獣の気配を探り、木の葉のざわめきに耳を澄ます。湿った土を踏みしめるたび、絡みついていた思考が少しずつクリアになっていく。
目的は彼の治療に使う薬草。だが、それだけではこの腹の虫が収まりそうになかった。陽の光が届かぬ岩陰に群生する解熱作用のある苔、崖の中腹にだけ根を張る滋養強壮の薬草。それらを危なげなく手に入れると、私は診療所へ戻る道すがら、ふと、嵐で半壊した屋根に目をやった。雨漏りの跡が、壁に染みを作っている。
それを見た瞬間、私はなぜか、道具小屋から梯子と金槌を持ち出していた。慣れない手つきで、それでも持ち前の器用さで、私は剥がれた屋根板を打ち付けていく。トントン、という規則正しい音が、私の心の乱れを鎮めてくれるようだった。
全ての作業を終えた頃、往診から戻ってきたリアムが、屋根の上の私を見つけて目を丸くした。その驚きはすぐに、子供のような純粋な感謝へと変わる。
「セレスティアさん、これは…! なんてお礼を言ったら…」
梯子から降りた私に、彼は駆け寄って深々と頭を下げた。私はその姿から目をそらし、埃を払うふりをしながら吐き捨てるように言った。
「勘違いするな。お前が倒れたら、私の傷の治りが遅くなる。ただ、それだけだ。非効率的だから、手伝ったに過ぎない」
その言葉が、彼にではなく、自分自身に言い聞かせるためのものであることに、私は気づかないふりをした。
ある日、診療所の扉が勢いよく開かれ、息を切らせた少年が駆け込んできた。泥だらけの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。「リアムさん、母ちゃんが…!」。その母親が、昨日から続く高熱で危険な状態だという。リアムは少年の肩を力強く抱き、薬箱を掴むとすぐさま往診へと向かった。
私は一人、静まり返った診療所で彼の帰りを待つことになった。窓の外では日が傾き、村は夕餉の支度の匂いに包まれていく。だが、この診療所だけが、時間の流れから切り離されたように静かだった。薬草の匂い、壁の染み、使い古されたすり鉢。その全てが、あの馬鹿な男の存在を主張している。苛立ちと、得体の知れない不安が胸の中で渦巻いていた。
長い時間が過ぎ、夜の帳がすっかり下りた頃、リアムが戻ってきた。その顔は疲れで青白く、足取りは覚束ない。だが、その瞳には安堵の光が浮かんでいた。
「峠は越しました。あとは薬があれば大丈夫」
彼はそう言うと、震える手で薬草を調合し始めた。その姿を見ていると、私の口から、自分でも予期していなかった言葉がこぼれ落ちた。
「なぜそこまでしてやる。あんたも昔、家族をゼロスの嘆きで亡くしたと村の老婆が言っていたが…復讐心はないのか」
それは、ずっと心の奥底でくすぶっていた疑問だった。私と同じように大切なものを奪われたはずのこの男が、なぜ、こんなにも穏やかでいられるのか。
私の言葉に、リアムの手がぴたりと止まる。すり鉢の中の薬草が、彼の心の波紋のように揺れた。
「…復讐しても、父さんや母さんは帰ってきませんから」
彼は静かに顔を上げた。その瞳には、深い哀しみの色と、それでも揺らぐことのない、強い光が宿っていた。
「僕にできるのは、もう誰も僕みたいな想いをしないように、この手で一人でも多くの人を救うことだけです。憎しみを力に変えても、何も生まれない。でも、この手で誰かを癒すことはできる。それが、僕の戦いなんです」
戦い、と彼は言った。武器も持たない、この不器用な男の戦い。血も流さず、誰も傷つけない。ただ、失われた命を悼み、今ある命を救おうとする。その言葉は、力こそが正義だと信じて生きてきた私の心を、強く、強く打った。
診療所の簡素な棚には、食料と呼べるものはほとんど残っていなかった。干し肉はとうの昔に底をつき、今あるのは一握りの豆と、しなびた根菜が数本だけ。リアムが村人から分けてもらったものだろうが、それも日々の施しで目に見えて減っていた。私に滋養のある食事をさせるために、彼が自分の食を削っているのは明らかだった。
その事実は、私の首をじわじわと締め付けるような居心地の悪さを感じさせた。私は厄介者であり、彼の善意に寄生する存在だ。その現実が、私を苛立たせた。
そんなある晩、夕食の席でリアムがシチューの入った木皿を二つ運んできた。いつもの薄い粥ではなく、貴重な豆と野菜が煮込まれた、まともな食事だ。
私の前に置かれた皿には、具が多めに入っているように見えた。
