11 錯乱ボーイ
「……………」
視界いっぱいに見覚えの無い模様が広がり、知らない匂いが鼻奥をくすぐった。背中がどうにも奇怪な、焼きたてのパンのような、弾力に富んだ物体に包まれている。薄らと湧き上がる疑問を据え置いて、ユリアスは心地良い感覚にしばらく放心したように呆けてみせる。
(どこだ、ここ)
魂界だろうか? しかし魂界にしては豪華な飾り付けだった。ユリアスの視線の先には薄い灰色をベースに、蔓や蔦、剣や爪を模った紋様が、品良く描かれているのが見える。これではまるで天界だ。自分が行くなら冥界だろうにと、ユリアスは訝しむ。
ここがどこで、何がどうなっているのかも分からない。だが、良い気分なのだ。折角だからこのままもう一眠りつけと、脳の端っこが囁き、誘う。
瞼が落ちきるその前に、紋様の群の中心へ、ユリアスの蒼目がゆっくりと流れていく。そこには、様々な魔物を簡略化した模様が円陣を組むように並び、その中心に見覚えのある青色の紋章が彩られているのに気が付いた。
×字に裂けた切り傷を思わせる、青い紋章。その正体に頭を巡らせ、思い出す。確か、それは、魔王の紋章だ。
「…………………!??」
そうだ。あの、眼前の模様は、天井だ。そして背面を覆う感覚はベッドのもので、ユリアスは今、建物の中で横になっている。
漸く現状の異常性を認識し、勢い良く跳ね起きた。その際ユリアスの体に鋭い痛みが走ったが、そんな事は些細な事だ。
ここが何処か、それだけが重要だった。
「ッ……生きている………?」
記憶を裏返し、ブラックアウトする寸前の瞳に留めた映像を再生する。霞んでいた視界で正確性には欠けるが、城壁と天を貫く建造物、それらを隔てる堀の手前、廃墟の中で倒れた筈だ。思い返せば、全身に傷を負い、両脚をガラクタにし、止めどなく血液が流れ出していた。正しく事が運んだならば、ユリアスは既に死んでいる。なのに、なぜ。
可能性として思い当たるのは、やはり一つ。誰かに助けられたのだろうか。しかし、誰が魔王城の前で死にかけていた男を助けるというのか。
(まさか)
混乱の最中に浮かんできた答えを有り得ないと打ち消すが、現状を見るに予想は正しいのだろう。考えたこともなかった展開に、額に手を当て嘆息する。何がどうだか分からない。混乱と貧血で、ボロ布とそう変わらない脳みそが、持ってはいけない熱を持ち始めている。
「………」
目を瞑り、深呼吸を繰り返して、状況を整理しようと努力する。辺りは見知らぬ景色で、身体は重い。頭痛はない。耳鳴りも止んでいる。頬に受けた傷はどうなったことやら。喉奥は乾き切り、唾液が口内を潤すのにはもう少し時間を要しそうだった。身体は清潔に保たれており、目脂も拭き取られているのか、瞬きは無難に行える。魔力の流れは、健全な状態と比べれば遅いけれど、それは一年ほど前から変わらない事だ。
首は辛うじて動くが、腕も足も反応が鈍い。特に左肩から先は感覚が欠損しており、腕は付いている事だけが辛うじて察せられる。加えて、左腕と両脚をギブスで巻き支えられ、とても動ける状態ではなかった。
己の肉体に意識を向けて、たっぷり十分程経っただろうか。ユリアスは目を開け、もう一度息を吸い、そろそろと吐き出した。
「……ここは、どこなんだ?……」
吊るされたシャンデリアがキラキラと輝き、ユリアスの瞳の中で瞬く。己の身体を見下ろせば、身を包む白衣すらしっかりとした生地で織られていることに気付いた。
全くもって現状が分からない。嘆息するユリアスの耳に、人の声が届いた。優しく、涼しげで、耳に染み入るようなそれ。釣られてそちらに目を向け……
「ぁ……」
思考力の全てを失った。
恐ろしいほどに美しい少女の姿が、ユリアスの意識を吸い込み、捉えた。
