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第三章<イルベッザの闇> 第十一場(1)

 少女の目が、信じられないといったように見開かれ、自分の胸に刺さったナイフの柄を見つめた。悲鳴も、うめき声もなかった。ただ、不信と驚愕のまなざしだけがあった。

 そのまなざしに、ローイの胸が激しく痛んだ。

 けれどそれは、一瞬だった。

 少女の胸からは、血も流れ出さなかった。ふいに青白い燐光が走ったかと思うと、きな臭い異臭とともに、音もなく少女の形は消え失せていた。

 ただ、鮮やかに青い服だけが、たった今脱ぎ捨てられたもののように寝台の上に残り、それもしばらくして塵のように砕け、光りながら透き通って消えた。

 冷たく輝くナイフだけが、血痕も残らなかった白い敷布の上に、しんと取り残されて横たわっていた。

「やっぱりな……。人間じゃねえや」

 拾い上げたナイフを、上着の裾に隠れていた腰のベルトに収め直しながら、ローイはぽつりと呟いた。

 それは、少女の胸にナイフを突き立てた瞬間に、判っていたことだった。青い服の下のあえかな乳房の膨らみは呼吸につれて微かに上下し、そっと手を触れれば心臓の鼓動を感じることさえ、たぶん出来たのだろうが、それが本当の人間の心臓であれば、ローイが刺したその位置と角度なら、肋骨に阻まれていたはずなのだ。それなのに、ナイフは、何の手応えもなく、吸い込まれるように服の下に消えた。

 人間と同じ形をしていても魔物の胸には肋骨がないらしいのだと、人間と似ているのは外見だけで身体の構造や身体を構成している物質はたぶん全く違うのだろうと、ローイは、店にやってくる魔物退治の経験者たちから何度も聞かされていたから、わざと、本当なら肋骨に当たるはずの箇所にナイフを刺したのだ。

 それでも、愛する少女と同じ目が彼を責めるように見開かれた時は、やはり後悔が彼を襲った。

 それほど、その少女――の形をしたもの――は、里菜に似ていた。

 似ていたというより、何もかも同じだった。ただひとつの点を除いては……。

 その時、ふいに部屋が暗くなったように思われた。

 何か不自然な気配が背後に現われたような気がしたと同時に、ローイの脳裏に、どこからか、言葉が響いた。

『……道化よ。私の傑作を、たいそうあっさりと壊してくれたものだな……』

「てめえ、誰だ! これは何の真似だ!」

 ローイは、ふたたび素早くナイフを抜いて、かざしながら振り向いたが、そこには誰もいなかった。

 ただ、見慣れた部屋の中に、うつろな闇がぽっかりと口を開けていた。

『私は魔王――そなたらがそう呼ぶものだ』

 ローイは体勢を立て直し、油断無く闇に向き合った。

「なんだって……? 魔王だぁ? 魔物の親玉の、あの、魔王か? まさかそんなもんがこの俺の前に現れることがあるとは思っても見なかったぜ……。さっきの『あれ』は、あんたの仕業なのか?」

『そうだ。そなたは、私のせっかくのすばらしい贈り物を駄目にしてしまったな。あの人形がそなたの想い人ではないと、なぜ、判った。あれは私が細心の細工を施した最高の芸術品、顔も身体も思考の形態も、声も仕草も話し方も、なにもかもあの娘とそっくり同じに作ってあったものを……』

 ローイは闇の奥を睨みつけながら、怒りと悲しみを込めて、低く告げた。

「判るさ。あれがリーナと同じだと思っているなら、てめえはリーナのことをよく知らないんだ。リーナはなあ、『違う』んだよ。あの子は、もっと無器用なんだ。したたかではあっても、あんなふうに器用に男を挑発するなんてことは出来ねえんだ。俺、危なく、すっかり乗せられるところだったもんな。だけどなあ、リーナは、あんな媚びたような目で男を見るような子じゃないんだよ。あの目を見た時、俺は目が覚めた。少なくとも、この『俺を』、リーナがあんな目で見ることは、一生、金輪際、ありえないんだ!」

 彼のもとに訪れた少女がただひとつ里菜と違ったのは、その言葉と瞳の奥に隠されていた媚びと、巧妙な誘惑の色だった。

 それは何も、決して超自然的なものでも魔的なものでもなく、ごく普通の少女や女がしばしば見せるような種類のものに過ぎなかったが、彼は、里菜がそんな目で自分を見ることは永遠にないのを、その時、痛みと共に知ったのだ。

