12 天使と悪魔
サクヤという少女は、美しく微笑む少女だった。常ににこやかに笑みを携え、薬草の匂いを漂わせ、ユリアスの身を案じ、甲斐甲斐しく世話を焼く。美しく可憐な容姿と相まって、ユリアスの眼に彼女は天使のようにも映った。……身を置く場所こそ魔王城ではあるが。
しかし、この少女、看護そのものを楽しんでいるのか、或いはそうでないのか、どうにも甲斐甲斐しさが過ぎた所があった。というのも───
「いっつ、ツツツ」
「もう…あんまり動いちゃダメだよ? 大人しくしてなきゃ」
未だ全身を走る痛みに、ユリアスは陸揚げされた魚の如くびたんびたんと跳ねる。痛みは多少マシになれど、完治からはほど遠く、動けば尋常ではなく痛い。つまり彼は動く事が出来ず、それにより新たな問題が生じる。その問題というのが中々の頭痛の種であり……ユリアスは切に訴えたかった。助けて、と。
「はい、あーん」
「いや、それくらい自分で………う゛」
「ほら、動かないで」
「その……恥ずかしいんだけど」
「けど、こうするしかないよ?」
「けれど、君は世話役のメイドが付くほどの身分なんだろう? 君のような貴人が俺みたいな……」
「わたしがやりたいからやってるの。だから気にしないでも大丈夫」
「…」
お分かり頂けたであろうか。今、朝食を摂っているのである。しかも、出会ったばかりの美少女に看護されながら、である。見る者によっては羨ましく映ることもあろうが、流石に気恥ずかしさが勝る。このままでは男の子の威厳とか、プライドとかが跡形もなく粉砕され、日光浴をした幻種吸血鬼の如くサラサラと崩れ去るだろう。
ユリアスは隣に控える赤髪のメイド…エリーと名乗ったサクヤ御付きのメイドに、視線だけで救いを求める。が、そのメイドは無慈悲にも首を振った。無論、縦ではなく、横に。まるで諦めろとでも言いたげに。
隣のサクヤに目を戻したユリアスは少し迷い、また視線を有らぬ所にやった。うろうろと視線を動かした挙げ句、そっと静かにサクヤの顔へと視線を戻し、また迷う。
これ食べても良いやつだろうか? 男として大事なモノを失わないだろうか? そう思っているとその手に持つスプーンから食欲を誘う匂いが漂ってきて……腹が鳴ったユリアスは仕方なく、本当に仕方なく見える様に口を開いた。
「はい、あーん」
「ぁ……あー」
差し出されたスプーンを咥えてモゴモゴと口を動かす。気恥ずかしさからあまりしっかりと何を食べさせられるか確認していなかったが、それが舌に馴染んでいくに連れ、目が見開かれていく。
「美味しい」
食感からして恐らくスープだろう。少なくともいつも食べている干し肉のスープや、虹の雫亭の朝食とは確実に比べ物にならない。それくらいには旨い。
やはり魔王の城、魔族の領域となると食文化にも大きな違いがある。血のように濃厚なスープに、ツンと鼻を抜ける知らないスパイスの香り。慣れはしない味だが、それでもすんなりと受け入れられる。具材は形が無くなるまで煮込まれ、治療中のユリアスの事を良く考えられていた。一口食べればそれだけで身体に染み入るような温かさがあった。
「そうでしょう?タタさんが張り切って作ってたんだから」
自分の事の様に誇らしげに話している姿はやはり可愛らしく、同じ年頃だろうに少し幼く見えた。そこだけ見れば彼女はとびきり可愛い天使なのだが……しかし彼女に慈悲は無い。左手に持つ器からスープを掬い、ユリアスの口の前に差し出してくる。
「はい、お口開けてね」
ユリアスの中で恥も外聞も捨てる覚悟が決まった瞬間であった。
数分後、すっかり大人しくなったユリアスは目の前のスプーンを無言でパクついていた。この行程を繰り返していると何か段々、これも悪くないと思えてくる。楽なのだ。しかもやってくれる相手は傾国の、と頭に付く美少女だ。
少しだけ餌付けされるロイクの気持ちが分かった気がした。そして犬の道に堕ちてしまった未来の自分を憂いて、よよよと二粒心の中で涙を垂らした。
「開けてー」
「…」
差し出された白いパンを大人しく咥える。これもやはり旨い。柔らかくて香ばしい。食に疎いユリアスはそんな感想しか抱けないが、味覚の鈍いユリアスでさえ理解できる優れた品質だ。焼きたての出来たてなのを鑑みるに、城の中に畑でもあるのだろう。今一つここの構造が不明なため、真の所は分からないが、あれだけ広い城ならば何らおかしくはない。
