07 伝説
「お前を魔王城の調査隊に入れることが決まった」
魔王、という一言が、ユリアスの耳奥で響いた。
その単語は、何か根源的な響きを孕み、ユリアスの核心を無遠慮に撫で回した。不安で不穏な気配を内包し、まるで何かを叩き起こすための合言葉のような。そんな曖昧で抽象的で掴み所のない感覚ばかりが胸を刺す。いや、掴んではならないのだ。それを具体的で確固たるものとして、両の瞳で見据えてしまえば、何かが終わる。
心臓が、胸骨と肋骨を破壊せんが如く早鐘を打つ。
「聞いているのか」
「————ええ、………はい」
赤い炎がユリアスの脳裏に瞬き、内から湧き上がる化物を、何かが上から削り潰すように抑えつけた。
魔王、それを思っても何も起こらなかった。
「………魔王」
口に唱えても、何も。
魔王とは、俗称だ。その正体は神宿者の位の一つ『魔王』、その魂を身に宿した者の通称である。元はその呼び名よりも相応しい位の名があったとされているが、それすらも忌み名とされ、今とはなっては悪名高き者としか呼ばれなくなったと言う。
魔王の名は、誰であろうと知っている。知らないなど有り得ない。その隣を共にするという『魔女』を連れて、世界中に恐怖と混乱を振り撒く者。その者が攻め入り、殺し回った爪痕は、大陸全土に遍在しているのだ。特に大陸南部などは魔王に対する恐怖の感情が色濃く根付いている。大陸を南北に二分する大山脈を越えて、大陸北部の聖王国でまでその名は恐れられていた。
魔王とは、ありとあらゆる場所で、夜毎に語られる大怪物の名だった。
ユリアスは、ヴィオレの言葉の意味を正しく理解した。『魔王城セインドロゥ』、伝説に謳われるそれがあるとするならば、そこは『大深淵』。特級の超危険地域であり、Aランクの冒険者ですら足りない。本来ならもっともっと高ランクの、それこそSランクを連れてくるべきだ。
「断らせて頂きます」
「断りたければそうすると良い。一人の冒険者と、一人のギルド職員がいなくなるだけだ」
「何を────ッ」
ユリアスは、奥歯を噛み、真っ直ぐとデインと視線を合わせ、確かな敵意を籠めて睨み付ける。彼女は、殆ど唯一と言って良い、友人だ。それを己との交渉材料にするなどと、許せるものか。
気を抜けば剣の柄に延びかねない拳を、握り締め留めた。今にも襲い、殺さんとする気配に、デインの両脇を固める護衛も殺気立つ。
「……なんだ、その眼はッ」
しかし、ここで騒ぎを起こしても何の特にもならないことも事実ではあった。己を宥めるように、歯と歯の隙間から吐息を吹き洩らす。目を伏せ、背を倒し、革張りのソファに指先を強く押し付けて、怒りの波を鎮めようと苦心する。
デインの言う、冒険者というのはユリアスで、ギルド職員というのはヴィオレのことに違いない。ユリアスにとってすれば、己の事はどうでも良い。ただ、ヴィオレの事を思えば、下手な手は打てなかった。どうやら、選択肢はないように思えた。
「………引き受けましょう」
それは即ち捨て駒として使い潰されるということだったが、否やはない。ユリアス自身、大氾濫絡みの案件であるのだから、例え断るという選択肢があったとしてもそれを選ばなかっただろう。それはそれとして、不満がない訳はないが。
「最初からそう言えば良いものを。……先に言っておくが、今回の依頼については口外するなよ」
眉間に皺を寄せ、神経質に机を指先で叩きながら、デインは手元の書面を一枚捲る。
「今から言うことを聞いて、見て覚えろ。まず、黒魔の森の更に奥の『大深淵』地帯に魔王の城があることは知っているな」
「噂だけであれば」
