第四章<荒野の幻影>第一場(1)
――(引用)――
……こうして女神と男神は、それぞれ天と黄泉とにあって地上を正しく治め、世界は永らく、神代の平和の中で、幸福な赤子のようにまどろみ続けた。草木は茂り、鳥は歌い、魚は泳ぎ、獣は走り、大地に、海に、空に、生命は満ちて、無邪気に生まれ、生き、子を成し、そして無邪気に死んでいった。
そんな神代の楽園で、未だ嬰児であった人類もまた、様々なことを学びながらその数を増やしていった。
けれどもいつのころからか、タナート神は、双子の妹であるエレオドリーナ女神に、叶わぬ恋心を抱くようになっていた。失われし母なる混沌を密かに恋い慕い続けていた男神タナートは、かつて劫初の混沌の胎内でエレオドリーナとひとつであった思い出を忘れられず、いつしか彼女を妻にと望むようになったのだ。
しかし、タナートは、夜と闇を司るもの。昼と光を司るエレオドリーナとは、朝夕の一時、遠く離れて顔を見交わすことができるだけで、永遠に触れることはできない。二柱の兄妹神は、決して交わることのない運命にあった。それでもタナートはエレオドリーナに焦がれ続けた。
人類がみどり児の時を過ぎ、青年期に入ると、愛の女神でもあるエレオドリーナは、しばしば、人間の男を愛した。
そのたびに女神は、若く美しく生命の力に満ちた人間の女性の姿をとって、気に入った人間の男の前に現われ、特に気に入った恋人は山頂の神殿にいざない、そこで、人間の女がするように彼と共に暮し、ともに年老いていった。
そのたびに男神タナートは、為すすべもない嫉妬に苦しんだが、彼には永遠の時間があり、人間の命は短い。しばしの苦しみに耐えた男神は、やがて女神の恋人に定めの時が来ると、歪んだ喜びを持って、女神の許からその魂を連れ去さるのだった。
そのために女神は、しだいにタナートを憎むようになっていった。
恋人とともに年老い、老婆の姿で恋人の死を看取った女神は、その都度、長い嘆きのうちに喪に服した。女神が喪に服す時、世界は闇に包まれ、女神の心が悲しみに満たされる時、大地は冷えて、海は氷に閉ざされた。
しかしやがて幾千年の歳月が女神の悲しみを癒し、女神はまた若く美しく蘇り、地上に春が訪れる。
そんなことが幾度も繰り返されたのちに、女神はある時、また、一人の男を愛した。空で一番明るい星のように美しい若者、エレオドラ山の羊飼いのアルファードだった。
女神とアルファードは山頂の神殿で束の間の愛の日々を送り、やがてアルファードに、命の終る定めの時が来た。
けれども女神はアルファードをあまりにも深く愛していたので、それまでしてきたように年老いた恋人をタナートの手に委ねることを拒み、彼を星に変えて天に上げた。この、銀のアルファード星は、今でも、女神の肩に寄り添うようにエレオドラ山の上に輝いている。
これが原因で、女神と男神はついに決裂し、神々の間に戦さが起こった。戦さは長く続き、地上は洪水や旱魃に交互に見舞われ、山々は火を吹き、いくつもの島が海に沈んだ。
タナートの捲属であった妖精たちは、この戦いにおいてタナートに与することを拒んだために、彼から与えられた<魂の癒しの力>を封印された。自らを癒すことのできぬ魂にとって、神代の無垢の幸福を失った世界は、その肉体の持つ本来の長い寿命を耐え抜くには辛すぎるものだった。この時以降、妖精たちは、肉体よりも先に魂が年老いるようになり、そのことが、やがて肉体の寿命をも、しだいに縮めていった。そして、そうなった後も、彼らは、本来長命の種族ゆえに子を生むことが少なく、為に、種族自体が年老いて衰えていくのを食い止められなかった。
こうして、人類が未だ火を知らぬころから神々のために金属を鍛えていたこの古く美しい種族は、神への反逆のゆえに、種族の長い黄昏を経てのちにゆるやかに滅び去ることになる。
神々の戦さはどちらにも勝利をもたらさずに終結し、この戦さの後、神々は地上との往来と相互の接触を絶ち、神代は終焉を迎えた。
しかし、一般にはあまり知られていないタナティエル教団の神話によると、この時、男神タナートは、一般に言われるように黄泉に去ったのではなく、女神を失った絶望から長い眠りにつき、未だ目覚めることなくこの地上にあって、ふたたび女神が地上に現われる時を待ちわびながら昏い悪夢の中をさまよっているという。彼らの説によると、北の荒野に棲むという『魔王』こそ、男神タナートが失意の眠りの中で見ている悪夢の中の彼の姿なのだという。