 侮蔑の笑いを含んだ言葉が、闇の向こうから彼に答えた。

『分をわきまえたことだな、道化よ。それがわかっておるなら、最初から本物のあの娘など諦めて、私が与える人形でも抱いていればよかったものを。そなたは実に惜しいことをしたのだぞ。あれは、そなたが決して手にいれられない娘と、腕に抱いた時の抱き心地から肌の匂い、そなたのくちづけに応える仕草まで寸分違わぬものだったはずだ。ただ、そなたが気づいたように、ひとつだけ、本物と違うところがあったからこそ、あれはそなたへの贈り物だったのだ。そなたがあれと共に私のもとに来れば、私はあれを永遠にそなたに与えてやるつもりだった。持って生まれた定めによらず私のもとへ呼び寄せるものには、私は必ずそれに相応の贈り物をするのだ……。今からでもそなたが私のもとへ来ると言うなら、同じモノをもう一度作って与えてやるが?』

「いるか、そんなもの! 畜生、てめえ、俺をおちょくってんのか? 何が魔王だ。何だってそんな、魔王なんかが、俺なんかにちょっかい出してくるんだよ! いったいどういうつもりだ。俺に、何か恨みでもあるのか」

『そなたになど、何の恨みも、興味もない。私は、ただ、あの娘が欲しいのだ。その点だけは私はそなたと同じだな。ただし、私は必ずあの娘を手に入れるが、そなたは永遠に彼女を手にいれることはない。だから私はそなたを哀れと思い、親切から、そなたにあの人形をやろうと思ったのだ』

「親切だと! 大きなお世話だ。てめえに何がわかる。俺はてめえとは違うんだ。てめえがなんだってリーナを欲しがるのか知らないが、俺は本当は、一度だってリーナを自分のものにしたいなんて思っちゃいなかったんだ。てめえのおかげでそれがわかった。……あの子はな、あの子は……そう、『違う』んだよ。あの子は、俺にとっては、遠くの空にかかる虹みたいに、手の届くわけがない、取ろうとなんかしちゃいけないものなんだよ……」

『道化よ、そなたは、思いがけず賢い。少なくとも、あの愚かな羊飼いよりはよほど、物事をわきまえておるようだ。ならばこれから言うことも、よく理解できよう。さっき、あの人形がそなたに語ったことは、みな、本当のことだ。あの娘は今、苦しんでおる。そばに行ってやれ。そなたなら、あの娘を慰め、守ってやれよう。あの娘は、お気に入りの忠実な道化がそばにいなくて、さびしがっておるぞ』

「……あんたが、親切から、その忠告をしてくれているとは思えないんだがな。でも、なんだってまた、リーナはてめえみたいなバケモノに見込まれちまったんだ? どこであの子を見初めた? あの子を手にいれてどうするつもりだ。まさかいきなり頭からバリバリ食っちまうとか……。い、いや、それとも大釜で茹でてから食うのか?」

『食べたりはせん。大切な花嫁だ』

「げ、げげ……。何だ、そりゃ、本気か? 魔王なんて言ったら、バケモノで、邪悪のかたまりで、しかも、人間の絶望をすすって何千年も生き続けてるっていう、黴の生えかけたクソじじいじゃねえか! その上、聞いた話じゃ、身の丈三メートル、太い尻尾とねじくれた角があって、牙のある口は耳まで裂けて涎を垂らし、目玉は真っ赤で全身真っ黒の毛むくじゃら、ついでに恐ろしく臭いっていうぞ。たとえかどわかされて無理強いされようと、リーナがそんな怪物の花嫁になんか、なるもんか!」

『なるとも』

「へっ! それくらいなら、あの子、舌噛んで死ぬぜ」

『死ぬ、だとな。面白いことを言う。死んで私から逃れられるなどとは、あの娘も思うまい。それにしても私は、自分がそのような姿だとは知らなかった。実に面白いおとぎ話を聞かせてもらった。しかし、私がどのような姿であれ、あの娘は私に惹かれておる。ただ、いまだ幼く愚かなもので自分の気持に素直になれなくて、私のもとに来るきっかけを掴めずにいるのだ。そなたも覚えておろう。初めて恋をした時のためらいと戸惑いを……』

