第三章<イルベッザの闇> 第六場(1)
南の都イルベッザは、やわらかく湿った春を過ぎ、眩しい夏を迎えた。
海沿いの低地で細々と米が栽培されていることからもわかるように、イルベッザの気候は、梅雨はないまでも、ごく日本と近いらしい。が、『常春の都』と言われるだけあって、より四季の温度差が少ない、穏やかな気候に恵まれているようだ。冬は東京よりかなり温暖だったが、夏の暑さはだいたい東京と同じ程度だろう。
石畳に夏の光がぎらぎらと照り返すイルベッザ城構内の一角。
うだるような暑さの中、昼休みを楽しむ役人や治療師たちがのんびりと行き交い、わずかな木陰では、学生たちがたむろしてだべっている。
「おっはよー、リーナ! お寝坊さん!」
いきなりすごい勢いで背中を叩かれて、里菜は飛び上がった。
もちろん、声の主は振り返らなくてもわかる。もし、声でわからなかったとしてさえ、こんな乱暴者はリューリしかいない。
夜明が早い夏は、魔物退治も早く終りになるので、里菜は以前よりは早く寝ることが多い。それでも、起きるのはどうしても昼近くだ。闇に慣れた目に白昼の日差しが眩しい。
目を細めて振り返った里菜が光の中に見たのは、リューリだけではなかった。今日も彼女は、後ろにぞろぞろと『子分』を従えていたのだ。
ともに勤務時間が不規則な里菜とリューリは、運よく食事の時間が合えば、宿舎街の食堂で一緒に食事をする。リューリには里菜の他にも一緒に食事をする仲間が大勢いて、ここへ来てすでに半年が過ぎた今、里菜は、その日の食事時間の都合で変わるそのメンバーの大半と、リューリの紹介ですでに知りあいになっている。
今日のメンバーは彼女の他に四人。里菜にもお馴染みのメンバーばかりだ。
リューリの後ろでニコニコしている小柄な少年は、彼女の従弟、天才少年の誉れ高い、若干十五才の新鋭学者エルティーオだ。前にリューリが話していた、『アルファードの大ファン』である。
彼と初めて会ったのは、ここへ来て間もないころだった。ぜひアルファードに彼を紹介させてほしいというリューリの頼みで、四人で一緒に食堂に行ったのだ。
彼がどんなに天才でずばぬけたエリートかをリューリからさんざん聞かされて少々身構えていた里菜は、あの日、リューリに連れられて約束の待ちあわせ場所に現われた彼を見て、どっと力が抜けた。なにしろ、彼を見た瞬間に里菜が抱いた第一印象は、「わあ、ナントカ少年合唱団!」というものだったのだ。
何というか、清純派風である。
十五才といえば、『あちら』での中学三年生にあたるはずだ。普通なら、髭の生えかけた薄汚いにきび面に、脳みそとアンバランスなむやみとでかい図体というのが相場だろうに、この清らかさ、かわいらしさはなんだろう。
彼は、従姉のリューリとは似ても似つかぬ白い肌、やわらかそうな茶色の髪に空色の目の少年だった。似ているところといえば、年の割にやや背が低いことくらいか。そして、これもリューリに似ず、特別に美形というわけでもないおとなしい顔立ちなのだが、これがなんだか、ちょっと童顔で、妙にかわいいのだ。リューリに言わせれば、性格のかわいさが顔に出ているのだそうだ。
自分の目の前でそんなことを言われた時は、彼もさすがにちょっとむっとしていたが、そんな様子もまたかわいくて、里菜は、失礼だと思いながらも、つい吹き出してしまったのだった。
リューリが彼を紹介した時も、おかしかった。リューリは自慢そうにこう言ったのだ。
「これが従弟のエルティーオ、ティーオよ。どう、かわいいでしょ! これで、もう、すっごい天才なんだから。あたしたち、姉弟同然に育ったの。ねっ、ティーオ。リーナ、言っとくけど、この子をいじめたりしたら、あたしがすっとんで行くからね!」
「リューリ! もう、いいかげん、会う人ごとにそんなこと言うの、やめてよ。今じゃ誰も僕をいじめたりはしないんだから」