改めてスープに目を遣れば、見慣れない肉が浮かんでいるのが見える。熱で形は崩れているが、腿やバラ、ヒレやロースといった風ではない事は分かる。ユリアスが予想するに……
(心臓肉か)
オルト・ワーグナーが著した民俗学書、『魔族文化のそれぞれ』によると、魔族にとって心臓というのは高貴なモノだけが口にすることを許される部位らしい。なんでも、心臓こそが生物の核であり、それを食すことで力を取り入れる事が出来ると信じられているとか。或いは獲物を殺した栄誉の勲章であり、客人に出されるとそれは最大級の歓迎の証となる。
この世界において、特に純人や森人の文化圏において心臓食というのは若干のタブー視をされている。が、ユリアスとしてはそれが歓迎の意味を持つならば不満はない。けれど、これだけのもてなしをされる理由が思い当たらず、ユリアスは内心で首を傾げた。
「『我らに大地を齎し給う、亡き霧の王に感謝を』」
朝食を綺麗に完食し、確かこれであっていたよな、と思いつつ魔族特有の食後の挨拶を口ずさむ。サクヤの様子からすると、大きく間違ってもいないようだ。サクヤが食器をトレーに乗せ、メイドのエリーがそれを扉の前まで持って下がり、更に別の召使いがトレーを受け取るのを目尻が捉える。数年振りの貴族待遇に落ち着かない心地でいると、サクヤがパチンと両の手の平を合わせた。
「それじゃあユリアスさん、外のお話を聞かせてくれる?」
昨日は結局、肉体の疲労から、夕食すら摂らずに寝落ちしてしまった。サクヤと約束していた城の外の話というのも一切出来ていない。この時を待ち侘びていたのだろう。彼女はいかにも楽しげに、嬉しそうに、口端を柔らかくしている。
緊張混じりながら、ユリアスもまた、楽しみにしていた。何せヴィオレ以外でまともに人と話すなど、何年振りの事か。何について話すか脳内に選択肢を挙げていき、ふと思いつく。そう、こういう話をするならば、何よりも先ず地図が必要だ。
「もちろん。だけどサクヤ、地図はないか? 城の外が載っているものであれば、どんなものでも良い。なければ……そこそこの大きさの白紙と書くものがあれば……」
「ううん。あるよ、地図。用意しておいたの。でも昔のやつだからユリアスさんの知識とは食い違いがあるかも」
『地理概論』そうシンプルな題名の分厚い本が一冊、サクヤはそれをいそいそと持ち出すと、ユリアスが動く必要のないよう、ベッドの上で開く。巻末を捲り、そこに載っている、大陸全土を簡潔に示した地図を、ユリアスが見易いように広げた。サクヤ自身も、話を聞き易いように、同時に地図を見易いようにとユリアスの方へと体を寄せ、ユリアスに近い視点で地図に向き合う。
「いや、問題ないよ。それじゃあ先ずは何から聞きたい?」
さっと目を通して分かったが、サクヤの言葉と違わず、これは随分昔の地図らしい。加えて、純人の生存圏でも刷られている地図と然程変わらない情報量しか載っていない。
魔族の作った最新の地図ともあれば、純人達の知らない領域について詳細に描かれているやも、と強い興味があったが、言うまでもなく最新の地図とは機密の塊だ。歓迎されているとはいえ、外からの来訪者たるユリアスにそれを開示する理由も無かった。
「うーん……気になる事が多くて、自分じゃちょっと決められないかも…」
「何からでも良いよ。なんだったら適当に指を差した場所でも良い」
「それなら……ユリアスさんが今まで行ったことがある場所について聞きたい」
「あー、そうなると…」
ユリアスが過去訪れた経験のある土地となるとかなりの広範囲に渡る。伊達に数年間大陸中を放浪していた訳ではない。主に南大陸を中心に旅をしていたため、大陸北部に関してはあまり深い知識はないが、南大陸だけでも十二分に広いのだ。今度はユリアスが頭を悩ませる番だった。
「実の所、俺は数年の間旅をしていたんだ。だから先ずは俺が旅の最初に訪れた街について……その後は通った道を辿るように話していこうか」
「うんっ」
彼女の控えめながらも明るい返事に小さな頷きで応え、ユリアスは滔々と語り出した。
「旅の理由は……行方の掴めない知人の捜索と…あとは強いて言うなら武者修行かな。まだ行ったことのない場所と、色々な魔物との戦いの経験を積むために、大陸の東の端を目指して旅をしていたんだ」
「まだ、行ったことのない場所……。素敵だね」
「そうか」
「うん。でも、東の端って……大山脈地帯だよね? すごく危険な場所だって本で読んだけど……」
