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「あの子コンプレックス」著者:万葉

参照曲:「あの子コンプレックス」(=LOVE)

 残業を終えた彼から、帰宅の連絡がきたので、ご飯を温めなおしながら「お湯はり」と書かれたボタンを押した。ここ最近、彼は残業続きで半年前に始めた同棲生活もすれ違いが続いている。私はシフト制でブランドショップの店員をしていて、彼は有名企業の総合職。生活が合わないのは想定していたけれど、まさかここまでとは思わなかった。

 玄関で鍵が開けられる音がして、急いで廊下を通って玄関に迎えばスーツ姿で疲れた表情の彼がいた。


「おかえり」

「ただいま。いい匂いする」

「肉じゃが作ってみたから、早く食べよう」


 その言葉ににこにこと頷いた彼が私の目の前を通って、リビングへ向かおうとしたとき。ふんわりと優しくて甘い香りが香った。バニラみたいな香り。私が普段つけている香水の香りでもないし、彼の香りでもない。いつもはそんなことしない癖にスーツの上着部分だけを受け取ってクローゼットに運んだ。暗いクローゼットでこっそりと顔を近づける。胸のあたりから、バニラの香りがした。首元からも、腕の裾からもしない。


「……誰、」


 胸のあたりに会社の女性の香水が付くわけがない。腕と、首からしないなら、彼が香水を変えたりしたわけでもない。スーツをハンガーにかけながら、知らないバニラの香りがどんどん鼻になじんで、わからなくなった。



「ん、美味そう。いただきます」

「うん。お風呂もいつでも入れるから」

「ありがとう。助かる……ん、うまっ!」


 口の中に肉じゃがを運んで、美味しそうに笑ってくれるから、あのバニラの香りの主を聞いてはいけない。わかっているのに。


「あれ、香水、変えた?」

「え、なんで?」

「なんか知らない香りするから」

「いや、変えてないけど。……社用車使ったから、その匂いかな」

「そっか」

「なんかいつもより、肉ほろほろしてて旨い」

「あ、わかる?圧力鍋使ってみたの」


 嘘だ。そんな社用車にあんなに甘いバニラの香りが漂っているわけがないし、胸のあたりからだけあんな匂いがするわけもないのに。誰が香りの主なのか想像がつく。変にどんな知らない香りなのかも聞いてこず、話をはぐらかすなんて。何かおかしいのに。分かるのに。


「ん、めっちゃうまい!」


 特別じゃないなら、そんな顔しないでよ。



 その次の日から、私はそのバニラの香りの違和感をどうにか表に出さないようにした。繁忙期でもないのに、二日に一回は残業だと言って帰りが遅くなって、そのたびにほんのりバニラの香りがしていること。彼が毎回トイレに行くときにスマホを持っていくこと。キスの回数が減っていること。弁当を必要ないと言われることが増えたこと。全部全部、わかっていながらもどうにか、気づいていないふりをした。前なら、休憩時間にこそこそとラインをするのが楽しかったのに、返信がほぼほぼ無くて。知らないままだったら、気が付かないままだったら、どれだけよかったか。


「これ面白そう」

「へー、こんなのあるんだ」


 二人で被った休日、並んでテレビを見ていたら、今までは見向きもしていなかった、海外の人気アクション映画を指さす彼を、素直に見れない。


「今度の休み、観に行こ」

「うん。いいよ。私もちょっと気になる」


 本当に、彼はこの映画に興味が湧いているだけなのかもしれないのに、知らない誰かの影響を受けているのではないかと勘繰ってしまう自分が一番いやだ。この映画を誘ってくれるのが自分であることを喜びそうになってしまうのが嫌だ。二人で出かけるの久しぶりだね、と言って嬉しそうに笑っていて、私も笑い返したけれど、どうにも、目が上手く笑えない。

 お手洗いに彼が向かって行って、珍しく久々にスマホがローテーブルの上に残されていた。見ないほうが幸せだとわかっているのに、視界に入れてしまって、案の定というべきか、偶然というべきか、通知タブが光る。


『次いつ会えますか?早く会いたいです!』


 数秒光っただけで、また暗くなる。本文以外は見れなかった。アイコンも、名前も。別に浮気とかでもなく、最近ちょっと仲が良くて言い寄ってきているだけの女の子の可能性もある。わからない。でも、どんな近距離でいたら香水の香りがうつるのか。早く会いたい、なんて私は一度も言ったことがないのに。

 お手洗いから戻ってきて、昼のワイドショーを横目に見た彼が「この司会者ってさ、」とよく知らない話を楽しそうにしている。私に、楽しそうに話している。


「うん、そうだね、」


 よくわからないままに頷いた。彼女がいながら、今の女の子とラインをする意味ある?また会いたいってことは、前一回会ってるんだよね?昼休みにラインに返信しないのは、この子と直で話しているから?楽しそうに話す彼をまっすぐ見れない。今、彼の特別が私だけじゃないのなら。他にもいるのなら。私じゃないあの子が特別なら、私のほうを見ながらそんな顔で笑わないでほしい。


「あ、そうだ。昨日の夜、美味しそうなバウムクーヘン買ってきたんだよ」

「じゃあお紅茶淹れるから、おやつにしようか」

「さっきの映画、シリーズらしいから一から観ようよ。お茶しながら」

「いいね。そうしよっか」


 シリーズもの、長いから嫌い。一個で終わるやつが見やすいし、次が気にならないから休日に見るなら、そういうのがいい。そう、前は言っていたのに。

 私から、別れは言えない。そもそも、浮気しているのが確定したわけでもないけれど。少なくとも、あの子みたいに、素直に会いたいと言えればいいのに、って思うことしかできない。

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