『大深淵』とは、黒魔の森の深層を更に進んだ、霧深く闇に沈む土地、未探索地域の事だ。正確には過去、歴代の勇者が魔王討伐の為に何度も足を踏み入れており、地図すらあるとされている。しかし、勇者が属し、大深淵の地図を管理している白聖教会と、ロギーネスタ帝国は極めて仲が悪い。加えて、リガルド大公国は帝国の属国であり、トリンズ冒険者ギルドはリガルド側の組織である。となると、白聖教会がトリンズの冒険者ギルドと情報の連携をする気がないのも当然と言える。
白聖教会はトリンズ冒険者ギルドに地図を渡すことを拒否し、トリンズ冒険者ギルドは白聖教会に物資の支援を断り、それどころか探索が出来ないように邪魔をする。それが、魔王城攻略がいつまでも進展しない要因の一つだった。
「今回の依頼は、三年に一度、当ギルドが行なっている魔王城の定期探索ではあるが、それと同時に大氾濫の調査もすることになる。調べるのは、Bランク冒険者パーティ『黒鉄の墓』がつい最近発見した遺跡だ。この遺跡からは神遺物である転移門の存在が報告されている。最近まで発見されておらず、唐突に見つかったこの遺跡を、今回の大氾濫の一因と予測し、また魔王城への手掛かりとなる可能性も考慮している。道中の大深淵監視局を通り、物資を補充してから遺跡に向かえ。だが、お前らは遺跡の詳細な調査をする必要はない。転移門を抜けた先の調査が本命だ。そのように動け」
デインは捲し立てるように説明すると、右中指の第二関節で机をノックし、コツコツと音を立てる。そしてユリアスを見据え、ユリアスが何か言いたげなのに気付くと、不機嫌そうに舌打ちをした。
「なんだ」
「……お前らというと、パーティメンバーがいるのですか?」
「そうだ。カイエンは一人で行ったが、それで帰ってこなかった。よってお前にはパーティを組んでもらう」
これを見ろ、という言葉と共に紙束のページが捲られる。紙束の向きを反転させ、頁の中央を指し示した。
「これがお前のパーティメンバーだ」
デインの指示したそこを見れば、複数人の名前と似顔絵が描いてある。どれもこれもがランクは高くとも人相が悪く、事実、ユリアスですら名前を聞いたことがあるような、黒い噂を持つ者ばかりだった。交友関係の狭いユリアスですら知っているのだから、相当である。何となく、今回の依頼の実態を察した。
(厄介払いか)
成果など期待していない。成果を持ち帰れば儲けもので、死んで帰って来なければ、それだけの魔獣、魔族、あるいは悪精霊がいるという指標になる。このリストに載っているのは皆、膝に傷がある者達なのだから、ユリアスと同じように選択肢も無く、今回の依頼を受けさせられたのだろう。
「薬狂いの女に偏執病の闇市男、強盗恐喝常習犯。お前と同じくこの街の膿共だ。案内役も付けるが、コレは将来有望だ。何があろうと傷付けるな」
デインが窪んだ瞳に嫌悪を浮かべ、ユリアスを詰る。
トリンズのギルドは、帝国から魔王城の捜査を義務化されており、デインの言うように三年に一度、黒魔の森の奥地に探索隊を派遣している。あるいは、今回の依頼は、きちんと捜査を行なっているというポーズの意味もあるのかも知れない。
換言すれば、超高位ランクの冒険者が帰ってくるまでの間、一応の対策を打ったことにする為の繋ぎであり、ついでにギルドの厄介者達を纏めて始末するための処置だ。
納得し、諦観と共に受け入れる気持ちと、腸が煮え繰り返るような怒りが、ユリアスを支配していた。
「………っ」
「質問は」
「……この、リーダーとして名前が載っているニーギスというのは誰なのでしょうか」