美しい、幽艶な少女だった。光を放っているかの様な漆黒の髪に、光を吸い込み、見る者まで放さない同色の瞳。僅かに幼さを残す、楚々とした顔は絶妙な均衡を保ち、薄桃色の小さな唇は可憐かつ、その肌は真珠のようで肌理細かい。華奢な身体付きで、ここから見ても分かる程にその腰は細く、儚げな印象を持たせた。
そしてそこに加わる微かな色香。清楚と無垢の中に一摘まみの妖艶さを見せる少女は、人間離れして美しい。年の頃十八ほどの少女でなければ出せない艶がある。背筋が凍え、思いがけず張り詰めるほどに、美しい少女だった。
彼女は、窓辺にて木製の椅子に座り、霧に反射し揺れ動く陽光を浴びている。緑と青色の妖しげな蝶型の虫と戯れる少女に、ユリアスは柄にもなく見惚れていた。
それがどうにも妙だった。ここが何処かも分からないというのに。見惚れている暇など無いはずなのに。この少女が近くに居る、只それだけの事で安心すらしている。ひどく曖昧でひどく抽象的ではあるが、ユリアスはその理由は何となく察していた。彼女を近しく感じているのだ。何処か近しい、自分の分け身、或いは写し身のような、そんな感覚を覚えていた。
「……アレクノイ?」
細やかな声がユリアスの耳元に流れ着いた。どうやら、彼女の周りを遊ぶように飛んでいた蝶が、他の虫に捕らえられてしまったらしい。
その虫はアレクノイ。他の虫に取り付いて魔力を吸う事で成長する、くすんだ茶色の虫だった。その際、吸い取る魔力は少量だが、それだけでも魔力の弱い虫は死んでしまう。成長後のアレクノイは益虫であるサカヒネを好んで喰らうため、害虫とされる虫でもある。現に、アレクノイに取り付かれた蝶は悶え苦しみ出した。
その時、蝶に取り付いたアレクノイが、突如として蝶から離れた。その不自然な挙動に、ユリアスは眉を揺らす。
「…【眩惑】の魔術か?」
少女の身体から魔力の動く気配を感じた。恐らく、少女が【眩惑】の魔術を用いてアレクノイを操り、蝶が殺されることを止めたのだろう。
しかし、【眩惑】とは人間の持ち得ない、特定の種族固有の妖術だ。無論、単に霊術を用いた可能性もあるが、通常人間が霊術を使用するには詠唱を必要とする。彼女の魔術は無詠唱であった事を考えるに、ただの魔術師の可能性は低い。彼女が妖術使いであるならば、人間ではない。あるいは、無詠唱での霊術行使が可能なほどの術者であるか。
「……ごめんなさい。わたしが分けてあげるから……」
そう、アレクノイに囁いた少女の指先から、緑の魔力が溢れだす。それはアレクノイへと向かい、緑の魔力を吸い取ったアレクノイは満足したのか去っていった。
「あ………」
そこで彼女もユリアスの存在に気付いたのか、慌てて膝元の本を畳む彼女と目が合った。その目には、深く静かで穏やかな森のような、不思議な落ち着きがあった。
「あ……その、起きられたんですね。良かった、です」
そう言った彼女は、先程までの人間離れした、居るだけで圧倒される様な空気とは打って変わって、あどけなさを漂わせている。かと言ってその見目が変わった訳では無い。ユリアスは惚けてまともな返事を思い付けないでいた。そのまま彼女を見ていると、ベッドの側まで近づいてきた彼女がユリアスの顔を覗き込んで、言った。
「大丈夫ですか───?」
「─────」
虚を突かれた気分だった。驚きに、一瞬、瞳が見開かれたのを、ユリアスは自覚した。
それは、意識の外にあった、そして暫く耳にしていない言葉だった。言葉とは魔術だ。魔力など用いない純粋な一声が、深くユリアスに沈み込んだ。身体の安否を問われただけなのに、身体と意識を強く結んでいた鎖の様な何かが、解けそうになる。
その何かが完全に解けないように、顔を俯け、目を瞑った。
「あ、あの……?」
