16 魔剣 感応
「『玉座の間』………?」
両開きの扉まで、絨毯は真っ直ぐに続く。音のない廊下には凍えた空気が沈澱していた。窓はあれどこの曇天では光は差さず、魔動ランプの灯りばかりが廊下を照らす。寒気がユリアスの喉を締める。足首から、袖から、襟元から、冷たい風が滲み入る。
だがそんな事、今はどうでも良かった。ユリアスは何かに惹き付けられるかの如く、扉までの道を歩き始める。
「…声がする……」
長い廊下を、背を押される様にして足早に進んでいく。足を前に出す毎に焦燥感は増し、釣られて歩く速度も増していった。魂の奥底が震えている。直立不動を貫く騎士鎧が、堅く閉ざされた大扉が、ユリアスを待ち侘びている。
「────────」
視界が揺れる。頭に鈍痛が這い寄り始める。血流が速い。心臓が痛い程早鐘を打っている。脳裏に積もった既視感が、扉に近付くに連れて厚みを増していく。目の前の扉、その先だけに思考を支配されていた。
絨毯に足が沈む感覚すら鬱陶しい。いいから早くあの部屋に行かなければならないのだ。立ち並ぶ騎士鎧の列の間を通る。鎧の群れはユリアスの姿を静かに見詰めていた。その両足が、とうとう扉の前で揃えられた。
「…………この奥にサクヤが居るのか?」
いや、何でも良い。どうだって良い。そこに在るモノがどんなモノであろうと関係無かった。そのまま扉に触れようと手を延ばす。その間際の事だった。
キィィィィ──────────ィィ
(何だ……?)
酷い耳鳴りがした。高く長く鋭く、鼓膜を突き刺すような金切り音にも似た音。けれど、不思議な事に不快には感じなかった。いつまでも尾を引くそれは、歓喜に騒ぐ歌であり、ユリアスを急かす声だった。いつまで寝たフリをしているつもりだと、早くその眼を開けて見せろと、そう訴えかけては焦らせる。
(まあ、良い。何だって良い)
その正体は知覚し得ない。だが、そんな事は知ったことか。この奥に在る物を、何を、どんな事をしてでも手に入れたい。いや、違う。アレは元より己のモノだ。何としてでも、この手に収めねば──────
「ッ!?」
扉に手が触れる。そのほんの寸前、不意に目の前の扉が動いた。徐に開いていく扉に肩が跳ね上がる。現実に叩き戻され、急速に頭から熱が引いていく。正面を見ると、そこにはディアゼルが立っていた。
「…何だ。ディアゼルか……」
「うむ。………それで、ユリアス殿は何故此処に?」
数歩進み、扉を再び堅く閉ざすと、ディアゼルは眉を顰めて尋ねる。ユリアスがここに居ることを怪訝に思っているのか、その眼付きは何時にも増して険悪だった。
「サクヤに会いに、此処に来た」
「…サクヤを探していたら辿り着いたと?」
「いや、エリーに案内されて来たんだ」
「……何?」
一瞬、ディアゼルの顔が歪んだ。眉間と鼻頭に皺を寄せ、眼光は鉄さえ裂かんばかりに鋭い。悪魔でさえ逃げ出すであろう形相。しかし、それも直ぐに強面ではあるが穏やかな、元の表情に戻った。
「すまない。何か間違った事をしただろうか?」
「…何、そちらが謝る事はない。奴の、エリーの行った事だ」
押し殺した声と調子に、決定的な過ちを犯したのだと知る。表面ばかりの許しの言葉に背筋が凍えた。
「…そう言って貰えると助かる。それと最後に、良いだろうか」
「うむ?」
反省も、申し訳なくも思っている。けれど、こればかりは我慢出来なかった。狂気じみた執念が、ユリアスの魂に巣食っている。これを捨て置くなど可能なものか。
ディアゼルの肩口の向こう、怪物の装飾が成された扉を目で指す。
「この先には、何があるんだ? サクヤは、この先で何かしているのか?」
「貴殿が知るべき事ではない。深入りは無用だ。即刻、立ち去って頂きたい」
強い拒絶の言葉に怯む。興味は尽きないが、咄嗟の反論も浮かばなくてはどうする事も出来ない。本音を言えば今ここで彼女に会いたいが、ユリアスにとって重要な事が、何においても優先される訳ではない。
サクヤとの話はまた今度でもできる、そう思うことにして、ユリアスは踵を返す事にする。幸い、今なら道も覚えていた。
「………そうか。分かった。出来たら彼女に俺が一度会いたがっていた、と伝えておいてくれ」
