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17 EX

 時刻は朝の十時。ユリアスはエリーからディアゼルが重要な話をする為自室で待機しているように伝えられ、その通りにしていた。けれど、如何せんやる事がない。ロイクも今日は何処かへ散歩に行っているようで、時間を持て余していた。部屋に備え付けられた小さなテーブルと椅子にて、ユリアスは一人、物思いに耽っていた。


「……………」


 這い寄る鈍痛に、机に肘を付き額を右掌で抑える。頭の中に浮かぶのは、昨日見て、感じた存在。あの巨大な化物について考えていた。

 アレが放っていた存在感、そして殺意。どう考えても真っ当な存在ではない。恐らくは『神獣』。

 想定していた中でも最も厄介で、ユリアスにはどうしようもないもの。悪魔公でさえ倒せない、圧倒的な『個』だ。


 ユリアスは今までも、サクヤが城から出られない理由を自分なりに考えていた。

 『黒魔の森』奥地特有の事情。この城に張られている結界。そして、外敵。

 様々な理由を考えていたが、その正解がこれだ。あれだけの神獣、確実にSランクの強さはあるだろう。間違いなく、あれが大氾濫(スタンピード)の原因だ。


「トリンズは…ヴィオレはどうなる」


 喉から絶望を搾り出した。大氾濫の震源地がこれ程の深層部ならば、相当の被害が予想される。過去には勇者と魔王の戦闘により、魔王城を震源に大氾濫が起きた事例がある。それをどうにか出来ているのだから、心配し過ぎる事はない筈だ。それでも、弱った精神では物事全てを悲観してしまう。

 自分に出来ることはあるのか。指の隙間から天井を覗き見て、シャンデリアの輝きに目を細めた。


(いや、待て)


 一つだけ、気にかかる事があった。思い起こされるのは先日見付けた謁見の間と思われる場所。


「あそこには何がある……?」


 何が在るかはまだ分からない。それでも、何かがしたかった。何もせずして、後ろを振り返りながら城を去るのは嫌だった。このままでは、そうなってしまう。

 そう、思った途端、煩わしい程に胸の奥が騒ぎ立った。自分でも把握しきれない、意味の解らない感情に心臓を衝かれる。


「ユリアス殿。私だ」


 扉を叩く音と、板一枚越しにくぐもった、野獣を思わせる低い声。机から離れ、扉を開ければ、やはりディアゼルの顔が現れた。


「失礼する、ユリアス殿。今、時間は有るか?」

「ああ。エリーから聞いている。入ってくれ」

「すまない。今日は重要な話があって、ここに来た」


 重要な話という響きだけでユリアスは軽くナーバスな気分になる。なにせ話題は既に見当が付いている。城を去る日時についての話だと思えば、気分も落ち込むというものだった。


「与えられた部屋でこう言うのもなんだけれど、まあ、先ずは座ってくれ」

「心遣い、感謝する」


 部屋に備え付けられた椅子に座り、ディアゼルに席を勧める。大柄なディアゼルが席に付くと同時に、その重さに耐えるように大きく椅子が軋む。それに冷や冷やしながらも、机に置いてあるティーポットからカップへ紅茶を、二人分注ぐ。ディアゼルの礼に、ユリアスは軽く頷く事で返し、早速本題に入ろうとする。


「その、重要な話っていうのは?」

「……ああ。しかしその前に、これを」

「それは…!」


 机の下から現れたのは、懐中時計とユリアスの剣だった。懐中時計は、橙色の装飾の入った、金属製の物。そして、黒一色の柄、簡素ながら装飾の入った鞘。父の形見であり、ディアゼルからは帰りの際に渡すと言われていたモノ。それが今ここで返される意味に、ユリアスは僅かに表情を歪めた。

 黒剣と時計を引き取り、両手にずしりとした重みがのし掛かる。己の愛用した武装の返却だ。喜ぶべき筈なのに、素直に受け取る事は困難だった。


「では、本題に入る前に、答え合わせを二つ、するとしよう」

「…答え合わせ?」

「うむ。先ず、一つ。何故に今、大氾濫(スタンピード)が起きているのかの答え合わせだ。とは言え、もう既に気付いている事とは思うが」


 ディアゼルの言葉に首肯し、口を開く。


「恐らくは神獣……昨日、俺も見た、あの」

「その通りだ。実際に神獣で間違っていない。奴の影響で魔物が棲家を追いやられ、押し出されるように生態系が移動した。その結果が大氾濫だ」

「アレはやはり、この城の敵…なのか」

「ああ。そして、この城を護る結界は崩壊しかけている。このまま攻撃されれば一溜まりもない。修復する方法も、代わりになりうる術もない。そして、恐らくは二日後に、奴は目を覚まし、戦が始まるだろう」

「それは…っ本当なのか?」

「事実だ」

「…ッ」


 息を鋭く、短く吸い込んだ。緊張に顔が強ばる。

 それ程にあの化物、改め神獣の威圧感は、ユリアスの記憶に刻まれていた。吸い込んだ息を長く、深く吐き出して、気持ちを少しでも切り替える。まだ、聞かなければならない事があるのだから。


「………もう一つは、何なんだ」

「うむ。こちらも実質、同じ内容だがな。そのもう一つは、サクヤが何故、この城から出られないのか、だ」

「!」


 目を見開く。ユリアスとしては、サクヤを気にかけている事を表に出しているつもりはなかった。思いがけなく、このディアゼルと言う男には分かっていたらしい事に、ユリアスは驚きが隠せなかった。


「そんなに俺は分かり易いか」

「大いにな。見ていれば分かるさ」


 ディアゼルは目端を緩めて僅かに笑う。その反応に観念したように、ユリアスもまた眉間を緩めた。


「サクヤの事情もまた、神獣が原因にある」

「………だろうな。しかし、それを言ってどうする?………俺にこのまま何もせず、サクヤを忘れて帰れと、お前に出来る事など何も無いと、そう言うのか?」


 やるせなさに唇を強く噛み締めた。

 サクヤを救いたい。それだけとは言わない。他にも思うところ、動機はあった。

 だが、ユリアスを受け入れ、微笑み掛けてくれた、あの少女を救いたかった。それだけは確かな事実だった。

 それは諦めようにも諦められなくて。だと言うのにこの身体に力は無い。

 Aランク相当の高位冒険者。この世界では上位に位置する戦闘力。しかし、それだけとも言えた。あの神獣にとってユリアスなど相手にする価値すらもないだろう。この世界では、ユリアス以上の強者など掃いて捨てる程に居るような世界では、そんなちっぽけな力如きではどうしようも無い事だってある。そう痛感もした。

