13 ガラスの造花
朝食後、ユリアスはサクヤと共に部屋を後にし、今は廊下を歩いていた。今日は、今まで勝手気ままに城内を散策していたらしいロイクも着いてきている。定位置であるユリアスの肩に乗った彼は、ふてぶてしく、さも当然とでも言いたげにリラックスしていた。
「サクヤ、それで何処を案内してくれるんだ?」
「それは付いてからのお楽しみ、ってことじゃダメかな?」
問い掛けたユリアスに向かって、サクヤは振り返り、華やかな微笑みを浮かべる。その際にふわり と舞った髪と、薬草の爽やかな香りに混じった、優しくも甘い香りに少しばかりくらっとくる。何をしていようと絵になるのだから、美少女というものは凄いものだと、馬鹿らしい感想を抱いた。
「?」
ぼうとしていれば、不思議そうなサクヤの瞳がこちらに向く。その視線を誤魔化しがてら、ユリアスは芸術品群が並ぶ廊下に視界を移す。丁度、さっきから気になっていたのだ。
「壮観だな」
それは不気味さの中にも神秘性を備えた画廊だった。ワインレッドの絨毯が引かれた廊下の両脇に有るのは、大きな瞳を象った紋様の付いた壺に、今にも動き出しそうな鎧甲冑……というか、実際動いたかもしれない。他にも場違いかつ不穏なビスクドールや、描かれた人々が踊る絵画、触れたら身体に悪影響が出そうな槍、などなど。造形は優れていても怪しい匂いのするそれらに、ちょっかいをかけようとするロイクの首筋の皮を摘んで持ち上げ、己の頭上に移動させる。
「コラ、やめなさい」
「ユウくん? 私の後ろを離れないでね。はぐれちゃうかもしれないから」
ユリアスの歩幅五つ分程離れた先から響いたサクヤの声が、ユリアスを捉えた。振り返り己を待つ彼女の姿に、急いで美術品群から目を離し、足早にその背中を追いかける。
「はぐれるって……一本道だろう?」
「一見はそう見えるんだけどね。このお城って元々は『黒の王』が住んでいたお城で、それを修理して使ってるの。だから神代の頃に隠されてた道とかが、何かの拍子で出てくることもあって……そういう所は一度入ったら絶対迷子になっちゃうから。ちゃんと着いてきてね?」
「『黒王の城』…!?」
突如として告げられた衝撃の事実に、あんぐりと口を開ける。ここに来てからというもの、何から何まで驚きの連続のように感じる。神代より続く城だと思うと、この景色もまた一味違って映った。暗血色の絨毯の上を神々が歩き、通ったのだと思うと胸の内から高揚感が湧き出てくる。
神代に想いを馳せながら、廊下を通り、階段を経て二つ下の階層に向かう。暫く歩いた後、中庭に通じるであろう出口が見え、ユリアスは一息吐いた。
「……こうなっていたのか……」
中庭に出たユリアスが浪漫に心踊らせ、改めて辺りを見渡せば、黒王の宮殿だった頃の名残が見て取れた。一等大きな建造物……思うに、玉座の間があるであろうそこは黒と暗緑色に彩られ、外観への拘りを悟らせる。遠く聳える城壁を見上げれば、大弩弓や魔導砲が取り付けられているのが見える。あれは恐らく魔王の時代に備えられたものと想像出来た。
黒王時代の豪奢な外観と、魔王時代の実戦も考えた造りが絶妙な均衡で組合わさった城は、黒魔の森特有の暗闇と濃霧に包まれ、見る者全てに畏怖の念を刻み込む。事実、今現にユリアスの心中には驚嘆と、それ以上の畏怖がある。
けれど、それらとは別に、何か魂を柔らかく刺激するモノがある気がして、ユリアスは半端に唇を解いて城の空気に没頭した。心臓を刺すそれは、痛みであり、切なさであり、分別しあぐねた衝動だ。訳も分からないまま、ただ、この街をずっと前から知っている気がした。
「…どうしたの?」
「…ああ。いや、なんでもないよ」
「そう?…なら良いんだけど。今日はね、案内したい場所があるの。着いてきてくれる?」
「もちろん。そのために来たんだから」