「うむ。確かに承った」
「じゃあ、俺はこれで」
「……ああ」
言って、ディアゼルに背を向けて元来た道を進み出す。そして背後から聞こえてきた扉の開く音に、そっと後ろを振り返る。
「……?」
扉の向こうの奥。玉座と思われる物の手前。一瞬ユリアスの視界に映った白銀の輝きに、胸が異様に騒めく。
断つに絶てない未練を堪えて前へと向き直り、ユリアスが一歩を刻もうとした時、視線を感じた。何処からかは分からないが、恐らくは───窓から。
具体的には特定出来ないものの、その視線の持ち主はここから相当遠くに居座っている。理解できたのはそれだけ。だからこそ、ユリアスは単純な興味本意で、そのまま視線の感じた方向に、窓の外に目を向けようとする。
刹那、寒気が、怖気が、全身を隈無く撫で回した。
「ッ?!!」
城壁の向こう側、深い霧のすぐ近く、いや、奥深くだろうか。分からない。居場所等特定出来ない。先程感じた距離感等、意味を為さなかった。距離感を殺す程に強い、『殺気』。
足下が崩れていく様な感覚。視界が、歪む。吐き気がする。気持ち悪い。とてつもなく、気持ちが悪い。
戦慄は鳥肌となり、寒気が身体を駆け抜ける。
強烈に過ぎる殺意、それは何時かのアレの殺意と重なった。情報は頭の何処かで繋がり、過去の記憶、その一欠片がフラッシュバックする。
それは、黒く、荘厳な、騎士で、剣を振り上げ、そのまま、そのまま、その ま ま
「ち、ちう え……ッ」
何かしらの制限が不意に取れたかの様に、今まで得ていた筈だった憎しみが、殺意が、溢れ出す。抑え付けられていた感情が爆発し、その心を痛烈に揺さぶる。口元を抑えた。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ぁ………ッ…」
背に汗が浮かび、重い何かで殴られたかの様な鈍い痛みが頭から滲み出る。だが、それでも、思い切って殺気の放たれる方向に視線を向けた。この怪物だ。想定が正しければ神獣か。これの為に、サクヤの今の状況がある。半ばの確信と頭を焦がすような怒り。せめてその姿を目に焼き付けようと、目を見開く。それと同時に、相手を認識した為か、殺気をより強く感じた。
余りの圧力に咄嗟に目を逸らしたが、見えた。霧の向こうに見えた影。巨大な竜のような、人のような見た目の影だった。それが、起き上がっただけ。ただ、それだけ。なのに。死を確信し、死を覚悟した。
一瞬の事で深くは解らなかった。だが、アレは化物だ。どう足掻いても、自分では勝てない。AAAランク等、優に超えている。それだけの事を一目で理解させられた。それだけが、今、ユリアスが持っている情報の中で唯一確かなものだった。
目線を絨毯へ落とし、顳顬を押さえる指に、喰い込む程に力を強く籠める。大地の悲鳴が聴こえた。悲痛な、精霊達の泣き声が。精霊術の素養のないユリアスにさえ、理解できる程の悲鳴。それに出来るのは膝から体が崩れ落ちない様にする事だけだった。
時間の感覚すら曖昧だ。気付いた時には既に視線も殺意も消えていた。顔を上げ、時計を探すも見当たらない。確かではないが、十分も経っていない筈だ。
「ハッ、ァ」
溜め息を吐いて、歩き出した。気が進まない。足を上げる事さえ億劫だった。ディアゼルを前にして、格上の覇気と相対するのは慣れた、そう思っていたが、とんでもない。未だ、手も足も震えていた。それ程に、飲まれていた。
良い事だとは思えないが、今日は食事を摂る事は遠慮したかった。恐らく咽の何処かでつっかえて吐き出してしまうだろうから。
断続的に鳴る歯を噛み合わせて鎮め、震える足を叱咤する。深く息を吸い、肺の空気を入れ換えると、自分の部屋に向かう為に、止まった足を再び動かし始めた。
◇ ◆ ◇ ◆
「……エリー。貴女は、自分が何をしでかしたか理解しているのですか?」
ディアゼルの自室兼執務室に、三人の影があった。一人はディアゼルの息子にして城に使える執事、オーエン。もう一人はディアゼルの妻が一人、ユキ。そして最後に、サクヤ付きのメイドたるエリー。
エリーはオーエンの圧を意に返さず、真っ直ぐに彼に視線を返した。
「ええ、理解していますよ」
