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続 浮き石

作者: ジャンダルム

本編は、浮き石の続編である。岳で起こった転落死を巡って、退職した元刑事が推理する。


 続 浮き石



 岡島洋司は、定年退職している元刑事の塚田を訪ねていた。


「一体どうした」


「はい。僕個人の立場で、もう一度根室吹雪の真実を見極めたいものですから」


「そうか。君もそう思っていたか」


「はい。吹雪を直接脅迫していた黒河には、転落死という形で復習を果たしたと思われます」


「しかし、主犯格である支店長の藤巻豪と黒河の妻である麻矢は、獄中とはいえ今も健在です。根室吹雪がこのまま復讐を諦めたとは、僕にはどうしても思えないんです」


「その、思えないという理由は何だ」


「あそこまで、吹雪の運命が翻弄され、たった一つの希望さえ断たれた。吹雪には、これ以上失うものは何一つありません。全てを失った人間ほど恐ろしいものはないと、僕もそのように教育されました。いまの吹雪も恐ろしい状態だと思います。だから、浮き石という未必の故意ともいうべき、完全犯罪を成功させたと考えざるを得ません」


「本当に、未必の故意だろうか」


「俺は、偶然の方が高いと思っている。あの崖際を観たあと、そう確信した。登るにつれ、いくつもの浮き石なるものが確かに連なっていた。だが、その中で本当に崩れる危険石が、一体いくつあっただろうか。吹雪が、連なる浮き石群の中で、ピッケルだけを頼りに、崩れる危険石を判別していたとしても、英雄がその石に体重を掛ける瞬間、回避できるのではないだろうかと推定した。ぐらつく瞬間に、掛けた足を元に戻せばいいだけの事だ。俺ぐらいの年齢であれば分からないが、若い英雄には決して難しい技ではなかったと思う」


 塚田の庭には、浮き石に見立てた大きな石が、不安定に置かれていた。それを指して「君も試してみるといい」そう言って示した。


 岡島は、言われるままに足を掛けてみる。その瞬間「確かに、ぐらつき具合が分かります」そう確認した。


「それでも。例えば、写真を撮るからなどと言って、その石に直立させるとかは、出来ないでしょうか」


「可能性としては、否定できない。だが、ぐらつく石に立たせた事を、どうやって証明する」


「そうですね。この時点での証明は不可能です」

「ただ、この件の背景から観る限り、英雄を岳の崖の際にまで連れ出して来ているわけです。英雄にしてみれば、脅迫した相手から連れ出された事になります。あの断崖絶壁を観た瞬間、吹雪への警戒心と恐怖心が起こらない筈がないと推定しました。そんな状況の中で、転落に至るまでの計画性と実行力を思えば、吹雪の能力の高さには驚かされます。いえ、僕なんか敬服するぐらいです。そんな高い能力を以って転落を成功させた」


「しかし、未必の故意が証明されない限り、転落を仕組んで成功させたとは言い切れない」


「でも、吹雪は嘘を言っています。竹内さんには、黒河英雄とは初めて知り合ったなどと供述していながら、実は以前からの知り合いで、脅迫までされていた」


「いや、この場合の嘘は、捜査を銀行の汚職事件へと導く為もあった。結果として、これこそ大成功している」


「転落の時、正直に以前からの知り合いでした、などと言っていれば、捜査の眼は不倫に向かっていたはずだ。その間に、支店長の隠蔽工作に時間を与える事になる」


「つまり、時間稼ぎになると」


「そういう事だ。吹雪の立場から言えば、捜査への信頼度が薄らいでいるんだ。それを踏まえたうえで、捜査の行方を汚職へと向かわせた。この読みの深さは、確かに常人にはない」


