23 これからの話
「───────」
意識の覚醒と共に暗い視界が晴れていく。寝起きには騒々しいシャンデリアの輝きに、視界を狭めた。
「────」
恐らくここは、自身に与えられた客室だろうとユリアスは当たりを付ける。天井や壁紙の模様、その他様々な要素がそう告げていた。現状を把握し、忍ぶように呼吸を刻む。どうやら生き永らえたらしい事に安堵し、背中をぎっちりと包み込むベッドの感触に身を任せようとする、その前に、彼の五感がそれを告げた。
“彼女”の気配がする。考えてみれば不自然ではない。今のユリアスは怪我人で、誰かが看ている必要がある。彼女は良い回復術師なのだから、驚くことでもなかった。この動揺は、予想の裏を突かれたことによるものではない。乱れる鼓動を整え、シーツを軽く握ってみた。
微かな間を使って落ち着きを得た後、身体をゆっくりと持ち上げ、確信と共に窓際の椅子へと目を向ける。
「っ……」
やはり、そこには過剰なまでに美しい少女が座っていた。
背中の半ばまで延びた、みどりなす黒髪は頼り無い日光に反射し、薄く輝く。透き通るなめらかな肌と、折れそうな程に細い腰。触れれば直ぐ様陽の光に溶け、消えてしまいそうな、一度見れば惹き込まれ、二度とは戻れぬ魔性の雰囲気を持っていた。
「おはよう」
その佇まいに意識を絡め取られ、ユリアスは息を飲む。その気配が伝わったのか、言葉を先に発したのは、彼女の方だった。窓の外へと向けていた身体をユリアスの方へと向け、淡い桜色の唇に微かな笑みを宿して、彼の名を呼んだ。
「……ユウくん」
その声には様々な想いが詰め込まれていた。無茶をした事に対する非難、僅かな困惑、そしてなにより罪悪感。
ユリアスにしてみれば、少し背筋が凍えるようなものでもあったが、それだけではない。仕方がないな、という暖かな諦感と、こうまで傷付きながらも戦い切ったことへの感謝。そんな気持ちも、そこにはあった。
彼女にとっては、彼がそうまでして手を延ばしてくれた事が切なくもあり、同時に例えようもなく嬉しかったのだ。
彼の迷いを知っていたからこそ、それでも尚手を掴んでくれた事に、勝手で都合の良い話だと思いながらも、胸が締め付けられていた。
「おはよう、サクヤ」
含まれた非難に恐れ、感謝に安堵し、しかし彼女の想いの名までは気付かずに、ユリアスもまた笑みで返した。それにほんの一瞬、サクヤの顔がくしゃりと歪んだ。
「……よかった」
水っぽく、熱い吐息を口から溢すと、細い身体と薄い唇を震わせてサクヤは破顔する。
「無事で良かった」
「……すまない。心配をかけた。君の助言を無視して無茶もした。……泣かないでほしい。それから、良ければ許してほしい」
彼女は控えめに鼻を鳴らしながら目元を拭うと、それでも嬉しそうに、自身の気持ちを伝えるように、優しく微笑んだ。
「ううん、大丈夫なの。すごく嬉しいだけだから」
それから一頻り静寂に間を任せた。それは決して嫌な静かさではなく、どこか暖かく、柔らかい音だった。この静かさが破れても、そのままでも、互いにどちらでも良いと確かに思えていた。
ぼんやりと窓の向こうに視線を投げるユリアスに、サクヤがいつもよりも抑えた声で訊ねる。
「ねぇ、ユウくん何か飲む?」
「え?いや、それくらい自分で…」
「ダメ。身体、もうボロボロだから」
「あー……」
サクヤの言葉に息を詰まらせ、視線を游がせると、躊躇いがちに申し出る。
「じゃあ、珈琲、あるか」
「……コーヒー、飲んでいいのかな」
「…良いんじゃないか? 身体もかなり丈夫になったし、弱っていてもその程度で腹を壊すこともないだろう」
む、と唸るサクヤだったが、ユリアスの身体を一度じっくり見回し、納得したように頷いた。それでもまだ迷う素振りを見せながら、ベッド脇の机から離れて入口にほど近い小規模な水場に立つ。
「……えっと、何か入れる? お酒とかは無理だけど、牛乳とか砂糖くらいなら大丈夫だよ?」
火の魔道具に魔力を注ぎながら振り返るサクヤに、軽く首を横に振った。
「いや、今日はいいよ」
そう?という声を耳に、ヘッドボードに背を預けて少女の横顔を眺める。楽しそうに綻んだ口元を見れば、ユリアスの口元もまた、自ずと同じようになった。
