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第三章<イルベッザの闇> 第一二場(1)

 立ちすくむ里菜の前で、夜の闇がゆっくりと凝り固まって、丈高い人の姿をとった。

 間近に向かい合ったその姿は、全身を真夜中のように黒い衣に包まれて、堂々と、力強く、美しかった。――そう感じてしまうのを、里菜は止められなかった。

 その背中には、白い光を湛えた、氷のようにきららかな大鎌が、三日月のかたちに輝いていた。

 それは里菜が、初めて夢の中以外で見た魔王の姿だったが、たぶん、これも実体ではなく、何か投影のようなものなのだろう。振り仰いだ、丈高いその姿の向こうに、夜空の星がいくつか、ちらちらと透けて見えていた。

『私の花嫁よ。さあ、花婿がそなたを迎えにきたぞ。共に参ろう……』

 ゆっくりと魔王が差し伸べた腕から、里菜は首を振りながら後ずさった。

「い、いや……」

『我が妻よ。そう、恥ずかしがることはない』と、魔王は笑った。

『そなたが恥ずかしがって自分から私のもとへ来ないので、私が自らそなたを迎えに来たのだ。……その道化も一緒に連れて来るがいい。面白い男だ。私も気に入っている。私の王国に来れば、そんな傷などたちまち癒える。何も心配はいらない。その、手首の刻印が約束の印だ』

 里菜は、はっとして、ローイに駆け寄った。落ち着いて見れば、もちろんローイは死んでなどおらず、血溜まりの上で弱々しく身悶え、顔をしかめてかすかに呻いているのだった。そして確かに、その片方の手首には、<魔王の刻印>が黒く印されていた。

「ローイ、ローイ!」

 里菜は思わずローイの身体に取りすがって、肩を揺すぶった。

 たしかにローイは死んではいないが、普通、こんな怪我をした人は、こんなふうに黙っておとなしく横たわってなどいないのではないだろうか。痛みに叫ぶことも、傷口を押さえてのたうち回ることさえできず、ただ死を待つかのようにじっと横たわっているのは、すでに生命の炎の消えかけた瀕死の重傷者ではないだろうか――。

 <刻印>を持つものが傷を負った時、しばしば、痛みに対する正常な反応も示せずに無気力に放心するということを、里菜も聞き知っていた。傷口から流れ出す血と一緒に肉体の生命力が奪われていくように、<刻印>からは精神の生命力が流れ出して、肉体の痛みに反応する気力さえ奪ってしまうのだという。そして、そんなふうになったものは、本来なら助かる程度の傷であっても、しばしば、そのまま死に至るのだと――。

 けれど、ローイは、里菜に揺さぶられて、低く呻きながら、眉根を寄せてぎゅっとつむっていた目を薄く開いた。苦しげな息の下から、途切れ途切れに掠れ声が押し出される。

「い、痛ってェ……。リーナちゃん、揺すらないでくれよ。怪我してんだからさ。……大丈夫だ、たいしたことないよ。あんた、おおげさなんだよ。この俺が、これくらいで死ぬわけないだろ。今の話も聞いてた。ただ、ちょっと動くのが大儀で……」

「ご、ごめんなさい!」と、あわてて離れようとした里菜の腕を、ローイは、片手で掴んで、

「おっと、いいよ、いいよ、離れなくて。ただ揺すらないでいてくれれば。どうせだからこのまま、もっと近くに……」と、さらに引き寄せようとした。この状況下で、しかも、怪我をして額に脂汗を浮かべ、歯を食いしばって痛みに耐えているくせに、たいした態度である。