目を開けて顔を上げると、もう一度彼女と視線がぶつかった。ユリアスの目つきは非常に悪い。鋭い目つきはもちろん、その隈と整った顔立ちが、より陰険そうな印象を際立たせている。やはり、相当酷い目をしていたのだろう。気圧されたように、彼女はじっとユリアスを見詰めていた。それはユリアスも変わらない。肝が凍えるほどの美しさに、彼女を見る他にやるべき事はないようにさえ思えた。
奇妙にも、それは数秒に渡って続けられた。視線を魂ごと縫い付けられたように、互いに互いを見つめ合い、視線を一つにしていた。そして五つ数えた硬直の後、ようやく金縛りから解けた少女は、肩を揺らしてあたふたと話し出す。
「ごめん……なさい。何か、してしまいましたか? すごい怪我をしていて、気になって、それにすごく疲れていたようだから、その」
「……いや、なんでもないですよ、お嬢さん。大丈夫です」
少し取り乱している様子からは、やはり最初の凄味を感じさせる雰囲気は無く、ユリアスはそれに軽く安堵する。だが、辺りを見回し現状を再確認した事で不安の波紋が広がっていく。嗅いだことのない空気の匂いに、見覚えのない部屋。微かに聴こえる鳥の様な鳴き声も、肌に触れる空気の温度も、大気に満ちる魔力の偏りも身に覚えに無い。五感全てが不安を呼び起こしていた。とりあえずは己の足で確かめようと、腰を浮かせ、身体を本格的に動かそうとする。
「ただ……ここは何処なんでしょうか。そして何で私はここに?それに……そうだッロイクは……!?」
その瞬間、再び身体を貫いた冷たい熱に息を荒げる。心臓がキリキリと悲鳴を上げ、頭が丸ごと粉々に砕けたかのような感覚。身体の中心に通った芯が融解したような錯覚に、呼吸が泳ぎ、口がまともに開かない。痛みを認める毎に激痛は増し、一息に押し寄せてくる。
混乱し、歯を食い縛るユリアスに少女は落ち着くように諌める。
「なんだ、これ…っ」
「落ち着いてください。まだ、怪我は治ってないんです。大丈夫ですから。質問には後で答えますから。目を閉じて下さい。ゆっくり、力を抜いて」
身体を捩り、荒い息を吐くユリアスに少女はそっと慰めた。手を握りながら、懸命にユリアスの目を見つめている。
身体中から力が抜けていく。激痛に全身を刺され、瞳の奥も割れるように痛い。魔力が足りない。骨髄が刺されたように痛む。魔力の生成を急ぐ心臓が、速く強く鋭く鼓動を刻み、刻み、刻み続ける。意識が重石を付けられたかのように強引に落ち込んでいく。
「少し寝るだけですから。安心して下さい」
その台詞を耳に、ユリアスの意識は再び暗く染まった。
◇ ◆ ◇ ◆
「おはようございます。今度は無理に動いたりしちゃダメですからね。まだ、全然治ってないんですから」
ユリアスの顔面を、絶世に顔の良い少女が覗き込んでいる。その少女にまともな反応返せないほど、体中が痛い。恐らくは、気闘術の使い過ぎによる反動が原因だろう。
心配そうにこちらを見ている少女は、悪意にばかり触れてきていたユリアスには少し新鮮で、心臓が悪い音を発てていた。麗しい愁眉に当てられくらくらとくる。まるで純情な少年のように感情が荒れ、動揺していた。
「………」
ベッドは最高級のものだろうが、傷のせいで寝心地は最悪だ。どんな体勢を取ろうと致命的な痛みが走る。楽な姿勢というものがないのだから、ただただ痛みに耐え続ける他ない。
最初に目覚めた直後はこうでもなかったというのに。立ち去る気配の見えない激痛に、ユリアスは喉奥から押し出すように、重い溜め息を吐いた。
しかし、情報を得れば得るほど、益々もってここがどこだか分からない。目を巡らせればユリアスの瞳に映るのは赤い絨毯、植物を象った模様の刻まれた壁。宝石細工のようなシャンデリアに、高価である事の伺える机、椅子。
そのいずれもが見覚えがなく────見覚えはない、はずなのに、胸の奥深くが覚えている気がする。
見覚えは、ないのだろうか。本当に?