「私の分はないはずだ」
それは事実の確認であり、かすかな皮肉を込めた問いかけだった。棚の中身を知っているぞ、という無言の圧力。
訝しげに言うと、リアムは一瞬言葉に詰まり、それから「僕の分を半分こにしないと、セレスティアさんの傷が治らないので」と、子供じみた言い訳をしながら、どこか困ったように笑った。その笑顔は、嘘が下手な子供のそれとよく似ていた。
私は何も答えず、無言で匙を口に運んだ。ごくり、と飲み下したシチューは、ただ温かかった。豆の素朴な甘みと、根菜の土の香りが口の中に広がる。味などどうでもいい、と思っていたはずなのに、その実直な味が、凍てついた私の内側をゆっくりと温めていくようだった。ただ、向かいに座る男の存在が、ひどく心を掻き乱す。私は匙を動かす自分の手元にだけ、意識を集中させようと努めた。
「あなたのその銀の髪、月光みたいで綺麗ですね」
静寂を破ったのは、あまりに場違いで、唐突な言葉だった。
顔を上げると、リアムが真っ直ぐに私を見ていた。その瞳には何の企みもなく、ただ、夜空に浮かぶ月を見つけた子供のような、純粋な感嘆の色だけが浮かんでいる。
綺麗、と彼は言った。
私のことを、今まで人はこう呼んだ。「手練れの斥候」「森の亡霊」「レジスタンスの刃」。その全てが、私の生きる術であり、力であり、そして呪いだった。だが、綺麗、だと? そんな言葉は、私の辞書にはなかった。
唐突な言葉に、熱いシチューが気管に入る。
「……っ、ごほっ、けほっ!」
激しくむせ返る私に、彼は「だ、大丈夫ですか!?」と慌てて水を差し出す。その狼狽えぶりに、どうしようもなく腹が立った。
「食べにくいだろう、黙って食え」
水をひったくるように受け取ると、私は悪態をついて顔を背けた。心臓が、うるさいくらいに脈打っている。鏡を見なくてもわかる。きっと耳まで、真っ赤になっているに違いない。この男は、いつもそうだ。いともたやすく、私のペースを狂わせる。
その夜、私は再び悪夢の底に沈んだ。故郷の森が、赤黒い炎に舐め尽くされていく。熱風が肌を焼き、煙が喉を塞ぐ。仲間たちの断末魔の叫びが、耳の中で木霊する。信じていたはずの斥候仲間が、教団から渡された金貨を握りしめ、歪んだ笑みを浮かべていた。「これも生きるためだ、セレスティア」。裏切り者の刃が、私を庇ってくれた長老の体を、背後から音もなく貫いた。どす黒い血が、私の手を濡らす。あの時の、生温かい感触が、手のひらに蘇る。助けを求める声が、すぐ側で聞こえるのに、足が動かない。体が鉛のように重い。
「……っ!」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃で、私は闇から引きずり出された。現実と夢の境が曖昧で、荒い呼吸だけが、自分が生きていることを証明している。冷たい汗が背筋を伝い、寝間着が肌に張り付いて不快だった。
その時、すり鉢を片付けていたらしいリアムが、私の異変に気づいて駆け寄ってきた。彼は驚いた顔をしたが、すぐに心配そうな表情に変わる。
「大丈夫ですか、セレスティアさん」
彼は私の傍らに膝をつくと、薬棚から小さな瓶を取り出し、温めていた湯に数滴垂らした。ふわりと、心を落ち着かせるような優しい香りが立ち上る。
「悪い夢でも見ましたか。…僕には何もできませんが、これ、飲むと少しだけ心が落ち着くんですよ」
彼は、何があったのかと野暮な質問はしなかった。ただ、私の過去に触れるのではなく、今の私の苦痛を和らげることだけを考えてくれている。それが痛いほど伝わってきた。
差し出された陶器のカップを受け取ろうとした私の手が、まだ小刻みに震えているのを見て、彼はそっとカップの下に自分の手を添えてくれた。
「熱いので、気をつけて」
彼の大きな手が、私の冷え切った指先を包み込む。カップ越しに伝わる温もりは、ハーブティーのものだけではなかった。それは、リアム自身の、不器用で、けれど確かな温かさだった。何年も、何年も凍りついていた私の心の奥底。硬い氷に閉ざされ、光さえ届かなかった場所に、その温もりが、小さな亀裂を入れていくのを感じた。
その穏やかな時間は、唐突に引き裂かれた。