「この際だ、できれば、膝枕くらいしてよ……」というローイの呑気な言葉に、里菜は思わず状況も忘れて力が抜け、涙ぐんだ。

「もう、ローイってば……。本当に大丈夫なのね。よかった……」

「大丈夫さ、あんたが膝枕さえしてくれれば……。うっ、痛ってェ……」

「大丈夫じゃないじゃない! 動かないで、しゃべらないで!」

「……リーナちゃん、俺にしゃべるなと言うのは、息をするなというのと同じだぜ。で、なんだ、そこに見えてる黒い穴ぽこが、あんたの花婿候補か?」

 声が苦しげなわりに、とぼけたもの言いは相変わらずだ。

「あ、穴ぽこって……、ローイには魔王が見えないんだ? 黒い服着て背中に大鎌しょってるの、見えない?」

「ああ、ただ、周りより暗い、闇の塊みたいにしか見えない。でも、声は聞こえるぜ」

『面白い男だ、実に面白い……』

 じっとふたりの様子を見ていたらしい魔王は、ふつふつと低く笑って言った。

『もともと、人間の言うこと、考えることは、いちいちおもしろおかしいが、こんな面白い男も珍しい。私もこういう道化を一人召し抱えたいと、以前から思っておったのだ』

「うるせえ、このクソじじい! ……あ痛たた……」

 叫んだ拍子に傷が痛んで、ローイは顔をしかめたが、そうしながらも、見えない魔王を睨みつけた。

「おい、魔王とやら。てめえ、自分の花嫁に魔物をけしかけるたあ、随分御丁寧なお迎えのしかたじゃねえか」

『愚か者め』と、魔王はまた笑った。

『私が大切な花嫁を本気で傷つけると思ったか。どのみち、そなたがその娘の短剣の前に愚かにも飛び出してさえ来なければ、短剣は勝手に魔物を倒して娘を守っただろうに、守ろうとした娘の短剣で傷を負わされるとは、まったくそなたはつまらぬ目にあったものだ』

「ローイ、本当? やっぱり、この傷、あたしが……?」

「いや、あんたがやったわけじゃない。俺がうっかりあわててあんたの短剣の真ん前に飛び出したもんで、たまたま、ちょっと触っちまっただけだ。ほんのかすり傷だしさ」

「ローイ、ごめんなさい!」

「だから俺が悪いんだってばさ。ただの、ちょっとした事故だよ、事故。俺の不注意だ」

『エレオドリーナ。この道化は、そなたを守ろうとして刻印を受けたのだ。もともと私にはそなたを傷つけるつもりはなかった。そしてこの男はおそらく、自分が魔物に襲われたなら、自分の身を守ることが出来ただろう。それで私は少し試してみたのだ……。まったく計算通りのことを、この男は、した。自分の危機でなら失わない判断力をそなたの危機にあってはすっかり失って、何とも愚かしい行動に出て、私を面白がらせてくれた。そなたの道化は、何もかも捨ててそなたと逃げるほどにはそなたを想っていなかったかと考えたが、そうでもなかったようだな。身を挺してそなたを庇おうとするとは、愚かではあっても、なかなか殊勝な心掛けだ。褒美として、私の城で永遠にそなたの足元に侍る権利を与えてやろうではないか』

 里菜はローイの横に跪いたまま、顔をあげて魔王を睨みつけた。

「魔王! 許さない……。ローイをもとに戻して!」

『この男に傷を負わせたのは、そなただ。私ではないぞ。しかし、案じることはない。そなたと共に私の城に来れば、あらゆる苦痛とともに、その傷も癒えるのだから』

「だめよ! ローイをそんなところへ連れていくなんて……」

『では、そなたひとりで来るか? そうすれば、その刻印を消してやろう。刻印さえ消せば、こんな浅手はやがて自然に癒える。浅手といっても、刻印を持つものには、時に致命傷となるものだが……。絶望は、肉体をも蝕み、弱らせるのだ』

「……あたしが行かなければ、ローイは死ぬかもしれないってことね。分かったわ」

 立ち上がった里菜の足首を、ローイが掴んだ。

「バカ、行くな、リーナ!」

「放して、ローイ。あたしのせいで、あなたを死なせるわけにはいかないの」

「リーナ、だめだ! あんたが俺のためにこんなバケモンに身を差し出すというのなら、たとえ刻印が消えても、傷が治っても、俺はシエロ川に身を投げて死ぬぞ!」

「ローイ……」

「俺を死なせたくなかったら、あんたは、行っちゃだめだ。リーナ。俺は、大丈夫だ。刻印なんかで、俺は死なない。他のやつはどうだか知らないが、俺だけは絶対、大丈夫だ。だから、行くな。あんたがいれば、俺は死なないから」

