第三章<イルベッザの闇> 第九場(2)
その時のことを思い出しながら、ローイはなんとなく隠しに手をつっこんで、女から貰った金をわざとじゃらじゃらいわせた。
(別に、いいじゃんよ、なあ。向うがくれるっていうんだから。下手に断わったりしたら、かえって変な誤解されかねないからなあ。自分は特別なのか、とかさ……)と、誰にともなく胸の中で言い訳しながら歩いていたローイは、行く手にちょっとした人だかりを見つけた。もしや流しの辻音楽師か、それなら同業者としてそのレベルのほどをチェックせずばなるまい、と、近付いていったが、どうも雰囲気が違う。みんな、なんとなく気味悪そうに遠巻きにしている感じだ。
持ち前の好奇心で人の頭越しに覗き込んだローイが見たのは、一見してタナティエル教団のものとわかる暑苦しい黒衣姿の三人の男たちだった。
うち一人は、かなりの高齢と見られる、腰の曲がった小柄な老人である。足が悪いらしく手には杖が握られているが、その杖がまだ真新しく、持ち方もぎこちなく手に馴染んでいなさそうなところから見ると、もとから足が不自由だったというわけではなく、ごく最近、怪我をするなり高齢のために足が弱るなりして杖が必要になったのだろう。
あとの二人は生真面目な面差しの若い男で、一人は丸顔に丸い目、一人は四角い顔に細い目、ともに中背だが、がっしりした体格で、老人を両側から支えるように恭しく気遣っている様子からしてどうやら老人の従者役――体格から考えておそらくはボディーガード兼務――といったところらしい。
老人は、杖にすがって周りのやじうまをゆっくりと眺め渡しながら、前列の一人一人の前に進み出るようにして語りかけている。老人に話しかけられたものは、あいまいに頷きながら一、二歩後ずさって人の輪を広げ、老人が離れていくと、また、輪を縮める。気味悪さ半分、好奇心半分、といったところだろう。今までずっと聖地の山にひっそりと篭っていた彼らがこんなふうに盛り場で辻説法をしているなどというのは、ひどく奇異な光景なのだ。
老人のおだやかな声に、ローイは耳を澄ました。
「<運命の日>が迫った。心を安らかに整えてお待ちなさい。恐れず、拒まず、受け入れなさい。そうすれば神があなたに与えるすべては恵みとなります――」
その時、こちらを見渡した老人と、ローイの目が、一瞬、合った。ローイは思わず、わずかに顔をしかめた。
老人はそのままゆっくりと視線を巡らしながら続けた。
「抗ってはなりませぬ。武器を取ってはなりませぬ。あなたの抵抗は、あなたが恐れるものをではなく、あなた自身を傷付けます。恐れが苦しみを作るのです――」
そう言いながら老人が視線を巡らすにつれて、その方向の人の輪が順ぐりに乱れては、また元に戻る。
「恐れずに恵みの印を受け入れ、信じて時をお待ちなさい。さればまもなく、うら若き生命の女王が眠れる王を目覚めさせ、<運命の日>に続く<復活の日>が来る――それは、女王と王との間に定められし聖なる婚姻の日、新しき神代の誕生、世界の再生の日です。その時、すべての悲しみは消え、すべての痛みは癒されます。その日は、もう近い。女王は、すでにこの地上に降り立たれ、忘却のやさしき御手持つ小さき夜の娘御を伴って、あなたがたの近くにおられます。そう、生命の女王は、今、この時も、あなたのそばにいるのです。信じなさい。待ちなさい。恐れず、拒まず、全てを受け入れなさい。あなたの心に平安を……」
それだけ言うと、老人は、二人の若者に支えられながら静かに杖を脇に置き、地面にうずくまるように膝を付いて礼をした。どうやらここでの説法は、これで終りらしい。
やじうまは、みな、どことなくあやふやな、落ち着かなげな表情で、パラパラとその場から散り始めた。
近頃、イルベッザの街には、どこか不穏な空気が漂い、あいまいな不安が膨れ上りつつある。もちろん、不穏と言えばそれは魔物が現われ始めたころからずっとそうなのだが、特にこの夏に入って、急速に不安が高まり始めたのだ。
魔物がますます増えているのもその理由だし、タナティエル教団の連中が急に町なかに姿を現わしたことも気味が悪いし、その上、彼らはこんなふうに、不安を煽るような謎めいたことを言いふらしている。