「それは俺の直下の部下の冒険者だ。また、集合は明日の朝六時、南門で獣のレリーフ前だ。他に質問が無いなら話はこれまでだ。他に用はない。サインだけしてさっさと下がれ」
デインから書面とペンを突き渡され、ユリアスはそれ以上の発言もなく二つを受け取った。そのペンに使われているインクには悪魔の血が含まれており、署名をもって魔術契約が締結され、契約に背けば激痛という罰を与えられる。だが、ここに来ては他に択は無い。書面に名を記し、追われるように部屋から立ち去る。
「どうぞ上手く死んできてくれ」
扉越しに聞こえた悪態を無視して、来た階段を降りた。
「すみません。私がもっとちゃんと詳細を伝えられていれば……」
受付カウンターに戻り、事のあらましを伝えると、ヴィオレは申し訳なさそうな顔で謝った。ユリアスはそれに気にしていないと手を振って応じる。
「ヴィオレが謝ることではないんだ。事前に行き先を聞かされても最終的に受けることを選んだと思うからな」
「行き先を知っても行くのですか? 何故、そうまでして……」
「今、街にBランク以上の冒険者が俺含めて数人しか居ないのは本当のことだ。人がいないなら仕方ないよ。それに、誰も本当に城への手掛かりだとは思っていないし、実際その可能性は少ないだろうしな」
本来ならばAAAランク、若しくはSランク冒険者が受けるべきモノだが、それら超高位ランクの冒険者は国の長である公爵による無茶な依頼で引き抜かれてしまった。なんでも、人手不足が原因だとか。それが許されるのがギルドと国の関係だ。ギルドがいくら国家に属さない中立組織を謳っても、南部冒険者ギルドは元々ロギーネスタ帝国の下にあった組織であり、帝国、ひいてはその属国たるリガルド大公国の圧に逆らうことは困難であった。
「しかし……」
それでも尚ヴィオレは食い下がる。それに、ユリアスは無表情を少しだけ崩し、眉を下げる彼女に向かって冗談めかして言う。
「そんなに俺が他の冒険者と上手くやれるか心配か?」
その言葉に、ユリアスが本当に気にしていない事が伝わったのか、ヴィオレはやっと表情を和らげた。
「……ええ、少し心配かもしれません」
「上手くやるよ。甘く見られすぎないように、かつ悪印象を強めないように。それに、もう受けてしまったんだ。後悔するよりも、これからの対策の方に力を入れるよ」
「それは、そうですね」
「だから……そうだな。ヴィオレ、地下書庫に立ち入る許可証をもらえはしないか? 魔王城周辺の魔物までは分からないだろうけれど、可能な限りの情報が欲しい」
「ええ。そう言われると思って、既にこちらをご用意させて頂きました」
「用意?」
手元の書類の山から引っ張り出された冊子に目を丸くする。表紙には簡潔に『黒魔の森奥地の生態系について』とだけ記されていた。
「明日には出立するのですから今から書庫に籠って資料を漁られるより、必要な内容が纏められたものをお渡しした方が良いかと思いまして。……いえ、迷惑ならばいいのですが」
「まさか。ありがとう、すごく助かる」
簡易に束ねられた冊子と同時に、倉庫の鍵を受け取りつつ、冊子を軽く捲る。ぱっと見たところかなりの情報量だ。これだけの情報を纏めるには、相当の労力が必要だろうことが伺えた。
「ですが、ユリアス様の言うように、魔王に関するものならば兎も角、魔王城に関する情報というのは極めて少なく……知りたいのでしたら、語り屋を利用するのがよろしいかと。語り屋の居場所も、それに載せておきましたので」
「そうだな。そうするよ、ありがとう」
ヴィオレの協力に報いるためにも、生きて帰ろうと心に強く刻んだユリアスの背後から、低い女性の声が通った。
「申し訳ありません。急用のためカウンターを使いたいのですが」