「ああ。世界でも上位を争う危険地帯だ。けどその頃の俺は何も知らなかったというか……何も考えていなくてね。後先考えずに目標地点に向かって旅を始めて、最初についたのがこの……この辺りにある村だ」
言葉と共に右指を動かし、地図の一点を指し示す。その村は大陸南部の中央からやや上に位置し、とある大都市へ続く街道沿いに存在する村だった。その大都市とは、東部と南部を繋ぐ要所であり、即ち大陸東部への入り口である。街の名を『タルザネロ』。多種族が住まい、多くの人々が行き交う交易都市だ。
「『交易都市タルザネロ』は知っているだろう? 東側の情報が集まっていて、東へ行くには寄るべき街だ。この村はそこへ向かう道中にある宿場町のような村で……その辺りはなだらかな草原と、それを利用した牧場が特徴でね。そうだな…先ずは、美味しかった物の話でもしようか──────」
話題はユリアスの足跡に沿うように、流れるように変わっていった。タルザネロに到着した後のトラブルの話、東側にしか生息しない魔物や植物の話、悪魔が棲まうとされる火山、その周辺にある集落に赴き大変な目に遭った話、そしてロイクと出会ったときの話。一時間ほど経ったであろう頃合いに、部屋の扉を叩く音が空気を揺らした。
「…?」
「失礼する」
低く響く声と共に、ドアノブが回る。そうして現れたのは、大層な大男だった。
「───!!」
それは、火山のような紳士だった。失活した火山ではない。強く脈打ち、何時溶岩を噴き出すとも知れない、爆発的な生命力の塊。畏怖すべき自然の権化。立っているだけで、何もしていない相手だった。だのに、それを視界に入れたその時、身体が、精神が、凍り付いた。
背丈は二、三メートル。褐色の肌に、体格はその巨躯に相応の物。それを軍服にも似た貴族服で包み込み、威風を滾らせ立っている。灰と黒を混ぜた様な荒々しい髪に赭い瞳。顔も厳ついが、人間のそれだった。そしてその浅黒い手の先、指の爪は真っ赤。だが、それは人間との違いとも言えない違いだ。
巨大を除いて、突出して怪物じみた特徴はない。だというのに、感じる威圧感は今まで戦ってきた相手とは文字通り格が、次元が違った。
「ディアゼルさん? どうかしたの?」
サクヤの何の気負いもない涼やかな声が、場違いに響いた。
相手は怪物だ。化物だ。なんという魔力量。なんという整った重心。ただあるだけで圧される武威。殺気は無くとも心が酷く萎縮していくのを感じる。生物としてのステージが、かけ離れているのだ。
その大男が、呆気に取られた様に口をポカンと開けていた。それが何を意味する反応か分かりかねて、ユリアスの心は更に硬くなっていく。ディアゼルという名に聞き覚えはなかったが、その出立ちと服装から、この城の中の序列上位の存在であるという事実に辿り着くまで、そう時間は掛からなかった。
「姫か。仲が良いようで何よりだ」
「うん。その……なんだかユリアスさんは初めて会ったような気がしなくて」
「ほう……? まあ、良い。今日は御客人の容態を見に参った。私はディアゼル。ディアゼル・レギオニス・オブシディアン。主の代理としてこの城を治めている」
サクヤに向ける父性愛に満ちた視線とは打って変わって、見定めるような目線がユリアスを刺す。
目を逸らそうにも、逸らした瞬間息絶えそうな程の圧迫感。背中を見せずに下がろうにも、今ユリアスは動く事は出来ない。その赭い瞳に一瞬映った懐旧と悲哀の色を気のせいだと切り捨て、ディアゼルの全身を俯瞰しながら記憶を探る。
ディアゼルの背後、部屋の入り口に当たる扉まで十五歩、その丁度反対側にある窓まで最短でも十歩程度か。真っ当な武器は手元になく、精々がフォーク、そしてナイフ。
身体がどこまでの運動に耐えられるかも不明だ。そもそもディアゼルの身体能力が人族を凌駕している可能性も高く、逃げ切れるかも怪しかった。全身の妖力を動かさずに、しかしその全てを把握し、いつでも練られるように意識を研ぎ続ける。
「ご丁寧にありがとうございます。私はユリアス。ただのユリアスと呼んで頂ければ。しがない冒険者をやっております。此度はどのような御用件でしょうか?」
相手はユリアスよりも圧倒的に格上。確実にこのディアゼルという男のランクはAAA〜Sランクの強さを持つ、所謂歩く天災である。神宿者ならば冠持ちクラスなのは確定だ。警戒しても意味を成さないと分かってはいるが、無警戒でいられるほど心に余裕はない。正解へと考えを巡らせながら投げ掛けた質問の答えは、予想外に単純だった。
