第四章<荒野の幻影>第一場(2)
旅立ちの前夜には、ティーオがリューリに伴われて宿舎を尋ね、アルファードに、マッチを手渡してくれた。それは、以前のものよりもっと『あちら』のマッチに近い、使いやすく携帯しやすい改良品だった。
また、ティーオは、マッチの他にも、ふたりのために一種の固形燃料を用意してくれた。それは彼がマッチを発明する際に派生的に思い付いてひそかに研究を重ねていたものだそうで、完全主義者の彼は例によってまだ表立って発表していなかったが、もうほとんど実用段階に入っていた発明品だった。小さな火鉢のような容器に入れて使うもので、焚火と違って天幕の中でも使え、ささいな火力ではあるが薪がなくても朝までゆっくり燃え続けるので、魔法の使えないふたりにとってはもちろん、魔法で火を呼び出せるものにとっても便利なはずの大発明だ。
旅立ちの朝、ふたりは、魔物に弓を引いた無茶がたたってまだ入院していたローイをもう一度見舞った。
ローイは、入院中の身のはずが、まるで新人雑用係のような顔をして、リューリに指導されながら薬草を仕分けする手伝いをしていたが、その手を休めて、こう言った。
「頑張れよ。ほんとうに、一緒にいけなくて残念だよ。アルファード、俺の分も、しっかりリーナちゃんを守ってやれよ。もっとも、あんたがリーナちゃんを守れるのは魔王の城につくまでで、そっから先はどういうふうになるんだかわかんないけどな。あんがい、そういうところではリーナちゃんのほうが強いかもしれねえからな。……そう、リーナ、あんたは強いんだよ。あんたはチビでやせっぽちで、腕力も体力もないし、動きも鈍いし、頭は悪くないのにとっさの時のすばやい判断ってのはまるで駄目で、兎みたいに驚きやすくて、びっくりするとすぐ目をつぶってしゃがみ込んだり硬直して立ちすくんじまったりして、まあ、何かにつけて、使えないっちゃあ使えないんだが……。
……いや、そんなにしょげないで、最後まで聞いてくれよ。それでも、あんたは強いんだ。何も、剣を振り回すだけが力じゃないってことさ。だいたい、あんたの相手は、人間じゃない。どっちみち、腕力やら剣の技やらで勝てる相手じゃねえんだ。まあ、アルファードなんかはそれしか能がねえから相手が誰でもそれで戦うしかねえわけだが、あんたは違う。そんな吹けば飛ぶようなか弱い様子をしてるくせに、あんたには、どこかに何か、しぶとさみたいなものがある。これ、誉めてるんだぜ。どこがどうって言われても困るが、俺には、分かるんだ。あんたは強い。必ず勝って帰ってくるだろう。俺のことは心配いらねえよ。シエロ川での水泳のお楽しみはあきらめて、おとなしく待ってるからさ」
「お姉ちゃん、ローイは本当に大丈夫よ。あたしがついてるから」
「そうよ、あたしもいるし」と、かたわらでキャテルニーカとリューリが口を添えると、ローイは、
「ああ、俺ってなんて幸せものなんだ! こんなべっぴんさんがふたりがかりで面倒見てくれるとあっちゃあ、こりゃもう、元気出さないわけにはいかないね! まったく、ここは最高だあ。こんなにまわり中に美人がうじゃうじゃしてちゃ、口説くのに忙しくて、絶望している暇なんかねえや!」と、明るく叫んで、
「この色ボケ!」と、リューリに小突かれた。
小突かれた頭をさすりながら、ローイは付け加えた。
「それにさ、ほんと、ニーカちゃんがそばにいてくれると、なんか気持ちが楽になるんだよな……。前からそうだったんだけどさ、刻印つけられてからこっち、特にそう思う。これって、なんだろうなあ。リュリュちゃんの魔法が怪我に効くみたいに、ニーカちゃんはなんだか、人の心に効くんだよなあ。いや、もちろんリュリュちゃんだって、こんだけべっぴんだと見るだけで元気が出るけどな。これでもう少しやさしくしてくれりゃあ……」
「ちょっと、どういうこと? あたし、あなたには充分やさしくしてるつもりだけど?」
「ほ、ほら、その言い方が、もう、怖いんだよ」
「あなたみたいなやつは、甘やかすと治らないのよ! あたしが怖けりゃ、さっさと治って退院しなさい。リーナ、あなたが帰ってくる頃までには、こいつをちゃんと社会復帰させとくし、それまでは、あたしがこいつをこき使って、落ち込む暇がないくらい忙しくさせといてあげるから、安心して行ってきてね。ついでに、こいつの軽薄と女ったらしも、少し矯正しといてやるから」
