08 パニック・ダンス
時刻は朝の六時。太陽は低く、街を満たす空気は冷たい。城壁の門は閉ざされ、外堀に掛かる橋は跳ね上げられている。街が一日の準備を始める頃合いに、南城壁内側の獣の彫刻前で、ユリアスとロイクは待機していた。ちらほらと今回の依頼には無関係な冒険者らが集まってきてはいたが、肝心のパーティメンバーはまだ揃い切っておらず、手持ち無沙汰な時間を堪能している。暇を潰す為のモノも手元にはなく、ただ城壁に刻まれたレリーフを眺めていた。
今、ユリアスの目の前にあるレリーフは、どこが発祥とも知れない民間伝承の類を元に彫られたものである。
伝承の内容としては、南、西、東の三方から『良くないもの』が街を襲い来るというものだ。南から入り込んだ昏きモノが病と飢えを持ち込み、西から飛来した嘘蟲が人心を乱し、東から侵攻して来た大蛇が街を丸呑もうとする。それらを止める為に、南の昏きモノは獣が噛み砕き、西の嘘蟲は鳥が喰らい、東の大蛇は竜が魔術で貫く。そして、敗れた良くないもの達は、急いで北へと逃げ出した。
そんな伝承だったが、その発生元も今や忘れられ、美術的モチーフかつ魔除けとしての意味が残り、結果作られた物の一つが、このレリーフだった。
伝承の発生元が不明になったとしても、ウワサがそこにあればカタチを成して人に危害を加えることは十分有り得る。そういう、カタチを得てしまった、あるいは得かけてしまった良くないものを、このレリーフが追い返しているとか、いないとか。そんな話だった。
獣の彫刻であることは見て取れるが、具体的になんの獣なのかは曖昧として分からないレリーフを見ること暫し、メンバーも全員揃い、集合の合図が掛かった。
魔物を惹き寄せる体質故に、ユリアスの立場は悪い。だからこそ舐められても、嫌われても、戦闘力として酷使される。遜り過ぎず、高圧的にならず、丁度良い具合のバランスの維持が肝要だ。ユリアスは一度それに失敗して、結果今ここで無茶な依頼の最中にいる。今回は最初から敬語を取っ払っていこうと決めて、パーティのリーダー、ニーギスの下へと重い足を進めた。
「集まったな」
次々と自身の周囲に集まる冒険者たちを、ニーギスはどこまでも見下し切った瞳で睥睨する。己の得物である大斧で威嚇するように石床を叩き、精一杯の圧を込めて太い喉を開いた。
「さっさと自己紹介を済ませて行くぞ。俺はニーギス、今回お前ら屑共を率いることになった。俺の命令は絶対であり、逆らうことはギルドマスターに逆らうということだ。分かったな!」
高圧的で尊大な口調なその男は、言うなればギルド長の私兵である。ギルド長から命じられた依頼を内々に片付けるのが彼の仕事である為、あまり名は通っていない。立ち振る舞いだけで見るならBランク上位からAランク下位、そうユリアスは判断する。
ニーギスの発言の後、彼を抜いたパーティメンバー五人が、それぞれ役割や得意な事等、自己紹介をしていく。
一人はエルフのレント。白の木製の杖を持った回復術師であり、『風詠霊』の神宿者。エルフらしい細面の男で、転移門の第一発見者かつ今回の案内人でもある。
加えて、魔術師兼杖術士の女トニラ、魔道具使いの男ナゴール、盾使いの男ハロルド、それら厳つい顔立ちの三人に加え、魔獣使い兼魔術戦士の男ユリアス。全員がBランク冒険者で構成された六人のパーティだ。
現段階でのユリアスの所感では、注視すべきは神宿者であるレントと、人造魔眼を保有するナゴールくらいのもので、後の三人は特筆すべき点はなかった。
顔合わせと簡単な自己紹介を終えた丁度その時、街の中央から七時を示す鐘の音が響いた。狼頭に山羊の角を生やした巨大なヒト形の魔物と、それを倒し、槍を突き立てる戦士の絵が描かれた門。それが軋んだ音を立てて開いていく。冬に入ればもう冒険には出られない。時期的に、全ての冒険者にとってこれが最後の仕事である。周囲の冒険者達が気合いの歓声を上げれば、冒険開始の号令になった。
森へと向かう道中、各々が思うように過ごしていた。トニラは時折口の中に粉薬やら丸薬を放り込んでは恍惚とし、ナゴールは終始落ち着きなく、道具袋から様々な魔道具を取り出しては執拗に撫で回す。ニーギスは常に苛立たしげで、ハロルドはレントの肩を掴み、昨日行った脅迫と強奪が如何に外道なものであったかを滔々と自慢していた。
気ままに振る舞う彼らだが、唯一つ、ユリアスへ向ける嫌悪と忌避の視線だけが共通してそこにあった。ユリアスの同行は、今回の依頼の契約書に記されていた事項の一つであり、その契約が無ければ、彼らはユリアスと共に冒険に出る事など無かったであろう。ユリアスからしても、依頼の危険度も然ることながら、団体行動をすると自身の体質に他者を巻き込んでしまうこともあり、気乗りはしなかった。パーティの大部分を占める悪人達は兎も角、レントからは悪い話を聞かないというのもその一因だ。
思えば、故郷が滅び、傭兵団を抜け、その後は何かに引き寄せられるかのようにトリンズの街へと流されて来た。最南端かつ南部開拓の最前線たるこの街で、嫌われ者のユリアスが、超特級危険地域にして実質的な前線攻略組たる魔王城探索隊に組み込まれたのは、あるいは必然だった。……のかも知れない、と思うことでユリアスは己を納得させようとする。気は重かったが、切り替えは何より大事だ。剣の柄頭に左手を置き、悪感情は心の奥に纏めて封じた。
「森に入るまでもうちょい時間があるな。おい、エルフ、今回の案内役だろ。もう一度、依頼内容確認するぞ」
エルフ、つまりレントにナゴールが言葉を投げ、他のメンバーの視線もレントへと向かう。ただ一人ニーギスだけは依頼の細かな部分まで把握しきっているのか、感心もなく森に入る準備に専念していた。