「ああ、すみません。じゃあヴィオレ、また今度。冊子もありがとう」
「ええ。……またのご来館をお待ちしています」
フードを目深に被った人物に謝り、ヴィオレに一言入れて、ロイクをカウンターから回収すると、ユリアスは直ぐにギルドを出た。
「………カイエンが死んだか」
ギルドが門を構える大通りから、路地裏へと足を進めながら、思わずといった調子で呟いた。
カイエンは友とは言わずとも知人と表せる相手であり、そんな相手が死んだとなると、思う所はあった。冒険者の遺体は魔物に喰われるため、残るということはまずないが、それでも遺品を探すくらいはしようと、心の片隅に書き留める。傭兵時代に目の前で戦友が死ぬということはあったが、知らない所で知らない時に、知人が死んだと聞かされるのは、また別な感慨があった。
ヴィオレの用意した資料と、以前通った際の記憶を掘り起こし、順路を辿る。ギルドから建物を四つ進んで入った路地裏を右に二つ曲がり、出た道を真っ直ぐに進めばそこに着く。途中新しく生えたのか、ドルト杉が道を塞いでいた為、少し遠回りをすると、資料にあるそこに出た。一人の老婆が露店を構えるそこを、『語り屋』といった。
「ご老人、今、よろしいですか」
魔物には、大きく分けて二つの種類がある。それは『実存種』と『幻想種』だ。『実存種』は通常の、父と母の精と血を受けて産まれる魔物であり、『幻想種』は、人々の噂や恐れが魔力を帯びて生まれる魔物である。より正しく言及するならば、幻想種は魔物というより悪精霊の一種であるが、それは然程大事な差ではない。
実存種は噂に左右されないため、そのまま真正面から打ち破る他ない。また、幻想種は人々の恐怖の念によって、更にその強さを高める。
幻想種に対抗する方法は、噂を源泉から絶つことでそれ以上の強化を抑える方法と、嘘の弱点を流布することで弱体化を図る方法とあった。前者は問題の据え置きで根本的な解決にはならず、後者は下手すれば逆に強化することになりかねない諸刃の刃であり、選ばれたのは、両方だった。
一般人にまで広く知られた有名な幻想種、例えば呪亡霊などは、図書館の資料や絵本などを用いて、捏造した弱点を暴く。知名度の低い幻想種、例えば誰も知らない廃墟に棲み着いた分類し難い魔物などは、あえて公にせず、記録にも残さず、その地に赴く必要がある者だけが噂を知る者に聞き、対策を練る。
その噂を知る者というのが、『語り屋』だ。人々は幻想種の発現を知ると、先ずは語り屋を訪ね、その噂を語り屋に伝える。その後は誰にも噂を口外しないことを国は推奨しているが、それが完璧に守られる例は実の所あまりない。
また、語り屋は己の師匠から様々な伝承、伝説、噂を教えられている。だからこそ彼ら彼女らは、図書館では知り得ない、その地に根付く噂、伝承を知っているのだ。今回の例ならば、大深淵に棲まう幻想種について、そして、魔王城や、その他の遺跡についてを。
「………なんだい、不気味な旦那。何か噂が入り用かね?」
「ええ、先ずは音隠しの魔術をお願いできますか?」
「何か勘違いしていないかね、ここは情報屋じゃないよ、語り屋さ」
「承知しています」
ユリアスの言葉に、老婆は怪訝そうに眉を顰めた。
「ふうん、何やら随分なことになってるみたいだね」
「いえ、そう大したことではありません。どうぞお気になさらず」
「まあ、そういうことならそういうことで、別に良いんだけどね」
老婆は、自身の座る敷物の上に放られた、焦茶色の羽根と何らかの魔物の指先が干からびたもの、それぞれ色の違う透明な石を二つ、両手で弄り、ボソボソと呪文を唱えると、魔術を行使する。そして、音隠しの魔術のスムーズさに彼女の正体を勘繰るユリアスへと、彼女は向き直った。
