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第三章<イルベッザの闇> 第七場(1)

 夜ごと魔物が街を徘徊する不穏なこの時代、かつては不夜城と謳われたイルベッザの盛り場がその活気と喧騒をひととき蘇らせるのは、日没前後の儚い黄昏時に限られていた。

 昼間の通りは閑散として、それでもよく見るとあちこちの物陰に無気力そうな男たちがぼんやりと坐り込んでいたり、昼間の月のように悲しげな、疲れて色褪せた夜の女たちがのろのろと動き回って気だるい日常を営んでいたりするのだが、なぜか、まるで、人の死に絶えた廃墟のように見える。

 その、生きているものといえば野良犬だけのように見えていた通りに、夕方近くなるとどこからともなく、灯火に集う羽虫のように群衆が湧いて出る。そして、黄昏の最後の光が消えると同時に、その幻のような賑いは、まるでこの街がかつての繁栄の夢を見ていただけだというように、ふたたび通りから忽然と掻き消えるのだ。

 と言っても、彼らがみんな家に帰ってしまうというわけではない。外の人通りは途絶えても、酒場の窓やドアの隙間からは、夜を徹して明りとざわめきが漏れ続ける。市内に魔物が出没するようになった最近では、酒場の客はみな、まだ明るさの残るうちに店に入って、そのまま朝まで――あるいは翌日の夕方まで出てこないのだ。

 そういう酒場から漏れてくるざわめきは、歌や笑い、話し声や嬌声といった楽しげなものばかりではない。時には、怒号、悲鳴、物の壊れる音などが混じる。それも、近頃は、かなりひんぱんにである。

 朝まで店から出ないとなれば深酒をするものも増えるし、一晩中同じ客が同じ店で顔を合わせ続けることになるので、そりの合わない客同士のいがみあいも増えるのは当然で、昔から酒に喧嘩はつきものとはいえ、イルベッザの盛り場の治安の悪化と雰囲気の荒みようは最近特に著しく、今や酒場は喧嘩沙汰の温床なのだ。

 イルベッザでは、盛り場は本来、地域や店によってガラのよしあしはあっても、基本的には比較的健全な息抜きの場だった。地区を選べば女性だけで歩いてもそれほど怖くなかったし、食堂を兼ねた酒場には近所の老人たちがたむろしておしゃべりやゲームに興じ、早い時間であれば子供連れで食事をしている地元住民も珍しくはなかった。

 けれど、魔物が出没するようになってからは、そんな暖かな光景は見られなくなった。

 今では、健全な市民はよほどの理由がないかぎり夜の街に出たりはしないから、今どきそれでも酒場にたむろしているような人々は、すでに健全な市民生活を投げうってしまったようなはぐれ者、刻印を受けて絶望に取りつかれているものなどがほとんどで、みな、暗い目をしている。

 中でも目立つのが北部の出身者で、酒場では、今や、やわらかな北部訛りが声高なイルベッザ訛りにとってかわって巾をきかせている。

 もともと酒場の中には宿屋をかねているものもあったし、そうでなくても二階や奥の小部屋などを客に貸しているところも多かったが、最近では、ほとんどの店が改装や増築で簡易な宿泊施設を確保するようになり、住む家も家族も失った北部の民の中には、こうした貸し部屋に半ば住み着いてその宿賃と酒代にわずかな日銭をほとんどそのままつぎ込む、無目的で荒んだ生活を送るものも少なくない。

 そうした日雇い者たちの中には、春までのつもりで出稼ぎにきているあいだに故郷の村が魔物にやられ、帰るべき故郷や待っていてくれる家族を失ってしまったものも多い。そんな彼らの暮しには、もう、何の目的もない。ただ、あてもなく都市を漂うだけの根なし草である。

 また、彼らの中には避難民も多く、そういう者たちは心にさらに深い傷を負っている。彼らは、愛する家族や同胞、住み慣れた家、誇りと意地を持って励んできた百姓の仕事、もともと地力の乏しい北部で先祖代々根気強く改良し続けてきた農地といったものを、身も凍るような恐ろしい体験の末に失ってきているのである。

 北部を襲った災厄のうちでもっとも恐ろしいのは、実は魔物ではなく、<魔王の灰色の軍勢>と呼ばれる人間の姿の軍勢だった。

 魔物の軍勢の後につき従って来る彼らは、魔物と同様、半ば幻めいた灰色の影のような姿を持つが、魔物のように灰色のマントを着ているわけではなく、普通の農夫のような服装をしている。ただ、その衣服も身体も、ぼんやりとした灰色で、色彩がない。そして、時には、剣や弓矢の代わりに鋤や斧を持っていることもある。全く口をきかず、音を立てず、表情のないうつろな目をした幽鬼のような連中で、魔物が去った後、火や光に弱い魔物に代わって、畑や家々を根こそぎ焼き払っていく。