現在、彼らがしばしば魔王を崇める邪教集団と見なされるのは、この教義のためであろう。
また、エレオドラ山の麓、女神の司祭を擁する古いイルゼール村には、女神と女神の最後の恋人アルファードの運命について、一般に知られているのとは別の神話が伝えられているが、これについては、拙著『エレオドラ地方の民俗と神話に関する研究』を参照されたい。
――『イルファーラン国立上級学校神話学教科書』(<賢人会議>長老・イルファーラン国立研究所名誉研究員 ユーリオン著 統一暦百六十六年発行)より
一(前)
北の太陽は、紙を切り抜いたように頼りなげに白く、空低く浮かんでいた。
その弱々しい太陽が投げかけるわずかな熱も、大地に届く前に風がどこかへさらっていってしまうようで、里菜は馬上で身をすくませ、マントをかき寄せた。
目の前には、果てしなく、冷たい風だけが吹きすぎる不毛の荒野が広がっている。
その中を、くすんだ赤錆色のマントのアルファードを乗せた大きな栗毛の馬と、鮮やかな青のマントの里菜を乗せた少し小さな灰色の馬が、とぼとぼと進んでいく。アルファードは愛用の剣を携え、それぞれの馬には、荷物の袋が左右に振り分けて括りつけられている。
一行の他に、動くものはない。草さえほとんど生えない、この荒れ果てた大地には、羽虫より大きな生き物は生息できないのだ。
そんな砂漠のような北の荒野に、ただ一本の細い流れがあり、恐らく一年の大半は凍りついているのだろうが、夏の名残の残る今はまだちょろちょろと流れていて、ふたりはその川に沿ってゆっくりと北上していた。
この川は、荒野の果て、最北の魔王の城の近くから、荒野をつっきって流れ下ってくるのだと言われているが、実際に川を遡ったものは誰もいないから、その真偽はわからない。それでも、魔法で水を出せないふたりには、この川が命の綱だ。川があるあいだは川に沿っていくしかない。それに、川の岸辺にだけは、わずかに草があって、馬に食べさせることができる。途中で川の源に来てしまったり流れの向きがそれた時は、ふたりはありったけの皮袋に水を入れて、馬は空馬で、来た道を帰らせるつもりだ。
おとなしく辛抱強く寒さに強いこの馬は、戦さ用の馬ではなく、カザベル近くの、港町というよりは漁村に近い小都市イリューニンで調達した北部の荷役馬である。ふたりは、イルベッザからそこまで船で来たのだ。
この国の西の海岸線は、南を上にした地図――この世界では地図は南が上なのだ――で言えば『く』の字型をしていて、イルベッザは、その『く』の字の上辺に接しており、カザベル街道は、『く』の字の左側を大きくなぞるように曲がっているから、はなからカザベルに寄らずにさらに北を目指すなら、カザベル街道より海路のほうがずっと近いし、本当はカザベルに行くにも、いったんイリューニンまで出て少し南東に戻るようにしたほうが早く、距離的にもずっと近い。
だが、この国では海運はあまり盛んでなく、普通は船を利用するものは少ない。里菜たちが乗ってきた船も小さな貨物船で、木の葉のように揺れ、里菜は航海の間中、ひどい船酔いに苦しんだ。それでも、イルベッザでアルファードから乗馬の手ほどきを受けていたとはいえあまり馬に乗り慣れていない里菜にとっては、陸路を馬で来るよりはましだっただろう。少なくとも日程がだいぶ早まったのはたしかだ。
里菜たちが船に乗ることができたのも、イリューニンで駐留軍から無償で馬を借り受けられ、十分な携帯食料や野営用の天幕をすみやかに提供してもらえたのも、ファルシーンの手配のおかげである。
魔王を斃しに北の荒野へ行くというふたりの話を聞いた彼女は、軍隊を好きなだけつけてあげるとも提案してくれた。正規軍の兵士の中にも、あの日蝕の騒乱で家族や友人を失ったものは多く、魔王を退治しに行くと言って志願者を募ればいくらでも集まるだろうと言うのだ。