 それでもと、縋り付くようにディアゼルを見上げる。

 すれば、目の前の大男は懐かしむように、けれど瞳に迷いを揺らがせ、笑みを溢した。


「そうは言わんさ。ユリアス殿にしか出来ない事はある。それも、飛び切りのモノがな」

「それは?」


 ユリアスの問いに、ディアゼルは返さない。ティーカップを手に取り、一口だけ口を付けると音を立てずに受け皿(ソーサー)に戻した。ただ少し、心中を整理する時間が欲しかったのだろう。逞しい人差し指でカップの持ち手をなぞると、ディアゼルはまた一つ顔に迷いを浮かべた。


「これを聞いても、まだ決定的に手遅れになることはない。だが、それでも貴殿は確実に変わる。どう変わるか、までは分からぬが、今までと同じではいられない。迷いもするだろう。それでも、聞くか?」


 その言葉の意味は、ユリアスには解らない。しかし、これが自分の生き方に大きな影響を及ぼす事だけは理解できた。

 視線を下ろせば波紋を浮かべる紅茶が視界に収まった。揺れの静まった水面越しの己と目が合う。改めて問うまでもない。


「それでもだ」

「本当に聞くのか?」

「聞かせてくれ」

「そうか。ならば承知した」


 ディアゼルは口の中で何かを呟くと、顔を上げる。その瞳に、最早迷いはなかった。


「貴殿よ、心して聞く事だ」


 頭を縦に、欠片の怯えも無く振る。聞けば心も惑おうが、それならそれで構わなかった。その言葉を聞き漏らさないように耳を澄ませる。


「貴殿こそは『我らが栄光(グロリアス)』、ヒトの言葉に(なぞら)えるならば────────『魔王(ノトリアス)』。貴殿は、『魔王』だ」


「………」


 その口から発せられた言葉に眉を顰める。それは予想外に過ぎ、これもまた理解出来る範疇になかった。

 それを聞いて浮かんでくるのは困惑、そして心臓が震える様な、妙な感覚。背筋が戦慄き、肌が粟立つ感覚が、胸の奥の何かにすり潰されて消えていく。


「…ふむ。まあ、この程度では『自覚』しないか。が、信じられないと言うのも当然」

「ああ。いや、いや…どういうことだ?貴方は何を言って……」

「その反応も当然であろうよ。ならば、これで、どうだ?」


 言うと、ディアゼルは左の手に付けていた手袋を外し、ユリアスが見易いようにと机の上にその手を乗せる。

 そこに刻まれた、色褪せた蒼い紋様。何らかの紋章の様なソレは、何処かで確かに見覚えがあった。そう。この城の至る所で見かけた紋章。


「魔王の、紋章?」


 呟く。同時にユリアスの奥深くの、ナニカが酷く吼え立てる。気付けば既にその紋章に手が延びていた。そしてまた、気付けば既に、触れていた。


 瞬間、脳裏に浮かぶのは、()()()()光景。




 ◆ ◆ ◆ ◆




 目の前に、一人の悪魔が跪いていた。膝を付いてすら二メートルに届くかという巨大な身体に浅黒い肌。その頭は黒山羊と狼を足した様なモノ。二本の歪に捻れた角と、(あか)い瞳を持つ大悪魔。その悪魔は瞳に親しみと覚悟を秘め、ユリアスでいて、そうでない()()を、真っ直ぐに、見詰めていた。

 悪魔は跪いたまま顔だけを上げ、重々しく口を開く。


【陛下、我が主よ。この身は貴殿の(つるぎ)となり、御身の前に立ち塞がる困難、その全てを切り伏せて御覧にいれよう。強敵も苦痛も困難も。全てを殺し、焼き尽くす。このディアゼル・オブシディアン…我が身は陛下と共に在る。その誓いを、ここに】


 黒く巨きな悪魔は、地面に突き立てられた巨大な剣から右手を離し、胸に当てる。深く頭を下げ、従順を示した。すれば、その左の手の甲に、蒼い紋様が一つ、刻まれ───────




 ◆ ◆ ◆ ◆




「───ァ」


「すまない。ユリアス殿。本来ならばそう時間も経たずに自覚まで至ったであろうが………少しばかり、急ぐ必要があった。…すまない」


 頭に電撃を流された様な感覚。それは不快感どころか違和感ですらなく、最初からそうであった様な、在るべきカタチに戻っていく様な、異様な感覚。ディアゼルの言葉を何処か遠くに聴き、呆然とする。

 心臓の奥でも、頭の奥でもない。魂の奥底から、何かが無理矢理にせり上がって来る。そんな感覚。


「その様子だと自覚はした、か」


 理解した。自覚もした。せざるを、得なかった。頭の中が()い交ぜになり、情報が氾濫する。その情報の切れ端に懐かしいモノを見た、瞬間、溢れた情報は収まりを見せる。


「…落ち着いたか?」

「…………ぁぁ」


 低く呟き、はたと気が付く。さっきまでの感覚が嘘であったかの様に、驚く程に、ユリアスは落ち着き払っていた。それこそ、自身の状態を冷静に確認できる程に。

 ディアゼルの顔を見上げ、その視線が心臓へ向いた。悪魔公の魂に籠った、焔の瞬きを見た。だが、可能になったのはそれだけ。


「…身体には特にこれと言った変化は無いのか」

「当然だ。それはただの前段階。下準備に過ぎない。それによって変わるのは意識のみだ」

「下準備…」


 下準備、詰まりは本番がある訳で、それはきっと、何処かにある神器に触れる事なのだろう。

 そこまで考えて、ユリアスの頭の片隅にあの妙な感覚が引っ掛かった。


「謁見の間……?」

「うむ。あの場所に魔剣、『皇魔(レガリア)』がある」


 混乱もなく事実を受け入れている、そのことに軽い恐怖を、『覚醒』した後、待ち受けるであろう最期に強い恐怖を覚える。だが、それより前に疑問が浮かんだ。ほんの僅かな、しかし場合によっては重要となりうる疑問。


 この男は自分を魔王にしたいのだろう。それをユリアスは理解しているし、それに躊躇いもある。それによって強大な力が手に入る事が約束されているとしても。

 そんなことは当たり前だ。魔王とは、それだけの存在なのだから。ディアゼルもその程度、予想していた筈だ。


「何故、謁見の間に辿り着いた時、俺を止めたんだ? あの時止めなければ…」


 俺は抵抗も無しに魔王になっていた筈。そう言い終えぬ内に、ディアゼルは被せるように口を開いた。


「魔王の最期は知っているであろう?魔王はどんな物語でも、最期は絶対に、勇者(クルセイダー)の手によって、死ぬ。それは絶対であり、事実だ」


 それは文脈からしたら関係の薄い内容だった。だが、それを指摘しようにも、その内容に思わず口を閉ざしてしまう。


「………」


 魔王は死ぬ。殺される。碌な死に方はしない。その言葉がユリアスを動揺させた。それは恐らく本当だ。それを最も近く見てきたであろうこの男が否定しなかったのだから。そうなればユリアスから出せるのは、やはり疑問だけだった。