 岡島は深く頷く。「そんな能力を持った吹雪が、主犯格と共犯者をこのまま放置するでしょうか」



 塚田は暫く沈黙していたが「幼い娘はどうしてる」と尋ねた。


 岡島は「娘」と言ったあと、我に返ったように「黒河の親戚が、面倒を看ているそうです」と答える。


 そして岡島は「そうだ。孤児という苦境をなめてきた吹雪に、親のいない苦しさを予見できない筈がない。それを承知のうえで、黒河を転落死させた事になる」と冷酷さを示唆した。


「俺は、直接会ったわけではないが、苦境の中に居た吹雪に冷酷な復習が出来だろうか。君の考えとは逆になってしまったが、やっぱり吹雪は汚職事件へと導く為だけの登山だったと捉えれば、嘘も含めて辻褄の全てが一致する」

「そんな中で起こった転落事故なんだ」


「岡島君。これ以上は可能性の上に可能性を重ねる事になる。それよりも、この場は現実に戻って、根室吹雪の母親と義父が亡くなった辺りから、詳しい情報を聞かせてくれ」


 岡島は「はい」と言ってお茶を啜る。

「その当時の吹雪は、小学校の六年生でした。生まれ故郷の釧路には、父親が残した小さな家と、敷地に隣接する小さな畑が吹雪の全財産です。吹雪は親戚をたらいまわしにされたあげく、差別と虐めの中で成長するしかありません」


「親戚が何故、差別と虐めをする」


「僕も、詳しくは分からないのですが、北海道のその地域には古くから陰湿な差別や虐めの歴史があるようです」


「いや、どこにでもある」


「しかし、俺の知識の限りを言うと、北海道は屯田兵が拓いた歴史でもある。その屯田兵とは、全国各地からやって来た下級武士だ。殆どは貧困と、上位からの差別とか虐めから逃れる為の移住でもあった」

「ところがその子孫たちが、先祖が苦しめられてきた差別と虐めを、この現代で行っている。それは、階級の上位へと駆け上がる為に、最下位という階級を新設した事が起因する。当時の下級武士が、差別されない虐めの無い世界を目指す余り、立場が逆転した。何と皮肉な事か。その犠牲となったのが先住民族だとも言われている」

「これが、君の言う差別や虐めの歴史だと思う」


 それには答えず「吹雪は、その親戚で、掃除から洗い物に至る家事の全てにこき使われました。そのくせ食事は、みんなの残り物。いつもひもじい思いをしていたと言います。また、着るものなどは買ってもらえず、小学校からの物を、中学生になっても着続けなければなりません。手足の露出した小さい衣類は、寒い北海道では生死に関わる極限でした」と、説明した。


 塚田は暫く腕組みしていたが「俺は、差別とか苛めとかいう話を聞くと、虫唾が走る」と、怒りを露わにした。


「吹雪を引き取った伯母夫婦が、特に酷い仕打ちをしていたようです」

「伯母は、工事現場で亡くなっている父親と母親の結婚に、激しく反対したそうです。その為の嫌がらせなのか、何かにつけ吹雪には、夫の肩書を突き付けては家柄を汚すなとか、早くこの家を出ていけなどと執拗に迫ったといいます」


「行き場のない中学生の子供に、出て行けと叫ぶ伯母の姿が観えるようでした」


「結局、吹雪は二年生の春に、自ら施設への入所をしてしています。しかしその施設に、別の親戚がやってきて同じ年の秋に引き取られたそうです。その後もまた別の親戚へと引き取られ、翌年の春には再入所している施設から、また別の親戚へと繰り返されています」


「その吹雪が高校生なっても、たらいまわしは続いたそうです。そうでなくても、食べさせてもらえない育ち盛りの吹雪は、父方の遠縁にあたる土産物店を頼りました。ひもじさの余り、買い食いをしないわけにはいかなかった。その為の小遣い稼ぎとして、中学生のうちからアルバイトをしていたそうです」


「こうして、三年生の春を迎えると、全財産を剥ぎ取られるようにして、卒業しました」


「その剥ぎ取りを扇動したのも、同じ伯父伯母だといいます。しかも、市役所職員の伯父である富原万造は、ネットワークを構成する組合を通じて、吹雪の血筋を流布していました」