「は、はい。案内役を務めさせていただきます、レント……というものです。えっと、普段は『黒鉄の墓』というパーティで…」
「それはさっき聞いただろうが。良いからさっさと話を進めろ。それと、声を落とせ。極秘だってのも忘れたのか?お前は」
「そ……そうですよね、すみません」
トリンズで名を鳴らす悪人面が揃い踏みしている光景に、レントの頬が引き攣る。特にユリアスは街にいる時間が極端に少ないため、人物像すら掴めていない。ユリアスの隣を歩く、荷物を背負った黒い虎は如何にも高ランクの魔物といった雰囲気で、それもまた恐ろしげだった。そんな怯える彼に同情しながらユリアスも口を開く。
「目的地は黒魔の森の南西地域で合っているな?」
「ええ、はい。間違いありません」
「で、だ。確か地域の名前は———」
黒魔の森という名称は、霧が掛かりドルト杉が優占種として生息している森を総括して指したものだ。黒魔の森と一口に言っても生態系や地形によって、区別をする為の呼称が様々ある。渓流の周辺や、大きな淡水湖、あるいは塩水湖、森の中にぽつんとある鉱山など。それらを一纏めにする訳にはいかず、例えば、怪鳥の出没する峡谷なら、『壷鷲の谷』などのように地域によって特徴に沿った名が与えられていた。
「『迷い蛾の森』、です。僕たちが今から向かうのは、黒魔の森深層にある『迷い蛾の森』です」
「そう、それだ。また妙な場所に……いや、妙な場所だから今まで誰も知らなかったのか」
地域名を思い出そうと思索する盾使いの台詞を、レントが繋いで答え、それを受けて全員の口からうんざりとした溜め息が漏れる。
『迷い蛾の森』はその名に相応しく、羽虫を始めとした蟲種だらけの地域だ。そして、蟲種は群れを成し数が多く面倒だが、剥ぎ取れる素材が少なく、実入りが悪いとして不人気な場所でもある。どうせ深層にまで行くならもっと旨味の多い地域に赴くのが普通だった。そこでしか取れない特定の蟲の体液や甲殻や触覚、また植物等も、迷い蛾の森に来る労力に見合う物ではない。
しかしそれでも、深層は深層だ。黄金都市への入り口となる転移門が設置されていても不思議ではない。
そうして期待と嫌悪を高めている間にも、一同は森のすぐ間近までやってくる。各々ランタンを用意して、準備が終わったのを確認すれば、ニーギスが急かすように指示を出した。
「ハッ、一々遅いなお前らは。行くぞ」
森に入った後、霧払いの魔術陣の刻まれた柱を目印に進み、もう二週間ほど経っただろうか。道中の戦闘において、ユリアスは剣士としての、前衛としての働きに徹していた。ユリアスは魔術や弓、様々なことを一人で熟せるが、パーティで動くとなると仕事を絞り、明確な役割を決め、それに従って動く方が良い場合が多い。特に、寄せ集めのパーティならば尚更だ。
ヴィオレから手渡された冊子は、深層部やその手前で出没する魔物の対処法などがつぶさに記載されており、大いに役立った。避けれる敵は避け、それが出来ないならば殺して、超強行軍の甲斐あって、一行は中継地点たる『大深淵の監視局』にて足を止めていた。監視局とは、大深淵の環境変化を観察する為の小さな集落のようなもので、強力な結界によって守られている土地である。
だが、今はこの有様だった。
「………なんだ、コイツぁ」
「何があってこうなってやがる…?」
建物は倒壊し、結界は崩れ去り、人の気配は微かにもしない。乱雑な破壊の爪痕のみが残っている。地面に染み込んだ血の跡や、喰い散らかされたヒトの残骸が転がっていた。
一通りの調査を行い、判明したのは、原因は魔物による襲撃であり、生き残りは皆無、そして起こったのは三週間以内だという事のみ。襲撃犯の正体は掴めず、推測するならば深層部に棲む詳細未明の魔物であろう。ついでに述べれば、やはり大氾濫が関係するのだろうが、予想出来るのはそれまでだ。
「異常事態だ」
「そうだね、戻るべきだ。元々気に食わない依頼だったんだ。アンタらだってそうだろう?奴隷かなんかのように契約で縛って、アタシ達を使い捨てにしようなんてさ…」
「…まぁな。ダリぃ依頼だ。契約に縛られてなきゃあ今頃トンズラしちゃいるな」
ユリアスの一言に、魔術師の女と魔道具使いの男が追従する。集落一つ分の人間が死んだといえど、その事実に取り乱し、深く落ち込めるほど純粋な人間は、この場にはいない。皆が皆、驚きを殺し、周囲の気配へと意識を割いていた。
「そういう訳だ。ニーギスさんよ。こればかりはしょうがないって事で、帰るとしようぜ」
盾使いが帰還の意向を明言し、だが、焦燥に瞳を曇らせたニーギスは、それらの意見を纏めて封殺した。
「このまま進むぞ。潰れてるなら用はない。俺は…進まなければ……っ」
全員が信じられないと顔を歪めた。本来の予定ならば、ここで物資を補充し、駐在するという語り屋から情報を買う予定だった。予定が覆った今、ユリアスらのすべき事は一旦引く事の筈だ。
「はぁ? オイ報告はどーすんだよ。テメーの仕事じゃねえのか」
「…どうせレントの奴は転移門への案内までが仕事で、その先までは着いてこない。あいつが帰る時についでに報告もさせりゃあ良い。それで良いな、レント」
「…元より途中で別れて帰るつもりでしたので、それは良いんですが……」
「じゃあ物資はどうすんだよ!?食料も魔防薬も無限じゃねえぞ!途中で切れるに決まってる!」
「食料は途中で殺した魔物を食えば良い。薬は……ッチ」
ハロルドの言葉に一理ありと見たニーギスが、廃墟と化した監視局に目を遣る。幾つもの建物が残骸と化し、重なり合うようにして朽ちているが、建物全てがそうなっている訳ではない。中には、元の形を推定出来る物もある。ニーギスはそれらの内、最も立派な造りの建物、その隣の倉庫らしきモノの跡地に目を付けた。