サクヤの声に我に帰り、誘われるままに中庭の奥まった方へと向かって行く。期待と共に向かったそこは庭園であり、威圧的な城の外観とは打って変わって、幻想的な光景が広がっていた。
極南部にしては薄い霧が、庭全体に塒を巻いている。魔術の気配に神経を澄ませば、そこかしこに散在する魔術陣の存在を捉えられた。ユリアスが予想するに、あれらが魔霧を吸い込み、景観を整えているのだろう。霧を利用する事で、見覚えのない花々がぼうと薄らに浮かび上がり、周囲から隔絶して魅せていた。幽玄な花園だ。その先に進めばこの世から外れてしまいそうで、ユリアスは伸ばす足を微かに遅らせる。
「ユウくんに見て貰いたいのはね……ほら、アレ。見えるかな?」
サクヤは鼻歌混じりにユリアスの手を引き、中庭の奥へと案内する。庭の隅の一角が、サクヤの示した場所だった。霧の向こうで頭を垂れる、暗色を中心とした花々は、身を寄せ合いつつも、すっと自然に奥が透けて見える。一目して、秘境とはこのような光景なのだろうと、静かに思った。
「どうかな。気に入ってもらえた?」
「……ああ…すごいよ」
「ふふ、良かった。ここはわたしが手入れしてる花壇でね。あまりひとが来る場所でもないから、お城の中でも知ってるひとは少ないの。ユウくんはいつも楽しいお話を聞かせてくれるから、お返しがしたくて。……なってるかな?」
「もちろん、なってるよ」
「本当?」
サクヤは手を合わせて微笑んだ。自身の手入れしている庭が褒められた事が嬉しいのか、その笑みは何時にも増して輝いている。そうまでも楽しみにしていてくれたのだろうか、とユリアスの口元が意図せず緩む。
『貴方に見て欲しかったから』。照れ混じりの言葉は、特別なものを共有してくれているのだと、何より真っ直ぐに伝わった。何か少しでも、彼女に返したいと思った。
「───よし、それじゃあ、俺もとっておきの魔術を披露しようか」
そう言って、地面に落ちている手頃な花弁数枚を摘み、拾うと、ユリアスは魔力を指先に集めた。扱う魔術は闇魔術。一種の召喚魔術である。口の中で小さく何節かの呪文を唱えると、ふぅと息を花弁に吹き掛けた。ぐらり、と花弁が空中で縺れ、ユリアスの魔力が形を成し始める。
「わ、ぁ─────!」
色の異なる五枚の花弁が、魔術によって姿を変える。右の羽は青く、左の羽は紫。尾羽は暗い赤。腹は緑で、頭は群青。手の平に乗るほどの小鳥が、仮初の命を授かり、木の葉が風でそうするように宙を舞った。
ユリアスは極めて高度な闇魔術に対する適性を持っているが、攻撃を目的とした闇魔術となると、その適正のあまり逆に暴走の恐れが付き纏う。だからこそ、ユリアスは宵紛れや闇暴き等の、非攻撃性の闇魔術を好んで使っていた。今回の場合は、スライムにすら成り損ねるような弱く小さな精霊達を、魔力を対価に花弁に憑依させ、闇魔術で軽く操ったのだ。ユリアスは精霊と通じ合う事は出来ないが、それでもこの程度の精霊を操る事ならば出来る。それを目の当たりにしたサクヤは、感嘆の声を上げ、ユリアスの手の平で羽を畳んだ花弁鳥の、狭く脆い額を優しく撫でた。
「そういうことも出来るんだ……」
「元は子供をあやせるようにと思って作った魔術なんだけれど…今の所、上手くいった試しはないんだ。魔術を使う前に怖がられてしまってね」
「ふふ…なぁに、それ。わかってくれないんだ」
少し戯けたように言うユリアスに、サクヤは小さく肩を揺らして笑い、素敵だねと嬉しそうに破顔した。それから小鳥をユリアスから借り、右の肩先に乗せると、紫の羽根に頬を擦り付け、くすぐったいねとまた笑った。
◇ ◆ ◇ ◆
二人は手近なベンチに座り、いつものように会話に興じていた。久々の外であるのだから、このまま帰るのは惜しいと、共通の意見でそうしていた。外といえど、サクヤが施した魔術により、霧の湿気が気になる事は無い。ロイクはと言えば庭園の中を歩き回っては楽しそうにしている。どうやら獣たる彼にも美しいものを愛でる感性はあるらしかった。