けれど、もちろん、ふたりは、これを断わった。どうせ、いくら大軍を連れていっても、結界に阻まれて荒野に足を踏み入れることはできないだろう。入れたとしたら、それは魔王が軍隊に来られても困らないからで、その場合はいずれどこかであっさりと始末されてしまうのがおちだ。それで彼らは、ファルシーンに交通手段などの援助だけを頼んで、ただふたり、北の荒野に赴いたのである。
ふたりの出発は、ひそやかなものだった。秘密というわけでもないのだが、ファルシーンとユーリオンは、相談の上、このことを一般市民に広く知らせるのはやめたほがいいと判断したのだ。
ふたりは、ユーリオンだけに、すべてのいきさつを打ち明けていた。ことは国の存亡に関わるのだし、彼は<長老>であるだけでなく、神話学者だ。里菜とアルファードと魔王との、神話的で夢のような因縁の物語を、彼は正しく受け止めてくれるだろうと、アルファードは判断したのだ。
そしてその通り、彼は、ふたりの語る不思議ないきさつをまるごと受け入れてくれた。そして、ふたりの勝利を信じて待つを言ってくれた。
だが、たとえ彼自身は里菜たちの勝利を信じていても、<長老>という立場からは、慎重にならざるを得ない。
これまでも、里菜とアルファードはイルベッザの民衆の希望の星だったし、今回の騒動でのふたりの活躍も、すでに市民たちに知れ渡っていた。ふたりが魔王討伐に行くと発表すれば、市民たちは、彼らに熱狂的な期待をかけるだろう。それは、今、災難に打ちひしがれている市民たちに希望を与えるが、一方で、万一、このふたりでさえ失敗したのだとなった時は、逆に国中の人々が絶望してしまうだろう。
そういうわけで、ふたりの旅立ちは、<賢人>たちと軍の上層部、それにふたりのごく身近な友人たちにしか知らされなかった。と言っても、極秘扱いというわけでもなかったから、準備に関わった役人や軍の仲間たちはもちろん、イルベッザ城構内で働くものたちは皆それを知っていたが、里菜とアルファードが自分たちの決心を直接話したのは、ユーリオンとファルシーン、キャテルニーカとローイ、それに、ローイに話す時にちょうどそばにいたリューリだけだった。
ふたりは、ローイに話をした時には、ユーリオンの時と違って、魔王がタナート神だとか里菜に何かいわくがあるらしいとか、そういう神話めいたことはあまり話さなかったのだが、彼らの使命が特別なものであることはローイにも察しがついていたから、彼は、もう、ふたりを止めなかった。
ローイは、じっと里菜を見つめて、少しさみしそうに言った。
「そうか、やっぱり行っちまうのか。俺も怪我をしてなけりゃついていって一緒に戦ってやりたいところだが……。でも、どうせそういうところには、俺の出番なんてないんだろうな。俺みたいな、ただのヒトにはさ。そう、あんたらは、やっぱり違うんだ。あんたらはやっぱり、特別な運命を持った<マレビト>なんだよな……」
その前にキャテルニーカに決心を打ち明けた時も、里菜は神話めいた説明はしなかったが、それは、キャテルニーカが、話さなくてもすべてをわきまえているのが分かっていたからだった。この時、キャテルニーカは、普段の、『綺麗だが無邪気すぎておつむが足りないように見える一風変わった子供』ではなくて、いつかの山賊の前やあの日蝕の中で見せたような、威厳に満ちた謎めいた巫女の顔になって、こう言ったのだ。
「あたしも一緒に行って手助けしたいけど、できないの。あたしたちは、昔、あのひとと戦って、既に一度、破れている。だから、あたしにできることは、ただ、お姉ちゃんが後のことを心配しなくていいように、ローイお兄ちゃんやリーンや、その他の、怪我をしたり刻印を受けた人たちをしっかり引き受けることだけ。あたしの手が届くところにいる人は、絶対、一人も死なせないから、安心して行ってきて。お姉ちゃんが魔王に打ち勝って帰って来たとき、みんなの刻印は消えるわ。刻印を受けてから長い人は絶望が心に染み込んでいるから、必ず元どおりになるとは限らないけど、今回の事件で刻印を受けた人たちは、ちょっとした治療で元気を取り戻すはずよ」
この、昔『あのひと』と戦った『あたしたち』というのは、恐らく彼女の祖先である妖精の一族のことだろう。
もちろん里菜は、キャテルニーカが魔王となにかしらの関わりがあるものなのは分かっていても――いや、分かっているからこそ、彼女を魔王の元に連れて行って危険に晒すつもりはなかった。