「ユリアス殿か。古風だが良い名だ。して用件だが…何、貴殿に会いに来ただけだ。加えて、貴殿はこの城の御客人、私と対等な地位として扱う。敬語は要らん」
「……」
「胡乱げな目だな」
「……それだけなのでしょうか?」
「うむ。本当にそれだけだ」
困惑するも、ディアゼルが嘘を吐いている様子はない。一応はと、警戒は続けながら、ディアゼルとの会話を試みる。
「……敬語は、貴公が良いと言うのなら遠慮なく。俺に会いに来た、とは一体どういう?」
「どういうも何もそのままの意味だ。それと、そう力む事はない。私から貴殿に危害を加えるつもりは毛頭ない。そも、その身体で闘うのは辛かろう」
「……!」
気取られた。
ユリアスは武人としてはそれなりに完成していると自負している。警戒していても、それを常人に気取らせないだけの技量はあるし、いつも以上に気を使っていた。視線は無為に動かさず、いつでも魔力を励起できるように整えてはいたが、それに気付ける訳はない。
だというのに、このディアゼルという男はそれを易々と見破った。文字通り潜ってきた修羅場の数が違うのだろう。もしくは、余程魔力の操作、感知に特化した種族か。
人間かどうかすらをも分からない、何百、何千年生きているかも分からない相手だ。比べる事が間違っているのかも知れない。
気張ったところで意味がないと悟りつつもユリアスは、その意識を鈍らせる事はしない。出来ない。強大な魔獣を前にした時の、足と地面が張り付くような恐怖が、全身を支配していた。
「……ああ、強いて言うなら一つ、野暮用があったな」
「……それは?」
「そう構えることはない。私は只、どのようにこの城へと至ったのか、目的と、道筋を聞きたいだけだ」
「……俺の住んでる街、トリンズは黒魔の森に隣接している。トリンズに近い、森の表層で大氾濫が起きた。それを理由に大深淵……黒魔の森深部への調査隊が組まれ、結果、こうしてここに辿り着いた。どのようにここまで来たのかは……申し訳ないが、答えられない」
「それは何故?」
何という事はない質問一つに、途方もない圧がある。否応なく強張った頬を抑えて、ユリアスは口を開いた。
「必死で魔物から逃走し続けて、気付いたら城の前だった。詳しい道は覚えていないんだ」
「…そうか。それならばそれで良し。大氾濫の原因とやらは掴めたか?」
「……分からない。城の外に異質な化物がいた。けれど、それが原因とは言い切れない」
「ふむ、お主の想像通り、それらが大氾濫の一因ではあるだろうよ。分かったならば、その傷を癒やしさっさと己の古巣へ帰れ。その為の道ならば教える。約束しよう。…………頼むから、妙な気は起こしてくれるなよ」
突き放すような投げやりさと、懇願の念を秘めた声に頷きながらも、その提案に抵抗を示す己の心へと、ユリアスは分かり切った疑念を向けた。
帰る為の道、それはユリアスが求めていたものである。思い掛けない約束であり、喜ばしいものの筈だ。だが、ユリアスの心は凪いでいた。約束を受けて、ユリアスが思い出したのはサクヤの事。彼女は城から出られるのか、そんな思考がまた脳裏を撫でる。そっとサクヤの方を窺うも、彼女は顔を下に向け、その表情は全くもって知り得ない。
「…分かっている」
短い返事にディアゼルはうむ、とだけ答えるとサクヤに一言二言話した後、扉に向かって歩き出す。用事が済んだ、との言は本当なのか、ディアゼルは直ぐ立ち去ろうとする。その背中にユリアスは待ったをかけた。
「待ってくれ、ディアゼル殿。貴公がこの城の主なのだろう? 城の主が直々に、俺を運んできてくれたと聞いた。その事への礼を。本当に助かった。ありがとう」
「む……ああ、そうか、エリーか姫辺りにでも聞いたか」
隣のエリーの『申し訳ございません』という言葉に、ディアゼルは適当に手を振り気にしていない事を伝え、ユリアスへ目を向ける。
「気にすることはない、ユリアス殿。私は私の信念に従ったまで」
「けれど俺が助けられた事も事実だ。このような姿勢で申し訳ないけれど、その事に対する礼と、先程の非礼への謝罪をここに」
ユリアスは痛む身体に鞭を打って上半身を起き上がらせ、背筋を伸ばし、そして右掌を左胸に当てると、深く頭を下げた。
冒険者の命は軽く、何時死ぬか分からない。だからこそ一度命を助けられたという恩は忘れない。全ての冒険者がそうではないし、最近では寂れた戦士なりの敬意の払い方だ。しかし、ユリアスにとって最も偉大な戦士であった父がそう在ったのだ。それだけは違えるつもりはない。