「そのため吹雪は、持ち帰ったハンバーガーの間に、使用したばかりのティッシュが入っていたり、店員が吐き出した痰が具材の中にべっとりと付着していました。酷かったのは、麺類の中にミミズが這っていたというバイト先の証言があります。これだけではありませんが、あとで詳しく話します」


「これが伯母から受けた仕打ちですが、陰から操っていたのは夫である市役所職員の万造です。市役所から、吹雪の血筋を吹聴したのです。市役所が言えば、その全てを信用する常識があります」

「その血筋というのが、塚田さんの言われる先住民族の事だと思います」

「工事現場で亡くなった吹雪の父親には、その先住民族の血が入っていたからです」


「伯父は、その事が何よりも気に食わなかった。これが、吹雪を差別し虐め抜いてきた理由です」


「痰を挟んだハンバーガーも、ミミズが入った麺類も陰湿な差別と虐めも、市役所職員の伯父に予見できない筈がない。いえ、虐めへのメカニズムを知っているからこそ、ネットワークに流したんだと推測しました」


「また、こうした事態を止めようともしなかった親戚一同は、吹雪の財産目当てに便乗したのだと思います。みんなで分けようぜ、なんて声が聞こえてきそうでした。こんな親戚をハゲタカと呼ばすして、何と呼べばいいのか訊いてやりたいです」


「以上が、母と義父を失ってから上京するまでの経緯です」



 塚田は記憶を辿るように言う。「では、黒河一族と妻である麻矢の事を少し遡って話すとしよう」


「まず、黒河英雄があの銀行へ就職すると、一年先輩の佐山正が居た。英雄は、人望のある佐山に、さっそくライバル心を燃やした。何とか蹴落とせないものかと、策を巡らせる」


「だが、佐山には敵なる者が居ない。ただ一つ、誰からも好かれる佐山こそ気に食わない奴と、藤巻豪が敵視していることを察知した。また、藤巻とは何となく気が合いそうで、英雄自身も積極的にアプローチした」


「同時に、佐山正の婚約者こと根室吹雪は、黒河英雄に脅迫されていた。理由は、佐山正が銀行の金を着服しているという。勿論、黒河の擦り付けで、自分の罪を佐山正に着せようとしていたからだ。だが、結婚を控えた二十一歳の吹雪は、黒河の言葉をこの時ばかりは信用してしまった」


「竹内君の供述にあった、以前からの知り合いだったとは、この情況を言っているんだ」


「そして、不幸を背負う為に誕まれてきたような吹雪は、多くの修羅場を体験していた。その修羅場からは、いくつもの教訓とも言うべき教えもあっと思われる。教えは、こんな絵に描いたような脅迫など、きっと何か裏があるに違いないと想定させた」


「働き盛りの男にとって狙うものとは、出世欲金欲の次は性欲だ。予想通り、黒河は、秘密を守る代わりにと、身体を要求してきた」


「だが断れば、支店長の威を借りる黒河のことだ。正の未来に悪影響を及ぼすは必至だった。追い詰められた吹雪に残された選択は一つしかない」


「これまでの経験から俺は、窮鼠猫を噛むではないが、人間(ひと)の本性を嫌というほど見せつけられてきた吹雪にとって、立ち向かうことしか残されていないという選択を余儀なくされた」


「ここまでが、竹内君から引き継いだことだ」



「引き継いだ時の俺は、次は支店長の藤巻豪そして黒川麻矢への復讐があると、君の考えと同じだった。ところが俺たち二人の捜査で、今は獄中だ」


「これには、吹雪自身が驚いたことだろう。これでは、藤巻も麻矢にも手が出せない。出てくるのは主犯格の藤巻が十五年後、麻矢は六年後だ」


「これでは、復讐を果たすのは六年後と十五年後になるという事ですね」


「まあ。そうは言っても、六年以上もある。それまでに時間が解決してくれるという道も残されている」


「ところで、この大都会にも北海道と関係ある人は少ない。その中には、食べ物屋を営んだり、食品関係の店や従業員として生計を立てている人たちもいる。そんな人たちは、今も生まれ故郷の北海道との連絡がある筈だ。その連絡網に、吹雪の事が流れるとどのような事態になるかは想定の範囲内だ」