「それが分かっている上で、俺に何をさせたい?」


 ディアゼルは口を(つぐ)む。そして、もう一度口を開き、今度は悩む事なく、胸を張って言い切った。


「分からん」

「……」

「明確に言い切れはしない。昨晩延々と、私が何がしたいのか、ユリアス殿に何をさせたいのか、そればかりを考えていた。解決の道は見えた。数千年振りのモノがな。されど、今度こそ上手く導く、そう断言できる自信がある訳ではない。増して、魔王となって欲しくはない。そう考える私も居る」

「……なら、尚更、なんで」


 魔王となる事を望んでいない、ならばユリアスに自覚させる必要すらも無い筈だ。意味は分からないが、それでもユリアスは彼の言葉の続きを待った。


「だが、厄介な事に、情けの無い事に、外の神獣、アレを斃すには私一人では荷が重い。……本当に、情けない事に」


 視線を己の左手の甲に落として、ディアゼルは呻く。苦渋に満ちた顔つきで、ディアゼルはユリアスへと向き直った。


「であるから、ユリアス殿。貴殿に決めて貰いたい。私と共に剣を取るか。それともこのまま城から去るか」


 その言葉に拍子抜けする。この男はユリアスに強制するつもりはなく、ユリアス自身に決めさせようとしている。それも、かの悪名高き大悪魔が、である。正しい反応を忘れてしまう程に予想の外にある言葉だった。


「もし、去ると言えば?」

「その時は止めんさ。ユリアス殿に全てを委ねる」

「俺に判断を任せるのか」

「無論。これはユリアス殿のこれからを決める事。ユリアス殿の命と意思は私の物ではない。寧ろ逆だ。この身は『魔王』の剣。故に、貴公の思うがままに」


 ユリアスは低く唸る。

 何をしたいのかなど分かりきっていた。この城の為に剣を取れるというならば、そうしたい。

 それに、アレが大氾濫(スタンピード)の原因というなら、殺すべきなのだ。何よりもヴィオレの為に。絶対に。

 頭を回すユリアスに、ディアゼルは告げる。胸を張り、爛々とした眼光で、真っ直ぐとユリアスを見詰めた。


「私は己の望みを理解しない。それでも、我は陛下の命令に従う。こればかりは初めから変わらない事だ。我が身は陛下の剱として、如何な艱難辛苦であろうとも必ず打ち破って御覧にいれよう。あれを屠る事は無理でも、姫と貴殿の退路程度は拓いて見せよう。この命を懸けてでも。そう約束する。

悪魔公(デモンロード)』ディアゼル・レギオニス・オブシディアン。我が幾千年の忠節を、陛下へと捧げる。その誓いを、ここに」


 堂々と、厳然と、告げた。

 それは何があろうとユリアスを支える、その誓いだった。この男はユリアスがどんな選択をしようと、例え神獣から逃げようと、それに従うだろう。それをユリアスが遂げる為に命の限りを尽くすだろう。それを正しく理解した。


 ふと、自身に覚醒を促したディアゼルの左手の甲を見れば、薄れていた紋章の蒼が濃く、はっきりとしたものになっているのを確認する。その時、ユリアスの、恐らく魂に当たる場所から、熱を覚えた。まるで、魂にナニカを焼き付けられるような感覚。


「……これは?」

「『魔王(ノトリアス)』が権能の一つ。【剱臣(アルマ)】となった者の固有魔法を共有する権能、【契約(コントラクト)】だ。それを少しばかり特殊な方法で、勝手ながらも結ばせて貰った。

今陛下の魂に焼き付けられたのは我が力だ。種族『悪魔』の、悪意を魔力へと変じさせる力。そして神宿者(ホルダー)悪魔公(デモンロード)』としての権能。完全な覚醒ではない故、今は殆ど使えないが、現時点で持っていても損はしない」

「…そうか」


 …目の前にはこの状況を覆しうる、しかし破滅の約束された力、そして背後には自分の命。魔剣を手に取り闘うか、自分を可愛がって逃げるか、そのどちらか二つ。ユリアスは選択を迫られているらしい。しかし、ユリアスにとって、選択の余地は無いに等しかった。

 ディアゼルはユリアスが戦いを選ばず逃亡するとしても、その為に命を懸けると言った。ディアゼルが、命の恩人が、である。答えなどハナから決まっていた。


「俺は、ディアゼルと共に戦いたい。戦わせてくれ」

「……で、あろうな。だが、待った」

「…待った、って…」


 逸る気勢を押し留められ、当惑の表情を浮かべるユリアスに、ディアゼルは告げた。


「最後に、見て頂かなくてはならないモノがある」



 ◆ ◆ ◆ ◆



 住館から出て南へ進んだ先に、それはあった。讃えるように建てられた銅像群が整然と並び、中心には巨大な石碑が鎮座している。この霊園こそが、ディアゼルとユリアスの目的地だ。


 通常、純人族(ヒューム)の文化圏において、墓地は居住区や商業区と明確に区別する為に、小川を挟んで向こう側(彼岸)に造られることが多い。墓地とは半冥界であり、死の穢れが蔓延する場である。それ故に違う空間、異なる世界であるとはっきり分けるのである。しかし、魔王城ではそうでもないらしかった。悪魔にとって魔界と冥界は近しいモノであり、死に対する忌避感は少ない。元は埋葬という概念すら存在せず、多種族が交わった結果として、墓地というには奇妙なモノが生まれ、こうして在る。霊園と人々の営みの場を明瞭に分け隔てる仕切りはなく、周囲の景色と溶け込み一体と化していた。


 霊園に門はなく、それどころか柵すらもない。ディアゼルと共に正面から踏み入り、敷地内の中央に敷かれた道を通る。霊園内部は良く手入れされており、墓というよりかは憩いの場のような雰囲気さえ漂っている。けれど、ディアゼルの目当ては墓参りではないのか、足を止めずに真っ直ぐ道なりに進んでいく。ディアゼルの足が向けられている先には、旧地下牢に似た雰囲気をした、立派な門が付けられた背の低い建物があった。そして、その前には番犬然として居座る巨大な犬の姿も。