「……!貴女はッ!貴女のせいで神獣が目を覚ました。原因は、神器の感応です。御客様の気配に反応し、神器が共鳴した。その気配を神獣も掴み、そして奴が起きた。これら全てが貴女の行動によって引き起こされた!貴女は、城は愚か御客様までもを危険に巻き込んだのですよ!?」
荒い語気を敬語で隠し、オーエンは吠え立てる。エリーは一切の弁明をせず、その様を見詰めていた。反省した気配が欠片も感じられないその様に、言葉を尽くすだけ無駄と見て、舌打ちと共にオーエンは母へと向き直る。
「……母上。城を護る結界はどうでしょうか。やはり、母上のお力でも修復出来ないのですか?」
「ええ。悔しくはありますけれど。元よりアレは神宿者の権能によるものですからねえ。直すのは流石に無理があります。けれど、だからといってただの魔術程度ではあの神獣を止める事は不可能であるのも事実……」
度重なる襲撃に、城を護る結界すら半壊している始末。しかし、現状はその結界に頼る他ない。神獣に従う配下は異様に多い。ディアゼルが彼の神獣と一騎討ちを行う為には、それら大量の神獣モドキを誰かが抑えなければならない。
オーエンとユキが苦悩している間に、扉が開きディアゼルの姿が現れた。
「閣下!如何でしたか、外の様子は」
「多いな。城壁の周りには奴の手勢が屯している。あの様子では明らかに御客人の存在を気取っている。……忌々しい」
ディアゼルの口から、苛立ちが言葉となって吐き捨てられる。
脅威は何も神獣単体だけではない。神獣に付き従う、言うなれば『神獣モドキ』。ランクにしてB〜AAAまで、多くの兵が神獣の元に集まっている。神獣がその手勢の全てを挙げて攻め込んで来るとなれば、ディアゼル一人では到底抑え切れない。それは以前から分かり切っていた事で、この城の課題の一つであった。
「閣下、アレが目を覚ましたというならば……いつ、アレは襲撃してくるのでしょうか」
「奴の様子も確認してきた。遠目からだがな。力を回復し切った訳では無さそうだが、直にまた戦えるようになるであろうよ。思うに……三日後だ。三日後、奴は動き出すと見た。だが、それはこのまま何もせず、襲撃を待てばの話だ。ユリアス殿が城を出れば、その気配を追って直様奴は動くだろうよ」
「ならば…御客様と、それと、姫君は如何なさるのです」
「二方には…折を見て城を脱出して頂く。それより他にあるまい」
神獣は恐るべき敵だ。普段は魔力の源に陣取り、戦闘で力を使えばその竜源から魔力を汲み上げ、傷を癒してまた新たな戦いに備えている。竜源とは魔境を構成する核であり、非常に強力な魔力の湧きどころだ。いくらディアゼルが痛み付けているとは言え、竜源に接続している以上、全く安全とは言い切れなかった。
ディアゼルの視界に、改めてエリーが映った。現状を導いた元凶。ユリアスを半覚醒まで追いやったどころか、神獣に魔王の在城を気取らせた、その女に、ディアゼルは牙を剥いて相対した。
「そしてエリー。貴様は…ッ」
衝動に喉がつっかえ、有り余る怒りに言葉が一瞬途切れる。燃える瞳を赭く怒らせ、目を逸らそうともしないエリーの視線を二つ、確として捉えた。
「貴様は何を考えている!?己が何をしたのかッ理解しているのか!!」
夜の部屋に、悪魔公の鋭利な怒号が響いた。狂怒に活性化した魔力に充てられて、大気中の魔力が火花と化して散った。対するエリーは真っ向からディアゼルの怒声を受け止め、宣った。
「魔王陛下に御目醒め頂こうとした。それまでのことです」
「貴様ッ!私の考えを理解した上で!邪魔をする積もりか!!」
例えその力衰えていようと、悪魔公の咆哮だ。部屋が揺れ、柱が痺れ、精霊の怯えを喚起する。けれど、やはり、エリーは表情を揺るがす事なく、堅固たる意志のみを刃にディアゼルへと真向かう。
「ならば私も言わせて貰いましょう」
荒々しい髪を熱波に靡かせるディアゼルに、臆さぬエリーは言い放つ。
エリーもまた神宿者だった。その魂の名は『魔将』。神代に於いては『悪魔公』の元となった神、その配下の神々であったとされ、その名を持つ魂は幾つか存在する。エリーの所持する魂は、その内の一つ【確約の】『魔将』。