数秒の後、礼儀に従い面を上げると、ディアゼルの様子がおかしい事に気付いた。鋭い目を細めたその顔は何か懐かしいモノを見たような、そんな印象を受け、それと同時に侘しさも纏っている。しかしそれも束の間の事で、直ぐに調子を戻したディアゼルは苦く笑った。
「そうまでするなら素直に受け取っておこう。では、ユリアス殿、改めて私はこれで失礼する」
「ああ」
部屋から出ていくディアゼルの姿を確認し、糸が切れたようにベッドへと横たわると同時に、激痛への呻きと、留めていた息を吐き出す。圧倒的に格上の存在が近くに居ると、どうしたって落ち着かなかった。
「何だあれは……魔力量からして桁が違う。……どれだけ強いんだ?」
ユリアスの言葉に隣のエリーが笑う。このメイドもメイドでかなりの手練だ。もしかしなくてもAAランク以上ある事は確実だった。だが、あの男はその比ではない。
「ディアゼル様は我々悪魔の王であられる方ですから」
「…そうか。…………はぁ?」
唐突に突っ込まれた事実にユリアスの脳がパニックを起こし、間抜けた音が口から漏れ出た。悪魔の王、そしてその台詞からいけばこのメイドも悪魔。とんでもなく初耳である。
「今なんと?」
「ですから悪魔の王、と」
「それ俺に教えて良いのか?」
「さぁ?良いんじゃないですか?」
「えぇ…」
凄まじく適当な返答に、もうどう反応するのが良いのかも分からず、困惑を呻き声で出力した。自分は今もしかしたらとんでもない危機に瀕しているのではないか、とか、そもそもこのメイドはメイドとして大丈夫なのか、とか。そんな色々を飲み込んで、取り敢えず疑問を一つ潰す事にした。
「悪魔の王と言うと、悪魔公のことか?」
「はい。私が知る限り、悪魔の王は悪魔公だけだと思いますが」
彼女にとっては何て事無いのか、軽い答えが返ってくる。
悪魔公と言えば魔王の側近中の側近であり、『狂熱』『暴虐』と呼ばれるそれは、Sランク超上位の天災の代表である。
語り屋の老婆の詩が、ユリアスの中で蘇った。
─────城を護るは、げに恐ろしき大悪魔。真の焔を身に宿し、振るう刃は雲を裂く。纏う焔は火竜を屠り、国さえ砂漠へ変えにけり─────
あのディアゼルという男、ここで云う所の『げに恐ろしき大悪魔』に相違ない。過去六代全ての魔王に付き従う、この世界の不可侵領域。
齢千年を超える魔物は非常に危険視される。それだけの年数力を蓄え、それだけの年数生き残ってきたのだから。悪魔の王の生き抜いてきた年月は、千年を悠に超えている。何千年という時を生きる最悪の悪魔。荒ぶる火山そのものと呼ばれた真の怪王の正体が、あれだった。
「あれなら確かに、悪魔公と云われても違和感は無いか……」
そうなると、ユリアスは空恐ろしい場所に迷い込んだようだった。ユリアスは難しい顔で黙りそうになるも、視界の端のサクヤに、旅の話の途中だったことを思い出す。同時に、ディアゼルのサクヤへの呼称、『姫』も。
「ん?………『姫』?」
「どうしたの?」
「サクヤは、この城の姫なのか?」
「えーっと……まあ、そうなるのかな」
「………」
エリーはサクヤを『御嬢様』と呼んでいた。だからてっきり貴族の子女程度に思っていた。無論、それでも十分高い地位ではある。が、『姫』となると訳が違う。
「それでは、サクヤ……様。お話の続きといきましょうか」
「えー…そんなのじゃなくていいのに」
ユリアスはサクヤとの付き合い方に暫く悩むのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
エリーはいつも通りサクヤの側に立ち、それを傍目にユリアスはサクヤと二人で本を読んでいた。辺りには様々な種類の書籍が積まれ、二人はそれを取っ替え引っ替え読み耽る。上下巻と揃った物語を読み終えて、感想会を開いたり、時には図鑑を並んで眺めたり。ここの所、そんな生活を繰り返していた。
例えば、『第一勇者大戦』。人間達の言い方に変えれば『第一魔王大戦』である。恐らく、魔族が書いたから題名が異なるのだろう。
本の内容としては主人公魔王ヘリンレダスが勇者レフィシアと戦う話であり、この世界で一、二を争う程有名な伝説を小説に仕立て上げたものだ。そして、戦いは相討ちに終わり、二人とも深い眠りについて、輪廻の輪に帰ってしまう。それで物語は終了だ。その他、種々雑多な本を次から次へと読んでいく。
やはり本を読むのは楽しい。最近ではこれ程しっかりと文字に溺れることはなかっただろう。しかし、それはそれとして思う。