少しして、サクヤが飾り気のないカップの乗ったトレイを、ベッド脇の机へと持ってくる。熱いから気をつけてね、と差し出されたそれは、言葉の通り、濃い黒の水面から湯気を立ち上らせていた。隣には一応とばかりにミルクの入った、小さなポットが置かれている。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
手渡されたカップを軽く揺らし、匂いを鼻で味わい、深く吐息を吐き出した。そんな満足げなユリアスをベッド脇の椅子から眺めていたサクヤが、不意に口を開いた。
「お酒、好きなの? たまにお酒、入れてたみたいだけど」
「普通くらいかな」
「そうなんだ。好きなのかと思ってた」
「最近寒くなってきたからな。体を温めるために飲んでるんだよ」
「寒いの苦手なの?」
「苦手だなあ」
コーヒーをこの世界に伝えたとされる異界の『聖者』の話や、オススメのコーヒー豆、そもそもどうして魔王城にコーヒー豆が存在するのか、など。とりとめもない話題が続いていく。
しばらくして、ユリアスはサクヤの視線がずっと己の手元に注がれていることに気づく。あまり飲んだことが無いのか、もの珍しそうな視線に、コーヒーカップを彼女の方に差し出した。
「飲んでみるか?」
「!……少しだけ」
サクヤは小さく頷いた後、恐る恐る口に含み、軽く目を見開いた。
「…あんまり美味しくはないね」
「……そうか」
「何で笑ってるの?」
「いや、別に…」
「……?」
コーヒーをおっかなびっくり飲んでいる姿が小動物的でつい見てしまった、が答えだが、そんな事を長々と説明するなどとんでもない。きょとんとするサクヤに顔を弛ませていると、良くわかっていないのか、不思議そうに微笑み返されてしまった。
「あ、そう言えば……ディア達…ディアゼル達は何処なんだ? 後片付けか?」
そのまま飲むのが味気無く感じ、ポットに入ったミルクをカップに注ぎながら問いかける。その手元と、変わっていく水面の色彩を眺めながら、サクヤもまた口を開く。
「うん。お城自体かなり崩れちゃったから。修理中だって」
言われて思い浮かぶのは神獣を殺した時の一閃。あの一撃は神獣戦の最後を決定付け、ついでに地面も大きく抉り、巨大な痕を刻み込んだ。あれによって余計な仕事が増えた筈だ。うえっとユリアスの頬が引き攣る。
「……申し訳ないな。俺にも何か出来る事とか、ないか?」
「ダメ。そういう所が貴方の美徳でもあるけど、自分の身体は大事にしなきゃ。とりあえずは、魔王化の後遺症が治るまでは、大人しくしとかなきゃダメだよ。そればっかりは吸血鬼の回復力でもどうにもならないんだから、我慢しなくちゃ」
「仰る通りで…」
ぐうの音も出ない正論にユリアスは少し萎びる。彼女の言う通り、自分の身体を顧みずに戦闘の日々を繰り返した結果、体内の魔力異常も起こしているのだ。そろそろ、自分のこれを悪癖と認める時が来たのかもしれない。
「それでサクヤ。君は俺の相手ばかりしていても良いのか? 俺としては嬉しいことだけれど…怪我人は俺以外にもいるんじゃないか」
「大丈夫だよ。今日の分の薬の調合はもう終わったの。怪我した人も少なくはないけど、昨日とか一昨日よりはずっと落ち着いてきてるし、それにユウくんの怪我の経過を見るのも、私の大事なお仕事だから」
「つまり……」
「うん。暫くはずっとここに居られるよ」
「そうか。なら、良かった」
望みに沿った回答に、小さく頷いてマグを傾ける。そうしてちびちびとコーヒーを飲むユリアスを見ていたサクヤが、居住まいを正して、真面目な声でユリアスへと問いかけた。
「ねえ…気分は悪くない?」
緊張した彼女の空気に、魔王化の後遺症、特に精神状態について聞かれているのだとユリアスは読み取った。サクヤとて、能力の影響でユリアスの精神状態に異常が有るか無いかは把握出来る。出来るが、本人から所感を聞くのも彼女の仕事であり、彼女の心情としてもそうせざるを得なかった。
「なんとか。種族が再構築された影響はあるけれど……それでも精神の方の影響は軽微だと思う。これもサクヤのお陰だ。ありがとう」