「聞きたい事は」
「魔王城と、その他の遺跡、あとは出来れば……大深淵に棲む幻想種について」
「おや、やっぱりあんたもかい。確かにもうそんな時期だろうけど……それにしても音隠しなんてやり過ぎじゃないかね?」
「………」
「まあいいさ。それじゃあ、始めようか」
老婆は正座をしたまま、己の膝を右の手で打つ。彼女が瞳を静かに閉じてから三秒ほどして、低くしわがれた声が、朗々と語り出した。
往く時は、西日横切るクラリル鳥のように。これより唄うは稀人の詩。不幸なりし迷い人の詩。氷蟲も溶ける古より、遥かの南の果ての城より、この詩は闇と共に、低く低く伝わる。
昏き森は魔王の庭園。不死者が歩き、魔獣が集う。死の臭い染み付くその庭を、越えられし者は勇者より他にあらず。
稀人伝うは虚構の魔獣。巨木犇めく霧の中、恐怖が生みし悪魔の群れは、時に喚いて時に隠れて、立ち入る者々血に返す。奴等嫌うは銀の槍。刃先でなくば傷はなく、白銀でなくば恐れない。
樹々を潜り、霧を掻き分け、足枯れるまで歩いた先に、魔王の城は黒々と聳える。
厚く連なる城壁は、六翼の古竜すら挑むこと叶わず、天貫く尖塔は、神徒の怒りを知らぬ所業。一際高い時計の塔を、緑の刃の怪鳥が抱き、堅く下ろされた城門は、鼠の一匹通さない。
城を護るは、げに恐ろしき大悪魔。真の焔を身に宿し、振るう刃は雲を裂く。纏う焔は火竜を屠り、国さえ砂漠へ変えにけり。
城に潜むは化性共。蛇の瞳の貴公子に、首落としの処刑人。三つの巨頭の大狗に、病魔振り撒く白き鬼。黄金角の祖王が子らに、魔殿に潜む悪魔共。語り尽くせぬ数のモノ共、決して戦ってはならぬ。
昏き深淵の奥地より、惨劇刻まれし玉座より、魔族を従え、魔獣を率いて、血と霧と死を引き摺って、彼の王はやって来る。
その姿知ってはならぬ。その名を唱えてはならぬ。彼の者を気取るべからず。眼有れば伏せ、口有れば閉じ、耳有れば塞ぐべし。彼の者の前で生きてはならぬ。彼の魔の城へ、行ってはならぬ。
語りが終わり、また三秒ほど経って、老婆は目を開けた。
「こんなもんだね。魔王城以外の遺跡だの集落だのというと、色々……深淵護りの魔族の集落やら、地下大洞窟への入り口やら、魔界の入り口やらがあると言うけど、それに関してはあたしでも有用なウワサは知らないよ。ただ助言できるとすれば………」
老婆はすぐ隣に置いてある大きな荷物入れから、一枚の黒い布を取り出した。広げて見せられたそれには、濃い蒼で何かしらの紋章が刻まれていた。
「これは魔王の紋章。大深淵を半ばまで行くと魔王を信仰する集落があって、そいつらは魔王の紋章を付けてる者は襲わないって話さ。懐にでも入れとくんだね」
「ありがとうございます。態々こんな物まで」
「フン、気にするこたないよ、それが仕事だ」
手渡されたそれを、言われたままに懐に仕舞い込む。デインは転移門が見つかったと言っていたので、その集落と関わることがあるかは微妙なところだったが、それでも貰い物を無碍にはできなかった。
「他に語るなら黄金都市だけど……これは語るまでもなく知ってるだろう?」
「はい、それに関しては流石に」
黄金都市とは、この世全ての秘宝、財宝がそこに眠ると言われている、伝説の都市であり、黒魔の森の奥地にあるとまことしやかに噂される都市だ。それは神代の人間が作ったとされ、その存在を信じている人間は数多くいる。
