第三章<イルベッザの闇> 第二場(1)
あの日、跳ね橋を渡った里菜とアルファードは、通りすがりの学生らしき青年に道を尋いて軍の事務局にたどりついた。城の敷地は結構広くて、あらゆる国立施設と、その職員の宿舎や食堂などが立ち並び、ちょっとした街になっている。いわば官庁街なのだが、その言葉から想像するような整然としたところではなく、城の外の街と同様、どうにもこうにも無秩序でごちゃごちゃしたところだ。
手続きは、ほんとうにこれでいいのかと思うほど簡単だった。後で知ったところによると、いくらいいかげんなイルベッザとはいえ、最近、特殊部隊の入隊手続きが特にずさんになったことは有名で、魔物が志願してきても入隊させてしまうだろうと言われているそうだ。
「あー、出身地と名前、年令。言っとくが、十六才未満は入れないよ」と、里菜を一瞥しながらぼそりと言う初老の事務官に、アルファードが短く答える。
「イルゼールのアルファード、二十二。同じくリーナ、十七」
「リーナ? エレオドリーナでもファルリーナでもなくて、ただのリーナかね?」
「はい」
「……まったく、近頃の若い者の名前ときたら、いいかげんで困る。で、家族は、あるかね? つまり、万一あんたらが死んだ時、連絡しなきゃならないところは。そうそう、仕事で死んだら、見舞金が出るからね。まあ、ほんの気持ち程度だけどね。その見舞金を受け取る人は?」
「ふたりとも家族はいませんが、万一の時はイルゼール村の世話役に連絡と見舞金の支給をお願いします」
「ほうほう、なるほどね。家族がないなら、結構。私はね――これはもちろん越権行為なんだが――、志願者に家族がいる時は、いつも、なるべく入隊をやめるようにと忠告するんだよ。個人的な老婆心でね。で、君たちは、武器や防具の貸与を希望するかね?」
「いいえ」
「仕事はこのふたりで? なんなら、他にもチームを組む相手を紹介するが」
「結構です」
「宿舎への入居は?」
「希望します」
「じゃあ、あとで宿舎の場所を教えるから、それぞれ、この書類を持って行って、宿舎の管理人に渡しなさい。それから、仕事のやり方と報酬の仕組み、各種の規則だが……」
こうして、ひととおり簡単な説明を受けたら、それで終りである。
が、その後、事務官は、しばらく考えて付け加えた。
「ところで、そっちのあんた……、アルファードって言ったな。イルゼールのアルファードという名には聞き覚えがあるような気がするんだが……。もしかして、あんた、前回の武術大会のチャンピオンの、あの<ドラゴン退治のアルファード>じゃないのかね?」
アルファードが、そうだと答えると、事務官は突然慌て出し、『ちょっとそこで待つように』と言い置いて、どこかへ飛び出していってしまった。アルファードと里菜は、しかたなく、外で待たせていたキャテルニーカも連れてきて面接室で座って待っていたが、そのうち事務官が息を切らせて戻ってきたかと思うと、得意満面の手柄顔で言った。
「ちょっと一緒に来てくれないか。<賢人>ファルシーン様が、お会いになりたいと言っている。……なんだね、その子供は? えっ、孤児? まあ、いい。とりあえず、一緒に連れておいで。働き口を探してる? それじゃ、運がよければ、その子のこともファルシーン様がうまく取り計らって下さるかもしれんよ」
こうして、里菜たちは、わけもわからぬままに事務官に連れられて、城の正面広場を横切り、門番もいなければ受付もない開けっ放しの通用門のようなところから奇妙な城に入っていくはめになったのだ。
薄暗くひんやりとした長い廊下を、勝手知ったる様子で、事務官はすたすたと進んでいく。
天井を見あげると、ところどころに奇妙な光の玉が浮かんでいる。キャテルニーカの出した光球ほど明るくも大きくもなく、あれより温かみのある色あいだ。さすが<賢人の塔>、村では見たこともない高度な魔法である。
それにしても、いったい何が起こったのか、里菜は呆然とするばかりだ。
この<賢人の塔>というのは、日本で言えば国会議事堂、アメリカで言えばホワイトハウスか何かにあたるはずの建物ではないだろうか。それを、こんなふうに、いきなりずかずかと入り込んでいいものだろうか。いくらなんでも気軽すぎ、開けっ広げすぎるのではないだろうか。
曲がりくねった廊下を、あちらに折れ、こちらに折れして歩き回ったあげく、事務官がノックをして開けたのは、ごく簡素な小部屋のドアだった。長いらせん階段を登ったところだから、あの奇妙な塔のひとつに位置する部屋なのだろう。