「なあディアゼル、あれは……」

「心配は無用だ。アレはこの城に住む魔獣の一匹でな。貴殿を襲う事はない」


 襲われる事を危惧している訳ではなかったが、一旦はまあ良いかと放置して、霊園の中に目を巡らせる。

 火葬場と思われる建造物を尻目に歩き、大きな門が備えられた建物の前で立ち止まる。二人の姿を見て歓迎の鳴き声を上げる巨大な犬……黒に近い赤の毛皮と、凶悪に膨らんだ四肢、凄まじく発達した顎の筋肉、その(ナリ)に見合わぬ純粋な瞳、そして何より()()()()。遠目からでも分かりきっていたが、やはり至近距離では迫力が違う。


「幻獣三つ首の魔狗(ケルベロス)…初めて見たな」

「いや、これは幻想種ではないぞ」

「え…? つまりまさか」

「ああ。実存種、人々の噂ではなく、父と母から生まれた魔獣だ」

「実在したのか、ってわぷ」


 べろん、と三つの舌が同時にユリアスの顔を舐めた。頭を三つ窮屈に揃えて、我先にとユリアスの頬に擦り寄ってくる。流石に怯んで一歩下がるも、どうにも懐っこいケルベロスは逃げるユリアスを追い縋る。助けを求めてディアゼルを見れば、肩を揺らして愉快そうにしていた。


「ディアゼル!笑ってないで……うわっ」

「くっ…クク、いや、そうだな。取り敢えずは撫でてやると良い。お前らも、それで一旦は我慢しろ」

「バウアウ!」


 ユリアスの遥か上から頭達を垂れて撫でろと催促するケルベロスに、首元から手を這わせ、恐る恐る触れてみる。触ってみればそう警戒することも無い。巨大化したロイクを撫でるのと同じ要領で手を動かせば、嬉しそうに吐息を荒くした。撫でれば撫でるだけテンションが上がっていくのがまざまざと感じられる。その素直な反応に直ぐ止めるのも悪く思って、全ての頭を交互に相手してやる。


「これで良いか?」

「ヘッハッハ、ヘッ」


 手を離した途端に跳び退き、今度はその場でクルクルと自分の尻尾を追って走りだす。ご機嫌にし過ぎたようにも見えたが、楽しそうなので良しとした。


「もう気は済んだようだな」

「みたいだな。じゃあディアゼル、行こうか」

「うむ。ではこちらだ。ここからは、私の後ろを離れぬように頼む」

「分かった」


 開けられた扉へ入り、直ぐに目に付いたのは受付だ。入り口から右手の受付カウンターには、一人の男が本を片手に腰を据えていた。緑がかった灰色の長髪に、眼鏡の奥には切れ長の緑瞳。驚くべき事に、この男の実力はディアゼルに近しい。その出立ちと魔力量から、そう理解出来た。

 受付を通り過ぎた先には下に続く階段だけがあり、それ以外は特にこれといった通路は見当たらない。外観からでは何の施設か判別しかねたが、内観を見ても分からない。建物の正体についてディアゼルへ尋ねる前に、受付の男がユリアスらへと声を掛けた。


「おや、これはディアゼル殿。それに加えて……ああ」

「そうだ。彼こそは今代の魔王の神宿者だ」

「おや。ということは、彼にはもうお話になられた後と? つまり、今回の御用件は……」

「そういう事になるな」

「……成程ね」


 興味深そうに己を見る男の眼に、ユリアスは覚えがある気がした。この男もまた、長くこの城に棲んでいる存在であり、過去の魔王と関わりがあった、ある程度の立場を持つ存在なのだと想像出来る。


「初めまして。私はユリアス。貴方のお名前は?」

「これはこれはご丁寧に。私はノイタッシュ。どうぞそのままノイタッシュと呼んで頂ければ。丁寧な言葉遣いも結構。何せ私の方が畏まるべき立場にありますので」

「ユリアス殿、彼は『黝胤(ユウイン)』の血筋…つまり過去の魔王の御子息でな。ここで墓守をして貰っている」

「何、私はただの墓守。そのように扱って頂ければ」


 爬虫類を思わせる瞳を細く歪め、男、ノイタッシュは朗らかに笑った。

 最低限の挨拶を終えると、ディアゼルは本題に入る。


「ノイタッシュ殿、最奥への鍵を頂けるか」

「ええ」


 ノイタッシュが二つ返事で応えると、彼の左手に魔力が集まっていく。詠唱も何もなく魔術は発動し、瞬きの後にはその手に石製の鍵があった。


「どうぞ。使い終わりましたら砕いて捨てて貰えれば」

「了解した」

「それから」


 ディアゼルへと鍵を手渡し、ユリアスの方へと意味深に視線を遣ると、ノイタッシュは受付机の棚をまさぐり、一つの短剣を取り出した。強い魔力を発する短剣本体と、それを抑えるかのように巻き付けられた札。一目で高度な魔道具(マジックアイテム)と分かる代物だ。


「どうぞこれを。それは石化の呪いが刻まれた魔道具。対象に突き刺した後、『解放(リリース)』と唱えれば、それだけで対象を石化させる事が出来るモノ。まあディアゼル殿がいて使う事があるとは思いませんが、もしもの為に」

「ありがとう?」


 そも、今から何処へ行くのか、その先に何がいるのかさえ知らない状態だ。とはいえ役に立つ物である事には変わりない。感謝を述べて短剣を懐へと仕舞い込んだ。


「ユリアス殿。私からも渡すべきモノがある。ずっと、預からせて頂いていたモノだ」


 ディアゼルが取り出した物は、美しい黒の指環だった。元は装飾も施されていたのだろうが、経年劣化か色が落ち、ただ黒一色となっている。サイズは小さく、男性用の物ではない事は見て取れる。その中心には紐が通され、首飾りの様な見た目をしていた。


「魔女、その名に聞き覚えはあるか?」

「ああ。魔王の側に付き添う、魔王と同じ力を持つ女性の事だろう?」

「正確に言うならば同じ力ではないがな。肉体の性能は魔王より劣るが、魔王の持つ魂の権能、その殆どを扱う事が可能な女性の事だ」


 指環の置かれた手が、ユリアスへと差し伸ばされる。あらゆる光を全て呑み込むような妖しさをもって、指環は暗く艶めいた。見れば見るほどに美しい指環だ。そしてやはり、この指環も、魂の何処かで覚えているような気がしてならなかった。


「これは歴代魔王陛下の妃…魔女が身に付けていたモノ。私ではなく、貴殿の身の側にあるのが道理だ。加えて、今から向かう道には少なからず危険が伴う。それがユリアス殿の身を護るだろう。どうか、これを」

「これが…?」


 手渡されたそれを惑いながらもしかと受け取る。顔の前まで持ってきて、その意匠に目を凝らす。紋様の名残はあれど、やはりはっきりとは見て分からない。どのような模様にも映って見えた。