だが、そんな違和感・既視感も直ぐに少女の怪訝そうな声に掻き消えた。
「………どうかしました?」
「…いえ、申し訳ありません。先程は情けのない姿をお見せしました。……えー、私の名前はユリアスと言います。以後、よろしくお願いします」
「あ、はい。私の名前はサクヤと言います。こちらこそよろしくお願いします。あと、気にしないで下さい。目を覚ましたら知らない場所に居たんですから」
「ありがとうございます。そう言って頂けるだけで少し、気が楽になります。………して、何とお呼びすれば良いですか?」
言うと少女改めサクヤは首を振って否定する。どうやら何かが余りお気に召さなかったらしく、その形の良い眉を困った様に曲げた。
「そんなに丁寧じゃなくて良いですよ。普通にサクヤ、と呼び捨てで呼んでくだされば。敬語も使わなくて大丈夫です」
「……なら、ありがたくそうさせてもらうよ。俺の事は…適当に呼んでほしい。あとそちらも敬語はやめてほしい。可能なら」
「えっと、そう? なら、遠慮なく……いつも通りの話し方でいく、けど……これで良い?」
「ああ。お互いこれでいこう」
サクヤに軽く頷いて、ユリアスは用意していた疑問を頭から取り出す。一度深く息を吸い、浅く吐き、覚悟を決めると、きょとん、としているサクヤに向き直った。
「その、サクヤ。聞きたい事があるんだけど……良いかな」
「あ、うん。さっき言ってた質問だよね?」
「そうだ」
「えーっと先ずは『ここは何処か』、なんですけど……コホン、えーっと、じゃあ、そのユリアスさん。早速なんですけど…その、怖がらないで聞いて貰えると……」
「ああ」
背筋を伸ばし、改まって発せられた注意を促す言葉。それに一抹の不安を感じながらも頷く。緊張に喉の発てた音が、頭蓋に響いた。
「……ここはいわゆる純人の人達が言う、その、『魔王城』なんです」
「…………」
言い難そうに告げられたそれにユリアスは閉口した。ここが悪名高き魔族の根城、『魔王城セインドロゥ』だとは俄には信じ難いが、それでも状況証拠は揃っている。天井に描かれた魔王の紋章、それから気を失った時の状況を考えると荒唐無稽だと一笑に付する事は出来ない。加えて、薄らと予想していた事でもあった。
「……よし。なら、ここが魔王城だとして何で俺は魔王城に居るんだ?」
「…思ったより驚かないんだね。ユリアスさんは、自分が倒れた時のこと覚えてる?」
「ああ。確か……廃墟の中で倒れて……」
「うん。それから、堀の向こうに城壁とお城が見えたでしょう? 今わたしたちがいるのは城壁の内側なの」
「……」
「あと、ユリアスさんがここに運ばれた理由なんだけど、単純に倒れてたから連れて来られたみたいだよ?」
「──はぃ?」
ユリアスの口から、間の抜けた声が漏れ出した。魔王といえば御伽噺では最も有名な悪役であり、その配下たる魔族もまた悪意に塗れた存在と聞いている。物語故の誇張はあるだろうが、純人族と魔族が敵対関係にあることは曲げようのない事実だ。
その魔族が、倒れていた、という理由だけで人間をここまで連れて来ると言うのだろうか? もしかしたら、魔王とは無関係な人物がユリアスを助けた、という可能性もなきにしもあらず。
理由は様々考えられるが、どれもイマイチ納得いかなかった。
「その俺を拾って来た人物?魔物?はどんな存在なんだ? 魔王と何か関係があるのか?」
「うん、もちろん。前の魔王の配下だったらしいから、魔王の関係者って言えると思うよ」
「……そうか」
また一つ謎が深まってしまった。どのような経緯、理由で助けられたのかが全くもって予想できないのだから気味が悪い。その前魔王の配下だったと言うヒトは人間に対して友好的なのだろうか? それともただ単に性格が穏やかな好人(?)物なのだろうか?