中にいたのは、襟ぐりに金の模様の入った長い純白のローブに身を包んだ、三十代半ばと思われる赤毛の女性だ。何もかも見通すようなまなざしと意志の強そうな口元を持つ知的な美人で、きりりと姿勢を正したその姿は、いかにも行動力と活力を感じさせ、ちょっとただものではなさそうな威厳がある。
背丈は普通だが、女性にしては骨太の、しっかりした体格で、こちらへやってくる足取りのきびきびした無駄のなさから、アルファードは彼女を軍人上りだろうと踏んだ。
「ファルシーン様、お待たせしました。イルゼールのアルファードと、一緒に入隊したイルゼールのリーナ、それからこの子供は、途中で拾ってきた孤児で、働き口を探しているそうです」
相変わらず得意げに事務官が言うと、その女性――<賢人>ファルシーンは、気さくな笑顔で答えた。
「ありがとう、グード。ずっとまえに頼んだこと、ちゃんと覚えててくれてうれしいわ。そのうち何か御礼をするわね」
軽く礼をして出ていった事務官の嬉しそうな顔を見て、里菜は、このふたりの立場からして彼はこれで昇進でも約束されたのかと想像したのだが、後で知ったところによると、ファルシーンの御礼というのは手作りの焼き菓子だったそうだ。後で里菜たちとも親しくなったこの事務官は、この後何か月も、『ファルシーン様のお菓子がとてもおいしくて孫たちが大喜びした』と、会う人ごとに嬉しそうに自慢し続けたらしい。
ファルシーンは、三人の客人に、にこやかに椅子を勧めながら、自分も向かいの椅子に座って言った。
「いきなり呼び出してごめんなさいね。私は<賢人>ファルシーン。シーンと呼んでくれていいわ。私は軍務を担当しているから、これからはあなたたちの大親分ってことになるのね。あ、でも、堅くなることはないのよ。今日は個人的なお客として、あなたたちに来てもらったの。アルファード、あなたが軍に入ってくれてうれしいわ。実はね、ずっと前からあなたにどうしても会いたいって言ってる人がいて、もしかしたらあなたが軍に志願してくるかもしれないから網張っといてくれって頼まれてたのよ。もちろん、私も会いたかったしね。使いをやったから、たぶん、もうすぐ来るわ。楽にして待っててね。今、お茶、いれるから」
「はあ……。どうも……」
いきなり嬉しそうにまくしたてられて、完全に圧倒されたアルファードは、ぼそりと答えた。
別にファルシーンが<賢人>だから緊張していたわけではなく、彼は実は、子供も苦手だが女性も全般に苦手で、特に、こういう、見るからに頭がよさそうで行動力がありそうな、はきはき、きびきびした女性は、変に女っぽく色気の過剰な女性や、やたら勝ち気な、いわゆるじゃじゃ馬タイプの女性と並んで、最も苦手とするタイプなのだ。要するに、たぶん、自分が押され気味になりそうな女性は敬遠したくなるという情けない心理なのだろうと、自分でも薄々わかってはいるのだが、わかっていても苦手なものは苦手なのだからしかたがない。
が、運がよいことに、アルファードは、この、苦手なタイプの女性と、これ以上差し向いで話をせずに済んだ。
ファルシーンがお茶を持って戻ってくるより早く、あわただしいノックとともにドアが開いて、ファルシーンと同じ、時代がかった白いローブを着た男性が入ってきたのだ。
「シーン! アルファード君だって? 本当かい! あ、いや、これはこれは、アルファード君、失礼。おや、なんだか、かわいらしいお嬢さんたちも一緒じゃないか。ああ、いや、立たなくていい、そのままで」
そういいながら、白服の男は、勝手に向かいの椅子に腰を降ろした。
年の頃は、やはり三十半ばというところ、海のような深い青色の瞳、首の後ろでゆるく束ねたつややかな黒髪、色の白い知的で端正な面だちの、やや小柄で華奢な感じの男性である。
華奢ではあるが貧弱な感じはなく、何か、身体つきを越えたところで大きさを感じさせる、これまた、ただものではなさそうな人物だ。ずいぶんとそこつな登場をしたにも関わらず、どういうわけか、動作の端々まで品位と落ち着きが漂っているように見える。品のある人というのは何をしていても上品なのだと、里菜はちょっと見とれてしまった。三十半ばというと里菜から見れば完全に『おじさん』だが、このおじさんは、ちょっとかっこいいかもしれない――。
そこへちょうど、部屋の奥からファルシーンが、五人分のお茶を盆に載せて出てきた。
この国では、<賢人>ともあろう人物が、平気で自分でお茶を出すものらしいと、里菜は感心し、それから、いや、もしかすると、それはやっぱり普通のことではなく、この人だけが特別気さくでマメで軽々しい、型破りな人なのかもしれないと思い直した。が、この国ではどんなに偉い人でも男女を問わず平気で自分でお茶をいれるというほうが真相だと、後になってわかる。格式ばらない人たちなのだ。