その権能は約束の遵守であり、他人と、場合によっては己すら縛る権能である。この権能によって、エリーはサクヤの身を冒す病について、他人に教える事が出来ないようにされている。それはサクヤとの『約束』によるものだった。そう、サクヤから提案された『約束』によって、エリーは己の主の危篤を誰にも告げる事が出来ないでいる。
「貴方に企みがあるように、私にもまた計画がある。覚悟も牙も無くした老耄が…私の邪魔をしないで頂きたい」
語気を強く、彼女が吐き捨てる。
魂の病を治す術などこの城の中にはない。サクヤの病を知れば当然、ディアゼルは城の外に解決策を求める事になる。外を溢れる神獣の手勢を抜けるにはディアゼルの同伴が必要不可欠だ。けれど、その為にディアゼルが城を空けたならば、神獣はその隙を逃さない。最大戦力が居ない隙を突かれ、神獣の襲撃を受けた城は、住民は、瞬く間に皆殺しにされるだろう。サクヤの懸念はそれだった。故に彼女はエリーとの『約束』を結んだ。彼女の思慮深さの為に、彼女は自身の首を絞めたのだ。そんな少女が、己の意志と願望を殺して、更には自由も得られないままに、いつかは病に倒れてしまう。
それら全てが、エリーには耐えられなかった。
「今までの様に陛下のお隣に仕えたいならば、そうすれば良い。此度こそ正しく導けば良い。そうでしょう?」
「簡単に言う……」
ディアゼルの返しに、エリーは口端を歪めた。
「それです。それが気に食わない。貴方には、何をしてでも陛下のお側に仕えるという覚悟がない」
暗い部屋に悪魔が二人、魔力を嚇させ正対する。エリーは悪魔だ。そして彼女は悪魔がどのようなモノかを知っている。どの様にあるべきかを自覚している。悪魔とは、己の欲望に忠実にあるべきモノだ。
「私にはある。この全身全霊全魂を賭けて私の大切な御方、そのお側に仕える為の覚悟がある。その為ならば全てを利用する積もりでいる。貴方にはその覚悟がない。この期に及んで魔王を眠らせたままでいさせようとしている。今の貴方は牙を丸めた獣だ。覚悟無き者が、私の邪魔をするなッ!」
叩きつけられた渾身の一打に、ディアゼルは瞠目した。
瞬く間に形相を憤怒に染め上げ、反論をせんと喉を震わせる。だが、彼女の台詞はディアゼル自身を悩ませる弱みを、確かに言い当てていた。口を開こうとしてから二拍の後に、結局は沈むように押し黙った。
「……そうなのだろうな。癪ではあるが、今の私は彼の御方を支え導く自信がない。どのようにしても、終には陛下は惨たらしく殺されると、そう思う気持ちが消える事がない」
偽らざる本音だった。今の今まで隠し続けていた弱音であった。「だが」ディアゼルの口からやるせなさが溢れる。額を右手で覆い、頭蓋に罅が入りかねない程に強く力を込めた。
「だが、だからとどうしろと言うのだ。あの御方を御守りするには力が足りないッ。何をどうしようと陛下は不幸にその生を終えるのだ…!ならばせめて人としてッ!」
「その考えがそもそもおかしいと言うのです。何故貴方が魔王陛下が幸か不幸かを決めるのです? それに、あの御方は人ではない。生まれつき、人ではないのです。人ならざるモノがどうして人として生きていけるのですか」
ディアゼルの言葉を遮るように発せられたエリーの声に、彼は再び口を噤む。言葉を失ったディアゼルに、エリーは論は通ったと見て一息ついた。
ディアゼルとて、ユリアスとサクヤだけは何をしようと護り通し、そして外へ逃すつもりでいる。だが、それは精神論でしかない。そのつもりではあるが、不可能を可能にする力を、ディアゼルは持ち合わせていない。理屈の上ではエリーは正しい。
「……だが、それでも。私はあの御方に只の人として生きて頂きたい」
「また嘘を吐くのですか」
「…何を」
「只の人として生きて欲しいならば、どうして魔王陛下を御客様として扱ったのですか? なぜ貴方と対等の地位を与え、彼との交流を試みたのですか。只人は、悪魔公と対話が出来る訳などないのに」
「……」
「貴方は、陛下と関わるべきではなかった」
ディアゼルは、心の隙間を突かれた気分だった。そうだ。ディアゼルにはユリアスと直接会話をする必要はなかった。配下の悪魔を遣わして、その者を通じて情報を受け取ればそれで良い筈だった。そうしなかった時点で、そこに彼の本心があったのだ。