「────じゃあ、ユウくんが傭兵をしてた時に一番大変だったのはどんなことなの?」
今まで読んだ本や、好きな本の紹介。城であった不思議な話や、今まで乗り越えて来た冒険譚、日常の何てことない話まで。似た話題や同じ話題が出てきたら、その事も雑談の種にした。趣味は似通えど、二人の価値観はまるで違う。その違いを共有するのを、双方共に楽しんでいた。屋根裏に仕舞い込んだ宝物を見せびらかし合うように、話題の交換を繰り返す。
四週間近く、ずっと行ってきた事だったが、それでも二人に飽きは来ない。話し出せば、話したいと思っていた内容が次から次へと思い出され、脈絡などあろうがなかろうが気にしなかった。
「敢えて一つ挙げるとしたら兵站かな。食糧の問題は常に付き纏ってね。良質な食事を摂れないと精神的な余裕が無くなって、戦闘にも影響が……て、もうこんな時間か」
かと言って、真の意味での永遠は大神の法により許されていない。中庭に設置された時計台に目を遣り、静かな驚きと共にユリアスは目を見開いた。
時刻は既に十一時半を回っている。このまま話していたいとは思うが、昼食を摂る必要がある。
どうしようか、と向き合っていると、花壇からエリーがどこからか顔を出した。そしてどこからか箱を取りだしサクヤに渡す。
「昼食のお時間です。御嬢様。こちらをどうぞ」
「え? う、うん」
突然渡された大きなランチボックスに戸惑いながらも、サクヤはそれを受け取った。それを見て、エリーは満足気に頷くと、「ごゆっくりどうぞ」とだけ告げて、またどこかへと消えた。残された二人は奇妙な沈黙と共に見つめ合う。
数秒の沈黙の後、ややあって二人は口を開いた。
「とりあえず見てみるか」
「そうだね…なんとなく予想はつくけど」
二人して揃って首を傾げながら、ランチボックスを開ければ、予想通り、昼食だろうサンドイッチが入っていた。ハムとチーズと葉野菜が、二枚ずつ挟まったサンドイッチだった。
「……やっぱり」
「食べろって事だよな。多分」
「うん。多分、だけど」
それにしてはやたらと言葉数が少なかったエリーを不思議に思いながら、二人は頷き合う。サクヤが魔術で水を出し、それでもって手を洗うと、二人揃って居住まいを正した。
「それじゃ、遠慮なく」
「はい。いただきます」
早速とばかりにサンドイッチに口を付ける。そして、話す事に夢中になって、殆ど見ていなかった庭園に久々に目を向けた。
「これもこれで良いな」
差し込む陽射しが、大分薄まった霧に反射する。ほの暗かった先程とは一味違う景色に、感慨と感想もまた先程とは違うそれになる。
そこに、小さな口でサンドイッチを食べていたサクヤがユリアスの顔を横目で覗いて尋ねてくる。
「ユウくんは、さっきと今、どっちの方が好き?」
「そうだな……」
笑みを浮かべるサクヤに、ユリアスは何故だか試されているような気分になる。サクヤの意に沿う回答を探そうとして、直ぐに止めた。彼女はそんな事を望んでいる訳ではない気がした。
「個人的にはさっきの方が好きだな。暗色だから、ってのもあると思うけど、この庭の雰囲気を考えると、明るい今よりやっぱ暗い方が似合う、と思う」
「…うん。わたしも」
それでも意見が合った事は嬉しいのか、サクヤは機嫌良さげに足をパタ、パタと二回動かした。
「でもね、ここは夜の方が、ううん。中でも今夜はとびっきり綺麗なんだよ? ほんとはそれを見て欲しくて、ここに誘ったんだけど……そればっかり考えてて、時間を潰すための物とか、忘れちゃってた」
結局、いつものように会話をしているだけだった。それはそれで良いかと結論を得たサクヤは、ふと思い付きを得て悪戯に笑った。
「ね、ユウくん。口開けて?」