そして、<運命の日>がどうのという彼らの話を裏付けるように、特にここ一月ほどのあいだに月はますます急速に大きく見えるようになって、この前の満月前後には、さすがにみんなそれに気がつき始め、様々な不気味な噂が囁かれるようになってきたのだ。
人々の中には、タナティエル教団が<運命の日>と称している新月の日を控えた今、日中から窓を締め切って家に閉じ籠ったり、たいした根拠もなく郊外の親戚知人の家に疎開してしまうものまでいて、盛り場の人通りも、夕方でさえますます寂しくなり、それでも街角に立たねばならない娼婦の姿ばかりが目だっている。道を行く人の顔付きも、以前にも増して暗く、とげとげしい。
(なんだあ、こいつら……。もったいらしく謎めかして、何を言ってるんだか。やつらが言う<恵みの印>ってのは、まさか<魔王の刻印>のことか? 魔物が来たら、おとなしく刻印をつけられろってか? まあ、たしかに、魔物を攻撃すれば反撃されて怪我したり殺されたりすることもあるが、黙って刻印をつけられてれば、とりあえず、痛くもなんともないらしいやなあ。でも、だからってなあ……。それに、やつら、生命の女王がなんとかって言ってたなあ。生命の女王って言やあ、俺らのお山のべっぴんさんの女神様じゃんか。やつらは死人の大王様にしか興味がないのかと思ってたんだが、なんだって急に女神のことなんか言い出したんだ? そう言やあ、今夜あたり、新月だったっけなあ。……ってことは、<運命の日>とやらは明日か? とにかく、こいつらが変なことばかり言うもんで、みんなが怖がって人出もさっぱり、これじゃあ、どの店も商売上がったりだ。なんと言ってもあの辺に立ってる女の子たちが気の毒だよなあ……)
首を振り振り歩き出したローイは、すぐに彼らのことなど忘れてしまった。
あいかわらず散らかった部屋に入るなり、ローイは、寝台の上にどさりとあおむけに身を投げた。頭の下で腕を組み、ほう、っと溜息をついく。
(あーあ、かったるいなあ……。こう暑くっちゃ、だれてしょうがねえや……)と、胸の中で自分の溜息の言い訳をするのだが、たぶんそれは、本当は暑さのせいではないのだ。
このあいだ、この部屋に里菜とアルファードが尋ねてきたときから、彼はなんとなく気分が晴れなくて、ますますだらけた毎日を送っているのである。
(ああ、しかし、あの靴下止め、リーナちゃんに見つからなくてよかったあ。さしも無粋もののアルファードにも、武士の情けってもんがあったか)と、あれから何度も思っていることを、もういちど思い返すのだが、実際は、よく考えて見ると、別に靴下止めが見つからなくても彼の女性関係の乱れはすっかり里菜にばれている。そのうえローイはまた、あの時、どうしていいかわからずに開き直って、それを里菜にわざとひけらかすような口をきいてみたりしたのだ。
(まいったよなあ、いきなり来るんだもんな……。俺、どんな顔していいか分かんなかったじゃん。リーナちゃん、全然変わってなかったよな……。小さくて、かわいくて、そのくせ口先ばっかりきつくてさ。そういえば、俺と同じで夜働いて昼間寝てるせいか、ますます色が白くなって、また、初めて村に現われた時みたいに白くなってたが、ただ、それだけだ……。なんか、俺ばっかり変わっちまったのかなあ……)
あれからもローイは、あいかわらず店の女性客に身を売ったり、皿運びの女の子ともよろしくやって乱れた生活を送っているのだが、この部屋にはもう女を入れていない。
もともと彼がここへ連れてくるのは、顔馴染みの娼婦たちだけだった。と言っても、彼女たちをローイが買うわけではない。一種の友達付き合いである。彼女たちはここでローイと寝ることもあるし、ただおしゃべりをしたり、屋台で買ってきた食べ物を一緒に食べるだけで帰る時もある。ローイは、たまたま彼女たちと寝た時も、その娘に金を払いはしない。むこうもそういうつもりでローイと寝るのではない。それも彼らの間での友達付き合いのうちなのだ。
ただ、娼婦たちの中には、たまに、逆にローイに金を払いたがるものもいる。そういう時は、ローイはいつも、