「な、なんだあ? 何を、ふざけたことを……」

 あまりの言い草にローイがぽかんとすると、魔王は堪えていた笑いを爆発させたとでも言うように、あたりの空気が震えるほどに笑い出した。どうやら冗談を言っているつもりだったらしい。

「て、てめえ、やっぱり、俺をからかってやがるな……。どこにいる、出てこい! 尋常に勝負しろ!」

 すっかり頭に血が上って、誰もいない闇に向かってナイフを振りかざし小さな火の玉を投げ散らすローイの姿がおかしくてたまらぬというように、魔王の声無き哄笑はますます高くなった。

『私の花嫁は大変初心で奥ゆかしく、しかも誇り高いものでな。自分から私の胸の飛び込むのは、はしたないと思っているらしい。私のほうから迎えに来て欲しくて、待っているのだな。人間の女というのはしばしばそういうつまらぬ意地を張るものらしいからな。それで私は、近いうちに――そう、今夜か明日にでも、自分から花嫁のもとに出向くつもりだ。そなたがどうしても私と勝負したいというのなら、その時、受けて立とう。そんな小刀だの、ちっぽけな火の玉だので何が出来るかはわからんが』

「てめえ、バケモノの怪物のクソじじいの分際でリーナちゃんを嫁にしようなんざ、ずうずうしいにも程があるぜ! てめえなんぞにリーナは渡さねえ」

『それならば、そなたが守ってみせろ。彼女がそれを望むとは思えないが、それでもそうしたいと思うなら、やってみるがいい。あの娘は、今も泣いておるぞ。さあ、そばに行ってやれ……。早く行かねば、私が先に彼女をさらいに行くぞ』

 その言葉が消えると同時に、部屋の中に口を開けていた闇が消えた。窓から入る夕方の淡い光が戻ってきた。といっても、もう、かなり遅い時間になっているらしく、それはほんとうに今にも消えそうな黄昏の薄明かりになっていた。

 ローイはぐったりと坐り込み、床に手をついてうつむいていた。里菜――の姿をした作り物の少女――の、小さくやわらかな掌の感触が、まだ胸に残っているような気がして、ローイは床の上でこぶしを握りしめた。

(ちくしょう……。あのバケモノ野郎、何のつもりかしらねえが卑怯な真似しやがって。さすがに悪の権化だけあって、痛いところをついてきやがる。……リーナはなあ、俺なんかに抱かれていいような、そんな女じゃねえんだ。俺みたいなつまらない男の嫁さんになるような娘じゃねえんだよ。そんなこと、本当はずっと、分かってたんだ……)

 ローイは、そのまま明りもつけずに床にうずくまり、だんだん暗くなっていく部屋の中で、ただひとり、こぶしを震わせ続けていた。



     *



 人通りも絶えかけた、宵闇せまる裏通りを、息を切らして駆けている少女がいた。

 どう見てもこんなところに、しかもこんな時間にひとりでいるのは場違いな、清純で潔癖な雰囲気を漂わせた少女が、何やら思いつめた様子で、唇を噛み締めて必死で走っていく。

 まだ通りに残っていた若いチンピラの一団が、少女をかまってやろうかと近づきかけたが、なんとなく声をかけそびれて、そのまま見送った。

 といっても、別に、少女がその小さな手で関節が白くなるほど握りしめている黄金の短剣におじけづいたわけではない。それは見るからに女性持ちの、華奢で装飾的な護身用の短剣で、それを持っている少女の腕の細さ、持ち方のぎこちなさから見ても、せいぜい、辱められる前に自刃を試みるくらいの役にしか立ちそうもない。それだって、どうせ成功しないだろう。彼らがその短剣を見て思ったのは、やけに豪華で由緒ありげなものだから、取りあげてヤミの古美術屋にでも持ち込めばさぞやいい値がつくだろう、ということだけだ。ついでにあの貧弱な小娘も、適当に弄んだ後で売り飛ばせば、短剣ほどでなくても一応それなりの金になるだろう……。

