第三章<イルベッザの闇> 第七場(2)
と、いうわけで、今、里菜とアルファードは、ラドジールから聞き出した、その歌うたいがいるという酒場を目指して歩いているのである。
そろそろ暗くなり始めるころだ。通りの人影も、だんだんまばらになってきた。
人の波が引き始めるにつれて逆に目立ち始めたけばけばしい身なりの街娼たちの姿に、アルファードはかすかに顔を曇らせた。
魔物対策として最近必ず酒場に付設されるようになった貸し部屋はまた、いかがわしい目的で使われることも多く、黄昏時の通りには、これから酒場に入る客を狙って街娼たちがあふれる。男たちの多くは、暗くなる前に好みの娼婦を選んで店に連れて入り、一緒に酒を呑んで騒いだ後、夜更けに連れだって二階に消えるのである。そして、これがまた酒場の風紀の乱れを助長していて、どの店でも、自分が連れてきた女より他の客の女のほうがよく見え始めて娼婦の争奪戦を始める愚か者が必ずいるし、逆に娼婦同士で客の取りあいから喧嘩が起こることもある。するとまわりの客も便乗して騒ぎ出すのだ。かと思うと、貸し部屋に行く前に、すでに店の隅でいかがわしさの度の過ぎる行為にふけるものまでいる始末で、最近の酒場のほとんどは、まっとうな堅気の女性などはとても入れないところになりはてている。
(ローイのいる店が、あまりいかがわしくないところだといいんだが……)と、アルファードは、自分の服にしがみ付いてきょろきょろしている里菜をちらりと見下ろして、ひそかに眉間を曇らせた。
もちろんこの街にも昔から娼婦もいれば娼館もあった。この国では売春は別に違法でも犯罪でもなんでもないし、それを悪徳と非難するような厳格な宗教も存在せず、特に南部ではその種のことがらについて道徳的にもあまりうるさくないから、彼女たちはそれほど蔑まれることもなく、その多くはそれぞれ不幸な事情を抱えながらも、比較的あっけらかんと大きい顔をしているものが多かった。イルベッザでは、そのよしあしはともかく、娼婦はさほど反社会的な存在ではなかったのである。
そして、そういう世界にはそういう世界なりに秩序もあれば良識もあって、今のように、街娼たちが所構わずおおっぴらに立ち並び、縄張りや客を取りあっていがみあうというようなことはなかった。
けれど今、もう暗くなりかけたこの時間に通りに立っている娼婦たちは必死である。ここで客をつかまえそこねたら、後から酒場に入っていっても、そのつもりのある男たちはすでにほとんど敵娼を選んで同伴しているから、一晩あぶれる確率が高いのだ。相手が女連れだろうと、かまわず声をかけてくるのも無理もない。
ふたりがローイのいるはずの店の近くまで来たころには、あたりはほとんど暗くなっていた。最後まであぶれて、あきらめかけて一か所に溜っていた数人の娼婦たちが、アルファードの姿をみつけて、われがちに声をかけてくる。ぎょっとしてアルファードにしがみついている里菜になどおかまいなしである。
アルファードがそれを無視して通り過ぎようとすると、彼女たちはわらわらと集まってきて、あれこれ勝手なことを言い出した。
「ちょっと、お兄さん、女の子を一人しか連れないでお店に入ったら、田舎者の貧乏人だってバカにされるわよ。最低二、三人は連れていてこそ、通ってもんよ。四、五人連れていけば、もう、男の中の男! 太っ腹に見えること間違いなし。ねーっ!」と、これは、アルファードをお上りさんと踏んでの無茶なでまかせである。
かと思うと、怯えている里菜をじろりと睨んで、失礼にも、
「何、この子。イモ。あなたみたいな逞しいいい男が、なんでこんなちんけなガキ連れてるの? あたしのほうがいいじゃない、ほら」などとポーズを取ってみせるものもいる。むろん、里菜が娼婦でないくらい一目でわかった上での暴言だ。
アルファードは表情を変えずに、狭い通路を遮断機のように塞いで目の前につきだされた娼婦の脚を――彼女たちは、里菜がこの世界で今まで一度も見たことのない短いスカートをはいていた――道にはみ出した邪魔な木の枝かなんぞのようにそっけなく払い除け、里菜の肩を抱えて娼婦たちの間を擦り抜けた。
後ろから、諦めた娼婦たちの罵俚雑言が追ってくる。
「なによ、でかい図体して、あんたなんか男じゃないわよ」
「そんな子供なんか連れて歩いて、どうする気? このヘンタイ!」