「北海道を出た事で、無くなったと思っていた筈の差別と虐めが、この大都会にまで追い掛けて来た。何一つ抵抗できない吹雪に対して、ハンバーガーやら麺類やらの、悪質な嫌がらせがまた始まった。全くなんて叔父だ。またこんな理不尽を許している社会の在り方にも疑問を感じる」

「さっき、詳しく話すといったのは、追い掛けて来た吹雪へのヘイトとも言うべき事だ。吹雪の伯父は、大都会に居る北海道関係者を通じて、差別とその他を扇動した」


「十八歳の女の子を再び陥れたんだ」

「市役所職員の伯父ともあろう者が、こんなにも執拗な扇動をする。だったら、小学校六年の吹雪を何故引き取った。それは、虐めるのが目的なのか。虐めることで己の憂さを晴らすためなのか。などと思った」


「虐められてきた屯田兵の子孫が、苦境を忘れていじめる側へと転じる。このメカニズムはどこから来るんだろうと考えたとき、階級制度という答えらしきものが観えてきた」


「いつの時代にも、どこへ行っても階級制度は存在する。その階級が差別を生むんだ。差別は虐めを呼ぶ」


「公務員の世界こそ、厳しい階級制度だ。即ち虐め社会だ」

「その延長が、市民に影響する。伯父の富原万治は、妻の妹である娘を差別するために扇動してきた。差別も虐めも何一つ生産しない。あるのは共存への足枷であり、社会の寄生虫だ」



 五年後。塚田の携帯が鳴った。


 岡島からだ。「塚田さん」

「黒河麻矢が死にました」


「え。どういうことだ」


「それが、獄中で体調を崩して入院していたそうです。診断は肝臓ガンでした」

「それで、専門医の居る都内の大学病院に転院したところ、急に症状が悪化して、今朝の四時過ぎに亡くなったことを知らせてきました」


「分かった。それで間際の様子はどうなんだ」


「それがですね、直前まで苦しみ抜いて死んだそうです。抗がん剤が全く効かなくて、看取った医者や看護師も、首を傾げたと聞きました」


「それでは、別の病気だったという可能性はないのか」


「はい。医者も看護師も首を傾げたというのは、抗がん剤が効かなかった事への疑問であって、看たてに対する疑いではありません。尚もガン以外の病気では絶対にないと、言い切っています」


「そうだったか。あの時、君も言っていたように、根室吹雪の動きが気になっていた」

「どうだ。何か変化はあったのか」


「いいえ。変化は全くありません。五年前と同じように、佐山の実家が世話したアパートから、養護学校の事務職員として今も通い続けています。そして……


「そして、どうした」


「はい。休日には正の親の世話をしたり、墓参りに通っていると報告がありました」


「その通っているとは、毎週という意味か」


「いいえ。月に2~3回ほどのペースだそうです」


「そうか。では、故郷の釧路とか根室とかに帰郷することはないと、思っていいのかな」


「そこまでは、解りませんが、汚職事件の判決が下った翌年の春には、珍しく四日の休暇をとったそうです。休日と合わせて六日間になり、帰った時には職員全員に、北海道土産の菓子を配っていたといいます」