だが何よりも、心中の不安を占めるのはロイクの事だ。目の前の少女からは欠片も悪意を見出せない。謀略などなく、ただ単に助けられたのだとしたならば、ロイクは無事だろう。それでも心配は拭えなかった。
「……なら、俺の剣と時計、何よりロイクは? 無事なのか? 無事だとしたら今何処に…あぁ、ロイクっていうのは黒くて小さい、紫の眼をした黒猫だ。可愛らしい見た目をしているから、見たら分かる筈なんだ」
「装備はちゃんと保管してあるって、ユリアスさんを助けた人が言ってたよ。それから、わたしの認識が間違ってないなら、そのロイクっていう子は起きてからずっと中庭でご飯貰ってたけど……」
「…………………そう…」
何やってるんだよ。俺の憂慮を返してくれ。
その言葉を飲み込んで、代わりに溜め息を伸ばした。確かに安心したが、安心すると同時に何かどうでも良くなってきた。訳の分からない事の連続でキャパオーバーしたとも言う。とりあえずは思考を放り投げ、痛みにうんうんと唸る事にした。
暫くうーうー言っていれば、大分痛みにも慣れて、思考を他に割く余裕も出来てきた。そんな折、サクヤの手に持たれた一冊の本、その題名がユリアスの目に留まった。
「『魔術師ローグの足あと』……?」
それは、数ある冒険譚の一つだった。偉大なる賢者ローグの旅路を、彼の末弟子にして半人前の魔術師アルウィンが辿り、成長していく物語だ。アルウィンは、ある日唐突に弟子達の前から消えたローグから、魔術の秘奥を教わろうと、彼を追うようにして旅に出る。そこで多くの仲間たちと出会い、共に旅をする内に、彼の望みは魔術の秘奥ではなく、ただ一言師へと感謝の言葉を届けることへと移り変わっていった。そんな話である。
人気もなければ有名でもない。そんな冒険譚をユリアスが知っていたのは、昔、まだ貴族の子息として暮らしていた頃、屋敷に置いてあったそれを読んだことがあったからだ。今となっては娯楽目的に本を読むことはなくなったが、元々読書はユリアスの持つ趣味の一つでもあった。
「…この本、知ってるの? あんまり知られてないってお城の人から聞いたんだけど……」
どうやら目の前の彼女も、ユリアスがこの本を認知していたことに驚きを隠せないでいるようだった。身を乗り出してまで興味を示すその姿が、彼女の抱いた関心の程を物語っている。それにどう対応すべきか、ユリアスの乏しい会話技術では判断できない。可能な限り会話の体は保とうと、緊張混じりに口を開いた。
「ああ、知ってるよ。君は、その本が好きなのか?」
アルウィンはローグに出会い、感謝の言葉を伝えると、仲間たちと共に小さな村を作った。恋人と結婚し、子を儲け、畑を耕し、獣を狩り、命の続く限り村の人々を守ったという。アルウィンが最終的に至った強さは、Bランク程度。才能の壁を超えることも出来ず、あまり大きな成功をした訳でもない。探せば似たような物語はいくらでも見つかるであろう冒険譚だ。それでも、サクヤはその本を愛おしげに胸に抱いた。
「……うん。好きなの。素敵なお話だから。本はなんでも好きだけど、冒険のお話は特に好き。……外の世界に、ワクワクできるから」
熱と質量を持った言葉が、サクヤの唇から零れ落ちる。どうあっても絵画のような出立ちを保つ彼女に、ユリアスの意識は否応もなく絡め取られる。耳を通った言葉を脳内で反芻し、そこでその物言いに疑問を覚えた。
「……君は、城の外に出たことがないのか?」
その問いに、サクヤの顔に僅かながら陰が落ちた。今まで明るく話していただけに、それが例えほんの微かな曇りであっても、目立ち、際立ち、目を引いた。
「うん、わたしはここから出られないから……」
「それは、どういう……」
「うーん……何でもない」
サクヤは誤魔化すように表情を隠すと、直ぐに顔を上げ、明るく笑った。その仕草に、触れてはいけない話題に触れてしまった事を察した。だが今更声を呑み込む事は出来ない。これ以上余計な事を言うまいと、口を閉ざす事しか出来なかった。
「気にしないで。ユリアスさんはちゃんと出られると思うから。まずは安静にして身体を治してね?」
そう、安心させる様に言った彼女の瞳の奥から窺えるのは、確かな寂寥と諦観、そして怯え…だろうか。少女がいつも笑顔で隠しているであろうモノを引き出してしまった事にユリアスは深い後悔の念に囚われた。
間違えてはならない間違えを犯した気がして、軽く唇を噛んだ。
「……申し訳ない。深く知りもしないで無神経な事を言った」
「大丈夫だよ。気にしないでいいの」
「……そうか」
「うん」
そう言われて、ユリアスが言える事等有るわけがない。これ以上言っても自己満足で終わり、彼女を傷付けるだけかも知れない。言葉を無くし、口を噤んで虚空を目でなぞろうとしたその時、ぱっ彼女が顔を華やかせた。
「ねえ、ユリアスさんは外から……森の外から来たんでしょう? なら、外の話を聞いてみたいな。……ダメかな?」
「え……いや、いや。まさか。勿論、喜んで」
想定からずれた提案ではあったが、場の雰囲気が換気されたのは確かだ。持ち上がった空気に安堵したユリアスは、彼女の勢いに乗る事にした。幸い、ユリアスは大陸中をほっつき歩いていた時期がある。彼女の望む話なら、いくらでも話せる気がした。
「ありがとう! でも、これからちょっと用事があるの。……また今度、すぐ会いにくるから。その時はきっと、もっとお話ししようね」
そう言ってはにかみ、笑う顔は可憐で、無垢で、城の外への抑えきれない憧憬に彩られていた。強く、魂を揺さぶられたような気がして、ユリアスは言葉なく彼女を見詰めた。笑っている。彼女は、サクヤは笑っていた。その笑みがユリアスの柔らかな部分を強打した。
(なんだこの娘…なんで笑ってるんだ?)