 が、彼らの本当の恐ろしさはそういう行為とは別のところにあった。

 逃げ遅れて彼らに遭遇してしまった村人は、しばしば、彼らの中に、かつて刻印を受けて死に至ったり、あるいは襲撃の混乱の中ではぐれたり魔物に切り殺されたりしたはずの身内や近隣の知人によく似た姿を見てしまうことがあるのだ。

 それを見たものは、たとえ<魔王の刻印>を受けていずとも恐怖と衝撃のあまり腑抜けのようになってしまうし、半ば気がおかしくなってしまうものもいるらしい。

 そういう恐怖と喪失の果てに故郷を捨てた彼らは、さらに逃避行の途中で、家族がはぐれたり野盗に襲われたりといった苦難に見舞われることも多い。避難民の多くが縁故を頼ってカザベル街道沿いの地方都市などに受け入れられる中、どこにも落ち着く場所がなく遠いイルベッザまでも逃げ伸びてきたような者は、その中でも特に辛い思いをしてきている者たちだ。

 ところがそうしてやっとたどり着いた都には、住む家も、安定した職もない。しかも、郷里ではほとんどが百姓だった彼らは街の暮しや仕事に馴染めず、ますます孤独を深め、心を荒ませていく。

 こうした大量の避難民の流入と、それに対する<賢人会議>の無策は、当然、元からの市民たちの生活にも影響を及ぼす。都には、貧困と犯罪がはびこり、治安と風紀は乱れに乱れ、人心は荒廃する。

 そして、その荒廃が最も端的に現われる場所が、こういう場末の盛り場なのだ。

 今は、そんな荒んだ盛り場が短い華やぎを見せる黄昏時。

 この街にはいかにもそぐわない、質素だがきちんとした堅実な身なりの、見るからに健全で浮ついたところのみじんもない逞しい若者と、やはり質素で地味な服装の、まだ子供のように幼げな清純そのものの少女が、ぎこちなく寄り添って歩いていた。

 その少女――里菜は、不安げに身を固くして、アルファードの上着の裾を掴んでしっかりと握りしめながらも、目だけは好奇心一杯に見開いて、きょろきょろとあたりを見回している。イルベッザにきてから半年以上たつが、里菜は仕事の他ではほとんどイルベッザ城構内を出ることもなく、名所見物も夜遊びもしたことがないから、盛り場の賑いが珍しくてしかたないのだ。

 と言っても、この界隈自体は、里菜にとって、むしろ馴染み深い土地だった。それこそ石畳のどこにぬかるみができるかまで知り尽くしていると言っていい。このあたりは市内でもよく魔物が出没する危険地帯で、里菜とアルファードのお馴染みの仕事場なのだ。

 ただ、仕事をするのはいつも人通りの途絶えた深夜に限られていたので、こういう賑かな光景を見るのは初めてだったのである。

 魔物退治を始めてしばらくは、ふたりはもっぱらこうした繁華街を中心に仕事をしていた。そういうところには、どういうものか、まるでそこに集う人々の退廃の気配に呼び寄せられるかのように、特に多くの魔物が出没するのだ。

 けれど最近は、そういう盛り場ではあまりに治安が悪化しすぎて、人通りの絶えた深夜でさえ、魔物を見つけることより、人間による犯罪の現場を偶然見てしまうことのほうが多いくらいになった。

 犯罪の取り締まりは本来正規軍の仕事だから、里菜たちには何の権限もないのだが、かといって、麻薬の密売くらいは見逃すにしても、目の前で殺人だの強姦だの誘拐だのが行なわれようとしていたら、止めないわけにもいかない。それでアルファードは、いちいちそういう犯罪者を追い散らしては被害にあいそうになっていたものを助けてやったり、時にはしょうことなしに犯罪者を捕らえて正規軍に引き渡したりしていたのだ。

 里菜は、実は、そういう夜警の仕事のほうが、怖いけれども、魔物退治よりはよっぽど正しいことをしているという実感があって好きだったのだが、アルファードが「こう余計な仕事ばかり多くては能率が悪いし、こういう仕事で目立ち過ぎると正規軍に睨まれる」と言って、最近では、だんだん歓楽街での魔物退治を避けるようになった。