「他にも長期休暇を取った可能性はないだろうか」


「はい。現時点では分かっていせんが、盆正月には5~6日間の休みがあるわけですから、それを利用すれば可能性が無いとは言えません」


「塚田さんは何を仰りたいのですか」


「まだ推測の段階だが、主犯格の藤巻豪に何かあれば、吹雪の伯母夫婦にも何かの動きがあるのではと思った」


「つまり塚田さんも、吹雪が伯母夫婦への復讐も考えている、という事でしょうか」


「そこまで明言するつもりはない。だが、嫌がらせをしていた伯母夫婦の様子見をしたり、先祖や母親と義父の墓参りをすれば、それは何かを決意した証ではないだろうか」


「それにしても、この件は俺にとって、余りにも気が進まない。どうしても、根室吹雪が憎めないんだ」

「僕にも同じ思いがあります」


「きっと竹内君にも、同じ思いがあったと思う」


 すると岡島は「あ」と、声を上げた。

「あります。間違いなくあったと思います。僕が、訪ねて行った時(黒河の転落は、神様の仕業)だと、ぽつりと、漏らしたのを覚えています」

「何故あの時、そんな事を言うのかと思いました。いま考えると、吹雪に同情する気持ちが働いたからではないでしょうか。だから、突然神様が出て来た」


 塚田はため息を漏らすように「そうだったか。神様が」と呟いた。

「それで、竹内君はいまどうしている」


「いまは、子育てに追われているようです。ちなみに女の子で、名前は情子(せいこ)ちゃんです」


「そうか。せいこちゃんか。もうすぐかわいい盛りだろうな」


 その二日後、またしても塚田の携帯がけたたましく鳴った。

「岡島です」


「どうした」


「今度は、支店長の藤巻豪が入院しました」


「入院したとは…で、容体はどうなんだ」


「同じです。黒川麻矢と全く同じ症状で、肝臓がんの疑いがあるとの事です」


「それで、入院先は」

「はい。それがですね、いま居る病院から、麻矢と同じ大学病院に転院されるそうです」


「俺の今は一般人だ。その病院に行って藤巻の容体を直接看る事は出来ない。だから、ちょっとした事でも気になる事があれば知らせて欲しい」

「分かりました。いえ、僕の方から捜査への助言を要請しますので、逐一報告させて下さい」



 その翌日「岡島です。いま担当医との話ができました」

「担当医が言うには、現在黒河麻矢の司法解剖の手続きをしているそうです。それは、肝臓がんではなく別の疑いがあるという理由からです。担当医は、麻矢の症状と酷似している事で、関連性を懸念しての解剖だと聞きました。結果が判明するのは明日の午後になるそうですが、寄生虫の疑いを示唆しています」

「寄生虫。それはどんな」


「エキノコックスだそうです。エキノコックスによる感染症を疑っているようです」

「ご存じですか」


「一応は知っている」

「肝臓に病巣をつくって自己抱卵するんだ。まるで地球上の生物ではないような恐ろしさがある。発症するまでには十年以上の潜伏機関があるとも言われている」

「だから、当初は北海道の風土病のように思われていた」


「え。北海道の風土病ですか」

「いや、開拓当初のことだ。その後エキノコックスの幼虫が発見された事で、感染症と認識されるようになった」


「根室吹雪も北海道です。と、いうことは、吹雪が関係している可能性があるのではないでしょうか」


「ないね、全くない」


「繰り返すが、エキノコックス症候群の潜伏期間は、十年以上だ」

「藤巻豪も黒河麻矢も判決が下りてから、まだ五年しか経っていない。発症させるには、現在から十年前に遡らなければならない。十年前と言えば、根室吹雪は高校に進学した頃だ。黒河英雄も麻矢も、藤巻豪とも知り合うずっと前の事だ。勿論、最愛の佐山正は、その存在さえ知らなかった」