里菜は思わず振り返って怒鳴り返した。
「子供じゃないわよ! こう見えても、十七よ!」
娼婦たちは一瞬あっけにとられて、それからどっと笑い出した。
「うそォ! やだあ、信じらんない。かわいそう。ちんちくりん! ぺっちゃんこ! それで十七だなんて……」
わなわなと怒っている里菜の肩を、アルファードがぽんと叩いた。
「リーナ、ほっとけ。構うな」
「……うん」
里菜は、まだ笑いころげている娼婦たちから目をそらして、アルファードに肩を押されて歩き出した。
里菜も、彼女たちがいかに不幸な境遇であるかを知ってはいるのだ。こんなふうに通りに立っている女たちの多くは、北部からの避難民の百姓娘のなれのはてなのである。今、こうして里菜をあざ笑っているこの瞬間にも、彼女たちは、里菜などが生半可に同情することさえ許されないような、深い悲しみの淵に立っているのだ。それに、身を守る組織も持たずにこうして治安の悪い街角に立つ彼女たちは、犯罪の犠牲になることも多い。
その時、歩き出したふたりに、どこからともなく一人の老婆がすり寄ってきて、アルファードの袖を引いて伸び上がり、その耳元にしわがれた声で囁いた。
「……子供が好きなら、もっと綺麗な子を紹介するよ」
そのとたん、里菜の頭の中で、何かがプツンと切れた。目の前が白くなった。
次の瞬間、はっと気がついた里菜は、老婆に向かって振りあげたこぶしをアルファードに掴み止められていた。
「リーナ、いいから、ほっとけ」
「でも、でもあたし、あいつだけは許せない!」
あわてて逃げ去っていく老婆を睨みつけながら、里菜はまだ、震えるこぶしを握りしめていた。
「リーナ、気持ちはわかるが、あんなばあさんを殴ったところでどうなるものでもない」
アルファードは里菜の手首を掴んだまま、里菜を引っ張るように強引に歩き出した。
こうしていくつもの関門を乗り越えてたどり着いた目的の店は、アルファードがほっとしたことに、今のこのあたりとしては、まあまあ品のよさそうな、まともな店だった。と言っても、イルベッザ城構内の<長老>行きつけの店などとは大違いで、里菜のような世間知らずの女の子が足を踏み入れるためには相当の勇気を奮い起こさなければならないようなところには違いない。
が、
「なんだ、このお店?」と、看板を仰ぎ見た里菜は呟いた。
里菜はその店を知っていた。中に入ったことはないが、魔物退治で、この店の前は何度も通ったのだ。もしかすると、あの時、ドアの隙間から漏れてきたざわめきの中に、なつかしいローイの声も混じっていたのだろうか。
「いつか、ここの前で、魔物を一体みつけたわよね」
「ああ」
「あの時も、中にローイがいたのかしら」
「さあ。その頃は別の店にいたのかもしれないし、全く違う仕事をしていたのかもしれない」
実はアルファードは、ずっと前に、里菜には黙って、このへんの盛り場を一通り調べたことがあったのだ。ローイが身を持ち崩してこうした盛り場で酒びたりになっているなどというのは、いかにもありそうなことだ。けれど、その頃は、この界隈にローイの姿は無かった。
アルファードは、これまでに、ローイの消息を求め、月の明るい夜や昼間の空き時間を利用して、盛り場どころか牢獄まで一人で調べてまわった。苦労性のアルファードが想定したローイの境遇のあれこれのなかで最悪のものといえば、短慮ゆえに何かつまらぬ厄介ごとに巻き込まれた挙句とっくの昔に簀巻きにされてシエロ川の底に沈んでいるというものだったが、その次は、うかうかとギャング団にでも鼻をつっこんで抜けるに抜けられなくなり、アルファードたちに連絡をとりたくてもできなくなってしまったか、あるいはそれで運悪くしょっぴかれて牢屋に入れられている、というものだったのだ。
それらの可能性とくらべたら、歌うたいとしてそれなりにちゃんと働いているというのは、まあ、思ったよりまともな境遇である。同じ盛り場にいるにしても、アルファードの悪いほうの想定には、かっぱらった金で娼館に入り浸っているとか、小金のありそうな女をたぶらかして巻き上げた金で酒びたっているというのもあったのだ。――もっとも、この、後のほうの想像は、まるきりの杞憂でもなかったらしいのが後でわかるのだが。
はたして今日、ここで、ローイに巡り会えるのだろうか。