最初に気づいたのは、空気の変化だった。夕暮れの穏やかな風がぴたりと止み、代わりに、まるで大地が呻くような、低く不快な振動が足元から伝わってきた。家畜が怯えたように鳴き、鳥たちが一斉に森の奥深くへと飛び去っていく。斥候としての私の全感覚が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。間違いない、あれが来る。
次の瞬間、村の入り口の方角から、空気を震わせる絶叫が上がった。それは人の声ではなかった。ゼロスの嘆きに蝕まれ、憎悪と苦痛だけを撒き散らすために存在する、歪んだ生命体の咆哮。
私が任務で追っていた魔物――巨大な猪に似た体に、ねじくれた複数の角と、爛々と燃える悪意の瞳を持つ異形――が、木々をなぎ倒しながら姿を現したのだ。その巨体から立ち上る瘴気は、陽だまりの村の穏やかな空気を、見る間に淀ませていく。
村は一瞬でパニックに陥った。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。子供を抱きしめ、家に駆け込む母親。農具を手に、震えながらも立ち向かおうとする数人の自警団の男たちもいたが、彼らの覚悟は、魔物が前脚の一振りで粗末な柵を粉砕したことで、絶望へと変わった。誰もが助からないと悟った時、その視線は、異邦人である私へと、祈るように、あるいは非難するように突き刺さった。
冷静な思考が、頭の中で弾き出される。戦力差は歴然。この村を守りながら戦うのは、あまりに分が悪い。死ぬ確率が極めて高い。ならば、取るべき行動は一つ。
私の頭に浮かんだのは、最も合理的で、生存確率の高い選択肢だった。この村で価値があるのは、リアムの治療師としての技術だけだ。他の村人は、感傷を抜きにすれば、失われても替えが効く。だが、彼のような人間は稀有だ。彼を生かすことこそ、未来への投資になる。
――リアムだけを連れて逃げる。それが最善手だ。
「行くぞ、お前だけでも助ける!」
私の声は、命令のように鋭く響いた。思考と同時に体が動いていた。彼の腕を掴む。その布地の感触が、これから見捨てる村人たちの命の重さと、天秤にかかって揺れた。だが、感傷は不要だ。これが最も効率的で、論理的な判断。生き残るための、唯一の正解。
そのはずだった。
リアムは、私の手を強く振り払った。それは物理的な力ではない。彼の内側から発せられた、決して屈しないという意志の力だった。彼はよろめきながら、しかし確かな足取りで魔物の前に進み出る。その頼りない背中が、巨大な魔物と、怯える村人たちの間に、一本の脆い線を引いた。
「僕には、戦う力はありません」
彼の声は恐怖に震えていたが、それでも村中に響き渡った。
「でも…僕の目の前で、僕が愛する人たちが奪われるのを見ていることなんてできない!」
その姿を見た瞬間、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
魔物の咆哮が、故郷を焼く炎の爆ぜる音に変わる。村人の悲鳴が、仲間たちの断末魔の叫びに重なる。腐臭を放つゼロスの嘆きが、あの日の裏切り者の冷たい笑顔を呼び起こす。そうだ、あの時も私はこうだった。目の前で全てが奪われていくのを、ただ見ていることしかできなかった。無力感という名の氷が、再び私の心を凍てつかせる。
だが、その氷を砕いたのは、過去の絶望ではなかった。
恐怖に歪むリアムの横顔。それでも、彼は決して目を逸らさない。その瞳に宿る、愚かしいまでの光。
その光を失う恐怖が、私の全身を貫いた。
この男を失いたくない。
過去の再現ではない。未来の喪失だ。この温もりを、この馬鹿正直な優しさを、この世界から消してたまるか。生まれて初めて感じる、理屈ではない、魂の叫びにも似た激しい衝動が、私の体を突き動かした。なぜだ、などという疑問は、もうどうでもよかった。私の心は、この馬鹿な男のために、確かに痛んでいる。その事実だけで十分だった。
「……本当に、救いようのない馬鹿な男だ」
口からこぼれた呟きは、諦めと、そしてどうしようもない愛おしさに満ちていた。
診療所から持ち出した私物の弓を、強く握りしめる。冷たい木製の感触が、熱くなった私の手のひらに馴染む。弦を引き絞る。ギリ、と弓が鳴る音は、私の覚悟の音だった。
私は、リアムの隣に立った。この温もりを、この光を、今度こそ失うわけにはいかない。
「死ぬなよ、リアム。お前に死なれるのだけは…もう、見たくない」
それは死闘と呼ぶにふさわしい戦いだった。