「近くない?」
「そう?」
「うん」
そう、大分近い。慣れない距離に目を有らぬ方向に向け、額やら背中やらに汗を滲ませる。顔を横に向ければサクヤの顔が直ぐそこにある、そんな距離感である。
「でも一緒に本読んでるんだから仕方ないっていうか…」
「……そうなんだけど」
「イヤ?」
「……そういう訳ではないんだけど。落ち着かないんだよ。君は美人だからさ」
「……ユウくんって、そういうこと誰にでも言ってるの?」
「まさか。君が美人だと思ったから言ったんだ」
「…………うん?うーん……」
時が経ち、サクヤのユリアスへ対する呼称は変わった。最初は親しみを込めて『ユーリさん』と呼んでいたのだが、『さん』は少し距離を感じて寂しいと伝えると、『ユーリくん』へと変わり、そしていつの間にやら『ユウくん』という呼び名へ移り、今ではすっかり定着してしまった。不満はなくとも擽ったく、ユリアスは本を持ち直す事でむず痒さを隠した。
「こうしていると昔の事を思い出すな」
「昔のこと?」
「ああ。ナナイア…俺の幼馴染みが、良く本を読み聞かせてくれたんだよ。変わった奴だった。俺より二つ位しか歳が上じゃないのに、やたらと頭が良い奴で、よくもう一人の幼馴染と一緒に本を読んで貰ったんだ」
「その人も本が好きだったの?」
余程本が好きなのか、目を輝かせて聞いてくるサクヤが少し微笑ましく、ユリアスは思わず口元を緩ませた。
「相当な本好きだった。よく自分の身体の半分は知識でできているとか言っていたな。年齢の割に大量の知識がある変なヤツだったよ」
「へぇ…そのナナイアさんって人は今何をしてるの?」
「……どうだろうな。随分長いこと会えてないからな。元気にしてるなら、それで良いんだけれど」
ナナイアに会いたいという気持ちはあるが、今彼女の居る場所をユリアスは知らない。後は同じく居場所の分からないもう一人の幼馴染みこと、フィリアの顔を見たいとも思っているが、そうもいかない。居場所も知らないで探し出す事は、中々出来るものではない。
それでも、何年も会っていないからといって、彼女達を大切に思う気持ちが薄れた訳ではない。特に、フィリアとは将来を約束された仲でもあった。フィリアの伯爵家も、ユリアスの男爵家も亡んだ今、その話は立ち消えてしまったが、ユリアスはそのつもりだったし、彼女との仲も、只の幼馴染みでは済ませない程には良かった。それ故にフィリアには是が非でも会いたいが、やはり現状、そうもいかない。
「よし、取り敢えずこの本の続きでも…………あ、この魔物とは戦ったことあるな」
「え?ほんと?どんな感じだったの?」
サクヤとただ他愛もない話をして、一緒に本を読んで、それに対してまた話す。そうしている時のサクヤは明るく魅力的で、それを見ていて悪い気はしない。彼女との談笑を楽しむ、なんてことはない昼過ぎの、温かな平穏をユリアスは味わっている。
今は、エリーが用意した、ユリアス好みの真っ赤な紅茶を飲みながら、分厚い魔物辞典を一緒に読んでいた。
「……コイツらは陸生の癖にいざとなったら飛ぶから厄介だったな…。退化した翼に魔力を集めて、こう、ぐわっと」
「へぇー。飛べるとは書いてあるけど本当に飛べるんだ。地竜とは大違いだね」
「確かに。どっちも元々は空の魔物だったのにどうして違いがあるんだろうか」
ユリアスが冒険で対峙してきた魔物についてや、魔王城近くに棲まう魔物について。互いに互いの知識や経験を元に話し、話を振られたエリーが偶に補足を入れる。
そうやって会話に花を咲かせている所に、コンコンと扉を叩く音と、続く入室を許可する声と共に、ディアゼルとユキが現れた。穏やかな笑みと額から覗く二本角、『鬼』と呼ばれる種族出身であるユキは、ディアゼルの妻の一人であり、ユリアスの治療を担当する医師でもあった。
「ユキさん。こんにちは」
「ええ、こんにちはユリアス様。どうですか、お身体の方は。随分と無理をしてきたようで……体内魔力の質の偏りも、大層酷かったですけれど」
「大丈夫ですよ。魔力の澱みは確かに酷いですけど、身体の傷の方は特に問題ありませんから」
「そんなわけは………いえ。本当、ですね……」
きょとんとした顔を浮かべるも、また直ぐに先ほどと同じ微笑みを取り戻すとユリアスの右腕を握る。そのまま治癒が早まるよう最低限の魔力を流し込むと、再び不思議そうに首を傾げた。