ヴィオレ以外の人間と真っ当に話した事など、ここ数年殆どない。しかも笑顔だ。言ってしまえば異常事態である。受け付けを想定していなかった反応に、混乱した頭はエラーを吐いた。
(もしかして話すのが楽しいのか?俺と話す事が?)
その笑顔は例えよう無く美しく、ユリアスの網膜に焼き付いた。彼女の純真さは危うい。触れてしまえば、情が移るだろう。得体の知れない少女だ。引くべきだという予感があった。
「どうしたの?」
不思議そうに震える声によって思考の海から引きずり出される。今の自身の状況がまるで掴めず、彼女の反応が気になり、サクヤの瞳を覗き込む。だが、その瞳から窺えるのはこちらへの微かな憂慮。それからはこの少女の確かな優しさが感じられ、ユリアスは困惑に眉を動かした。
『大丈夫だ。どうもしてない』それだけ伝え、一つ、脳裏を過った。ユリアスはこのまま帰られるそうだ。だが、この少女はどうなのか。そんな事が思い浮かべば、迷いが出るのは当然だった。
数瞬の間悩んだ末に、ユリアスは奥歯を噛み締め、拳を固く、握り締めた。
「サクヤ、俺が、君を………」
助ける。そう言おうとして、我に帰った。
どう考えても、初めて会った少女に投げる言葉ではない。そも、何から彼女を助けると言うのか。どうかしている自分と、目を丸くする彼女に、誤魔化し笑いを浮かべた。
それに、己の身の未熟さも無力さも、痛感していた。ユリアスには、オークやオーガに襲われた女性さえ助けられない。そんな自分が助ける等と、烏滸がましいにも程がある。
僅かに首を傾げて、不思議そうにするサクヤに、貼り付けた笑みで取り繕った。
「いや、何でもない」
「そう?」
胸の軋みを代償に、『そうだ』という一言だけを口に出して、自分のやるべき事を考える。そう、先ずはこの城から出て、帰らなければならない。大深淵から街へと続く道を知る必要がある。だが、それを言うにはまだ早い。要求する前に相手を知って、それから出方を考えるべきだ。
「サクヤ、俺はこの後どうなるんだ?」
「とりあえず傷が直るまではこの城にいてもらうことになるかな。この城にいるヒトたちも皆んな優しいから、今は安心して、休んでてね?………動いちゃ、ダメだからね」
「分かった」
念押す彼女に頷く。看病してもらえる、というのは信じていた。他ならぬ彼女の言うことなのだ。ただ、それだけでユリアスはそれを信用しきり、疑う事すらしなかった。
「きっとそろそろユキさんっていう、ちゃんとした治癒術師の人が来て、症状を教えてくれると思う。だから、それまでちょっと待っててね」
「ああ、大人しくしてるよ」
「うん。それじゃあ、直ぐにまた会おうね」
その言葉を最後に、サクヤは扉前で待機していたメイドと共に部屋を出て行った。その後ろ姿を見送り、ユリアスは意識して身体から力を抜いた。
何度か体内の魔力を励起させ、魔力の流れが明らかに遅いことを再確認する。戦士としても魔術師としても致命的な状態だったが、今まで散々無茶をしてきた代償であるのだから、どうしようもないと諦めて受け入れた。魔力の把握にも飽きてベッドの上で寝ていると、どうしても思い出す事があった。
それはこの依頼を受けるにあたって一緒に動向したパーティーメンバーの事だ。トニラ、ハロルド、ニーギスの三人。最後にはユリアスを囮に逃げ出そうとした三人だ。彼らは全員ロイクに殺された。それに感謝こそすれ、咎めるつもりはない。やられたなら、やり返し切らなければならない。冒険者とはそういうものだ。そうでなければ生きて来れなかった。今までだってそうして生きてきた。これからもきっと、同じような生き方をしなければならない。それに思い至り、憂鬱に呼気を揺らし、無気力に眼を閉じた。
「………」
瞼の裏に得た暗闇に思い描いたのは、サクヤの事だ。
サクヤは、ユリアスに対して嫌悪も侮蔑も向けて来なかった。ヴィオレもまたユリアスに好意的に接するが、彼女はあれで、ユリアスと深く関わり合おうとしない。彼女の存在にユリアスが助けられているのは事実であるし、その気持ちにも偽りは無い。ヴィオレとサクヤの間にある違いは、ユリアスに対する怯えの有無だった。
(俺が、彼女を助ける…?)