「…そこで待ってろ」
そう言って監視局跡に踏み入り、幾許もせずにニーギスは手元に膨らんだ荷袋を携え、ユリアスらの下へと戻った。言ってしまえば火事場泥棒だが、それに眉を顰めるのはユリアスとレントのみであり、他のメンバーらは何の抵抗もなく、所か満足気に受け入れている。咎めようにも四対二では少数派だ。
「…ニーギス、本当にまだ進むつもりなのか」
「二度言わないと分からないのか? 逆らうなよ、貴様が真面な脳を持っているのならな」
「そうか。…分かった」
気乗りはしなかったが、依頼を受け、契約書に署名したからには従うしかない。このまま冒険を続けるならば、物資、特に魔防薬は必需品だ。不本意であろうと、使えるのなら使うまで。だが、もし、もっと早くにこの場に辿り着いていたならば、瓦礫と化した監視局も、もう少し違う結末を迎えていたかもしれない。そんな妄想を捩じ伏せ、今はただ感謝のみを胸に、ユリアスは彼らの冥福を祈った。
「……」
「とっとと去るぞ。何してやがる。早くしろ、ユリアス。ただでさえお前は魔物を呼ぶ不吉な野郎なんだからな…オイ、レント、周囲の気配はどうだ」
現状危険はない旨をレントが伝え、ならば今の内にこの場を去ろうと全員が荷物を纏める。目的地は『迷い蛾の森』。ここより北西方面、大深淵の手前、深層部に区分される地域に、それはある。速やかに準備を済ませ、強行軍を再開した。
「辺りに魔物の気配は!?」
「ありません、急いで移動しましょう!」
襲ってきたAランクの魔物一体を無事討伐し、レントが神宿者としての魔法を用いて周囲を索敵する。彼の声に全員が足早に動き、案内人たるその背を追いかける。過去の冒険者が建てたのか、巨大な魔物の頭蓋をベースに、骨と皮と木で造られた小屋の姿が見えたが、今はそこに入って休息を取っている場合ではない。名残り惜しくも進む他なく、一同は疲労した足をひたすらに動かした。
あれから更に一週間進んで、目的の『迷い蛾の森』も目と鼻の先まで来ている。疲労を考慮しないハイペースで進んだ結果、到頭目的地へと達しようとしていた。
「……いよいよだな」
黒魔の森は直ぐに環境が変わるため、地図の作成が困難であり、特殊な魔術の掛かった地図でなければ道案内の役には立たない。それ故にこの地を探索する冒険者らは頑丈かつ、分かりやすい目印を設置した。それらの内の一つが『玄鹿の石祠』。居るかも分からぬ森のヌシの姿が彫られた、石造りの塔は中が空洞になっており、その“森のヌシ”を祀る祠としての役割もあるとされていた。黒魔の森の危険地帯手前とされる場所には、各地域に一棟ずつ、この玄鹿の石祠が建っており、今目の前にあるそれも数ある中の一つである。ある意味では注意を促す看板とも表せた。
「足を止めるなァ! レント、お前は索敵を続けろ。直ぐに歩け。歩きながらでも意識を集中しろ」
ニーギスの号令に、歩みを再開したレントに従い森を進むに連れて、辺りの植生が変化していく。ドルト杉の中にラギ檜などの別種の樹木が混ざり、草丈が高くなり、飛び交う蟲が増えたように思える。獣の呻き声より蟲の羽音の方が耳に入るようになった時分に、レントが足を止めた。
「ここから『迷い蛾の森』になります」
レントが、風の流れを掴み、空間を把握する『風詠霊』の権能を用いて魔物の位置を把握し、可能な限り敵を避けながら目的物たる転移門へと向かう。ユリアス自身は過去ここに来たことはないが、少し周囲を見たところ、本当に金になる物が少なく、不人気の理由も納得な有り様だった。
「左手の方に蟲やられでダメになってる樹があるので、近付かないようにして下さい」
「……ひっでえ臭いだ」
ドルト杉の黒に近い緑の葉と、それより明るい緑色をしたラギ檜の葉が触れ合い、細やかな音を奏でる。辺りは例によって霧が漂い、その霧によって引き立った、強い腐臭が鼻を突いた。
巨大な蟲種は現れないが、青い複眼を持ち、獲物や敵を発見すると仲間を呼ぶ蟲や、毒を持ち鱗粉を吸わせるだけで前後不覚にさせる蟲などが現れる。それら小型の蟲種を魔術や剣で処理しつつ、落ち葉を踏み締めて進み続ける。
「止まれ。結界だ」
唐突に、人造魔眼を保有するナゴールが口を開く。眼帯を解いたその左目には、紫と黄色の光を複雑に放つ、人造魔眼が輝いていた。紫の魔眼は上から三番目の階位に位置する人造魔眼であり、通常、魔眼王国ガルディラントの貴族や富裕層にのみ着用を許されるものだ。それが違法な手段で入手された物であろうことは想像に難くなかった。
「結界……ですか? 僕が前来た時はそんなもの……」
「なら気付かなかったか、お前が街に戻った後に張られたんだろうよ。きな臭いぜ」
顔を顰めるナゴールが、辺りを漂う霧を霧払いの魔術の刻まれたランタンで押し退け、視界を拓く。霧の薄くなった方へ視線を流せば、映るのは蟲に喰われた鳥の死骸と樹木、雑草に枯葉。魔眼を持たない人間の瞳では何の異常も捉えることが出来ない。そこで、ニーギスが適当に転がっている石ころを拾い前方へ投げる。が、何も起きなかった。
「……攻撃系じゃなさそうだな。惑わしの結界かもしれん」
「だとしたら面倒だ。入る前に気付けてよかったな。おい、レント。幻惑の結界の中でもお前の探知能力は使えるのか」
「どうでしょう……五感に働きかける系統なら問題ないんですが、精神を弄る系統になると、あまり自信は持てないですね」
「どうすんだ?隊長」
「………チッ」