「お礼なんて、そんな……」
貴方には重い役目と運命を押し付けてしまったと、彼の礼を拒否しようとしたその口を、深々と下げられたユリアスの頭が先んじて閉ざさせた。
「…どういたしまして。なら、身体の方は大丈夫?」
ユリアスはぺたぺたと自身の体に触れ、確かめてみる。痛みはあるが、それ以上は分からない。あの時眼窩を貫き生えた角は消え、潰れた瞳も再生している。鋭く伸びた爪は心なしか短くなっているような気もする。鏡が近くに無い現状、外見の変化に関しては、いまひとつ分からないといった所だった。
「…うーん…サクヤから見てどうだ? 何か変わったように見えるか?」
「えっと…まず血の気が無くなったでしょ。それから…格好良くなった?」
「かっこよ…?え?」
気のせいかなとサクヤは首を捻った。よくよく目を凝らして見れば、確かに顔は精悍で、整ってこそいるが、その造形に変化はない。ならば気のせいだろうと断じるサクヤを他所に、ユリアスが唸った。
「おお、歯が鋭くなってる。これは吸血鬼としての要素だろうな。…ほら」
「あ、ほんとだ」
立ち並ぶ歯は鋭利で、犬歯などは容易く肉に刺さりそうな形をしている。それを舌でなぞって確認すると、唇を持ち上げ、歯列をサクヤに見せる。すればサクヤは小さく感心の声を挙げた。
それから少し、何かに悩むように押し黙ったユリアスに、サクヤは歯白いな、などと他ごとを考えていたのを取り払って不安げに彼を伺った。
「やっぱり、ヒトのままでいたかった?」
「うん?…ああ、そういうことじゃなくて」
少し弱々しい声色の彼女にユリアスは手を振り、その想像を否定する。それから務めて柔らかく、能天気になるように、肩の力を抜いた。
「ただ、野菜食べづらそうだなあ、と」
不意を突かれたその回答にサクヤは驚きに目を大きくすると、本当に彼が気にしていないことを察して、空気が抜けるように小さく吹き出した。
「…ふふ、そうかも」
真剣な質問とそれ対する間の抜けた返答。そのギャップが笑いのツボに入ったのか、寸刻の間笑うと、サクヤは椅子から下りて代わりにベッドに腰を掛け直す。
「ねえ、ユウくん。何か欲しい物とか、したい事とか、ある? ある程度なら叶えられると思うけど…」
労わるようにしてサクヤは彼の顔を覗き込む。そうして彼女の髪が照明で透けて輝くのを見上げ、ユリアスは考える。今現在特にこれといって欲しいものは無かった。したいことはあれど、それは今まさに行なっており、ならばと動けるようになった後の予定に考えを巡らせる。
「そうだな……直、身体も治るんだろう? そうしたら、君とまた花壇に行きたい」
「!それでいいの?」
「君さえ良ければ」
「もちろん、良いよ。わたしも、ユウくんと一緒にもう一度、外に出たかったから」
照れたように言うと、口許を右手で隠して、静かに目尻を下げる。それからユリアスの手を取り、自分のそれで彼の指を握った後、指を絡めて遊ばせた。
「……」
青年の左手を両手で包み、その温もりを確かめると、少女は嫋やかに微笑む。無事で良かったと、改めて溢す彼女のその手に、ユリアスは右の掌をそっと重ねる事で応えた。
◆ ◆ ◆ ◆
「失礼する」
サクヤと適当に駄弁ること幾許か。エリーを伴い、予告なく現れたディアゼルは、戦闘時の巨大な姿ではなくなっていた。常の通りの偉丈夫としての風貌で入り口を跨いだ彼は、ユリアスを見るなり顰め面を和ませた。
「ディア…ゼル、どうしたんだ?」
「貴殿がそう呼びたいならば『ディア』で良い。そちらの方が私の気分も良いしな」
先の戦闘中、不意に口から躍り出た『ディア』という呼称は、どうにも口に良く馴染む。気を抜けばつい、そう呼んでしまう程度には。これも恐らく、前世の影響なのだろう。
「そう言ってくれるなら有り難く。俺もこちらの方が言い易いんだ」
「それも道理であろうよ。魔王陛下は何時も私をそう呼ばれた。して、用事だが…ユリアス殿、体調は大事ないか?」
「それなら問題ない。万全とは言えないけれど動く位なら恙無く……あ、ロイク」
悪魔公の頭頂で鎮座する、偉そうな黒猫に意識が向いた。何してるの、と凄い度胸だな、という感情に、ユリアスはつい会話を止めて彼の名を呼んだ。