「分かった」
「えっ」
食い気味な応答だった。予想外の即答に驚くサクヤ。期待していた反応とは違うソレに、心持ち不満げにする。
「…つまんない……」
「あれだけ同じことやってたら流石に馴れるよ」
「それもそうかあ。はい、あーん」
「……んぐ」
「美味しい?」
「うん。あ、ロイク」
食事の気配に釣られたのか、颯爽とロイクがやって来た。高く鳴いて空腹を訴える彼を手招きし、手元のランチボックスを見て合点がいった。なんとも大きなランチボックスだと思ったが、ロイクの分も考えられて作られているのだろう。当然のように用意される膨大な食料は、ロイクの餌付けられ生活が出した成果とも言えるかもしれない。早くくれとねだるロイクも交え、二人はサンドイッチを頬張り始めた。
◇ ◆ ◇ ◆
旧黒王城、現在は主の帰りを待つ魔王城。大陸南部は元々黒王の版図であり、黒王とは夜の神でもあったとされる。その為か、ここでは日が暮れるのが早い。五時でも十分に暗くなるのがここの夕刻だ。二人と一匹を静かに見守っていた時計台は、気付かぬ内に針を大分進めたようだった。
「もう夕方だね」
「もうか。早いな」
あれからまた何時間か談笑し、そしてその時間ももうそろそろ終わる、という時刻。終わりを目前に、様々な感情が芽を出し始める。
何処かで虫が低く鳴き、鳥が何かに怯えるように控えめに囁いた。優しくそよぐ風が霧を押しては揺らす。橙色の太陽は、見て分かる速度で向こう側へと沈んでいく。噴水を包んでいた陽光が、徐々に光度を落としていった。
「結局、朝からここまで、延々と話をしていただけだったな」
「うん」
ユリアスの言葉にサクヤは小さく頷き、そのまま少しの不安を隠して隣の彼の顔を見上げた。
「…………つまらなかった?」
「まさか」
サクヤの言葉にユリアスは小さく笑う。今までは戦いばかりの暮らしで気付かなかった事に、この城に来てから、そして彼女と出会ってから、気付けたのだ。
街に群れる人々は皆人形で、悪意と敵意のみを設定されていて、ユリアスへその牙を剥いてくるだけの存在だと感じていた。いつからか、人は息を吸って吐いているのだということすら忘れてしまっていたように思う。彼らにもまた積み重ねてきた感情と時間があるのだと、ようやく思い出せたのだ。ユリアスは、心の曇りを落とされたような心地だった。
常ならば剣を納めている左の腰に軽く触れ、それから軽く目を細めた。
「楽しかったよ」
「うん…わたしも」
互いに笑みを交わし合う。ずっとベンチに座っていたサクヤが不意に立ち上がり、そのまま花壇の前まで歩く。そしてユリアスの方へ振り返り、密やかに笑みを作った。
「サクヤ?」
「ユウくん、ちょっと見てて」
「……?」
「今夜はとびきり綺麗って言ったでしょ?」
「待ってて」そう言うと、サクヤは祈るように両の手を胸の前で軽く組む。すれば、辺り一帯の魔力が震え、地面から蔦が伸び、その足下に蕾が生えた。その中心で、彼女はゆっくりと、唄うように言葉を紡ぎだす。
『今宵望むは繚乱の輝き。今宵唄うは精霊の詩』
何処かから笑い声が一つ、響いた。
『精霊は踊り、私は唄う』
それは一つ、また一つと増えていく。そして、それらは姿を現した。
『武勇は要らず、剱も捨てて。宴の準備を始めましょう』
あるものは虫のような羽が付き、あるものは小人の様な形をしている。またあるものは動物の姿をしていて、それらのどれもが薄らと透けていた。
『蜜を注いで、朝露持って、開いた月から涙が落ちる。盃あれば集いましょう。盃なければ踊りましょう。鳥も樹木も草花も、徒花さえもが目を醒ます』
「……お願い」
呟いた途端、幾つもの笑い声が重複して響く。楽しげな、軽快な笑い声が。
その声の主と思われる半透明の何か達は、祝福するように花壇の周りを翔び、その軌跡に光の粒を撒き散らす。