八方塞がりだ。何か行動を起こそうにも結界の種類が分からなければ動きようがない。迂回するか、それとも腹を括って突っ切るかという流れになったそこに、ユリアスが名乗りを挙げた。
「俺が斬ろう。結界は何処から張られてる?」
「え? あ…ああ、ここだ。この線から先に結界が敷かれてる」
ユリアスは歩み出ると、つま先で引かれた線の前で肩幅に足を開き、鞘から黒魔鋼の剣を抜き取る。直剣を片手で下段に構え、宙を睨む彼へ、トニラが声を掛ける。
「斬るつってもアンタ、結界をか? 出来んのかい?」
「出来る」
見えずとも、よく魔力を感じ取ればそこに在るのが分かる。神経を鋭く保ち、空中をなぞるように柔らかく剣を動かす。呆気ないものだった。振るわれた剣を合図にピシ、とか細く音が鳴り、結界を構成していた魔力が霧散していく。魔術の資質があるものならば気付くことが出来る、何かが崩れた気配。それを認めた一同から感嘆の呻きが上がった。
「斬れた……のか?」
「……簡単にやりやがる」
動揺に身を固めている場合ではない。ユリアスの視線に急かされるようにレントが歩みを再開する。各々がその足取りに沿って動いて数刻、レントが振り返り、足元を探りだした。
「えっと、何処でしたっけ……確か、この辺りに……あれ?」
「どうした」
「いえ、印を残しておいた筈なんですけど……ちょっと待って下さい。もう一度探ります」
レントが目を閉じ、魔法を発動させる。
凡人の使う『魔術』と神宿者の扱う『魔法』は別物だ。竜神の手によって『魔法』を元に『魔術』が編み出され、人々へと伝わった。『魔法』が起源であり、『魔術』は所詮模倣に過ぎない。『魔法』とは世界に根付く法則であり、魔術などより遥かに効率が良く、殆ど魔力を支払わずに行使が可能だ。『魔法』と『魔術』は能力の次元が異なる。それは如何なる格の神であろうと変わらない事実だった。
『風詠霊』は神宿者の中では格の高い魂ではない。しかしそれでも、その索敵、探索に長けた能力と魔力効率の良さは、流石神の権能と言えるものだった。
レントの周囲を渦巻く風が霧を揺らし、木々の枝を震わせ、落葉が舞う。冷風に顔を晒しながらその様子を見守る。数秒も立たない内に、レントは顔を上げた。
「ありました、ここです」
落ち葉を風で払い、土を足で退けると、その手に持った杖でそこを示す。
蓋、そう言い表すべき四角の石板。全員が驚きに表情を動かしている間に、レントはその板を持ち上げた。
「よくこんなもん見つけたな」
その下にあったのは階段だった。ユリアスが想像するに、最初にレントのパーティがここへ来た時は、空間に満ちる空気や音に反応し、発見したのだろう。やはり、妙だ。神宿者であるレントですら一瞬混乱させる隠し方。何より、レントの先の発言から考えるなら、置いていた印とやらも退かされている。確実に何かしらの存在が通っていて、しかも隠したがっているようだ。レントが蓋を持ち上げた時も運が悪ければ罠で死人が出ていたやも。
気合いを入れ直し、細心の注意と共に階段を降りていこうとする。と、そこでレントが声を上げた。
「あの、ですね。この先に敵や罠の気配はありません。ですから、このまま石室の中を調査するなら、僕は一旦外れても良いでしょうか?」
「一応聞いてやる。何故だ」
「大精霊様に祈りを捧げたいのです。先程は出来なかったので」
「……ッチ、んなことだろうとは思ったが…」
「索敵や斥候なら俺とロイクがやる。レントが一人外れるくらいなら問題はない。彼はエルフだ。精霊への祈りは重要だろう」
「……好きにしろ」
「あ、ありがとうございます」
「即、終わらせろ」
レントが離脱し、改めて階段へと向き合う。前言を違えることなく、ユリアスは邪魔な荷物を下ろすと、黒猫を伴って階段を下っていく。
レント曰く罠はないらしいが、警戒はすべきだ。不用意に壁に触らず、足下に気を配りながら進む。ランタンは必要なかった。一歩刻む度に明かりが灯り、見通しに苦労することはない。
慎重に下りていく内に、階段は程なくして終わり、石室に出た。石室は人間が数十人は入れるかという広さで、その中央には大きな魔術陣が描かれており、部屋の最奥には目的の転移門と思わしき物体が鎮座していた。
肩に座るロイクへ目配せをすれば、問題なしと鳴き声を上げる。少なくとも石室手前までは安全と判断して、数歩後ろから着いてきていたニーギス達を呼んだ。
「見てくれ、魔術陣だ」
「どうする? 俺は読めんぞ」
「おい、ユリアス、トニラ。お前ら自己紹介の時にソレヌス文字を読めるって言っていたな。やれ」
「分かった。やってみよう」
「その言い方やめな。命令されると殺したくなる」
「……クソ女が。何様のつもりだ?」
「は? テメェこそギルド長のお荷物がボソボソボソボソ鳴いてんじゃねェぞ」
口論に発展しそうなニーギスとトニラだが、ユリアスには止めようがない。殺し合いになれば介入しようと決め込み、一歩前に出て、妖力で強化した視力で部屋の中を覗き見る。ありがたい事に、室内も明るかった為、暗視の魔術を使う必要はなかった。
見た所によると、魔物避け、蟲避け、空迷い、五感錯乱、清潔保持、合わせて五つ。幸い、ユリアスが断ち斬った甲斐あってか、結界は起動していない。極めて高度で完成度の高い魔術陣であり、特に魔物避けの魔術と、空迷いの魔術に関しては幾重にも重ねられており、あのまま無策で結界の中に入っていれば、延々と結界内を歩き続けることになっていた。
「元は清潔保持の魔術だけだったみたいだ。後付けで魔物避けと蟲避け、空迷い、五感錯乱の魔術が書かれている。多分、レントのパーティがここに来た後に付け足したんだろう」
「魔物避け……? おい、この辺りの魔物のランクはA前後だろ? そんなもんを高が魔術で追い払えるのか?」