ディアゼルの心の装甲に、音を立てて罅が入った。
「何も無策で御客様に御目醒め頂こうと提案しているわけではないのです。不確かですし、可能性の可能性、程度ですが」
「…どういう事だ?」
彼女の言葉にディアゼルは低く唸る。そんな方法がもしあったならば彼が知らない訳がない。今までどれ程それを探してきた事か。だが、だからこそ、それには聞く価値が確かにあった。
「…………聞こう」
エリーの手から取り出されたのは、一冊の帳面だ。それを机の上、ディアゼルの前に置く。それは古びた本であり、表紙に何が書いてあるのかさえ理解出来ない。
「いや…これは……神代文字…か?」
神代文字。字面そのまま神代に使われた文字であり、読める者はそう多くない。ディアゼルの生まれは神代の幕引きの直後であり、その為に辛うじて読める。エリーも、ディアゼルが教えた事があるのでまた然りだろう。……けれど、何がどうして今、ここにあるのか。
「はい。正真正銘、神代文字です。先日、ユリアス様と旧地下牢を掃除していた時、何に反応して開いたのかどうかは知りませんが、新たに部屋が見付かりまして。恐らくは、神代の頃に神々の工房として使われていた区画でしょう。そこで発見された物です」
「御客人に何をさせているのだ……」
エリーはディアゼルの言及を気にも留めずにケロッとした表情をしていた。それに呆れてながらも、ディアゼルは古文書を注視する。
旧地下牢は、歴代魔王も何度か足を踏み入れている筈の場所である。訳もなく新たに部屋が開くとは思えないが、肝心の原因は思い当たらない。されどこの城では良く有る事だ。調査は後にするとして、今は目の前の古文書の方が優先だ。
神代文字で記された古文書を、見た目や魔力から簡単に調べる。地下牢自体は城を建て直す前から存在していた。黒王の時代からあったと言えるだろう。ならばこれ程古い物が出てきても可笑しくはない。
「そんな事、今はそれはどうでも良いんですよ。それより少しばかり見てもらいたい物が………」
エリーは魔術で補強した帳面を捲り、暫くして手を止めると、ディアゼルへと書面を向けた。
そこに書いてある事は、成程可能性の可能性と呼ぶべきモノだった。ディアゼルは読み終わった帳面をユキとオーエンに渡し、エリーに向き直る。
「……これは………うむ。確かに、可能性自体はある。しかし、これが本当かどうかは分かるまい?」
「ええ、ですが賭ける価値くらいはあるかと」
「…………」
読み終わったであろう二人に視線を向ければ、七割納得、残り三割は疑惑、といったところか。その反応は悪いものではなく、むしろ良好と言って良いものだった。
古文書の信用自体は出来る。確かに神代のものであるし、内容にも納得がいく。だが、成功し、狂化の侵攻が留まる可能性は九割には届かず、八割にだって怪しいだろう。行って、七割と言った所か。
しかし、何故今発見されたのか。それが不可解であり不気味だった。
(都合が良すぎる…)
怪しくはあれど、これに全てを賭けるしかないのだろうか。『覚醒』させれば後には引けない。事は慎重に慎重を要した。
「閣下、エリーの言うことも理に叶ってはいます。二百年前の大戦で魔族全体の力が落ちた今、我々魔族には英雄が必要です。それにもし仮に父上が命を賭してお二人だけを逃したとして。結局ユリアス殿が魔王となってしまう可能性は大いにあります。その時、ユリアス殿を導ける者がおりません。魔王陛下を導けるのは、父上を置いて他には居ないのです。……こうなってしまった以上、ここで覚醒して頂くというのも一つの手かと」
「……」
ディアゼルは、己の忠義に絶対の自信と誇りを持っている。この想いが誰かに負けることはない。半精神生命体である悪魔は、その精神力で魔力の質が左右される。ならば、己の力は全てこの忠誠から得られたものだと。
魔王の居場所たるこの城を守る事も己の役目として背負い込んでいる。魔力の質という面において最高の状態で挑もうと、ディアゼル一人ではあの神獣は殺せない。抑える事すら困難だ。抑えられなければ何も護れない。ならば、他の道を取るしかない。