すると、花々がまるで巻き戻すかのように蕾に戻る。それを見て、薄ら透明な何かは楽しげに、もう一つ笑った。
蕾となっていた花々が、再び、今度は淡い光の粒を散らしながら開き始める。それぞれの花が、その花と同色の粒子を溢し、咲き乱れる。
暗紅に群青。青紫と赤紫。その何れも一つとして同じ色はない。
音もなく。秘めやかに、淑やかに華咲いた。
「精霊魔術───」
黒く艶やかな毛並みの皮に、銀の角を持った鹿が音も無く現れた。隣にはもう一体、番と思われる角を持たない鹿が居る。二匹の精霊が高く鳴くと、闇は一層暗く、花々は一層美しく輝きを帯びた。
全ての花が再び花弁を開き、燐光を撒き散らす中、静かに手を組んでいたサクヤが振り返った。
「………ぁ…」
「この花は『ネティア』って言って、この森の奥地にしか咲いてない花なの。育てる事は普通に出来ても、とても短命で、その短い間で魔力をたくさん蓄えるけど、単に育てただけだとその魔力は何にもならない。でも、こうやって精霊たちに呼びかければ……………」
どこか得意げに、自慢げに、そして楽しげにサクヤは説明をする。それをユリアスは半ば以上聞けていなかった。
花にではなく、彼女にこそ見惚れていた。形容の言葉すら無粋に思えた。
花も確かに美しい。平時であれば何もしないで呆けていた事だろう。だが、平時ではなかった。彼女の前では、それ等は全て飾りだった。持ち主よりも目立たない、優秀な装飾でしかなかった。
深い闇に、美しい黒髪の輪郭は微かにぼやけ、それであっても未だ見失う事はない。白い貌は、畏れが湧く程に整っていた。
霧が立ち込めたこの庭で、サクヤは触れればたちまち溶けて散ってしまいそうな、薄氷にも似た夢幻の花として、ユリアスには映った。儚く脆いそれに、唐突に、それが酷く離し難いものに感じられた。
情が移った、単にそれだけの話なのだろう。
どうとも堪え難い感情だった。一月近く、朝から晩まで同じ部屋で甲斐甲斐しく世話をされ、時には話し相手として語らった相手だ。そしてその少女は不意に空白の時間が生まれると、何かに焦がれるように窓の外を見つめていた。
たったの四週間。けれど、その想いが芽生えるのには有り余る時間だった。
だから、思わず、考える隙もなく、気付けば声を発していた。
「……サクヤ、一緒に、城の外を見てみないか」
「!」
「勿論、それが出来ない事情があるんだろう。それでも、俺は君と一緒に森から出て、その先を見てみたい。その為なら、幾らでも協力をする。出来ることなら、何だってする」
その言葉が出てきて暫くは、本人の意識にさえなく。だからこその本音で、だからこその本気だった。
なのに
その言葉に、彼女の柔らかな笑顔は、罅が入り、強ばり、何かを恐れるように固まった。
「そ……れは」
言葉に詰まるも、一瞬で笑みをその顔に貼り付け直す。先程までの楽しげなそれとは違う、ぎこちない、寂しげな笑みだった。
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
困ったように眉を下げ、笑顔の仮面をユリアスへと押し付ける。その際に、一粒だけ、彼女の頬を水滴が滴った。
「え………」
暗闇の中でも、その輝きを見落とせはしなかった。寂しそうな微笑の隙間から零れ落ちたのは、紛うことなく涙液だった。それは彼女にとっても予想外だったのか、驚き焦った様子で涙を拭うと、取り繕うように、口許の笑みだけを深くした。
「いッや、違……っ、なんで」
違う。そうじゃない。泣かせるつもりは毛頭なかった。ただ君に、喜んで欲しかったんだ。そんな言葉が出てこなかった。
頭が急速に冷える。何を間違えたのか、鈍った頭脳が素早く回転し始めた。それでも、それらは空振って、まともに思考がまとまらない。涙一粒に、どうしようもなく動揺していた。