「異常なほど完成度が高い。神獣でもなければ追い払えるだろう」
トニラもまた同じように首を伸ばして魔術陣を伺うと、異存なしと頷いた。転移門も調査をしたかったが、石室の入り口からでは距離がありすぎる。調べたいなら、部屋に入って間近で行う他ない。
「そんなに高度な魔術なら作成者も迷うんじゃないのか。それとも何か結界を無視する方法があるのか」
「鍵を持っている筈だ。普通、魔術師はそれを使って行き来してる」
「なら、その鍵とやらを作れ。次に来る時に必要になる」
「そう簡単に作れる物ではない。器材も資材も足りない。描き直すという手段もあるけれど、それをするにも使用されている塗料が特殊すぎる。描き直した所で直ぐに気付かれるだろう。それに、魔術も完全に解析しきれた訳ではないんだ」
「……ッチ、無能が」
ぼやくニーギスを放ってユリアスは石室に入り込む。ユリアスの身に異変がないのを見て、パーティメンバー達も後に続いた。石室を照らす明かりは壁や天井に嵌め込まれた水晶から発せられているらしく、魔術陣とは関係がないことが分かる。魔力で灯された青の光は冷たく、気味が悪かった。
「まずは調査だ。分かったことは逐一報告書に纏めろ」
ニーギスの指示に各々散っていく。転移門の構造の解析をトニラとナゴールが、他の仕掛けがないかの探索をニーギスが、そしてハロルドが上に戻り見張り番をする。ロイクは匂いなどから手掛かりを探し、ユリアスは、遺跡の年代測定と、材質の精査を行なっていた。
ユリアスの行う調査は特殊な技能を用するが、慣れさえすれば容易に行える。魔力を込めた指先で壁を叩き、魔力の浸透の仕方や反響を見るのだ。その『場』に刻まれた過去の出来事を読み取る魔法などもあるとの話だが、今ここにそんな都合の良いものはない。地味な手段で壁や床を調べ、分かった事は、この施設がそう昔に作られたものではない、もしくは、劣化を抑える、強力な魔術が掛けられているという事だ。
「この石室、大体、二十年近く前の素材で造られている。劣化していないだけか、それとも本当に二十年前の施設なのか……どちらかだな」
「前者だろうな。転移門は人遺物か神遺物でしかありえない」
人遺物とは神代に人間が作った道具であり、神遺物とは神代に神が造り、人間に与えた道具である。無論、神遺物の方が圧倒的に優れた性能をしているが、今の人類は人遺物ですらその全てを再現するには至っていない。
ナゴールの言葉は正しく、転移門は再現不可能な遺物だ。けれど、ユリアスの中で何かが引っ掛かった。
「戻りました」
ユリアスの思考を遮るようにレントとハロルドが合流し、全員の意識がレントへと傾く。転移門は最先端の研究ですら解明が進んでいない代物だ。ここでの調査で分かる事など高が知れているし、元よりこのパーティのやるべきは遺跡の調査ではなく、転移門の先の調査なのだから、一度ここへ訪れた経験のあるレントに聞くのが最善手だ。
「レント、この転移門を使うと妙な場所に出たって話だけれど、間違いはあるか?」
「いえ。間違いありません。僕は着いて行かずに、斥候として先行した仲間から、風の通話魔術で情報を聞いただけですが、黒魔の森である事は樹の形から見て間違いないそうです。この付近とは比べ物にならない程暗かったらしいので……予想ですが、相当深い所に出たのでは無いかと」
「出た先の詳しい様子は分かるか?」
「い、いえ。その……すぐに風の状況が悪くなり、そのまま途切れてしまったので、ほとんど何も聞けてないです。ただ、城がある、とだけは聞き取れました」
城、という言葉に冒険者たちが色めき立つ。黄金都市か? いやまさか本当に魔王城な訳はない、などと言う声が上がる。黄金都市、それは魅惑の響きだ。それが実在して、もし最初に見つけられたなら、一生涯を遊んで終えれるだろう。『もしも』の未来は甘美ではあったが、彼らもBランク冒険者の端くれだ。得体の知れない目的地に対する警戒心の方が強い。
「良いじゃねえか」
ハロルドが不敵に笑い、大盾を籠手で鳴らした。
警戒はする。するが、それでもこれ程の冒険はそうはないだろう。冒険者冥利に尽きる冒険だ。心躍らない訳もなかった。警戒し、許される限り備えを整え、挑むべき大冒険だ。
だが、ニーギスにとっては違う。
「調査は済んだな。おい、行くぞ!お前ら!」
「は? いや、とりあえず一泊してからにしようぜ。休憩して体力も万全に整えてからにしようや」
ニーギスは名義上の冒険者でしかなく、その実態は傭兵だ。それも、功を焦り、目の前が見えなくなった傭兵だった。彼にとっては準備している時すら惜しかった。
「休憩など甘ったれた事を言ってられるか!一夜待つまでも無い。このまま進むぞ」
「いや…あんた正気じゃねぇよ! 本当に理解してるのか?こっから先は何があってもおかしくねえんだ!朝なら森の暗さも多少はマシになる。朝まで待つべきだろうが!」
「……この遺跡を利用してるヤツがいつ帰ってくるか分からねえだろうが」
「いや。大深淵とあの魔術陣を書いた魔術師だったら、俺は魔術師と戦う方が勝ち目があると思う。このロイクなら魔術師を殺せるけれど、大深淵は何があるのか分からない」
そうだ、その通りだと賛同する声が上がる。ニーギスを支持する者は一人もいない。苦々しく、忌々しげな表情をしながらも、ニーギスは結局折れて引き下がった。これまでの独断と強行で不満も溜まってきている。それに晒され、怯えた結果だった。
「……クソッ、俺はリーダーだぞ……」
髪を掻き毟り、血走った目でメンバーを見回すと、舌打ちと共に踵を返す。その巨大な拳で遺跡の壁を殴りつけ、階段を上がっていった。それを見届けたハロルドとナゴールが一夜越す為の支度をしながら話し合う。