 そんなふうに思って少女に目を止めた彼らが、不覚にも彼女をやりすごしてしまったのは、ひとえに、少女の、侵し難い真剣なまなざしと、ただならぬ様子のせいだった。あまりに血相を変えて走っていたので、あっけにとられて眺めているうちに、ちょっかいをかけるタイミングを逃してしまったのだ。

(ローイ……、どうか、無事でいて……)

 祈りながら急ぐ少女――里菜は、ローイに何があったかを知っていたわけではない。ただ、漠然とした胸騒ぎが鎮まらないのだ。

 今日も、里菜は魔王の夢を見た。

 キャテルニーカが夢に現われてからしばらく、里菜が魔王の夢を見る回数は少なくなって、夢に現われる魔王は口をきかなくなっていた。けれど、ここ数日、魔王はまた、毎日のように里菜の夢に現われるようになった。そして里菜に、自分のもとへ来るようにと、ふたたび執拗に呼びかけ始めたのだ。

 まもなく約束の夏が終る、新月の前に北へ向けて都を発て、と。

 その一方的な呼びかけの中でも、特に、新月という言葉が、里菜の不安を掻き立てていた。今、都では、誰もが新月を恐れている。その、新月の災いが、魔王に関わる――すなわち自分に関わるものであるのかもしれない。自分が魔王の呼びかけを無視しつづけることで、都に災いが降りかかるのかもしれない。そうは思っても、里菜にはどうしてよいかわからない。魔王の妻になる気などさらさらないし、秋には北へ行くという約束にしても魔王に一方的に押し付けられたもので、承知した覚えもない。

 ここ数日、里菜はずっと、ひとりで煩悶していた。

 アルファードとはあれからも一緒に仕事をしているが、ふたりは、必要最低限の事以外はほとんど口をきいていない。アルファードはもともと無口で、里菜が話しかけなければ自分から無駄口をきくことは滅多になかったし、里菜は、もう、無表情に魔物を追い続けるアルファードに、何を話しかければいいのかわからない。

 里菜がアルファードに魔王の夢を打ち明けることができずにいるうちに、夏の最後の新月は徒に近付いて、夜の闇はますます深さを増し、魔物の数は増え続けている。ふたりは黙って歩き回り、一晩に何体もの魔物を消す。そのたびに、アルファードの薄い唇の端が冷たく歪み、残虐な悦びの気配がうっすらと漂う。

 そして今日、煩悶のうちに眠れぬ夜明けを過ごし、浅く不安な昼の眠りに落ちた里菜の夢の中に、またも現われた魔王は、こう言ったのだ。

『明日、北へ発て。私の城では、そなたを迎える準備がすっかり整っている。そなたのための美しい庭も、柔らかなしとねも永遠の青い花で埋められ、あまたの絹や宝石も、そなたの身を飾る時を待っている。そなたの心を慰める愛らしい小鳥や小さな動物たち、そなたの身辺の世話と話し相手をする清らかで心やさしい侍女たちも用意した。

 そなたは、このような薄汚い街に似つかわしくない。ここでそなたを待つのは、汚れと苦しみ、老いと後悔だけだ。そなたは私の城の、永遠に花咲く庭で、いつまでも小さく愛らしいままの子猫と戯れ、いつまでも年老いることのない汚れをしらぬ乙女らと笑ったり話したりして、楽しく遊んで暮せばいい。

 退屈の心配はいらない。そなたのために、愉快な道化を一人、用意しておこう。これから私は最後の仕上げに、そなたの道化を連れに行くつもりなのだ。そなたのために甘い声で歌い、面白い冗談でそなたを喜ばす、そなたの気に入りの、あの、若い、ひょろひょろした、赤茶けた髪の道化をな……』


 昼も過ぎたころ、びっしょりと汗をかいて目覚めた里菜は、魔王のその言葉にローイを思い出して、不吉な予感に捕らわれた。いつか、魔王は、ローイのことを、やはりさっきと同じように、『そなたの気に入りの道化』と呼んでいた。そして今夜は新月だ。

 悪夢を振り払うように、普段通りに遅い昼食をとったりして午後を過ごした里菜は、とうとう夕方遅くなって不吉な胸騒ぎに耐え切れなくなり、今夜の仕事を休むというアルファードへの伝言を、たまたま行きあったアルファードの同室者のラドジールに託すと、半ば衝動的に構内を飛び出し、ローイの安否を尋ねて、暮れかけた市中に駆け出したのだ。

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