「やめてくれよ、そこを矯正されたら、もう、それ、俺じゃねえよ」と、ローイは本気とも冗談ともつかぬ様子で首をすくめた。
そのあと里菜たちは、城の正門前の広場でユーリオンとファルシーンから激励の言葉を受けた。これは非公式の見送りだから、ふたりとも、<賢人>の白いローブではなく目立たない私服姿だ。が、ふたりがこの日ここで非公式の『出陣式』を行なうのは、<賢人の塔>の職員たちやふたりの仲間たちはみな知っていたから、彼らのまわりにはちょっとした人垣ができていた。みんなは跳ね橋までぞろぞろと見送りについてきて、ふたりに暖かい言葉をかけてくれた。
跳ね橋の前で立ち止まり、見送りの人々と言葉を交わした里菜とアルファードは、最後に、治療院から見送りについてきていたキャテルニーカと向き合った。
キャテルニーカは、あの不思議な巫女のまなざしで里菜を見つめて、ゆっくりと、歌うように言った。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんは、今、とっても魔王のところへ行きたいと思っている。魔王を憎み、魔王と戦いたいと思っている。でも、それじゃ駄目。魔王はね、嫌々生贄になりに来るものは、手に入れられないの。自ら進んで自分のもとにやって来るものだけを、手に入れることができるのよ。今のお姉ちゃんをなら、魔王は簡単に手にいれてしまう。そのために魔王は、わざとローイお兄ちゃんや、リーンや、それに小さい子供とか、そういう、傷つけたらお姉ちゃんが怒るような人を傷つけたのよ。でも、お姉ちゃんは本当は、戦うことなんか好きじゃないでしょ? 本当は戦いを望んでなんかいないでしょ? そのことを、忘れないで。いつも覚えていて。お姉ちゃんは、戦う人じゃない。愛し、育み、あるがままの世界を受け入れるもの。魔王の前に立つ時、そのことを思い出して。ね?」
橋を渡ったところには、一群れの市民たちが、ふたりの出陣を一目見ようと集まっていた。華々しく触れ回すことはしなかったといっても、やはり噂は広まっていたらしい。それでも、旅立ちまでの準備期間が短かったから、まだ噂が爆発的に広まるところまでいかず、この程度の人垣ですんだのである。
期待のまなざしで自分を見つめる人々を前に、里菜の心は痛んだ。彼らは、里菜が家族や友人の仇をとってくれることを期待しているのだが、そもそも彼らに今度の不幸をもたらした遠因は自分なのだ。闇の中での里菜と魔王の会話を聞いていたものはアルファードの他にいないから、誰も里菜が自分たちの不幸の元凶だとは知らないだけなのだ。それを知ったら、ここにいる善良な人々は、里菜に石でも投げつけたかもしれない。
けれども里菜は、ユーリオンから、そういうことを他の人には話さないようにと釘をさされていた。
彼は、こう言ったのだ。
自分は今度のことは決して里菜のせいだとは思わないが、里菜が心配するように、そう考えるものもいるかもしれない。だが、それは八つ当りでしかないし、彼らに事情を告げて里菜を憎ませても、何の役にも立たない。ただ、彼らにますます絶望感を与え、余計な苦しみを負わせるだけだ。里菜は、あくまでも彼らの希望の星でいてやることで彼らの苦しみを軽くしてやるべきだ、と。
その言葉に、里菜は半ばほっとしながらも、そこでほっとしてしまう自分が偽善者のような気がしてやりきれなくなったが、たしかにユーリオンの言葉は正しいのだろう。里菜が今、自分たちの英雄に期待をかけてここに集まっている人々に真実を告げても、誰も今より幸せにならない。
里菜は無理をして彼らに微笑みかけ、なるべく自信たっぷりに見えるようにと気をつかって、小さいながらも堂々とした足取りで橋を渡った。
その時、人込みがざわめきながら左右に分かれて、その中を、三人の黒衣の男が進み出てきた。その姿を見て、里菜は目を見張ってつぶやいた。
「ゼルクィールおじいさんたちだわ! 前からその辺をうろついてたのは、やっぱりあの御一行様だったんだ」