 横たわるローイの上に身を投げ出して、里菜は泣き崩れた。

「い、痛えってばよ……」と言いながら、ローイは動かせるほうの右手で――里菜は気がついていなかったが、ローイは左腕から肩にかけてにも、魔物にやられて傷を負っていたのだ――里菜をそっと抱いた。そうしながら、ローイは姿なき魔王を睨みつけた。

「てめえ、帰れよ……。人のラブシーンをじろじろ見物するなんざ、悪趣味だぜ。せっかくのチャンスなんだ、ふたりっきりにしてくんな。リーナは行かねえよ。行くって言ったって俺が行かせねえ。俺がこの手を、絶対放さねえからな。片手でだって、非力なリーナちゃんの一人くらい、押さえつけとくのはわけねえんだ。とっとと失せろ、この悪魔め! 消えやがれ!」

 その言葉に我に返って身を起こそうとした里菜を、ローイは、この怪我人のどこからそんな力が出てくるものか、本当に力づくで自分の胸の上に引き戻した。

『エレオドリーナよ。どうやら我等の婚礼に異義を唱える男は、一人ではないようだな。この男、虫けらのような道化の分際で、実になかなかだいそれたことをする。よかろう、道化よ、そなたのその殊勝な忠誠に免じて、ほんのひととき、その娘とふたりにしてやろうではないか。それはいずれ私の妻になる娘だ。そなたにとっては最初で最後のひとときだろうからな。明日、また来る。待っておれ』

 里菜は涙に濡れた目で、魔王をキッと睨んだ。

「魔王。あたし、あなたを許さないわ。あなたがたとえ神さまだろうと何だろうと!」

『おお、愛しい者よ、そなたは実に魅力的だ!』と、魔王は、天地が震える程に笑い出した。

『そんなにも小さく無力な存在としてありながら、そのように勇ましい口をきくところなど、なんとも愛らしいことだ。このように魅力的な花嫁であってみれば、結婚に異義を唱える男の一人や二人、いるのが当然と心得て、そのことでそなたを責めるなどというつまらぬ狭量は起こさぬことにしよう……』

 笑いながら、黒衣の影が、ふっと薄れて消えた。うつろな笑いの残響だけが、石畳の上にしばらく漂っていた。

 闇の名残を黙って睨みつけていた里菜は、我に返ってローイを見下ろした。

 ローイの茶色い瞳が里菜を見上げて僅かに微笑もうとしたが、すぐに痛みに顔をしかめた。

「ローイ、ごめんなさい、ごめんなさい、あたしのせいで……」

 里菜は、服が血まみれになるのも構わず、ローイにすがりついて泣きじゃくり始めた。ローイは動く方の手を上げて、里菜の髪をやさしく撫でた。しばらくそうしていたローイは、やがてその手で里菜の頭をぽん、と叩いていった。

「あのさあ、リーナちゃん。こんな時じゃなかったら、これってすごく嬉しい状況なんだけど……。実は俺、今、結構、痛てえんだ。背中とか、左の腕とか肩とか。刻印のほうは何ともねえんだけどな」

「わっ、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、やだ、ローイは怪我してるのに、あたし、こんな……!」

 あわてて飛びのいた里菜に、ローイは笑いかけようとしたが、額には汗が浮かび、顔が歪んでいる。

「いや、いいんだけどさ、大丈夫なんだけど、ちょっと、治療院にでも連れてってくんねえかなあ……。誰か、肩貸してくれそうなやつ、呼んでくんない? アルファードでも誰でも。俺、歩けなさそうなんだ。言っとくけど、あんたじゃ無理だよ。俺、重いから」

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