喉から漏れかけた言葉をなぞる。何故あのようなことを口にしかけたのか。それはきっと、彼女はただ純粋に、混じり気のない善意をもって接してきたからだろう。それはとても懐かしくて、新鮮ですらあった。
サクヤと交わした約束を思い返す。外の世界の話について彼女に語る約束だ。彼女の事情について知らないのだから、助ける事は出来ない。ならばせめて、彼女の望んだようにしようと決めた。それが、彼女から送られた善意への見返りになると信じることにした。
(……妙な事になったな。でも、次は、もう少し…)
次はもっと会話らしい会話をしようと、話題を整理している内に、ユリアスの脳は疲れに耐えかね暗く染まった。
◆ ◆ ◆ ◆
「む……姫か。改めて聞くが、御客人の容態はどうであった?」
ここはかつて魔王の住まう城、即ち『魔王城』と呼ばれていた城の一室。既に魔王亡き今、この城の主として君臨している大柄な男、『黒』の神宿者『悪魔公』ディアゼルは、部屋に入ってきた人物、サクヤに尋ねた。
「うん。かなり傷付いてて、あの様子だと内臓にまで届いてそうだけど……今直ぐに死んじゃうとかはないと思う。多分ユキさんの応急処置のおかげ。でも、魔力の流れがすごくぎこちなかった。そこが、一番の心配」
ワインセラーと壺や油絵、儀式用の直剣などの骨董品が目立つ部屋が、悪魔の王の私室だ。その部屋の奥、暗色の木材で造られた執務机で、彼は考え込むように顎を撫で摩る。
「原因は分かるか?」
「たぶん……魔境に長く居たとか、薬水を常飲してたとか…外の魔力を体内に取り入れ過ぎてたんだと思う。ほとんど休まず毎日戦ってたんじゃないかな。回復は遅くなっちゃうけど、魔術を使った治療は最低限にした方がいいと思う」
「……そうか。了解した」
サクヤの外見元型兼、前代魔王の妃であった木霊のイツキは、元は世界樹に棲まう大妖精であり、少々特殊な『樹』属性への適性を持っていた。それは回復魔術へ多大な補正をもたらす魔力属性であり、イツキの扱う樹属性魔術は凄まじいの一言だった。サクヤはその特質を継いでいる為に、治癒術師としては一流と言えた。
「それと、少し話した感じだと、良い人そうに見えたよ。お城にとって危険な存在にはならないと思う」
「無論よ。あの御方の魂を継ぐ者ならば心根が悪い訳はない」
神宿者というのは持つ魂によってある性別や性格がある程度左右され、高位の魂であれば、それはより如実に現れる。前世の性格、正確には記憶が、微かではあるが引き継がれるのである。性別で言えば、『魔王』と『覇王』などは確実に男性であるし、『勇者』と『聖王』ならば確実に女性になる。
だが、性格に関しては、どのような魂を持っていようと、生まれてからの経験により如何様にも捻じ曲がる。時として偉大な魂は矮小な悪党に、臆病な魂は誇り高い英雄になることもある。それでも、サクヤの言葉と己の経験から、問題なかろうとディアゼルは判断した。
「ならば、まあ、良いだろう。その御客人にこちらから世話係のメイドを寄越す。その事を御客人にも伝えておいてくれ」
「……その事なんだけど、わたしがお世話しちゃダメかな?」
「……」
室内に、二人の息を呑む音が小さく鳴った。ディアゼルと、サクヤに付き従っていたメイドの発した音だ。珍しいサクヤの要望に、ディアゼルは不器用にも冷淡に応えた。
「そうしたいならば、そうすると良い。要件はそれで全てか?」
「……うん」
「そうか。エリーは少し残れ。話がある」
部屋を出ていくサクヤを見送った後、部屋の入り口からメイドの女の声が響く。深く艶のあるレッドブラウンの髪と、冷たささえ感じさせる薄い茶色の瞳をした、美しい女だった。
「閣下、宜しかったのですか? お嬢様はお優しい方です。お客様の監視は務まりませんよ。お客様の傷が治り、動けるようになった時、もし城の中を無許可で探索するような事があれば……もし、『魔王』の神器である『魔剣』を見付け、あまつさえ触れてしまえば……一瞬で覚醒してしまいますよ? そうなれば閣下の御望みは………」