風を切り、魔物の硬い皮膚を削る私の矢。地を揺るがし、家屋を薙ぎ払う魔物の突進。空気が焦げるほどの瘴気を吐き散らしながら、魔物はその巨体に見合わぬ速さで私に迫る。私は森の民としての地の利を最大限に活かし、縦横無尽に村を駆け抜けた。屋根から屋根へ飛び移り、物陰に潜んで矢を放ち、敵の注意を引きつける。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、開いたばかりの脇腹の傷が熱をもって主張する。新たな切り傷が腕や脚に刻まれ、そこから流れ出る血が土埃にまみれていく。呼吸は浅く、速くなり、肺が灼けるように痛い。それでも、私は矢を放ち続けた。
背後で、リアムが村人たちを安全な場所へと誘導しているのが気配でわかった。彼は戦えない。だが、彼は彼の戦い方で、村を守ろうとしている。その事実が、枯渇しかけたはずの私の力を、心の奥底から無理やり引きずり出した。守るべきものが、背中にある。それは、かつて私が失ったものとは違う、温かくて、少しだけ不器用な、確かな光だった。
魔物が最後の力を振り絞り、咆哮と共に私に突進してくる。私は最後の一矢を番え、全神経を矢の先に集中させた。放たれた矢は、吸い込まれるように魔物の眉間、唯一の急所へと突き刺さる。
巨体が轟音と共に地に伏し、断末魔の叫びが夜のしじまに吸い込まれていった時、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。視界が急速に白んでいき、体の力が抜けていく。地面に崩れ落ちる寸前、必死の形相で駆け寄ってきたリアムが、私の体を強く抱きとめた。
「無茶をするからです…!」
彼の腕の中で、私は安堵にも似た意識の混濁を感じていた。土と血の匂いに混じって、彼の匂いがする。涙で濡れた彼の頬が、私の額に触れた。震える声は、怒っているのに、どうしようもなく優しい。
私は彼の腕に体を預けたまま、ゆっくりと夜空を見上げた。そこには、ただ静かな月と、数えきれないほどの星が瞬いていた。まるで、この村で起きた惨劇など、何もなかったかのように。そのあまりの美しさに、私はそっと目を閉じた。
ランプの灯りが一つだけ灯る診療所は、驚くほど静かだった。外の喧騒が嘘のように、ここだけが世界の嵐から切り離された聖域のように感じられた。薬草の匂いと、微かに残る血の匂いが混じり合う中、リアムが私の傷の手当てを続けている。
彼は一言も発さなかった。ただ、その表情は雄弁だった。安堵、恐怖、そして私への深い感謝。それらが入り混じった複雑な色を浮かべながら、彼は傷口を清め、新しい薬草を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。その手つきは、もう不器用ではなかった。彼の全霊が、その指先に込められているようだった。
長い沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「ありがとう」
ぽつりと、夜の静寂に落ちたその言葉は、あまりに小さく、しかし私の心にはっきりと届いた。
私は、壁に背を預けたまま、かろうじて声を出した。
「……非合理的な選択だった」
それは私の本心であり、同時に、この胸に芽生えた感情から目を逸らすための、最後の抵抗だった。我ながら、いつもの刺々しさのない、か細い声が出たと思う。
リアムは、私の足首の傷に包帯を巻く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。ランプの光が、彼の涙に濡れた瞳を照らし出す。
彼は、私の言葉を否定するように、そっと首を横に振った。そして、戦いで泥と血にまみれ、ささくれだった私の手を、彼の両手で、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと包み込んだ。
「そうかもしれません。でも」
彼の声は、まだ少し震えていた。
「あなたのその非合理で、無茶で、どうしようもなく優しい選択が、僕の心を…僕を、救ってくれました」
その温もりに、私は息を呑んだ。ただ温かいだけではない。それは、人の手の温かさだった。裏切りも、打算も、偽りもない、ただ一人の人間が、もう一人に寄せる、純粋な想いの温かさ。
私は、その手を振り払うことができなかった。リアムの手に包まれた自分の手が、小刻みに震えていることに、自分だけが気づいていた。それは寒さからでも、恐怖からでもない。凍てついた大地が、春の陽光を受けて、初めて雪解けを迎える時のような、そんな震えだった。