 里菜には言わなかったが、アルファードは、そういうところで里菜を魔物以外の無用な危険にまでさらしたくなかったし、また、実を言うと、里菜に、この街の、あまりガラの悪い部分を見せたくなかったのだ。

 だから今日も、アルファードは最初、一人でここに来るつもりだったのである。

 だが、盛り場にローイを探しに行くというアルファードの話を聞いた里菜が、どうしても一緒に行くと言い張ったのだ。

「君のような女の子が行くところじゃない」と、言い聞かせるアルファードに、里菜は、

「だって、ローイはあたしの友達でもあるのよ! それに、アルファードと一緒なら、何も危ないことなんてないでしょ?」と言って、強引についてきてしまった。

 里菜にしてみれば、アルファードがローイを連れて戻ってくるまで、いつになるかもわからないのに、おとなしく宿舎で待っていることなんて、できるわけがなかったのだ。

 けれど今、里菜は、いかにもガラの悪い男たちに通りすぎざまにじろじろ見られて、アルファードの上着の裾を握る手に力をこめながら、ついてきたことを、もう後悔しはじめていた。するとその時、里菜の怯えに気がついたアルファードが、片手で里菜の肩を抱き寄せてチンピラを睨みつけてくれたので、後悔はたちまちふっとんだ。アルファードがついていてくれれば、あんな貧相なチンピラなんか怖くもない。

 アルファードがこんなふうに里菜を抱き寄せてくれるなんて、普段なら絶対にないことだ。里菜は嬉しくなって、アルファードの脇腹のあたりに――里菜の頭はちょうどそのくらいの高さだった――そっと頭をすり寄せた。するとアルファードは、困ったようにそっぽを向いてしまった。そんな無器用な様子は村にいたころの彼と少しも変わっていないと、里菜はこっそり微笑んだ。



   *



 アルファードがローイの消息についての手掛かりを掴んだのは、この日の昼前だった。 宿舎の部屋で、同室のラドジール――名前から想像がつくとおり、カザベル近郊の出身である――が、小声で歌を口ずさみながら身支度を整えていた。ラドジールは、ごく無粋で武骨な百姓の息子だったが、歌が好きで、起居の折節に、よく、郷里である北部の民謡などを口ずさむのだ。

 ちょうど目を覚まして、寝台の中で聞くともなしにそれを聞いていたアルファードは、普段は聞こえていても気にもとめない、いささか調子はずれなラドジールの歌に、なぜかこの時、途中ではっとして聞き耳を立てた。

 アルファードの注意を引いたのは、その歌のメロディーではなかった。それは、このイルベッザでもしばしば耳にする、北部の有名な古旋律にすぎなかった。

 ただ、漂泊の孤独を感傷的な言葉に乗せたその歌詞の断片が、ふとアルファードの心にひっかかったのだ。

 次の瞬間、アルファードは、掛布をはね除けてガバっと身を起こした。

「ジール! その歌を、どこで聞いたんだ?」

 日頃もの静かなアルファードの険幕に驚いたラドジールは、身支度の手をとめ、目を丸くしてアルファードを見た。

「どこって、おめぇ、この歌、知らねえのか? 今、街で流行ってるんだぜ。まあ、おめぇは俺らと違って遊ばねえから、無理ねえやな。酒場になんか行ったこともねえんだろう」



   *



「でもアルファード、それって今まで聞いたことのない歌詞なんでしょ。どうしてローイの作った歌詞だってわかるの?」と、アルファードからそのいきさつを聞いた里菜は、当然の疑問を発した。

 するとアルファードは、当然のように答えた。

「わかるさ。俺たちは付き合いが長いんだ。間違いない。なんていうか、そう……、言葉から、ヤツの匂いがするんだ」

「うそぉ、やだ、匂いだなんて。アルファードって、警察犬みたい」

「なんだ、それは? ……まあ、匂いというのはもののたとえで、つまり、内容とか言い回し、言葉の選び方、使い方の癖みたいなものでわかるんだ。あれは、絶対、ローイの詞だ。それに、俺はジールに、その歌を歌っているという歌うたいのことを尋ねたんだが、やつは、こう言った。茶色いくせっ毛の、ちょっと綺麗な顔をした若い男で、やたらとひょろひょろ背が高く、とんでもなく派手でキテレツな服を着ていた、と。しかも、その男のズボンは、左右の長さが違っていたそうだ」

「……ローイだわ。絶対、ローイだわ。そんなの、ローイしかいない!」

「だろう?」

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