「ああ、黒猫殿とは廊下で偶然出会してな。ユリアス殿の元へ見舞いに付いて行きたいとの事より、そのまま同行願った次第だ」
「そういう事か。…お前にも心配を掛けたか」
「んぬぉ」
ぴょん、とディアゼルの頭から降りたロイクがユリアスの胸元へと飛び込んでくる。そのままユリアスの膝上でさも当然とばかりに丸まると、ぐるぐるぐると喉を鳴らす。
「すまないな」
「んぬぁ」
アホっぽい返事は気の抜けた時やユリアスを労わる時に出るもので、今回はその両方だった。常日頃なんだかんだと己の身を案じてくれている愛猫に、ユリアスは感謝を込めて背中を撫でる。ロイクはそれを目を瞑って受け入れ、また低く喉を震わせた。
「その様子を見る限り、精神、肉体共に良好なようだな」
「ああ、あれから侵蝕度は目に見えて引いている。今では肉体の方も一割程度の変化に抑えられている。これもサクヤのお陰だ」
「それならば何より。…しかし、まさか姫君の『眩惑』に、あのような使い方があったとは。意外ではあれど、僥倖であったな」
呻くように言い、ディアゼルはユリアスを観察する。肉体に目立った外傷はなく、それらの類は吸血鬼の『超再生』で消え去ったのだと分かる。リンカの持つ『超再生』は、吸血鬼の中でも極めて強力な部類であり、契約により共有したユリアスも同じモノを所有している。しかし、それだけ強力な『超再生』でも、魔王化による肉体の変化を抑えることは出来ない。魔王化とは、それ程異質な現象だった。
「今までの魔王には似たような事を試してないのか?」
「いや、試したが、どうにも上手くいかなんだ。私の神器に巻き付く鎖があっただろう? アレもまた神器の一部であり、精神を縛る為のモノでな。激情を抑えるモノではあるが……魔王の狂気を完全に食い止められる程のモノではない。アレ以外にも様々試したが、終ぞ求めるに足る術は見付からなかった。恐らくは姫君の権能は『魔王』相手に格別相性が良かったのであろうな」
「なるほどな」
呟きつつも、もしかしたらの可能性に背筋を冷やした。リンカの遣り方のように、忘れさせれば問題ないという訳でもないのだ。あれは完全な覚醒状態でなかったからこそ出来た応急処置であり、精神が『魔王』になってしまった時点で、それを留める方法はないのだから。
ディアゼルがベッドの側の椅子に座り、エリーが紅茶を淹れる。それに一口だけ口を付けると、音を立てずにカップをソーサーに置き、ディアゼルは居住まいを正した。
「今日はしなければならない話があってここに参った。貴殿の、これからの話だ」
以前の、ユリアスの正体は魔王であると告げに来たあの時を思い起こさせるその面持ちに、ユリアスもまた顔付きを尖らせる。
「貴殿は、いずれ時が経てば前世の記憶、その呪いの残滓に飲まれ、憎しみに心を囚われるようになる。そうならない為の、ユリアス殿の意識が消えない為の対抗策が必要だ。…………これを見てくれ」
ディアゼルが懐から取り出したのは一冊の古文書だった。それを机の上に置くとディアゼルは頁を捲り、とある所で止めた。相当に古いらしく、字を読む事すらままならない。見当の付かない話の流れに眉を僅かにひそめる。
「なんだ……いや。まさか、神代文字か?」
「ああ、神代文字だ。正真正銘、神々がその手で書き記した代物だ」
「凄いな。こんなものまであるとは…」
感嘆の溜息がユリアスの口から洩れる。そもそも、神代の物質は白黒の大戦の折にその大部分が消失しており、伝承さえも失伝したものが大半である。まして、神々直筆の書物など幾ら金を積んでも見れるものではない。驚きに前のめりになるユリアスに、ディアゼルは軽く呻く。
「いや、これはつい先日発見されたばかりのものだ。地下牢の更に地下、その奥に新たに見付かった小部屋から出てきたものらしい」
「ああ、エリーと一緒に行った、あの」
「そう、それだ」
「あそこから、神代の部屋に……?」
詳細を聞くに、随分とまた都合の良い話だった。その場にはユリアスも居合わせたが、地下牢の奥から発見された部屋から、現状を打破し得るモノが出てくるとは予想するべくもなかった。