ティーオは、苦りきった顔で――そんな顔まで、やっぱりかわいかった――リューリを肘でつついて言った。里菜にキャテルニーカを甘やかすなと説教したリューリも、この従弟に対しては、なかなか過保護らしい。
アルファードに引き合わされた彼は、頬をピンクに染め、目の中に星をきらめかせた感激の面持ちでアルファードを見上げて、こう言った。
「僕、以前から、あなたのことをとても尊敬してるんです。あの武術大会の時、僕は、人間は魔法なしであんなに強くなれるものなのかと感動しました。そう、あなたは人間の可能性について、僕に考えさせてくれたんです!」
この、ずいぶんと大袈裟な賛辞に、返答に困ったアルファードが、
「ああ、それは、どうも……」と、あらぬかたを見ながらぼそぼそ言っていると、ティーオはなにやら小さな袋を取り出して、彼に差し出した。
「あの、これ、プレゼントです。使って下さい。そのう……、魔法なしでも火を呼び出せる道具です。僕が発明しました。ちょっと、開けてみてください。ほら、そっちの棒の先を、そっちの石でこするんです」
アルファードが言われるままに取り出した袋の中身を見て、里菜は叫んだ。
「こ、これっ……! マッチじゃないの!」
ずいぶんと武骨な造りではあったが、たしかに原理はマッチだ。摩擦で火を起こすことさえ知られていないこの世界で、この少年は、たったひとりで、火打ち石を飛び越してマッチを発明したのだ。たしかに天才だ。
「『まっち』とはなんだ?」と言いながら、アルファードは、ティーオが手ぶりで教えるとおりにマッチを一本擦った。最初はうまくいかなかったが、何度目かで、マッチはぼっと音を立ててかなり派手に燃え上がった。アルファードはそれを目を丸くして呆然と見つめていたが、すぐに軸が短くなって炎が指先に迫ったので、あわてて地面に投げ捨てた。危うくアルファードの指先を焦がしかけたマッチは、石畳の上であっという間に燃え尽きた。
「そう、そうやるんです。これ一本一本は使い捨てで、こうして出した火を、すぐに、あらかじめ用意しておいた蝋燭などに移して使います。今はこれしか手もとにないんですけど、なくなったら、また、いくらでも作れます。次に作る時は、もっと小型化、軽量化して、あと、もっと持ちやすく、擦りやすく改良したいと思ってるんですけど……」
「す、すごいわ! ありがとう、ティーオ! これ、すっごく便利よ。どこででも使えるし。ね、アルファード?」
驚きのあまり黙り込んでいるアルファードに代わって、里菜が言うと、アルファードも黙って何度も頷いて、やっと言った。
「あ、ああ。……ティーオ、君はこれを、わざわざ俺のために発明してくれたのか? この世界に、俺以外には、これを必要とするものはいない……」
「ええ」と、ティーオは、はにかんだ笑みを見せた。汚れなき天使の微笑みである。
「あなたのことを知るまで、僕は世の中に魔法を使えない人がいるなんて考えても見ませんでした。でも、たとえ一人でもそういう人がいるなら、その人がなるべく他の人と同じように不便なく日常を暮していけるよう、本人だけでなくみんなが工夫するべきだと思ったんです。今、もっと他にも研究をしているところです。これであなたの生活が少しでも便利になればうれしいです」
「ありがとう、ティーオ……。しかし、こんなふうに、使い手の魔法の力に頼らずに引き出せるように、ものに魔法の力を込めておくなんていうのは、<本物の魔法>でしかできないことだと思っていたが……」
「ああ、それは、たぶん魔法じゃないんです。もちろん、加工の段階ではあれこれと魔法を使いましたが、その原理自体は魔法じゃないと思います。物に魔法を込めたんじゃなくて、物が持っているもともとの性質を研究して、それを引き出す工夫をしたんです」
「そうよ、これは……、これは、科学よ!」という里菜の呟きは、小さな声だったので、誰も気にとめなかった。
「アルファード、あなたが僕に教えてくれたんです」と、ティーオはアルファードをまっすぐ見つめて言った。