今回の依頼が極秘なのは、魔王城に繋がり得る情報を掴んだという事実を、白聖教会に漏らしたくないのもあろうが、黄金都市も原因の一つだ。この街にやって来る冒険者たちは、黄金都市を求めて来ている者も多い。黄金都市を信じていないにしても、未知の遺跡とは、それだけで金の匂いがするものだ。
今、大氾濫が起きようとしている時に、報告にあったような得体の知れない転移門の存在が、冒険者らに知られたとする。冒険者とはどいつもこいつも向こう見ずで、業突く張りで、自分の実力を見誤る生き物だ。多くの冒険者達が、その転移門に挑もうとするだろう。そうなれば大氾濫の調査どころの騒ぎではない。大氾濫の詳細が掴めなければ街が滅びる可能性もある。だからこその極秘依頼だった。
「転移門の存在する遺跡に関して、何かご存知でないでしょうか」
「知らないよ、聞いたこともない」
既に用意していたかのような早い返事。恐らく、ユリアスより前にも同じ事を聞く客——デインや今回のパーティメンバーなど——がいたのだろう。
「そうさね、あとは最後に……魔王城の地下には、とんでもない、それこそ並の神獣など片手で捻り潰せてしまう程の化け物が居るとか」
「化け物……」
「何百年も前の戯言さね。それでも、こういう戯言を伝うのがあたしら語り屋の仕事だからね。これ以上の話はあたしからはないね。更に詳しい話を聞きたいなら…どうせ寄るんだ、大深淵の監視所に駐在する語り屋にでも聞くんだね」
「はい、貴重なお話が聴けました。ありがとうございます。それでは、これで」
「大銀貨が五枚だよ」
彼女の正座する敷物の上に、指定された金額と、それに合わせて大銀貨を二枚、並べた。口止め料にしては高い気もするが、情報が流出すればデインに何を言われるか分かったものではなかった。
「要らないよ、こんなもの」
「いえ、受け取ってください」
そう言えば、首を横に振っていた老婆は上機嫌に口を裂いて、今度は首を縦に振る。
「ま、どうしてもってなら貰っとくけどね」
へっへっへ、と厭らしい笑い声を上げて大銀貨を手元に引き寄せる老婆に背を向け、歩き出したユリアスに、老婆の声が響いた。
「じゃあね、不気味な旦那。神の御遺志が今日も我々を生かして下さるように」
「ロイク、倉庫へ行こうか」
ユリアスは道すがら、今回の依頼について思いを廻らせる。
誰も本気で魔王城に繋がってるとは考えていない。あるいは、可能性くらいならば考慮しているだろうが、それも低いものだった。そんなものに命を賭けるのは馬鹿馬鹿しくないかと問われると、迷う気持ちはやはり存在した。
「にーう?」
「なんでもないよ」
普段からあまり上機嫌ではない顔が輪を掛けて無愛想になっていたからか、尋ねるような鳴き声を上げたロイクを撫でて、ギルド脇にある倉庫の前で足を止めた。
ユリアスは借りた倉庫の前で、そういえば鍵を受け取るのを忘れていたと、一瞬固まったが、数秒思考を廻らし、冊子と一緒に渡されていたことを思い出す。ズボンのポケットの中に手を入れ、弄ると、硬い感触の小物が手に当たる。
予想は的中し、ポケットから引き出したその鍵で倉庫を開け、中に踏み入った。
中はユリアスが蒐集した刀剣類で溢れており、雑多で足の踏み場もないような様相を呈していた。剣立てに差し仕舞われた刀剣らの中から一本、先端が布切れで巻かれた短槍を引っ張りだす。ユリアスの腰幅ほどの長さで、それは槍というより暗器と呼んだ方が相応しい大きさであったが、伸縮の魔術が掛けられた代物であり、一手間掛かりはするものの、手順に沿って魔術を起動させれば槍として問題なく扱える大きさになる。これは、語り屋の言うところの『白銀の槍』だ。布に隠された穂先は、硬化の属性が付与された白銀で打たれており、今回の依頼にもってこいの名品だ。その槍を壁に立て掛けると、倉庫の一際奥まった場所に視線を遣った。