 成程、魔王の伴侶が着用していた物というのは事実らしい。粗雑に扱う気分には到底なれず、奇妙にも大切に思う気持ちがあった。丁度首飾りとしても使えるようになっている。首に紐を通し、そのままネックレスとして身に付ける事にした。


「うむ。それでは、行こうか。ノイタッシュ殿、奥に行かせて貰うぞ」

「ええ、どうぞどうぞ」


 行き先は受付を通り過ぎた向こうに見える階段ではないらしい。ノイタッシュが受付カウンターの中に入る為の入り口を開け、そこへ二人して踏み入っていく。カウンターの奥には、扉が一つ、そしてその先には地下へと続く階段の存在が。


「ここはどんな施設なんだ?」

「ここは地下墳墓でな。表の霊園では収まりきらない死者を弔う為の施設だ。正面階段…建物の入り口から真っ直ぐ進んだ先にあった階段は、そのまま地下墓地へと繋がっている。普段ここへ訪れる際はアレを使う事が多い」

「なら、この階段は?」


 階段を降りていくディアゼルに続いて、ユリアスもまた足音を響かせていく。戦闘でも想定されているのか、幅の広い階段だった。壁には魔術陣や刃物など、様々な仕掛けがなされている。あらゆる場所に、拭いきれない血の跡がこびり付いていた。手摺(てすり)には所々埃が積もっており、手摺を掴もうと伸ばした手を、思わず下ろした。地下特有の湿り気と、墓地特有の死の気配が、不快にも背筋に籠る。


「今ここで説明するより、到着した後にした方が分かりやすい。……もう暫くの辛抱だ」


 階段は想像を遥かに超えて長かった。一体幾つの段差を踏んだ事か。一定の間隔で設置された灯火が、進むに合わせて一つずつ灯っていく。

 階段は螺旋状に造られており、中心を貫く吹き抜けから、上下を覗く事が出来る。欠片の進展も感じ取れない光景に、変化を求めて来た道を仰ぎ見る。天井はもう猫の額程の大きさで、随分と降りて来たのだと体感できた。ならばと下を見下ろせば、もう直ぐそこに階段の終わりが見える。


「着いたのか?」

「いや。これから更に進む」


 螺旋階段の底には、分厚い鉄製の扉が一つ、あった。ディアゼルはノイタッシュから渡された石鍵を鍵穴に差し込む。それから鍵穴に魔力を注ぎ込むと、何かが外れた音がした。鍵穴から押し返すように返却された石鍵を、ディアゼルは懐に戻す事なく握りつぶした。


 扉の先には、魔力で異常に補強された鋼の板が五枚、存在した。鉄と鉄が静かに擦れる音を立て、鋼の板が左右に仕舞われ、通り道が完成する。その間にディアゼルが己の神器を取り出し、肩に担いだ。


(これが悪魔公の神器か)


 とても人間の持ち得る質量ではない事が一目で分かる、巨大で、重厚で、怪物的な極大剣。それに赭い鎖が幾重にも巻き付き、三つの錠前が付属している。今まで何人か神宿者(ホルダー)と、その神器を見た事があるが、相対して受ける圧が違う。強大な神気の渦巻きが、寒気となってユリアスを襲った。


「私の前には出ないように」


 ディアゼルの背中に続いて、扉を潜り抜ける。すれば、空気が一変した。


「なんだこれは……ッ!?」


 厳重に封鎖されていたその向こうには、異界があった。

 旧地下牢も異界化していたが、これとは比べるまでもない。あれが亜異世界だとするならば、こちらは完全に異なる一つの世界だ。

 続く道の奥の奥の奥から、凄まじい気配がする。恐ろしい怪物の気配が山程に。だが、それよりもっと、もっと奥から、より強い気配がはっきりと感じられた。


 床は魔力を多分に含んだ石で造られており、大きさも形も不揃いな穴が幾つも開けられていた。その様子は、何かを石で覆い隠そうとした結果、その何かが強引に石を穿ち開けたようにも映った。


 衝動的に穴の隙間、地面の様子を見てしまった。紫に近い桃色の地面は毒々しく、桁の狂った魔力量を分泌し、時折脈動している。壁向こうも、同じ素材、同じ色で成り立っている。果たして、あれは何なのかか。目を凝らせば地面と壁向こうの両方に、青紫の筋が走っているのが分かる。それらが良くないものである事は明白だ。先程から、本能の鳴らす警鐘が止まらない。ここにいてはいけない。ここは、人の立ち入るべき場所ではない。それだけが確かだった。


「ディアゼル……あれは、穴の向こうのアレは何なんだ…? 見た事が無い、あんなもの……っ」

「───あれは、()()()()だ」

「は────」


 巨神の肉。名の通り、原初の四柱、その内の二柱である黒と白の巨神の肉である。それは、生きとし生けるモノ、あらゆる生物の礎となった、この世を始めたモノの一つだとされている。巨神の死肉に黒王神と白王神の血液を垂らし、命が生まれた。魂の神秘にすら通じるとされる、魔術世界における万能の魔力塊。机上の空論、『賢者の石』の構想元(オリジナル)。あらゆる形を取る、最も柔軟な魔術触媒にして魔術素材、そういわれているモノだ。


「馬鹿な…そんなもの、現存している訳が……!」

「疑う気持ちは尤もだが、アレは確かに本物だ。巨神の肉とはいえ、所謂賢者の石などのように万能な魔術触媒ではないがな。ここにあるものは汚染され、ただ獣を生み出すばかりの、汚れた母体よ。こうなっては使い道はなく、廃棄することも叶わん」


 ユリアスが目を向ける先、巨神の屍肉が、ドクンと一際大きく脈動した。


 青に近い紫色の血管を浮かべ、その血管はどんどんと広がっていく。ドクン、ドクンと屍肉は震え続け、それと同期するように青紫の血管は増え、一箇所に収束しだした。妊娠した娘の腹を思わせる、腫れ上がったそこは、ギチギチと肉を捻るような音を伴って肥大化していく。

 そしてついに、腫瘍は爆発的に膨れ上がり……ドチャ、という生々しい水音を起てて、怪物が産まれ落ちた。


「ディアゼル、今」

「うむ」


 二人の視線が怪物へ注がれる。足が無く、耳が無く、鼻が無い。けれど、手が二つに目が五つ、前後に二つの口がある、歪で不完全な魔獣だ。奇怪な見た目でこそあれど、魔力量だけで測るならばAAランクの魔獣。それが両手を使ってなんとか石床の下から這い出そうとしている。