「え、なに、今日は金くれるわけ? そりゃあ、ありがとよ」などと、あっさりとそれを受け取る。それでその娘との友情が損なわれるとは別に思わない。いつも人に金で買われている彼女たちが、たまには自分が金を払うほうになってみたいなら、そして、それでどういうわけか多少はその娘の気が晴れるというのなら、それもいいだろうと思っているのである。彼女たちも、ローイがそういうことにこだわらないのをわかっているから金を払ってみたりするので、この、金のやりとりは、一種のごっこ遊びのようなものだ。
ローイはどんな女にでもやさしくするが、特に彼女たちにはわけへだてなくやさしくしてきた。彼女たちと寝るためになら別に気をつかってやさしくする必要もなく、ただ金を払えばいいいのだから、それはまったく下心のない、純粋な友情のようなものである。
彼はよく娼婦たちの愚痴を聞いてやる。といっても、彼女たちは、自分の不幸な身の上について、いまさら語らない。話したところでどうなるものでもないし、彼女たちのほとんどは北部の百姓の出で、それぞれが抱える物語は、みな、果てしなく悲しいけれど、どれも似たり寄ったりなのだ。彼女たちはただ、いやな客に当たった時などにローイのところで客の悪口を言って憂さを晴らしたり、最近客足が悪いなどとぼやいたりするだけだ。それでも彼女たちは、自分たちをまるで幼な馴染みの村娘であるかのように、気安く親しげであると同時にそれなりの礼節を保った対等な態度で扱ってくれるローイの前で、そういうささいで表面的な愚痴をこぼすことで、その寂しい心の、もっと奥深いところまで癒されて帰っていくのだ。
けれども、里菜がここへ来たあの日以来、ローイはなんだかこの部屋に別の女の子を入れる気にならない。なんとなく、そんなことをすると、この部屋の空気の中に僅かに残っている里菜の気配が消えてしまうような気がするのだ。もちろん、そんなのはばかげた感傷だとわかっているから、自分のそんな未練な気持を、自分で認めてはいないのだが。
しばらくそうして寝台の上で天井を見上げていてから、ローイは、どっこいしょとばかり身を起こして、意味もなくその辺を片付けはじめた。また、汚れた皿が置きっぱなしになっている。なんとなく、ここに居もしない里菜にしかられるような気がして、落ち着かない。かといって、外の共同流し場まで洗いに行くのも面倒なので、とりあえず、散らかっていた衣類と一緒に寝台の下の押し込んで、もういちどあたりを見回し、どこかに女の子の忘れ物がないかとよくよくチェックしてから、自分がなぜそんなことをしているのかわからなくなって、また寝台に寝転がる。
(今日、仕事さぼっちまおうかなあ……。なんか最近、やる気がでないんだよなあ……。どうせ今夜あたり、あの変な噂のせいで、店に来る客なんかあまりいないだろうしなあ……。ようし、決めた、さぼっちまえ!)
そのまま寝台に寝転がって、つい数時間前に起きたばかりだというのに、いつの間にかまたうたたねしていたらしいローイは、それからしばらくして、はっと目を覚ました。
小さなノックの音が聞こえる。遠慮がちに、誰かがドアを叩いている。
二、三度叩いては、ためらうようにしばらく休み、あきらめきれないように、また、そっと叩く。
ローイは、はっとして寝台から飛び起き、ドアに駆け寄った。
ドアを開くと、その向こうには、さっきまで彼の夢の中で微笑んでいたような気がする黒い瞳の清楚な少女が、ただひとり、青い服を着て立っていた。
どこまでも汚れなく白い肌、三つ編みにして両肩に垂らした黒い髪、透き通るような桜色の耳たぶ、今にも壊れそうな小さな手……。山の上の空にかかる遠い虹のように清らかな、彼の、夢の少女。
もしも手を触れたらたちまち儚い幻のように消えてしまいそうな、小さく華奢なその身体が、手を伸ばせば届くところに、今、立っている。
その、すべての光を吸い込む夜のように黒い瞳が、おずおずと彼を見上げ、あどけないバラ色の唇がそっと開いて、小さく彼の名を呼んだ。
「……ローイ」
「……リーナちゃん?」
ローイは目を丸くして少女を見つめた。