魔王が地下牢に立ち入った事と、新たな部屋が出現した事。それらの因果関係にユリアスは思考を巡らせる。その対面でディアゼルはサクヤを一瞥すると、呼吸を呑み、咳払いを一つした。
「古文書より前に、確認しておきたい。『魔王』の、大敵の話だ」
「それは───」
「ディアゼルさん」
己を留めようと口を開いたサクヤに、首肯と共に目配せをすると、ディアゼルは重々しく、それを告げた。
「─────『勇者』の、話だ」
『勇者』。その単語に、魂に刻まれたそれが甦った。
憎く、焦がれた紅い瞳の少女。誰よりも輝かしい、魔を誅する刃その人。八人の聖人と、その王と共に剣を揮う哀れな戦士。義心を宿し、悪を誅する真の英雄。
心臓を貫かれる。首を跳ねられる。四肢をもがれる。炎に焼かれる。剣で、槍で、斧で、切り、刺し、叩き斬られる。眼前で愛する者を殺され、同時に己の身体から噴き出す赤が、地に染み込んでいく。
臣家が、部下が、仲間が、家族が、死んでいく。地に臥していく。
味方だけではない。己の手で何人も、何万という数の命を奪い、相応の血がこの大陸を染め抜いた。憎しみと殺意に想いを委ねた。
『魔王』の名が、黒く染まっていく。
死、死、死、死、死、死。幾重にも連なる死の既視感。
重ね続けた憎悪の念は、獰猛な形を成して吠え立てている。
何度アレの死を願っただろうか。何度アレを殺せばいいのだろうか。何度殺せば、諦めてくれるのだろうか。何度殺せば、心が折れてくれるのだろうか。何がアレをああまでも衝き動かしているというのか。
何で、アレは、自分を救ってくれないのだろうか。
これ程苦しいというのに、これ程焦がれているというのに、それでも彼女は、『魔王』ばかりは受け入れない。それが何よりも許せない。許せるものか。
殺意が脳を甘く締め付け、優しく囁く。お前を受け入れよう、と。
全身が粟立った。呼吸が詰まる。黒が這い寄り、思考を犯す。
思わず『魔王』に手を延ばしそうになり、胸元の指環を掴み、強く握り締めた。
「ユリアス殿、気を強く保て。決して、呑まれるな」
ディアゼルの声が聴こえる。
自身の胸、心臓の上に指を突き立て、力を籠めた。指は胸に喰い込み、滴る血は緋の霧となり、蒸発していった。すれば痛みと殺意とが良い塩梅に混じり、痛快な気分になってくる。
「ユウくん」
その声と共に、黒が晴れた。額に浮かんだ汗がこめかみを通り、頤を伝い、ベッドに数滴、ぱた、ぱたと落ちる。
「大丈夫? わたしのこと、分かる? 深呼吸して。ゆっくりで良いから。……大丈夫?」
「……ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……ハ…ァ………………」
サクヤの両手がユリアスの右手を取り、そっと胸元から剥がした。緑の魔力がその手から流し込まれ、真っ黒い殺意を押し流していく。彼女の言葉に従って、乱れた息を整える。脳内を丸呑みにしていた悪鬼はこの場を去ったが、それでも尚、思考は曖昧で、頭には濃霧でも掛かっているかのようだった。
「閣下、早急が過ぎるのでは? 今の御客様は病み上がりの身。後遺症が完治し、場を整えた後で良かったでしょうに」
「駄目だよ、ディアゼルさん。こんな、無茶な方法」
「……すまない」
サクヤとエリーの言葉にその巨大を身体を小さくさせて、ディアゼルは項垂れる。それに、ユリアスは空元気で態度を繕った。
「ディルは、悪くない。何れはしなければならなかった話だ」
「ユウくんは、大丈夫なの?」
「……サクヤが助けてくれたのか?」
「…うん。辛そうな気配がしたから。……今は、なんともないの?」
サクヤの腕の中では、急な発作に慌て、動揺するロイクが抱かれ、暴れる事のないようにされている。そんな彼女とロイクに、ユリアスは唇を笑みの形に変えた。
「そうか、ありがとう。サクヤのお陰で何の問題も起こらなかった。だからそう恐い顔をしないでくれ」
「………貴方が、そう言うなら……」
褒めることで話をうやむやにしようとする。無論、そんなもので納得はしていないようで、サクヤは渋々といった風に言葉を収めた。