「ユリアス殿。道中、これに似た魔獣を相手取ることもあろう。だが、可能な限りは殺さないで貰いたい。これだけは、覚えておいてくれ」

「それは、何故?」

「血液が屍肉に触れれば、それに反応して魔獣が生まれる。その血液は我らの物でも、奴ら自身の物でも良い。殺せば殺すほど、増えるという訳だ」

「それでこの短剣か……」


 その時、魔獣の五つの目が、ディアゼルとユリアス、二人を捉えた。


「!」


 屍肉の地面を両手で殴り、跳ぶと、石床を砕き現れ、ユリアスへ歯を剥き出して襲い掛かる。流石の素早さに黒剣を抜こうとするも、直前のディアゼルの忠告を思い出した。石化の短剣を取り出そうと脳が判断する僅かの間、動きが止まる。AAランクの敵相手に、それは十分に隙と呼べる間だった。後手に回るも、せめて回避してやろうと身を捻ろうとする。けれど、その動作は無駄に終わった。ユリアスの少し前、空中に居た筈の魔獣は、気付けば何処かへ消えていた。


「え?」


 左を見れば、ディアゼルが神器を振り切った後の姿勢をしていた。その刃には焔が伝い、揺らいでいた。


「……」


 視線を巡らせれば、焔に包まれ、灰と化した魔獣の残骸だと思しき粉があった。ディアゼルはそれの死亡を確認すると、神器を肩に担ぎ直す。


「良いのか? 血が流れれば増援が来るんじゃ…」

「問題ないさ。血が流れ滴るよりも、私の焔が奴を灰へ変える方が早い」


 魔獣の残骸すらも、焔に舐められ消えていく。後には灰塵すらも残らなかった。悲鳴すら上げる暇なく、ユリアスの眼前にいた筈の魔物は、ユリアスの知覚の外で死んだ。

 ()()だ。魔術などとは格を違えた、この世界の摂理そのもの。悪魔公の焔とは、全てを燃やし尽くすという魔焔。魔力に引火し、引火先の魔力を燃料に燃え盛る、必殺の業火だ。伝説で聞いたことはあれど、目にするのは当然、これが初めてだった。


「…そうか。何はともあれ、ありがとう。助かったよ」

「当然の事をしたまで。しかし、そうだな。先程、可能な限り奴らを殺さないでくれと言ったが、撤回しよう。身の危険を感じたら、迷わず、方法も問わず応戦してくれ。無論、貴殿自ら刃を抜く事はないよう、全力を尽くすが」

「ああ、そうするよ。その時は出来る限り、この短剣を使う事にする」


 ノイタッシュから譲られた短剣を右手に、穴だらけの石床を歩く。巨神の肉から漏れ出る魔力光が、最低限の光度を確保し、それを元に穴を避けつつ進んで行く。肌に粘り付くような大気中の魔力と、巨神の肉から放たれる、甘いような、腐ったような、名状し難い悪臭に不快感を煽られる。


「そういえば、ここに出る魔物はどの程度の強さなんだ?」

「ニンゲン風に表すならば、AAAランクとSランクが三割。残りの四割がAAといった風だな」


 Sランクとはつまり、城の外の神獣と同じ量の魔力を保持している敵だ。それが三割。何でもないように告げられた衝撃の難易度に、ユリアスは目尻を攣らせる。それに気付いたディアゼルが、肩口にユリアスを振り返り笑った。


「保有する魔力量こそ多いが、奴らの大半は生まれたての赤子だ。戦闘経験など無いも同然。技術が無ければ人形と然程変わりはせんよ。それに、既にノイタッシュ殿が粗方掃除をした後だ。数もそう居ない」


 奥へ進めば進む程に、床に散らばる石片が増えていく。砂利のようなそれは、ノイタッシュが石化の魔術で殺して回った痕跡だった。この奇妙な洞窟の床は下へと傾いている。石の欠片を踏み締め、もっと奥へと降っていく。


 ディアゼルの言葉通り、道中現れた魔獣は戦闘技術と呼べる物を持っておらず、全ての動きが直線的で、全ての魔獣がディアゼルの一刀で断ち切られ、燃え屑になっていった。度々現れるSランクの魔獣も、数合打ち合った後僅かなフェイントに引っ掛かり、その悉くが殺されていく。結局、ユリアスが戦う事は一度もなかった。






「ここからまた、下に降りる」


 洞窟の最奥に着いたと思いきや、まだ先があるようだった。ディアゼルが眼前に設置された人工物──レバーを下ろせば、鎖の巻かれる音がして、昇降機が現れた。二人揃って昇降機に乗り込めば、ややあって昇降機が降下し始める。

 肌に感じる魔力の粘度は高まり、不快感は増していく。絶大な気配を気取って、顎を引き下を向いた。玉座の間で感じ取った気配と、似た気配だった。生存本能が、行くな、逃げろと叫んでいる。呼吸が徐々に乱れていく。ディアゼルでさえ、そうだった。

 昇降機の外側、そこに息づく巨神の屍肉の脈動が、早まっていっている。息を飲んで、最下層への到着を待ち続ける。


「辿り着いた」


 ぐん、という鎖の抵抗を伴い昇降機が降り立った場所は、広い一本道だった。道の両脇には理路整然と、順序立って炎が灯され、それが真っ直ぐに伸びている。魔物の姿はないが、代わりに兵器が群れを成していた。床も壁も大量の兵器が取り付けられ、物々しく、重々しい圧迫感がある。槍や弩弓(バリスタ)、魔導砲。それらの罠や遠距離兵器が揃って向けられているのは、果てに聳える、巨大な扉だった。十メートルは裕にあると思われる扉は、絡み付く赭い鎖と、二つの錠前によって封印されていた。


「こちらへ」


 臆する事なく、ディアゼルは歩む。ユリアスもその背中に連れられて行く。厳つい兵器が備えられている姿とは裏腹に、道は豪奢に飾り付けられていた。その割には、床に散らばる魔獣の爪や牙の破片は放置されている。全てがチグハグな、違和感塗れの大通路だ。


「ユリアス殿。私が良いと言うまで、目を瞑って頂きたい」

「分かった」


 指示に従い瞼を閉じて、辺りの様子を脳に浮かべる。地面と障害物の気配を掴めば、目を使わずとも歩く事は可能だ。それから少ししてディアゼルの足が止まる。最果て、扉の前に着いたのだと予感する。


 ディアゼルが左の手で、大扉に絡まる鎖に触れる。それだけで、鎖も錠前も消え失せ、封印は解かれた。ゴウ、と凄まじい圧が、扉の奥から発せられた。腰が引けないように、ユリアスはゆっくりと深呼吸をする。


「御目通り、失礼致します」


 ディアゼルは跪き、ただそれだけを述べた。惑うユリアスを背中に、ディアゼルは神器を粒子へと変え、仕舞うと、その両腕で大扉に触れた。両腕の筋肉に力が込められ、膨張する。ディアゼルの背丈の四倍以上はある扉、それも、重量増加の魔術を幾重にも施されたそれは、ディアゼルでさえ開門に数秒を用した。