倉庫に納められた武具の類の扱いはまちまちで、どれも一定以上の気遣いはされているが、それでも雑多といった印象が先行する。
しかし、それらの中でただ一振りだけ、鞘に納められただけでなく、如何にも頑丈そうな黒い箱に入ったものが、倉庫の最奥に丁寧に安置されてあった。他の刀剣には目もくれず、倉庫の奥へと進むと、その黒く細長い箱を手元に抱える。
大深淵に潜るとなれば、槍一つでは心許ない。折れず、曲がらず、よく切れる、強い刃が必要だった。
ユリアスは箱から取り出したそれを手に取り、軽い金属音と躊躇いの念と共に、剣の柄を僅かに鞘から引き上げる。黒塗りの鞘から徐ろに現れたのは、これもまた黒の剣だった。刃までもが黒い剣だ。それ以外の色は一切使われていない。
「………」
この剣は、ユリアスが八年前のあの日に父から譲り受けた剣であり、彼にとって父を象徴する剣、憧れの剣と言うべきものだった。だが、ユリアス自身、今の己ならばこの剣を振るうに足りると、そう確信を持って言える。
ユリアスは、一度抜きかけたそれをもう一度、今度は迷いなく抜き放った。
光を反射するその剣は素人でも分かる程の業物。黒魔鋼をふんだんに使用した鋭剣。これ以上の業物は『剣と名工の街ゾルジアナ』ですらそう易々と入手出来ないだろう。それ程の業物だ。定期的に手入れをしてはいたが、実戦で扱うとなれば……街が滅びた、あの日以来だった。
剣を持ち、構えてみるが、今一つピンと来ない。
先程までの感慨は、その違和感に呑み込まれてしまっていた。確かに良い剣なのだが、もっと自分に相応しい、それこそ魂の一部の様な剣が何処かにある。そんな気がした。
その魂の一部の様な剣というのは恐らく『神器』だろう。『王』の名を冠する魂の神宿者はそのような感覚に陥る事があると言う話を、ユリアスのみならず、この世界に生きる者は皆知っている。
偉大なる始まりの大神が配下の神々に与えたとされる『神器』。それを手に取って初めて、冠持ちと呼ばれる上位神の魂を継ぐモノ達は真に覚醒する。冠持ちでない神宿者は下位神の化身であり、神器を持たないが、己の魂の本質を理解したその瞬間から神宿者としての力を扱えるようになる。
ユリアスは、己の魂の名すら知らないが、己が冠持ちだという自覚はある。だからこそ、己に最も似つかわしい武器があると、そんな感覚に陥っていた。
しかし、この剣も凄まじい名剣であり、黒魔の森でしか手に入らない黒魔鋼で作られた、凄まじく高価な剣であることも確か。今まで何度も素振りをし、身体に重さを刻み込んだ剣であり、そして何より、ユリアスにとって最も思い入れが深い剣でもある。
今から行くのは大深淵。何が起こるかは分からない、御伽噺の世界だ。そこで八年振りにこの剣を実戦で使う事になる。深く息を吸い込み、浅く、長く、嘆息すると、銘も無き剣に、祈る様に呟いた。
「頼んだぞ」
氷蟲について:
▶︎これは今回の発掘調査によって、リラ王国北東部の街、ハルラで新たに発見された氷蟲である。氷蟲とは、神代に起きたとされる天変地異によって氷漬けにされた蟲の氷像であり、燃やしても叩いても破壊不能のものである。それがどのような経緯で生まれたのかについては、未だに解明されていない。主に北大陸の西部で発見される事が多いが、今回発見された氷蟲は北大陸の東部で発掘された。これは今までの分布傾向から見ると類のないものであり、調査隊はこれについての調査を更に進めていく予定だ。
『ロランタ新聞 神没暦3052年16月19日(森)号』 ロランタ新聞社 より一部抜粋