三人は群衆を抜け出して、橋の袂で立ち止まり、そこで、橋の向こうにいるキャテルニーカに軽く会釈した。――もっとも、見物の市民たちは、彼らが見習い治療師姿のちっぽけな子供に礼を取ったのだとは夢にも思わず、その隣に立ち並ぶ賢人たちに会釈したと思っただろうが。
それから、三人は、ふたりの前に進み出て膝をついて礼をした。
市民たちは不審げにざわめいていたが、そのざわめきには、以前からタナティエル教団に対して向けられていたような好奇心や漠然とした警戒心といったものだけでなく、はっきりした非難と憎悪の調子が含まれていた。市民たちは、彼らが今度の魔物騒ぎについて事前にあれこれ言っていたということで、彼らに対して、今まで以上にうさん臭さを感じているのだ。
もちろん里菜は、彼らに今度の騒ぎについて責任がないことを知っているが、市民たちの前で彼らから大声で『女王』呼ばわりされるのは、やはり避けたい。
里菜は、ゼルクィールが大声を出さなくても聞こえるようになるべく近づいた方がいいだろうと、自ら一歩進み出て、老人の目の前に膝をついた。老人は顔を上げて囁いた。
「……女王よ。ついに、時が来たのですね。我等はずっと、この時を待ち続けてまいりました。女王が我等の王を悪夢の中から救いだし、王との婚姻によってふたたびこの地上に神の御代をもたらしてくださるその時――世界が新しく生まれ変る復活の日を。その時、何が起こるのかを、我等はつまびらかには知りませぬが、我等は我等の王と女王を信じて、女王のお帰りを、ここでお待ち申し上げます。どうぞ御無事でお帰り下さいませ。夜の娘御の忠告を、お忘れなきよう……」
「あのね……」と言いかけて、里菜は後の言葉が続かなかった。この素朴な信頼を、どうしてよいのかわからなかった。この、慈悲深いまなざしを持つ温厚でか弱い老人に、『あなたたちの神様はあなたたちのことなど少しも気にかけていないのだ、彼はあなたたちもろともこの世界を滅ぼすつもりなのだ』などとは、とても言えなかった。そのかわり、ただ、言葉にできない同情を込めて、里菜は老人にそっと尋ねた。
「おじいさん、足、どうかしたの? 前は杖なんかついてなかったじゃない?」
ゼルクィールは、静かに微笑みながら、
「私も、もう年でございますので……」としか言わなかったが、彼は、シルドーリンからの、老人にはきつい長旅と、底冷えのするヴェズワルでの脚を伸ばすこともままならなかった監禁生活、そしてその後の、湿気の多いイルベッザでの慣れない都会暮しで、すっかり身体を弱らせてしまったのである。
「ねえ、おじいさん、ここであたしの帰りを待ってなんかいないで、とりあえずシルドーリンに戻ったほうがいいんじゃない? あたしはそんなにすぐは帰ってこれないと思うし、ここは、ほら、まだ当分は暑いだろうし、何しろ湿気が多いから、お年寄りには障るんじゃない? やっぱり、住み慣れたところにいたほうが……」
里菜は背を屈めて老人の顔を覗き込んだ。
里菜にとって、里菜が魔王の花嫁になるなどと言う彼らの主張はとうてい同意しかねるものだが、それでも里菜は、どういうわけか、この不運な老人がとても好きだったのだ。
老人は穏やかに目元を微笑ませて答えた。
「私などのことを、そのように気遣って下さり、かたじけなく存じます。女王よ、あなたはおやさしい娘御でいらっしゃいます。こうしてあなたにおやさしいお言葉をかけていただけるだけで、私はこの役目を与えられたことを幸せに思います。では、お気をつけていってらっしゃいませ」
それだけ言うと、三人はまた、うずくまるような礼をして、彼らの会話をほとんど聞き分けられなかった不満にぶつぶつ言っている群衆を尻目に、その場を立ち去って行った。
それからふたりは、道々、市民たちの激励を受けながら港まで歩いた。
首都の港とはいえ、この世界には海外との貿易というものがないし、国内でも海運はあまり重視されていないから、ほとんどただの漁港に近い。市民たちは、津波の爪跡も生々しい、そのささやかな港まで、ふたりの後についてきて見送ってくれ、そこでふたりは、たまたま別の町の港に停泊していて津波を免れた貴重な貨物船の一隻に乗り込んだ。半年以上住み慣れた、この雑然としておおらかな都を離れるのは少しさびしくて、里菜は船の上から、遠ざかる港をいつまでも見ていた。