「手は要るか」

「いや、気配だけで問題なく歩ける。案内してくれ」

「承知。……ユリアス殿、気を強く持て。でなければ、全て、持っていかれるぞ」

「……ッああ」


 揺れる声を抑え、気張る姿を見て、ディアゼルは問題なしと判断し、歩みを再開した。扉を通り抜け、更に大きな広間へと出た事が分かった。そして────吐き気がユリアスを襲った。


 見えない筈だ。見ていない筈だ。視覚とは、重要な感覚器官の一つであり、それがあると無いとで、受ける印象は全く異なる。視界に収めていないというのに、これ程の圧。異常、異様、異質、異物だ。真っ当な生物であれば知ってはいけない、真っ当にしていれば知る事なく済んだ筈のソレは、触れてはならない存在だったのだ。催すこれは、脳を攪拌される感覚であり、神経を侵蝕される感触だった。頭がおかしくなる。並の者ならば、洞窟に足を踏み入れた時点で、疾うに発狂している。


「ユリアス殿、落ち着け。呼吸を整えろ。貴殿ならば大丈夫だ。良いか?貴殿ならば、耐えられる筈だ。落ち着いて、先ずは呼吸を整える事だけに集中するのだ」


 耳から入ってくる音に従って、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。無意識に、胸元に垂れる黒の指環を握った。


「そうだ。その指環が貴殿の助けになるであろう。少しずつ、焦らず落ち着いていけば良い」


 指環が淡く輝いた。それに合わせて、ユリアスの脳を覆い隠していた靄が晴れていく。ゆっくりと、段階を踏んで呼吸の波を正す。徐々に痙攣は収まり、動揺も消えていった。

 漸くまともに命令に従うようになった喉の筋肉を、急かさないよう動かして、丁寧に深呼吸を繰り返す。その様子に、ディアゼルは緩やかに安堵の吐息を押し出した。


「気分はどうだ」

「悪いけれど、最悪ではない」

「ならば、眼を開けて頂きたい。御目に入れたいモノがある」


 俯いたまま瞼を上げ、先ずは床を見る。鏡の如く磨かれた黒曜の岩盤が、幾つかの宝石で彩られている。精緻な装飾で飾られたその様は、神殿を思わせた。


「気を強く持ったまま、焦らず、落ち着いて、時間を掛けて視線を上げるのだ」


 視界が上がっていく。地面と、祭壇のような何か。それから大きな水溜まりの存在、それの正体に思考を巡らすも、答えは直ぐに見つかった。眼前のモノが吐き出した、涎だ。唾液が、重々しくも糸を引き、溢れ落ちては溜まっていく。

 キシ、キシ。上から、何かが軋む音がする。長く、太い呼吸の音と、直ぐそこの何かが刻む鼓動の音。聴覚から心を揺さぶられるその前に、覚悟を決めて一息に頭を上げれば、それが瞳に映り込んだ。


「────あ」


 そして、悟った。

 ()()は駄目だ。


「ぁ」


 バケモノだ。


「ああ」


 ()()だけはいけない。悪魔公だとか、神獣だとか、そういう次元にすら居ない。()()()()()()()()()()()()()()。何千人の愚か者が見ようと、何万人の大馬鹿者が評しようと、これは、これは世界を殺す怪物だ。


「あアアァぁッ!!」


 頭が砕けそうだった。頭が砕けて、中からナニカが飛び出して来そうだ。アレの発する気配に記憶が痛々しい程刺激され、思い出してはいけない過去を、奥底から捻り出されそうになる。頭を抑え、そのバケモノを視界から消した。それでも、瞼の裏に深く重く刻まれている。


 王冠のような、捻れた角を冠するヒトの頭。伸び切った前髪は獣の毛皮のようで、その貌は窺えなかった。腕は六本あり、褐色の腕が一対、青褪めた腕が一対、赤く脈打つ腕が一対あった。脚は二つ。片足が千切られた跡があり、その傷口が蠢いていた。全身の凡ゆる部位に単眼が浮かび、瞬きを繰り返している。身体中に鱗や甲殻、獣毛が生え揃い、ヒトに近い影をしているだけの、ヒトならざる怪物の姿がそこにはあった。更に付け加えるならば、大きい。その全長、悠に五十メートルはある。魔力量など触れる必要すらない。それがただ自然と発する魔力だけで人が死ねる量だ。


 何より目に着いたのは、腰から生える四枚の竜翼だ。怪物は翼を身体に巻き付けている…巻き付けるよう強制されている。全身を鎖と拘束具で封じられていた。褪せた黄金の拘束具、色の無い鎖、悪魔公の神器に絡まる物と同じ赭の鎖。それらが複雑にバケモノの肉体を封じ込み、力に満ちた暗黒色の鎖が、ソレを天井から吊し上げている。


「ユリアス殿、来るぞ」


 アレの瞳に捕まった。その気配がした。バケモノから伸びる全ての視線がユリアスを刺し貫き、喉を詰まらせ心拍を早まらせた。強烈な殺気に蹈鞴(たたら)を踏む。

 アレの持つ引力が、ユリアスの魂を引っ張り、吸い奪わんとしている。


「魂に意識を集中しろ。魂を掴み、離すな。一瞬たりとも気を緩めれば、魂を抜き取られるぞ」


 ディアゼルの指示に沿う。己の魂を護ろうとするも、それでも引かれる力が強い。危険な綱引きを繰り返し、終始有利はバケモノ側にある。凄まじい念を感じる。それを返せと怒り狂っている。遂に負けようとしたその瞬間、指環が強く光を発した。それと同時、バケモノからの圧力の全てが消し飛んだ。指環に宿った煌々とした輝きは、次第に弱まりぼんやりとした薄明かりを漂わせた。


「……ディアゼル、アレは、何だ。何なんだッ」

「アレは死体だ。魔王の死体、魔王の成れの果てだ」


 魂を抜き損ったバケモノが、自らの手で殺し奪ってやろうと身を捩る。それに呼応し、黄金の拘束具がバケモノに喰い込む。肉が焦げる音がして、黄金に縛られた部位が蒸気を発した。それでも尚、豪速でユリアスへ迫る怪腕を、ディアゼルはいつの間に取り出した神器で叩き返した。


『ギィィイ、グ、グ、グ、ガ…アァァァァァアア!!!!』


 バケモノが暴れ狂う度に鎖がけたたましい音を立てる。耳を(つんざ)く爆声が、ユリアスの耳に蓋をした。黄金の拘束具がアレの瘴気や呪力、魔力を吸っていた。所々黒ずみ、錆び付いた拘束具は、魔王の屍を論難するように、キシキシと鳴く。