果てに、漸く出てきたのは、掠れた喘ぎ声と、余計な一言だけだった。
「それでも、俺はッ」
「駄目」
彼女の唇が紡いだのは、強い否定と拒絶の言葉だった。幼子をたしなめるような、何かを祈るような。喜びとも、嬉しさとも違う、望んでいたものとはかけ離れた音だ。
それは、木枯らしよりも冷たく感じた。
「きみ、と……………」
喉がカラリ、として何も出てこない。舌を口蓋に擦り付け、無理矢理、微かに湿らせる。それを一回、二回。何度も繰り返し、頭を回す。回す。回す。
なのに、台詞は何も出てこない。言うべき言葉が見つからない。拒絶が恐ろしく、舌は重くなり、喉は掠れていた。
「今日はもう、帰ろう?」
黙ったきり、動かないユリアスに、サクヤは困ったように微笑んだ。手を延ばし、それでも動かないユリアスに そっか、とだけ彼女は言った。
そのまま彼女は、踵を返し、花々の漏らす粒子の中に、暗闇にかかる霧の中に、ゆっくりと消えていく。
彼女は立ち去った。何かに堪えるように。どんな事を考えているのか分からなくて、自分が何を間違えたのかも分からない。一体何が彼女にあんな顔をさせたというのか。それが分からない。
いや、分かってはいた。だが、それはあんまりだろう。
「───────忘れろ、ってか」
足を一瞬止め、気遣わしげに振り返った彼女の唇は、震えていた。
「……出来るか」
投げやりに呟いて、ユリアスは長椅子に腰掛けた。未だ淡く光を散らす花を見やり、そのまま視線は自身の手に落ちる。
剣を握り続け、硬くなった皮の感触に、自信がなくなっていく。この世界は、戦いだけで解決出来る物ばかりではない。これだけ剣を振ってきた証拠があっても、出来る事など極、僅かなのだ。その中に、彼女のことは──────
「…ぁ…………」
至りかけた結論に、蓋をした。何か自分に出来る事。それを躍起になって探し、堪えていた息を解いた。剣と斧と槍と弓、血と魔物以外に、己には何もない。それ以外に、己に出来ることはきっとない。
「…仕方ない」
口癖のように呟いて、歯を噛み締めた。
「仕方ない、仕方ない、仕方ない……っ」
低く唸るように喉を震わせる。噛み締めた歯を緩め、今度は唇に深く歯を立てた。三秒の後唇を開いて、滲む血を無視して吐き捨てた。
「いつも、こればかりかッ」
◇ ◆ ◇ ◆
ユリアスの視線に堪えられなくなって、あれ以上彼の言葉を聞いていたら甘えてしまいそうで、サクヤは庭から抜け出して来た。
恐らく、彼は本気だった。その事が分からないサクヤではない。四週間、同じ部屋で過ごしてきたのだ。彼の本気の言葉と、からかいの言葉、それらの区別は何時の間にかつくようになっていた。
そう、四週間。四週間だ。それだけ同じ空間に居て、情が移ったのは、何もユリアスだけではない。
だからこそ、サクヤはユリアスにそれを望む訳にはいかない。彼がその気になって、この先の人生を捨てる覚悟さえできれば、サクヤが救われる可能性は爆発的に上がる。それをサクヤは理解している。サクヤをこの城に閉じ込めているのは神獣に他ならない。それを殺せばサクヤは解放される。ユリアスが魔王になり、神獣を屠れば、それで彼女は自由を手にする。現状、サクヤを救う事が可能なのは、確かにユリアス唯一人だった。
だが、サクヤはそれを望めない。大切なものの為にも、情が移ってしまった彼の為にも。
ソレで助かるのはサクヤだけで、少なくとも彼女はそう理解していたから。サクヤはそうまでも自分勝手になる事ができない。
自分は失敗作である、というディアゼルに対する負い目も、神器を取れば、容易に『ヒトである』という尊厳そのものを奪いかねないユリアスに対する想いも。
それら全てがサクヤに我慢と諦感を強いた。
彼女は己の愚かを呪った。もし、外への憧憬を口にしていなければ。もし、外の話など強請っていなければ。彼をその気にさせることは無かっただろうに。