「人間には、魔法以外にも使えるものがあるってことを。あなたには力が使える。僕には――もちろん、あなたや他の人にも使えるんですけど、人より余計に、頭が使えます。実は最初、魔法を組み合わせてこういうものを作ろうと思った時は、何もできなかったんです。発想を変えて、魔法とは一切関係のないところで頭と手先だけを使ってやってみようと思った時から、最初の一歩が始まったんです」
里菜とアルファードがひたすら感心して聞き入っていると、横からリューリが口を開いた。
「これ作るのに、ティーオは苦労したのよ。忙しい本業の合間にやってたし、この方法を思いついてからも最初はなかなかうまくいかなくて。ね、ティーオ、あなた、さんざん前髪焦がしたのよね。前髪どころか睫毛も焦がしたし、一度なんか大爆発して、ドアまでふっとばしたのよね。頭はちりちりだし、顔は真っ黒だし、そこら中しっちゃかめっちゃかで。あの時は所長や管理人に怒られたわよねえ。あやうく研究所から追い出されるところだったのよね。火事が出なくてよかったわ」
ちなみに、名前からはいったい何の研究所なのかよくわからない『イルファーラン国立研究所』というのは、その実態も名前どおり何をやっているのかよくわからないところで、いろんな学者が集まってそれぞれ勝手に自分の専門分野の研究をしている施設である。何人かでチームを組んでひとつの研究をしている人たちもいれば、ティーオのように一人で自分だけの研究を進めているものもいるのだ。
ティーオの『本業』は、魔法の照明器具造りだそうだ。イルベッザ城の廊下にあったあの不思議な照明こそ、ティーオの試作品で、これを全国の一般家庭にまで普及させることが彼の夢だと言う。
あれ以来、里菜は何度か、リューリと一緒にいる彼と出会っているが、その度に彼の前髪が焦げていたり、頬や服が煤けていたりするところを見ると、あの後も、彼はアルファードのために『マッチ』の改良をかさねてくれているらしい。
あれからもう二月ほどたったろうか。今日もまた、彼の前髪は焦げている。
ティーオの後ろには、さらに、キャテルニーカと、治療院の雑用係のフェルドリーン。
フェルドリーンは十四才、そばかすだらけの丸顔にいつも穏やかな微笑みを浮かべた、もの静かで大人びた少女で、無口だが、たまに口を開くと、どんな時も変わらぬ小さなやさしい声で必ず的確なことを言う。彼女の丸い顔と生真面目で考え深そうな灰色の瞳を見るたびに、里菜は、なんとなくナキウサギやヤマネといった小動物を連想する。
勉強好きで努力家の彼女は、この秋から、治療院で働きながら上級学校に通う予定で、春の終りに初級学校を卒業すると同時に、リューリの指導のもと、見習い修行に入ったのだ。
キャテルニーカは、どうやらたちまち彼女とも親しくなったらしい。
実は里菜は、最初のうち、キャテルニーカが学校や治療院でうまくやっていけるのか、とても心配だった。なにしろ彼女は、ひどく風変わりで浮世離れしていて、しかも年の割に妙に子供っぽく、一見、頭が足りないようにさえ見えるのだ。
けれど、どうやら、それは杞憂だったようだ。
キャテルニーカは、学校に行ったことがなかったので最初は年下の子供たちと一緒のクラスになったが、もともと読み書きはできたし、実はものすごく記憶力がよかったので、どんどん勉強が進み、今では同年令の子供たちと同じ学年に追いついている。そこで、彼女は、ちょっと風変わりではあるが普通の子供としてあたたかく迎え入れられ、友達もできて楽しくやっているらしい。
職場でも、治療の魔法の才能や薬草の知識が豊かな上に子供離れした判断力と落ち着きがあると重宝がられ、その屈託のない性格と愛らしい容姿もあいまって治療師や患者たちの人気を集め、治療院のマスコット的存在になっているという。
そうなると、里菜は、ほっとする反面、なぜか寂しいような気もして、複雑な心境である。子供が手を離れた母親の気分だ。