「四代目魔王陛下は、勇者を殺した。ありとあらゆる記録に、相討ちであったと記されたが、真実は異なる。彼の御方は満身創痍ながらも、確かに勇者を討った。そして、死に体のあの御方を、神宿者(ホルダー)ならざる者が止めを刺した。それがいけなかった」


 ディアゼルは神器を強く握り直した。今でもその光景は思い出せる。魔王が勇者を殺した瞬間の、驚愕と狂喜。そして、瀕死の魔王に剣を振り上げる、只人の戦士。身体に残った全て、細胞の一片に至るまで全てを使い、駆け、王の命を救おうとした。だが、間に合わなかった。


「魔王は勇者に殺され、勇者は魔王に殺される。それが定めというものだ。だが、そうはならず…あろう事か神宿者(ホルダー)ですらない者が、魔王の命を奪った。そこで運命が狂った。魔王は、正しく死ななかったのだ」


 藻掻くバケモノ、魔王の屍へ向けられたディアゼルの瞳には、憐憫と哀愁があった。勇者に打ち勝つという大偉業を成し遂げて尚、魔王に幸福は訪れなかった。彼には、これが幸ある幕引きとは思えなかった。この結末が耐えられなかった。


「真っ当な死を与えられなかった結果が、アレだ。アレに魂はなく、殺意と憎悪によってのみ動いている。ああなってはもはや白も黒も、敵も味方もない。あの御方は、眼に付いたモノを殺す、ただそれだけの獣となってしまわれた」

「馬鹿な。魂が無いものが、生きていける筈が…!」

「だが事実、生きている。理屈や法則から外れたモノが魔王だ。アレの中では、どのような無茶も矛盾も罷り通る」


 言葉を失った魔王の卵に、悪魔公は正面から向き合い、問うた。


「魔王になるという事は、()()なり得るという事だ。それでも、貴殿は神器を取るか?」



 ◆ ◆ ◆ ◆



 霊園から出る頃には既に日が暮れていた。食堂で遅めの夕食を終え、ユリアスは自室に戻る帰途にいた。


 死ぬ。その事への恐れはあった。だが、そんなものは馴れたものだ。八年剣士をしていれば、嫌でも馴れる。

 恐ろしいのは、魔王(ノトリアス)として完成する事だ。魔剣を取って闘う事に嫌悪感はない。覚醒すること自体に恐れはない。ただ、魔王として『完成』する事へのみ、恐怖があった。

 魔王は、世界の敵だ。もっと言えば『白』の敵だった。覚醒してから時が経てば、魔王は無作為に白の神宿者(ホルダー)を殺し尽くす()()の存在に成り下がる。そして、道を踏み間違えれば、地下に縛られたあのバケモノになる。そこに、ユリアスの意思はない。


 二の足を踏んでも仕方がないではないか。

 勇者(クルセイダー)の手で何人もが死んだ。配下、仲間、恋人、家族、臣民。否、自分が、殺したのかも知れない。自分のせいで、自分に着いてきたから、死んだのかも知れない。

 胸に広がる虚無感は、思い出せずにいるというのに、妙に()()()な現実だった。目を閉じれば、今でも思い出せそうだった。大量の『あの時』は重なり、連なり、雑音(ノイズ)混じりの殺気となった。

 当然、死んだのは仲間だけではない。あらゆる敵を殺した。あらゆる殺しを働いた。殺掠の限りを尽くし、殺戮にその身を預け、酔い、狂った。

 この手は、真っ赤に染まっていた。血が染み込み、魂にまでそれは滲んでいる。鼓膜より深い奥底で、何処かでナニカが囁いている。


 その一欠片を思い出した。そして今退くならば間に合う事も理解した。

 退くならば今だ。魔王としての道を選んで、先に言った通りになったのならば、その時そこに立っているそれは、果たして『ユリアス』と呼べるのだろうか?


 この天秤に載っているのは己の命運ではない。この世界の全ての人間の命だ。魔王には世界を壊すだけの力がある。自我を失い、憎しみに呑まれれば、そこに生まれるのは生命を衝動のままに奪い続ける、手の付けようのないバケモノだ。


 それに、ディアゼルは何がなんでも神獣を食い止める、そのような主旨のことを言っていた。そして、ユリアスとサクヤは逃がして見せるとも。

 ならば、自分が命を張る理由も、なりたくもないモノ(魔王)になる必要も、無いのではないか? 

 つまり、自分の命より大切なものなどあるか?と、そんな、冷静ではあっても残酷な思考が、心の隙間にスルリと入り込む。

 それは、サクヤに拒絶された事も、確かに関係していた。


「………俺は、戦士だ」


 言い聞かせるように言葉を溢し、深く自嘲を稀薄したような吐息を漏らした。

 何か、彼女の為になる事をしたい。そう言い聞かせる。それでも、躊躇いが振りきれる事もなかった。


 ユリアスは葛藤していた。どうしたいかはもう決まっていた。ユリアスがやりたい事は一つ。魔剣を手に取りディアゼルと共に闘う事だ。

 どう在るべきか等分かっている。ただ、覚悟が足りていない。ヴィオレが、魔王となった『ユリアス』を受け入れてくれるのか、それさえも気掛かりだ。その他の街の住人達はどうだって良い。只、彼女にだけは────────


 陰鬱な気持ちをそのままに廊下を歩くユリアスの背後に、一つの気配が現れた。振り返り、何の用かと眉を(ひそ)めるユリアスへと、赤髪の侍女は恭しく一礼した。


「夜分遅く、突然申し訳ありません。御嬢様が、御客様をお呼びになっておられます」




墓地について:

 この本では、我々が普段何気なく『そういうもの』と流している習慣について、その起源と意味を紐解いていきたいと思う。(中略)

 墓地の構造と、立ち入る際のルールについて思い出してみてほしい。我々ヒュームが作る墓地は、必ず小川や用水路の向こう側に作られている。そして、墓に立ち入る際には、橋の途中に存在する小屋で靴を履き替えるだろう。

 では何故、このような造りになっていて、何故このようなルールが存在するか、読者の皆様方はご存知だろうか。

 墓地とは死者を埋葬し、弔う為の施設である。即ち、死者の国と繋がる場所なのだ。神の死後、冥界は機能していないと言うが、だからこそ、我々の持つ死者の国への忌避感というものは強くなっている。(中略)

 墓地を歩けば、当然、靴は死者の国の地を踏む事になる。(中略)

 死の穢れを恐れる我々は、墓地と我々の生活の場を切り離し、そして死の穢れを持ち帰らない為に、靴を履き替えるのである。


『我々の因習』 オルト・ワーグナー著 より一部抜粋

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