目を瞑り、深く、思考の海に沈む。己が何をしたいのか。己の望みは何なのか。
解決の道は提示された。僅か、とは言えない可能性を秘めたそれは、甘く、鋭く、光り輝く。
状況は切迫していた。決断には速度が求められた。
それでも。それでもこの、唯一人に捧げた忠誠が、思考を素早く、かつ鈍くする。
考える程、更に深く溺れていく。
理想と望みが食い違い、現実と夢想の狭間に揺れ動く。
「私がアレを屠るとなれば、最低でもあと一人、出来る事なら二人、私と同格の者が必要だ。…元魔王軍の者を呼び寄せられれば良いのだが……」
「父上も知っての通り、不可能です。神獣の肉体に埋め込まれた魔術が、あらゆる通信魔術を妨害していますから」
ユキは何も喋らなかった。夫の決定を待つように、或いは信じるようにしてディアゼルをただ見詰めていた。
ディアゼルの頭の中を、エリーの台詞が反響する。
『何故貴方が魔王陛下が幸か不幸かを決めるのです?』
それは知らずの内に忘れていた事だった。魔王の死に様の惨さが、覆い隠した事実だった。『お前と駆けれる事が出来て良かった』と、魔王と悪魔公は確かに語らった。幸福だと、魔王自身がそう言った日が確かにあったのだ。
それでも、魔王の最期が幸福だったとは、やはりディアゼルは思えず、しかし、本人の感情を完全に推し量る権能を、ディアゼルは持っていない。幸か不幸かを決めるのは他人ではない。ならば、本人に決めて貰う他にない。
「決定だ」
ディアゼルの瞳に、心内に、最早迷いはなかった。これからディアゼルの辿る道筋は二つに決められた。
「現実を見れば、私一人では神獣を殺せない。神獣からユリアス殿を守り切れるかも怪しい。……ユリアス殿には全てを話し、己の正体を自覚して頂く。その上で、魔王となることを強制はしない。魔王となることを拒まれるならば、その時は身を賭して退路を開こう。魔王となる道を選ばれるならば……我が身全てを尽くし導く」
「まだそんな事を……ですが」
貴方らしい、そう言って、冷然と、しかし満足気にエリーは笑う。それは、何時だったかディアゼルと悪魔の王座を競っていた過去を思い出す笑い方だった。
「エリー」
「はい?」
「姫に外を見せる為か」
「ええ」
「…ああ、そうせねばな。しかし、意外なことだ。あの、悪魔エリクシアスが情を抱いたか」
「貴方と同じことです」
「…そうだな。良い忠義だ。これからも、姫をどうか支えてやってくれ」
「言われずとも」
短くも強い意志の込められた返事に頷くと、ディアゼルは扉の取手に手を掛ける。ディアゼルはこの城の主戦力兼司令塔だ。まだやらなければならない事は多い。三人を尻目に捉えると、特にエリーに向けて告げる。
「ユリアス殿に、全てをお話する。だが、もう既に夜だ。夜は魔王の力が良く猛る。万が一つにも、彼の御方が狂気に呑まれることがあってはならない。故に明日の昼、ユリアス殿の部屋を訪れる。それまでは、くれぐれも何もしてくれるな」
【確約】の権能について:
魂名:『魔将』
権能:【確約】 効果…結んだ約束の強制履行。
考察…署名での約束、口頭での約束、どちらでも発動する。但し、抜け穴は存在する。当神宿者が『約束』の存在を忘れた時のみ、この権能は効果が切れると思われる。被契約主は、当神宿者の記憶の削除を試みるべし。
歴代保持者一覧: 悪魔エリクシアス 以上
『下位神宿者一覧』 冒険者ギルド地下車庫・閲覧権限B より一部抜粋
悪魔について:
悪魔とは亜精神生命体の一種であり、妖力は比較的希薄で、霊力によって肉体を維持している。精霊と異なり、他者からの評価や感情によって姿や性格を変える事はないが、自身の感情や心理的状況によってその魔力を上下させる。(中略)
彼らはその性質上、自身の持つ感情や欲望に忠実に生きる他ない。また、彼らは約束を重んじる傾向があるので、それを利用する事で優位な立場を維持する事が期待できる。しかし、約束を取り付けたからと油断してはならない。彼らは『どうでも良い』と認識した相手との約束を、場合によっては反故にするのだ。彼らの誇りを傷付ける、または彼らの信条に背くような真似は推奨しない。
『魔族の性質、その対策について』 ヘズファン・ロア著 より一部抜粋