夜空を巡っていた三つの月が西の地平に姿を消し、入れ替わるようにして東の空が白み始めた頃、別れの時が来た。村の男たちが魔物の亡骸を片付け始め、女たちが壊れた家屋を修繕している。金槌を打つ乾いた音が、夜明け前の静かな村に響き渡る。陽だまりの村は、深い傷を負いながらも、また新しい一日を始めようとしていた。その力強さが、今は眩しく感じられる。
私にはレジスタンスとしての戦いが待っている。リアムには、この村を守り、癒すという使命がある。私たちは最初から、違う道を歩む人間だった。この数日間が、奇跡のような例外だったに過ぎない。二人の道が、この先永く交わることはないだろう。互いに、それを痛いほど理解していた。
旅支度を整え、弓を背負った私を、リアムは診療所の前で見送った。彼の目の下には相変わらず隈が残っているが、その表情は不思議なほど晴れやかだった。
「セレスティアさん」
旅立とうとする私を、彼は呼び止めた。そして、少し照れくさそうに、革紐で口を縛った小さな布袋を差し出した。中からは、静心の花を乾燥させた、心を落ち着かせる香りがする。
「あなたが、もう悪夢にうなされないように、と。…その、僕にできるのは、これくらいですから」
「気休めだな」
私はぶっきらぼうにそう言って、そのお守り袋を受け取った。ざらりとした布の感触と、彼が込めてくれたであろう不器用な優しさが、手のひらに伝わる。
「だが…」
私は彼の目をまっすぐに見つめた。彼の瞳に映る、銀色の髪の女。それは、私が知らない私だった。ただの戦う道具ではない、誰かに守られ、そして誰かを守りたいと願った、一人の女。
「悪くない」
その言葉は、ほとんど吐息に近かった。けれど、それは紛れもなく、私の本心だった。
私は一度だけ、本当に柔らかく微笑んでみせた。リアムが息を呑むのがわかった。それで十分だった。これ以上言葉を交わせば、きっとこの足が動かなくなる。私は彼に背を向け、森へと続く道を、一度も振り返らずに歩き出した。
再び、私は孤独な斥候に戻った。森の木々は、以前と同じように私を迎え入れる。背負った弓の重さも、腰に下げた短剣の冷たさも、何も変わらない。変わったのは、私だけだ。
胸の奥深く、今までただ凍てつくだけだった場所に、小さな熾火のような温かさが宿っている。無理に消そうとすればするほど、それは存在を主張するように、じんわりと熱を放つ。リアムにもらった薬草袋を、革鎧の下、心臓に一番近い場所にしまい込む。指先に触れる布の感触と、微かな薬草の香りが、あの村での出来事は夢ではなかったのだと教えてくれる。
信じることは、弱さだと思っていた。期待は、絶望への近道だと知っていた。だが、あの馬鹿正直な治療師は、その全てを覆してしまった。彼の戦い方が、私の戦い方を変えた。これからは、ただ生き残るためだけに、力を使うことはできないだろう。
ふと、遠くで獣の咆哮が聞こえた。いつもの私なら、気配を消し、やり過ごしたはずだ。だが、私の足は止まっていた。胸に手を当て、薬草袋の温もりを確かめる。心の中の熾火が、ちろりと揺らめいた。
そうだ、私は孤独な斥候だ。だが、もう空っぽではない。
今、私の目の前では、またあの日のような光景が繰り広げられている。神の末裔だという、およそ信じがたい青年、ユウマ。彼は、私があの時見捨てようとした村人たちと同じように、非力で、無力で、そしてどうしようもなく救いを求めている人々を前に、決して諦めようとしない。
「一人だって見捨てない!」
彼の叫びは、あまりに青臭く、非現実的だ。合理性のかけらもない、ただの感傷。いつもの私なら、鼻で笑って背を向けていたはずだ。
だが、その言葉は、私の心の奥深く、熾火のように残る記憶を揺り起こした。そうだ、あの男も同じことを言っていた。恐怖に震えながらも、決して引かなかった、あの不器用な治療師も。
なぜ私は、この無謀な異世界人たちに付き合っているのだろう。その問いの答えは、とうの昔に出ていたのだ。
革鎧の下、心臓のすぐ側にある小さな薬草袋の温もりを、私は指先で確かめる。
私は、あの時誓ったのだ。この光を、今度こそ失わない、と。
ユウマの瞳に宿る、あの男と同じ、愚かしいほどに真っ直ぐな光。それを守ることが、今の私の、非合理的な戦いなのだ。