 溜息が、こんどは岡島の口から洩れた。「そうでした。塚田さんの仰るとおり、吹雪が関係するなどはあり得ません。物理的に有り得ません」



 その日の夕方岡島は、塚田の自宅に来ていた。「やっぱり君も、そう考えるか」

「その範囲のどこかに犯人が居る。と、いう消去法は、捜査上から言えば、これほど確かで効率の良い方法はない。だが、犯人がどこかに居るという前提は、冤罪を発生させる」


「そろそろ、疑わしきは罰せずの原点に立ち返る。そういう選択肢もあって然るべきではないだろうか」



 翌日の夕方「やっぱりエキノコックス症候群でした。麻矢はこの寄生虫に感染していました。そして、藤巻豪の診断も同じだと断定されました」と、報告した。


「やっぱりそうだったか。エキノコックスは肝臓を肥大化させるんだ。その病巣がガンに似ている。だから、前例のない本州などの病院では、肝臓ガンと間違われやすい」


「藤巻豪も、麻矢と同じように苦しんで最期を迎えるんだろう。吹雪にしてみれば、図らずも復讐を果たしたことになった。俺はこの結果に、君も言っていた因縁のようなものを感じる」


「はい。もう一つ、吹雪の伯母である富原悦子が上京したという記録が発見されました」

「いつの事だ」


「藤巻豪と黒川麻矢との裁判が始まる一週間前には、都内に宿泊していました。ところが、裁判所には現れることなく、十日後にホテルを引き払っています」


「十日とは、ずいぶん滞在していたもんだな。それで、その十日間は何をしていたんだ」


「分かっていません。行動監視の対象外でしたので」


「そうか。ではなぜ分かった」


「別の事件がありまして、宿泊名簿から北海道釧路という地名を、偶然にも発見しました」


「そうだったか」

「ところで、伯父の富原万造の役職は分かるか」


「局長です。何か気になる事でも」


「突然だが、外から観る世界が綺麗なほど、内側は汚い」

「特に役所の上位になるほど、陰謀と裏切りの中で凌ぎを削っているんだ。富原万造もその一人と思われる。恐らく周囲からは、隙さえあれば何にでも付け込んで、転覆を図ろうと狙われているはずだ」

「そこで、どうだろう。陰から操っていたのは伯父だった、という君の言葉を思い出してくれ」


「富原万造は、家庭はもとより妻の悦子を、厳しく支配していたのてはないだろうか」

「悦子は、その支配に従わざる得なかった。だから、一見すると伯母である悦子が、酷い虐めをしているように観えたんだ」


「それに加えて、富原万造の置かれた環境を思うと、吹雪を差別して虐める事を、他に知らしめることで、自分への転覆を交わすという効果を狙っていたとも言える」


「いくらなんでも、伯母にしてみれば姪っ子だ。単に虐めではなく、もっと強い力が作用しなければ、酷い差別や虐めへの発展はない」

「強い力とは、富原万造の支配力だ」


「そして、厳しい競争に晒されているような人物は、ストレスの捌け口として弱い者を虐める性を持っているもんだ。そうした中には加虐心という本能のまま、弱い者を弄ぶ奴までいる」


「残念だが、今いる我々の世界では、そいう心無い奴を測定できる物差しが無い。EQがそれに近いとは思うが、まだ広く認知されていない。役所の局長クラスともなれば、既存の試験に加えてEQの試験があって然るべきだが、そのような動きは全くない。このまま無法状態を見守るしかない。と、いうのが現在の現状だ」



 二日後、岡島が高価そうなアタッシュケースから、封筒に入った書類を取り出した。

 コピーですと言って塚田に渡す。


 塚田は、煩わしそうに老眼鏡を取り出して言った。「なんだって、富原悦子が、吹雪のアパートやら、職場の様子やらを眺めていた、とあるではないか」


「はい。そうなんです。まるで、嫁に出した娘を心配して、物陰から見守る親のようでした。と、報告されています」


「塚田さんの言われる通り、夫の万造に妻の悦子は支配されていた。それまで虐め抜いてきた事に、良心の呵責に苛まれ、その結果として吹雪を気遣っているのではないでしょうか」