城の廊下、その壁に背を預け、ぼんやりと、シャンデリアの灯りを見上げる。魔力の灯りは風で揺らぐ事はない。ただ、眩く輝いていた。
灯りを瞳に、いつも考える。こうして、自分を客観視しようとする。本の知識と想像で、知らない事を補って。
すると、どうだろうか。自分の悩みなんかこの上なく、馬鹿馬鹿しく思えてくるではないか。もっと重い不幸に嘆く人など、腐る程居るのだろう。きっと。
だからサクヤは自分に言い聞かせる。
たん、たん、と軽快に足踏みをして、笑おうとする。笑おうとして、もう一度、壁に背を預けた。そのまま、背中を引き摺るように床に座りこんだ。ずっとこのまま座り込んではいられない。この後も、日課の玉座の間での修練がある。それでも、中々思うように力が入らなかった。灯りはぼやけている。
「諦めなきゃいけない」
今までは、何度も何度も口に出せば、希望は直ぐに潰えたから、同じようにしてみせる。
「諦めなきゃ、いけないのに」
なのに、少し、期待してしまった。期待は要らない。それが自身の大切なもの全てを、延いては自身の心すらをも傷つけると、彼女は理解していた。
城を護る為に、自分を護る為に、何時も傷つく父親を、彼女は知っていた。
「ぃッ!た……」
不意に、一瞬走った激痛に声を殺す。魂が腐敗していく感覚だった。ここ最近は衣服が痣に触れるだけで痛みが走る時がある。着物を、少し弛めた。
「ヒュ、ゥ……?」
喉が掠れた音を発て、その直後に三つ、口元を抑えて咳をする。こほっこほ、こほとくぐもった音が城の壁に沈んだ。
「ぇ…」
口元を抑えていた手に付着した赤い液体に、呆然とした声を上げる。今まで一度もない、経験したことのない症状だった。全くの未知とその不気味さに肩を震わせ、壁に背中を押し付けた。
そのまま数分間座り込み、時々手を眺める。唇の端を拭えば、鉄臭い液体がほんの微かに指に付く。
「……諦めなきゃ」
言って、思う。
諦めるとは、何だろうか。諦めて、自分は何をすれば良いんだろう。諦めて、諦めた先に、何があるのだろう。諦めて、その先は多分何もない。
そこまで考えると、のどの奥が、ひりついた。鼻が少しツン、とする。良くわからなかった。自分が何を考えているのかが。
思わず、抑えつけた想いが溢れた。
「………もう、疲れた」
祈る事も、泣く事も。自分を嫌うのも。いつ来るか分からない激痛に震えるのも。死に怯えるのも。応える気配のない神器に縋るのも。諦めようとする事にも。魂が摩耗していく感覚に嘆くのも。その全てに疲れ果てた。膝に顔を埋めて、固く瞼を閉じた。その閉じた瞼も、言いようのない無気力さに柔く解ける。
最近は、本当に上手に笑えていたのに。明日からまた、下手な笑顔をあの人に見せなきゃいけない。それは嫌だった。
いっそのこと、本当に自分が魔王なら。神器を手に取り、神獣を屠れるというのに。その先に破滅があっても良い。彼が魔王になるより、幾許かはましだ。
頭が重く、拭えない疲労感が体に鉛を括り付けているようだった。けれど、疲れたからって、それはどうしようもなく襲いかかって来て。どうしようもなく止められなかった。
どうしようもなかった。
「だれか、たすけてよ……」
そんな人、要らないけれど。
ネティアの花について:
この花は魔力異常を抱えていることを発見。精霊術による補助がなければ上手く花を開かないのも、これによるものだろう。この魔力異常を解消することにより、完全な開花に持っていく事が出来たが、数日経つと花は枯れてしまった。実験を重ねたが、寿命を延ばす事は無理らしく思える。しかし、朽ちた際に残される種子は、興味深い魔力的性質を持っていた。これを利用すれば、もしかしたら魔力異常を解消する薬を作る事が出来るかもしれない。
『薬草 メモ』 サクヤ・セインドロゥ著 より一部抜粋