「なんでアイツあんな無茶したがるんだ?」
「なんでも、ここん所ギルマスから直々に任された依頼を立て続けに失敗してて、もう後がないんだと」
「そうそう、アイツもデインに見捨てられたらただの冒険者ってワケだ。アンタら知ってるかい? アイツ闇市で好き勝手してるって」
「知ってるさ。オレらと何ら変わりはしねえクズの癖して偉ぶってやがる。カスってのはアレのことだな」
「いや正しく。笑えるぜ」
低く抑えつつも会話を弾ませる二人と、それを聞いて話に加わるトニラ。やはり悪人同士面識があるのだろう。三人が話を始めたのを横目に、ユリアスは空気を吸い込み、その匂いや魔力から空気の質を調べ、火を焚いて良いかを吟味する。そこにおずおずと腰を低くしたレントがやって来た。
「それでは皆さん、ギルドに戻ってマスターに報告しなくてはいけませんから、僕はここで帰ります。元々、案内が仕事でしたので。一週間後に遺跡の本格的な調査隊が来ると思いますので、その時は魔術でこの部屋の位置を教えてあげてください。帰りの道もその方達がいれば問題ないかと」
それだけ言って、床に放置された報告書を拾うと、レントの後ろ姿は階段へと消えていく。それを、ユリアスは荷物を取りに行くついでに追い、地上に出た。
「君、一人で本当に大丈夫なのか。もし必要ならロイクを貸すけれど」
「え……ええ、まあ。今までの通り、空間把握は得意ですし、僕は魔物を呼んだりしませんので。避けることに徹すれば帰る位はできます」
「……そうか。なら良いんだ。気を付けて」
目を背けて足速に去っていくレントと、見張りをしているのか、階段の入り口周辺で不貞腐れるように座っているニーギス。これでも味方であるのだから友好的にするべきではあろうが、話しかければ大斧が飛び出してきそうな雰囲気だ。面倒ごとは避けることにして、ロイクと共に荷物を石室に運び込んだ。
翌朝。昨日の夕食、今朝の朝食は道中狩った魔物の肉を食った。睡眠、食事、その両方を久々に満足に摂った彼らは、体力を大幅に回復させた。ユリアスとロイクもまた疲労を回復し、今、一人と一匹、及びニーギスは正に転移門を潜ろうかという瞬間にある。
「通信はどうだ」
「……途切れた。遠すぎるのかもしれない」
「待っててもしょうがねえ。とっとと入るぞ」
先に転移門に入ったナゴール、トニラ、ハロルドの三人からの通話は切れた。レントの言葉と変わらぬ結果であり、動揺する事でもない。
ユリアスは、真っ直ぐに転移門を見る。豪邸に備え付けられているような大きさの門であり、大深淵へと繋がっている空間は黒に近い青の光で満ちている。音もなく魔力を溢れさせるそれは、未だ嘗てその目に収めたことのない、奇妙な光景だった。
本当ならばロイクを連れてこんな危険な挑戦はしたくなかったが、仕方がない。覚悟を決めると、転移門に身を投じた。
転移門を抜けた先は、転移前と同じ形状、同じ光源の石室だった。魔術陣も全く同じ効果のものが描かれ、一見すると転移などしていないようにすら思える。唯一、空気中に含まれる魔力量の差異だけが、異なる空間に移動した証となった。
「畜生、やっぱりお前らも来たのか」
「あ?何言って……」
溜め息の後に吐かれた台詞に、ニーギスが怪訝な表情を浮かべる。それに、壁にもたれ掛かっていたトニラが顎でユリアス達の背後を指す。
「転移門を見な。そうすりゃ分かる筈だよ」
その声に従い、振り返れば
「な———転移門が……ない?」
「な、は……あり得ねえ!聞いてねえぞこんなの!」
転移門が、無くなっていた。門そのものはある。だが、門を満たす青の暗光が綺麗さっぱり消えている。帰る道が、無くなっていた。
「し、調べろ!何処かに何かある筈だ!!」
その命令に文句を唱えるものは居なかった。全員が石室の隅から隅まで、何か救いがないかを探る。だが、何も無かった。ロイクですら欠片も糸口を掴めず、ニーギスの振るった大斧が壁を砕くもやはり端緒は開かなかった。
転移門の青光が存在しない以外、白々しいほど全く同じ様相の石室は、ゆっくりと静けさという名の澱んだ空気を取り戻していく。
ナゴールは憔悴した様子で、ハロルドとトニラは苛立たしげに衣服や得物の柄を握り締める。ニーギスは絶句し、顔の色を白く染めていた。ユリアスとて同じ気持ちだ。退路を絶たれ、例え依頼を達成したとしても帰り方が分からない。絶望と、それを超える混乱に思考を絡め取られ、足と脳が停滞を望む。しかし、進展を求めるならば足踏みを辞めて石室を出るべきだ。ユリアスは中央の大魔術陣に歩み寄ると、その場で屈み、陣を指でなぞっていく。
「おい、何をしてるんだ」
「もしかしたら、この魔術陣を利用できるかもしれないと思った。けれど、無理だな」
上手くやれば空迷いと五感錯乱の魔術だけを消して、蟲避けや魔物避けの術を有効活用できるかと思ったが、結界を崩さずにそれを成し遂げるのは至難の業だ。熟考の果てに不可能と結論付けて、荷物に入れていた魔導染料を魔術陣に無造作に垂らし、陣を破壊する。
「誰か、着いてきてくれ」
魔術陣の効力が失われたのを確認して、未だ動き方を決めあぐねているパーティメンバー達へ声を掛けると、ユリアスは階段へと向かった。
地上に出ると、そこは広場だった。
吸った瞬間、心臓を握り潰されるかのような錯覚を呼ぶ異質な魔力。森全体から、地面から、樹々から流れてくる嗅ぎ親しんだ悪臭。それは、血の臭いに相違なかった。
森は大きく顎を開き、その暗々とした口内を見せつけている。超成長したドルト杉の姿が疎らにあり、ユリアス達を遥か上から見下ろしている。