「たった四週間でこれとは……。人間とは思えないほどの素晴らしい治癒力ですね。これならもう直ぐに完治するでしょう。………内臓にまで届いていたはずですけれど……不思議なものですねぇ」
まじまじとユリアスの腕を眺めるユキの肩先を、サクヤが遠慮がちにつついて気を引いた。
「ねえ、ユキさん。ユウくんの傷は大体治ったんでしょう? なら、ユウくんと一緒に行きたい場所があるんだけど……いいかな?」
サクヤの申し出に、ユキは一瞬面食らったような顔をすると、また直ぐに和やかな笑みを浮かべた。
「ええ、良いですよ。ですが、あまり遠くはいけません。それに、完治しても数日は様子を見ますから、ユリアス様もそれは承知して下さいな」
「ええ。ありがとうございます、ユキさん」
ユキにここへ来て幾度目かの礼を告げると、ユリアスはディアゼルの方へと身体を向ける。ディアゼルは週に一度、この城から抜け出してどこかに行っている。それ以外の日はほぼ毎日のようにユリアスの容態を見に来て、会話をしては去っていく事を繰り返している。だが、どうやら今日は違うようだ。
「それで…ディアゼルさんはどうしたの?」
ベッド脇の椅子に座るサクヤの質問に、ディアゼルはいそいそとテーブルと椅子をベッドの側まで運ぶと、木の板でできた何かと、同じく木でできた小さな箱を用意し始める。ぱっと見たところ小さな箱に入っているのは何かの駒…だろうか。
「いやなに、ユリアス殿も姫もそろそろ退屈になってきたであろう?」
「そうでもないよ? ユリアスさんとお話しするのは楽しいし、本もあるから」
「まあ、それでも良い。話のタネは幾らあっても良いだろう。してユリアス殿、『ソワレス』、そう呼ばれるボードゲームなのだが、嗜みはあるだろうか? 人界でも有名だった…と記憶しているが」
「……触ったくらいなら一、二回あるな」
それこそ十数年前、まだ貴族の子息だった頃に少し触ったきりだ。ここ十年は休む間も無く魔物討伐に出ていて、ルールは覚えているが、殆ど初心者と変わらない。
「……ふむ。まあ良い。それほど難解なルールでもない。一局付き合って頂きたい。如何か?」
「良いけれど、しかし俺なんかではディアゼルの相手にもならないだろう?」
「む…無論、ルールも教える。……どうだろうか」
いやしかし、と渋ろうとするユリアスと追い縋るディアゼル。そこに、朗らかに微笑むユキがからかうように笑って告げた。
「ふふ…ユリアス様、夫はユリアス様がこの城に来てから、ずっと浮き足立っているようなんです。今日だってユリアス様に相手をされたくて、あんなものを用意したんですよ。どうか相手してやって下さいな」
「待っ……ユキ」
「……ディアゼル?」
「………」
厳つい顔をさらに顰めてそっぽを向くディアゼルは人間的で、伝承に伝わる最悪の悪魔とは似つかない。最初は無機質に映った赭い瞳も、今では人間的な温かみを見出せるようになってきた。
(案外、警戒する必要もないのかもしれないな)
そのまま黙ってボードゲームを仕舞おうとするディアゼルを止めて、小箱から取り出した駒を指先で摘み上げる。見慣れない、ワーウルフを模した駒だった。人族と魔族では駒のデザインも変わるのだろう。
「サクヤも一緒にやらないか?」
「うん。混ぜてくれるならやりたい。良い?ディアゼルさん」
「無論。となると、ユリアス殿……」
「ディアゼル、ルールを教えてくれないか? 随分前にやったきりだからな。相手にはならないだろうけど…それはすまない」
「……良いのか?」
「もちろん」
同情させたと思ったのか一瞬複雑そうな顔をしたが、それでも直ぐにくしゃりと笑うと、ディアゼルは駒を並べ始めた。
勝てない。もう全くもって勝てない。勝てる兆しすらない。流石というべき悪魔公の頭脳に、ユリアスの腕では欠片も歯が立たなかった。
最初に誘ったが断り、観客に徹していたユキは、欠片も手加減をしないディアゼルに呆れてため息を吐く始末だった。
ルール自体はそこまで難しくない。十×十の盤面を、それぞれ役割りを持った駒が敵と味方の一対一に分かれて合い争うゲームだ。互いに使える駒の数も種類も同じで、色のみが異なる。行動範囲が広く、敵を飛び越せる竜騎兵は戦闘力を失う代わりに仲間を一人運送できる。他にも一度きりしか使えないが、隣接した2マスの敵に攻撃できるスペルなど。弱い代わりに数が多い歩兵も侮れない戦力だった。
駒もスペルも多くないため、役割を覚えればゲーム自体はできるだろう。それでも。
「強っ…」
「あなた、大人げないですよ」