 岡島は、自ら納得したように「これを見て下さい」そう言いながら、別のコピーを渡した。

「そこには、吹雪が上京して間もなく、伯母の悦子と思われる中年女性が、吹雪の居るアパートに現れています。そこの大家に、北海道土産と共に、何かあったときは是非とも知らせて下さいと、連絡費用と称して過分なる現金を置いて行った」

「ただし、わたくしが来た事はくれぐれも内緒にしてほしいと、言い残して帰ったと、報告しています」


「その後も、また上京したという記録はないだろうか。特に黒河や藤巻と、佐山正の間に険悪な空気が出始めた頃は、どうだろうか」


「はい。その事は自分も気になって、この眼で直接調査しましたが、その後の状況は見つかりませんでした」


「塚田さんも、悦子がエキノコックスとの関係を想定しているのでしょうか」

「まぁ、一言でいえばそういう事になる」


「いまの俺は、これまでの想定や推測の全てを翻してでも、悦子とエキノコックスとの関係を見直したい」


「だが、吹雪の危機を知っていたと仮定して、悦子が上京したと想定され得る年から逆算すると、九年前だ。エキノコックス症の潜伏期間は十年以上だ。この一年の違いは何を物語る」



 岡島は、藤巻豪の担当医を訪ねていた。


「え。先生は否定されないんですか」


「潜伏期間は十年から二十年と言われていますが、これは数学ではありません。十年の筈が九年に縮まったとしても、起こり得ると考えられます」


「ちなみに、いないとされる本州でも、エキノコックス症の発症例はあります。かつて北海道に居住していたとか旅行したなど、関わりの無い人でも起こり得るのが、エキノコックス症候群という病気なんです」

「それから、藤巻豪さんは助かります」

「ただし、健常者と同じ社会生活を送ることは出来ないでしょう」


 翌日の朝、岡島は以上の事を塚田に報告した。


「富原悦子が何らかの方法で、藤巻豪と黒河麻矢にエキノコックス病原体を摂取させたという証拠が、どうしても出てきません」


 塚田は少し笑いながら「また、消去法に戻っているぞ」と指摘する。


「済みません。つい、こんなふうに考えてしまうのも、刑事としての性なんでしょうか」


「そうだね。一旦身についた癖はなかなか戻せないもんだ。これは、そのように教育してきた側にも責任の一旦がある。だが若い君たちには、正しいを選択する自由が残されているじゃないか。時代は少しずつ変化していくものだ。倦まず撓まず、一歩ずつ進んでいけばいいさ」


 岡島は「根室吹雪を脅迫してきた黒河英雄は、転落死している。その証拠を証明する事も出来ませんでした。竹内さんが言っていたように、僕も神様を感じます」と呟いた。


「次に、屋上から突き落として殺害した藤巻豪は、エキノコックス症という重篤な病に犯されている。その病気が、この男の鉄格子になった」


「共犯者の黒河麻矢は、同じエキノコックス症で既に死亡」


「この発症原因については、いまだ不明」


「この一連を思うと、共通しているのはただ一つ、根室吹雪に良からぬ仕打ちをした人物に限って、将来を失ったり死んだりしています。この全ても偶然なのでしょうか」


「俺は君に対して、岳で起こった黒河英雄の転落死は、偶然の確率が高いと言ってきた」

「それに比べ、エキノコックス症と、岳での転落事故は、余りにも性質的な違いがある。この件に関しては、偶然起こった事故であると今も思っている」


「だが、本州におけるエキノコックス症は、人為的作用がなければ起こり得ないと確信がある。だが証拠も無ければ証明もない」


「あるとすれば結果のみだ。それを見極める為に北海道釧路の署と連絡とってくれ。早ければ早いほどいい」


 一時間後。

「塚田さん。富原万造は死んでいます。一週間前、容体が悪化して再入院していたそうです。病巣が全身に拡がっていて、外科的手術では取り切れなかった。二日前の午前四時に息を引き取ったそうです」


「午前四時………


人間には、分かち合うタイプと奪い合うタイプがある事を認識して欲しい。

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