「良い。あの娘には不自由を強いてしまっている。あのくらいの願いは叶えねばなるまい。それに、姫以外どうでも良いお前のことだ。元より反対などするつもりはなかろう?」
「…ええ。よくご存知で」
二人を微かな沈黙が包む中、レッドブラウンの侍女、エリーは思う。お嬢様に仕える彼女にとって、全てにおいて主たるサクヤが優先される。けれど彼女にも心がある。ディアゼルの本心を疑えないほど、視野が狭い訳でもなかった。
(悪魔の癖して自分に嘘を吐く……不器用なこと)
このメイド、エリーは魔王に対する忠誠度が高い訳ではない。前代魔王には大恩があったが、今代の魔王、御客人にも忠誠を誓っている訳ではない。彼女が真に忠誠を誓っているのは、前代魔王とイツキ、そして二人の実質的な娘であるサクヤのみだ。
しかしエリーとディアゼルは臣下契約によって結ばれている。ディアゼルが主人で、エリーが臣下。本意ではなくとも、契約している以上、エリーはディアゼルの配下だ。その上、ディアゼルの企てた計画も理解している。命令にそぐわない行動は控えるつもりではあるが、それでも思う。それで彼は良いのか、と。
「まあ、何にせよその御客人の様子を確認する必要があるな」
「……そうですね」
「神宿者としての能力を獲得するには、自身がどのような魂の神宿者であるか『自覚』する必要がある。そしてその条件は、前世の記憶が刺激される事。歴代陛下の御様子から考えるに、見せてはならないモノはそう多くはない」
「はい。御嬢様とお逢いになのるも、問題ないかと」
「当然だな。サクヤが生まれたのは先代陛下がお隠れになった後だ。だが、私の身に刻まれた紋章と、魔剣『皇魔』だけは見せてはならない。この紋章はどうとでもなる。されど、魔剣に関して言えば、『魔王』の神宿者が近付く、それだけで魔剣そのものが共鳴し出すだろう。そうなればあの神獣が気づかぬ筈がない。それは、分かっているな?」
その言葉にエリーは頷き、肯定する。その内心がどうであれ、主たるディアゼルの言葉は絶対だ。助言や諫言ならば兎も角、エリーは主の決定と命令に逆らう事は出来ない。そういう契約なのだから。悪魔にとって、一度交わした契約、約束は絶対であり、それを破ることは誇りを棄てる事と同義であった。
「エリー、お主に命令を下す。普段の通りに姫の世話係りとしての役目は継続し、加えて御客人の監視役としての役目も熟せ。万が一にも御客人を神器に近付けるな。あの御客人が魔王陛下であることは確実。そしてその自覚はまだないであろう。だからこそ、そのままでいるべきだ。……あのような、名誉すら許されない死に様を六度繰り返した。七度目など、あってはならない」
「無論です」
悪魔公の曖昧な返事を受けて、エリーは彼の前から退がった。それを確認すると、ディアゼルは過去の記憶に、魔王との思い出の中に落ちて行く。幾つもの栄光が、星々さえ超えて輝かしく思い出される。
右の掌を広げ、じっと眺める。感慨と共に手袋を外せば、その手の甲には、青い紋章が浮かんでいた。色の褪せたそれは、言うまでもなく魔王の紋章である。それを指でなぞりながら、万感の思いを籠め、そして自分に言い聞かせる様に、ディアゼルは呟いた。
「今度こそは何者にも妨げられない、平穏な暮らしを────」
雷について:
『雷こそは白母神のお怒りなのだ。空から降り注ぐ雷は大地を焼き、死者をも出す。それは大いなる母神のお怒りであり、罰である。我々はそれを畏れ、歓ばなければならない。雷の降り注いだ土地は、その後豊饒で、魔力の富んだ豊かな土地へと変わる。雷もまた、天からのお恵みなのだから』
『白聖教典 カグルの書 十三節』 より一部抜粋