「……む。どうした、ユキ」
「…………なんでもありませんよ」
思考を極限まで盤面に注ぎ込ませるディアゼルに苦笑すると、ユキは席から立った。
「ユリアス様、私はこれで失礼します。そこの悪魔の相手をまともにする必要はありませんからね。………そうです、姫君とユリアス様、二人がかりで相手をすればどうです?」
「それは流石に……」
「あなたはどうです? 負けるかもしれませんけれど。姫君とユリアス様、同時に打つのは」
「良いだろう」
負けず嫌いを発揮したディアゼルと、ユリアス、サクヤの二人組が打つ事になったのを見届け、ユキは今度こそ部屋から出て行った。
「ここに竜騎兵とかどうだ? そうすればこの隙間にも間に合うと思うんだけど」
「でもそうすると今度はここが不安定になっちゃうから……」
ひそひそと相談する二人を前に、ディアゼルは悠然と腕を組む。結局スペルを使用したが惨敗し、その次の試合は喰らい付くもやはり敗北した。
慣れないゲームに疲れはあったが、それ以上に「楽しめている」ことをユリアス自身意外に思い、ひっそりと笑った。
「………それでは、ここいらで休憩としようか」
「……勝ち逃げするのか?」
「まさか。ならばもう一局」
気がつけば随分と時間が過ぎたようだった。
終局を匂わせるディアゼルと、彼を煽るユリアス。その煽りにディアゼルが嬉々として乗ろうとした時、サクヤの側で控えていたエリーのなんとも言えない呆れたような声が響いた。
「閣下。もう直に夕食の時間になります。ユキ様がお叱りになられますよ」
その言葉に、ディアゼルの表情はしおしおと萎んでいく。やはり大悪魔といえども女房には勝てないということか。ユリアスが見てきた中で、ディアゼルがユキを口論で打ち負かしていたことがない。むしろ敢えて抵抗せずに負かされる事で口論を避けているようにも見える。それが夫婦円満のコツなのか、それとも単にユキが怖いのか、それは分からなかったが、二人の仲が良いのは事実だった。
「……仕方あるまい。それではユリアス殿、また明日伺いに参る」
「ああ。また明日」
ディアゼルが退室すると、その後を続くようにエリーが夕食を取りに部屋を出る。ユリアスとサクヤの二人きりになり、サクヤの視線が改まってユリアスへと向けられる。観察するようにためつすがめつユリアスを眺めると、サクヤは安堵と喜びに頬を緩めた。
「ユウくんの傷、全部じゃなくても、殆ど治ったんだよね。よかった、本当に」
「君のお陰でもある。ありがとう、サクヤ」
ユリアスの快調を我が事の様に喜んでくれるサクヤに目尻を細めていると、その言葉に思い出す。そういえばユキと話していた時に、サクヤが気になる事を言っていたのだ。
「さっき…と言っても結構前だけど、サクヤがユキさんに外出をして良いか聞いていただろう? サクヤはどこに行きたいんだ?」
遠出は出来ないのだから、城から出るということはないだろう。加えてサクヤはそもそも城から出られないと言っていた。彼女の思う行き先が見当もつかない。
ユリアスの質問に、あ、そういえば、と目を丸めると、彼女はどこか悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「実はね、案内したい所があるの……明日、時間貰っていいかな?」
楽しげに告げられたその言葉に、ユリアスは疑問を覚えながらも頷いたのだった。
悪魔の礼節について:
今までは人狼や吸血鬼における礼儀作法について見てきたが、ここでは悪魔の礼節について解説していきたい。まず第一に、彼らはとても強大な存在であるということを念頭に置いておいていただきたい。それがどれだけ下等な悪魔であれ、最低限Bランクの強さを持っている。その力を恐れているのは、私たちヒュームだけではない。彼ら自身もまた、その力が己に向く事を常に恐れている。彼らは常に剥き身の刃を持っているのと同じなのだ。であるから、彼らは互いが互いに敵対の意思が存在しないことをアピールし合わなければならない。
そこで取られた手段が『変装』である。彼ら悪魔は半精神生命体であり、肉体の形は生命維持において、あまり重要視されていない。彼らは角を隠し、尾を隠し、羽を隠し、弱々しい人間のように振る舞う。それによって自身の無害性を証明しているのだ。特にそれは強大な上位悪魔達の間で顕著に見られ、逆に下位の悪魔達はありのままの姿で過ごしている事も多い。
『魔族文化のそれぞれ』 オルト・ワーグナー著 より一部抜粋