小さく狭く、空が見えた。空から帯を引く陽の光が濃霧のカーテン越しに明かりを届ける。そして、明るく、開けているが故に見えてしまう。黒く聳り立つ尖塔の影。ここから塔まで距離があり、空は並外れた大きさのドルト杉が、天井代わりとばかりに枝葉を伸ばし、日傘を差している。だのに、それでも見えてしまう程の、桁の狂った巨大さの建造物。
それは、どう見たとしても、黄金都市という風な面構えはしていなかった。
「魔王の、城だ……まさか、そんな、本当に……?」
階段の入り口から、ハロルドの呆然とした声が溢れた。レントの証言通りだった。魔王の城はあったのだ。
だが、だからと帰る道はない。あの城が噂に聞く魔王城なのだとすれば、ここは南の果てに近しい。理論上は北へ歩けばトリンズの街へ帰ることが出来るだろう。しかし、地図もなく、距離も分からないままにどれだけ歩けば良いのかという問題がある。依頼を投げ出して、生存だけを目的にするにしろ、あれ程妖しい城を無視する事はあり得なかった。
「俺は、どうすればッ……」
「…進むべきだ。とても戻れそうにはないし、目立つモノはあれしかない」
「その通りだ。その通りだがなっ……クソッ」
「…………嫌だ」
ハロルドの嘆きに、ユリアスが提言する。そこに投げ入れられた、ナゴールの低く、絞り出されたような声が、霧に染み込み消えていった。左の眼窩に嵌め込まれた人造魔眼の輝きとは真逆に、右目はひどく怯えきった色をしている。魔眼が無機質な動きで右へ左へ辺りを見回すと、ナゴールは更に身を固くした。
「か…帰るべきだ」
「駄目だ。城に行くぞ。これは、命令だ。そもそも、忌々しい事に、帰る道がねえだろうが。それともなんだ。此処から北へ歩くと?それこそ無理だろうよ」
「ふ、巫山戯るなッ!俺は降りるぞ!このまま進めば俺は死ぬ!俺と俺の魔道具達が離れ離れになっちまうッ!テメェだって死にたくはねえだろ!?どう考えてもまともじゃねえ!!テメェらには“視え”ねえかもしれないがな!ここら一面魔力が狂ってんだよ!呪いと恨みと血と……それと、それと得体の知れないバケモノの魔力だ!」
「……黙れッ!!俺を脅かそうったってそうはいくか!ここで逃げようものなら、ギルドマスターに、俺は……っ」
その一瞬で何が脳裏を掠めたのだろうか。青褪めた顔色に、噛み締められた唇。震える拳を強く絞って、ニーギスは面を上げた。
「俺はな、テメェみてえなカスの弱みは全部握ってんだ!テメェの魔道具はどれも裏のモンだろうが!逆らってみろ!その大事な大事な魔道具諸共、騎士団に突き出してやるからなァ!」
「……ぅ、それはッ……クソっ……」
心の弱りきったナゴールは、この状況ではもはや街での地位など些細な事柄であるということさえ頭になく、威勢を削がれ口先を鈍らせる。
「ナゴール、やめな。アンタだせえよ。それで本当に冒険者か? アタシ達は魔境じゃあ生きていけない。このまままごまごしてた所でいずれ死ぬんだ。糸口はあの馬鹿デカい城だけってんなら行くしかない。そんな事も判断出来ない馬鹿なのかよ」
「トニラッ、お前……!」
“視え”ないから、解らないからそう言えるのだ、その言葉をナゴールは飲み込んだ。ナゴールの持つ人造魔眼の主だった能力は、『魔力視』と簡単な魔力属性の解析だ。だからこそ分かる異常性だったが、ここで何を主張しようと城へ向かうという方針が変わる事はないということも、彼は理解していた。
「喚くなナゴール。……ッチ、俺だって気は進まねえ。誰が好き好んでこんな馬鹿げた冒険なんかするかよ。だが、帰るにしても地図がない。あの城になら地図があるかも知れない。もしかしたら転移門も。あれだけが手掛かりなんだよ。理解出来たなら、動きな」
「ナゴール、何かあっても戻ってこれるよう、付近に標の魔術を陣で描き込んでおく。それに、トニラの言うようにこれだけ濃い魔力を含む土地ではそう長く活動も出来ない。解決策はあの城に求める他ないし、今以上に準備の整った状況もないんだ。分かってくれ」
ハロルドの軽蔑の視線と、ユリアスの気遣うような言葉にナゴールは下唇を噛む。それを納得と捉えたユリアスは、魔導染料で程近くのドルト杉の幹に陣を描くと、巨大化したロイクの首輪にランタンを括り付けた。
人の背丈の十数倍はあろうかというドルト杉の森を征く。広場を抜ければ、直ぐに樹の数が増え、それに従って暗闇が深くなっていった。森に踏み入っている筈なのに、森の方から踏み入られている気さえする。
喉が鳴った。ドルト杉は巨きく、地面からせり出した根さえも尋常の大きさではない。地面を広く占める根に歩く場所も定められており、迷路の様な有り様だ。その高さの為に魔王の城と思しき遺跡の影も伺えなくなった。懐から取り出した方位魔針で方角を確認しようとするが、濃すぎる魔力に邪魔され、正しい方位は分からない。方向感覚を失わせる深淵そのものたる闇と、掴めそうな程濃い霧の中にあって、迷わず城へと足を向け続けられるのは、ロイクの獣性あってのことだった。
南端に近付いているからか、霧に含まれる魔力も、大分多い。他者の魔力などの、本人が保有する魔力とは質が異なる魔力は、有害なものになる。こうまで魔力が濃いと、体調を崩す者が出始めても不思議ではなく、それを抑制する為の魔防薬の数も少なくなってきている。ユリアスはどういう訳か、この土地の魔力に高い親和性を示していたが、他のメンバーはそうもいかない。自分に合わない魔力を取り込めば、戦闘に支障を来してしまう。
加えて、例え体内の魔力環境が崩されなかろうと、霧は身体の熱を奪っていく。現在は、最悪な事態を辛うじて回避している状況だ。