ドアを開けたとたんにむっと纏わり付く熱気の中に、ふたりは足を踏みこんだ。
薄暗い店内は料理の油や酒の匂いと人いきれでむせかえるようだった。入り口近くのテーブルに座っていた数人のむさくるしい男たちが、警戒するようにいっせいにこちらを見て、ドアが閉まると大方は興味なさそうにまた目をそらす。だが、そのうちの何人かが、そのままじろじろと、あからさまに好色そうな目付きで検分するように里菜を眺めまわしたので、怖くなった里菜はアルファードの腕にぎゅっと縋りついた。が、彼らは、アルファードにじろりと一瞥されると、とぼけたようにすっと目をそらした。
アルファードは、里菜をぶしつけな視線から身体で庇うようにしてテーブルの間を擦り抜けながら、言い訳するように呟いた。
「このあたりの店も、前はこんなじゃなかったんだが……」
「前って、アルファード、来たことあるの?」
「いや、この店は初めてだが、武術大会の後、自警団の連中と、この界隈で打ち上げをやった。そのころは酒場だって、こんなにガラが悪くなくて、もっと明るい、健康的な雰囲気だった」
「そっか。でも……、ローイはほんとにこんなとこにいるのかしら……」
アルファードは、人をかき分けて進みながら、店の奥の、人の群がっている一角に目をやった。
「いるようだぞ、ほら……」
と、言われても、背の低い里菜には前に立っている男の背中しか見えなかったのだが、その時、その一角で起こっていたざわめきが水を打ったように静まり、聞き慣れた楽器の音色が流れ始めた。ローイが愛用していた、例の『カマボコ板』の音色である。
いくつかの、もの悲しい和音の後で、静かに歌声が流れ出した。
夢に浮かぶ ふるさと
遠い春の日射しの
ぬくもりも消え失せ
ただ残った この唄……
聞き間違いようもない、ローイのやわらかなテノールだ。
里菜とアルファードは、その場で足を止めて歌声に耳を傾けた。
哀調を帯びた旋律に聞き入るうちに、里菜の脳裏に、春の日射しのような、スミレの花のような、ヴィーレの笑顔が浮かびあがった。それから、夕日の中で菫色にオレンジにと淡く輝くエレオドラ山の端正で優美な姿が、やさしい翡翠色を帯びたエレオドラ川の流れが、アルファードと暮したささやかな家が、草をはむ羊の群れと、それを見守るミュシカのやさしい目が。
恐らく、今この歌を聞いている人々のそれぞれの脳裏に浮かんでいるのは、それぞれの故郷の風景、それぞれの懐かしい人の姿なのだろう。
静まりかえった人々の間を縫って、哀しい歌は流れる。
それは、故郷を失くした孤独なさすらい人の歌だ。
鼻を啜る音に振り返ると、さっき里菜をいやな目付きでじろじろ見たガラの悪い中年男が、テーブルに肘をついて顔を覆っていた。彼にしなだれかかっていた、ケバケバしく造ってはいるがまだ十代半ばと見えるどこか垢抜けない丸ぽちゃの娼婦の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいるのを里菜は見た。
やがて歌声が消えると、夢から覚めたようにざわめきが戻った。前のほうでは、客たちが口々にローイに次の歌をリクエストしているらしい。
アルファードが、里菜を抱えるようにしながら強引に人の群れをかき分けて前に進んだ。アルファードの肩に押されて目の前の人込みが左右に分かれた時、初めて里菜の目に、なつかしいローイの姿が飛び込んできた。
ローイは、ちっとも変わっていなかった。――つまり、あいかわらず、これ以上ないというほどド派手でケバケバしく、キテレツだった。
が、良く見ると、いったいそんな妙なものをどこから調達してくるのか、前にはしていなかった珍奇で派手派手しい装身具をあちこちにじゃらじゃらと大量にぶら下げ、髪はところどころに色粉を振りかけてまだらに染め上げて、そのキテレツさ、珍妙さに、さらに磨きがかかっているように見える。
ローイは、向こうのほうの客とにぎやかに言葉を交わしていて、アルファードと里菜の姿には気がついていない。ローイの前には例の赤い羽根のついた緑の帽子がさかさまに置かれていて、客たちは、拍手をしたり口笛を吹いたり、口々に次の歌をリクエストしたりしながら、次々とそこに硬貨を投げ込んでいた。
里菜の頭上で、突然、アルファードが声を上げた。
「『エレオドラの星』を」