今は一旦、先程我を喪っていた事は置いておくことにして、ユリアスはディアゼルに向き直った。
「それで、…『勇者』…っ…が、どうかしたのか」
「…ああ。ユリアス殿は、このままではあの勇者に会っただけで『魔王』に近付き、殺し合うだろう。そうでなくとも、時間経過で魔王に近付く。だからこそ、その対策が必要だ」
古びた古文書に視線を動かし、そっと手に持つ。崩れることなく、ユリアスの手の中に収まったそれは、かっちりと列を成して書かれており、読む事は出来ずとも形式ばった、業務的な書類のような印象を受けた。
「それが、この古文書なのか?」
「うむ。そこに書いてある通りならば、神宿者の出現は神代から想定されていた事らしい。そしてまた、その時の為の研究も、されていたそうだ」
「なら、その古文書は研究結果でも書かれているのか?」
「似たようなものだが、違う。研究の進行の報告書だ。欠陥のある魂を持つ存在、神宿者に対する研究。魂の研究の、報告書だ」
『魂の研究』そう言われても今一つ実感は湧かず、ユリアスは唸る。神宿者の存在を想定していた事も予想外で、首を傾げた。
「そして、生まれてくるであろう神宿者を救済……つまり中途半端に積み重なる記憶と、その結果生まれる執念を抑える為の研究も行われていたらしい」
「!という事は…」
『神宿者』は、死んでなお記憶を完全に保持するには小さ過ぎ、記憶を完全に捨て去るには大き過ぎる魂が、半端に記憶を留める事で、前世の執着が積み重なっていく。魂が巨大な、高位神を基にした『神宿者』はそれが顕著であり、『魔王』などそれの最たる例だ。
「ああ。ここに記された研究所には、『魔王』を止める為の情報もある筈だ。無ければおかしい。書かれたままに鵜呑みにするならば、『魔王』を含め、神宿者はその欠点を同じくしており、その解決策もまた、共通している。思うに、神々は己らの行き着く未来を悟り、それから逃れる術を編み出そうとしたのであろうな」
サクヤが居る、それだけでは流石に万事解決とはいかない。サクヤの魔力も能力も限りがある。何処まで抑えられるかすら、まだ判明していない。
破滅の未来が待っている。だが、もしかすれば、それは回避できるかも知れない。
「その研究所は何処に?」
一縷の希望を込め、訊ねた言葉に返されたその言葉は、今日一番、予想外のものだった。
「……迷宮。『大迷宮』に」
「───」
『迷宮』。その中でも神が造った、巨大な迷宮。それこそが『大迷宮』。高位の冒険者ですら、寧ろ高位の冒険者ならばこそ、その危険性から近付くことはない、特級の危険地帯。それが、『大迷宮』である。
「『大迷宮』の中には、神が戦争時に、要塞兼研究所として造ったものもあるらしい」
「……そんなものが」
「『魔王』を止める手段を、私はこれ以外知らない」
「……そして、その経過報告書には、具体的な方法は書かれていないのか」
そうなれば、必要な行為は決まっている。
「うむ。ならば、目指すべき場所は、一つ」
彼が彼のままで在る為には避けては通れぬ、その大迷宮の名は
「二大迷宮が片割れ。『メルディルトの大迷宮』だ」
最高難度の大迷宮。
神代に、神々は人間達を襲う強大な、それこそ神獣に匹敵する、源初の魔獣を封じたとされる。その最たる例である大迷宮。
人呼んで、『黒の箱庭』だった。
精霊信仰について②:
魔王の襲撃によって文明が崩壊し、大陸は混乱の時代に突入しました。これを鎮めるために神没暦2581年、帝国は当時勢いを強くしていた精霊教を正式に国教として認めました。これには、偉大な皇帝は死後精霊となって国を守り続けるという伝承と噛み合いが良かったことも、一つの要因とされています。
精霊教は幾つかの宗派に別れていましたが、帝国は神没暦2590年にヨルガスで宗教会議を開き、スイレンスレーフ派を正統とし、それ以外は異教であるとしました。スイレンスレーフ派は古神を精霊と見做す古神精霊同一説を否定するものであり、古神と精霊はあくまでも異なる存在であるとする姿勢を取りました。
『詳載:世界史』 エスメル・バンラッド アルジャナン・ブロックスタン ルパート・アンセラ 著 より一部抜粋