「霧が深いな。魔防薬も残り少ない。魔力を練るときは霧を吸わないように。魔力が乱れて術が組めなくなる」
「クスリはしみったれた魔防薬だけで、数も少ない。その上長ったらしい詠唱も無理ときた!私の楽しみはどこにもありやしないね」
「複雑な魔術を行使したいなら陣を使うしかない。ナゴール、スクロールや魔導書はどれくらいある?」
「……それほどはないな」
「そうか。それなら使用を控えてくれるとありがたい」
「テメエに言われなくたって使いやしねえよ。これは俺だけの魔道具だ。勝手に触れようもんなら、殺すぞ」
ランタンの頼りない青灯だけが彼らの道しるべであり、ランタンの燃料たる油にも限りはある。灯っているランタンはロイクの首元の一つだけで、他の四つは温存することに決まった。油を手に入れる方法は無い訳ではない。魔物の脂から明かりを取ることも可能か不可能かで言えば、可能だ。だが、その魔物が、生き物が、一切姿を現さなかった。語り屋の老婆から伝い聞いた幻想種も、欠片さえ気配を感じさせなかった。
だからと、なんだ大深淵とは言え案外大したことは無いじゃないか、という空気にはならなかった。何もいないという事が可笑しいのだ。これだけ血の臭いが染み込んだ森で、魔物が出ない。それが甚だ不気味だった。
「今は何時だ」
「七時だ。流石に暗過ぎるな。おい、ニーギス、これ以上進むなんて馬鹿は言うなよ」
「言わねえよ、クソが。……ッチ、もう休んで明日は早く移動するぞ。水辺が欲しいが……おい、ユリアス、水辺はどこだ」
「グァゥゥ」
「近くにはないらしい。暫くはここ以上に開けた場所にも出ないだろう」
「仕方ない。贅沢は言ってらんないからね」
満場一致で野営することに決まり、それぞれが準備を始める。トニラがそこらに落ちている、ドルト杉の葉を簡易な魔術で一纏めにして、最低限の寝床を作れば、ナゴールが魔物が襲撃してきた際に気付けるように、枝や石を使って罠を作成し、ニーギスが周辺から毒のない植物を集め、ハロルドがその植物と干し肉を使って夕食の用意をする。
ユリアスはといえば、ロイクに見張りを頼み、寝床を守る為の魔術陣を地面に彫り入れていた。霧払いの魔術と、魔物避けの魔術。魔物の嫌う香を焚く事で、ロイクの鼻が効かなくなるデメリットは大きいと考えたが、それでも相談の結果、最終的にはメリットが優先された。
溜まった水というのは堀と近い概念であり、魔術的な防御になる。掘り込んだ魔術陣に例の魔導染料を流し込み、その周りを囲うように掘った円に水を流し入れる。ユリアスは水魔術の使用をあまり好まないため、水入れはトニラに依頼した。
“見立て”は魔術の基本であり、これにもある程度の効果を期待できる。一先ずは精神を休める事のできる環境を作れば、夕食の時間だ。夕食は干し肉と植物を煮込んだスープだった。面白味のない料理ではあるが、霧に奪われた熱がゆっくりと返ってくる感覚はこの上ない褒美だ。
夕食を終え、香の匂いを嫌って懐に潜り込んでくるロイクの頭を撫でて、外套に備え付けられた頭巾を目深に被る。寝床の冷たさを、暗がりに空想を結ぶことで忍びながら、ユリアスは一日を終わらせた。
◇ ◆ ◇ ◆
久しぶりに良い夢を見ていた。半身とでも呼ぶべきナニカに、確かに出会っていた。黒い影は何故だか懐かしく、その声は心地よく耳に染み入る。それが笑うと、ユリアスも釣られて笑ってしまう。話す毎に離れ難くなる。そんな夢だ。
だというのに、目覚めは最悪だった。けたたましい破裂音。硬質な物体同士が打つかり合う、金属音に似た爆発音が黒魔の森を駆け抜けた。それは森の奥から何度も、幾度も連続して響き、ユリアスらの心胆を震え上がらせた。
しかし、それだけでは最悪とは言わない。最悪の理由がそこに、ユリアスの目の前に居る。
「ROrorORoRoRororo」
バケモノだった。
奇妙に奏でられる鳴き声とも呼べぬ怪音。
口端から唾液が滴り、溢れる異臭。
魔術師ならば一目で理解できる奇形的な魔力。
異形、そうとしか表現を許されない妖物。
低く、高く嘶き、笑い、或いは泣いているのか。意思があるのかさえ不明な、全てが不透明な、生物と呼ぶことさえ憚られるバケモノ。ユリアスからの第一印象を語るなら、「強そう」そして「気味が悪い」、それに尽きる。
「ひ……ッぃ…な、んだ!なんだなんだなんだ!!コイツらは……!!?」
それらの群れ。数百の異形共が、ユリアス達を囲い込んでいた。
冒険者ギルドにおける『職業』制度について:
冒険者ギルドに登録する際、初めに『職業』を決める必要があります。『職業』の例としては、剣士、魔術師、魔術戦士、盗賊、魔物使いなどです。
『職業』は自己申告性です。ギルドが用意した職業枠に当て嵌まらないと感じたら、個人で新たな『職業』を名乗る事も出来ますが、その際には必ず担当ギルド職員に、その職業がどのような職業なのか説明して下さい。冒険者ギルドでは、冒険者ランクを、冒険者の『職業』の習熟度で測ります。貴方の最も得意な分野を活かせる『職業』に就きましょう!
よくあるご質問…
・なぜ『職業』を決める必要があるのですか?
冒険者ギルドではパーティを組んでの行動を推奨しております。パーティ下での行動を円滑にするため、明確な役割を決められるように『職業』制度を導入しています。また、冒険者ギルドでは、『職業』制度を活かしたパーティ斡旋を行っております。パーティに欠員が出た場合、それを埋める人員を効率良く探す事が可能です。
加えて、我々冒険者ギルドは、戦時や大氾濫時に街を守る為に戦う義務があります。大規模戦闘の際に、役割を固定し、統率を取る為の制度でもあります。
『冒険者ギルドに登録する前に』 冒険者ギルド より一部抜粋