「リオン、アルファードは今日から私の部下なのよ。うらやましいでしょう! こちらの娘さんはリーナ、特殊部隊でアルファードとチームを組むのよ。で、こっちの小さいお嬢さんは孤児なんですって。ここで働き口を探しているそうよ。後で話を聞いて、うまく取り計らってあげてくれない? ……アルファード、リーナ、こちら、<長老>ユーリオンよ」
里菜は、それこそのけ反った。これが――この、確かに品はあるが貫禄には欠ける、まだまだ若い男の人が、<長老>だとは。里菜がばくぜんと想像していた<長老>――いかにも老賢人然とした白髪白髭の、知恵の固まりのような超俗の老人――とは、えらい違いである。これなら、あの、不運なゼルクィールのほうが、よっぽどそれらしい。
アルファードも、目の前にいるのが<長老>だというのには少々驚いたようだが、長老が意外と若いことは知っていたから、すぐに気を取り直して、とりあえず、座ったまま軽く礼をした。
「長老様……」
とたんに<長老>は、顔をしかめて手を振った。
「ああ、アルファード君、<長老>はやめてくれたまえ。何だか自分が急に年寄りになったような気がする。リオンでいい、リオンで。『様』も、付けなくていいからね。リーナ君、君もだよ。若い綺麗な娘さんたちには、特に絶対、私のことを<長老>とは呼ばないで欲しいものだ。
まあ、<長老>というのは、単なる役職名だからね。別に年寄りということじゃない。言っておくが、私はまだ三十五だ。<賢人>の中でも、このファルシーンとならんで最年少なんだ。
だから<長老>を押し付けられたのさ。<長老>は雑用が多くて、元気な若い者でないと勤まらないとか言われてね。先代までは、その名の通り、たいてい一番年長のものがやっていたのだが……。これはみんなの陰謀なんだ! おかげで私は、自分の研究に割く時間がまったくない……。私は何と不運なのだろう。そう思わんかね」
「はあ……」
アルファードも里菜も、呆れて返答に詰まった。
「ところでアルファード君。私はずっと君に会いたくてね。実は私は、本業は神話学と民俗学なんだ。それで、以前、まだ、ただのかけだしの学者だったころ、二度ほど君の村に古老の昔話の採訪に行ってね。ああ、つまり、君のおじいさんとか、女神の司祭のおばあさんなんかの話を聞きにね。
アルファード君、君の村は、たぶん君が思ってる以上にすばらしいところなんだよ。神話、伝説の宝庫で、都ではもうほとんど忘れられている我々の古い信仰が、そのままで残っている。我々の心の故郷とでもいうべきだろうね。
君のおじいさんは気難しい人だという評判だったが、どういうわけか私のことはとても気に入ってくれて、いろいろ話をしてくれたよ。古い物語を、実によく知っていた。最初に行った時は、まだ君がこの世界に来る前だったが、二度目の時に君のことを聞いて、ぜひ会わせて欲しいと頼んだんだ。だが、おじいさんは、君が難しい年頃で、魔法が使えないことに悩んでいるからと言って会わせてくれなかった。君のことを、とても気遣っておられたんだよ。あの時、君は、どこかへお使いにやられていたんじゃないか?」
ユーリオンの言葉に、アルファードは、はた、と、思い当った。
そういえば、たしかに、彼がまだ少年だったころ、都の若い学者が村にやってきたことがある。そして、たしかにその日、アルファードは隣り村に使いにやられていたのだ。
出掛けに遠くからちらりと見かけた、その学者の端正な白い顔と黒い髪、ほっそりした品のいい姿は、言われてみればたしかに、今、目の前にいるこの男と重なる。
(そうか、あの学者が、<長老>になっていたのか)と、アルファードは当時を思い出した。
その頃、彼は、まだ二十代半ばの青年学者だったが、アルファードが村に現われるしばらく前にも、当時の世話役の家で一週間ほど滞在していったことがあったそうだ。村の若者たちは誰もまともに相手にしない年寄りのたわごとを、都の年若いエリート学者が遠路はるばる、わざわざ聞きに来たというので、みんな随分驚いたらしい。
その彼が再びやってくると分かった時から、村中が彼の話題で持ち切りだった。
ただでさえ村に客人があるのはめずらしいことだが、その上、彼は、以前に村に滞在した時、村では見慣れない黒髪に青い目の繊細な美貌と、洗練された知的な雰囲気、それに気さくな人当りのよさも加わって、村の娘たちの人気を独占していったのだ。村の若者たちはだいたいみんな武骨者で、日焼けしたごつい男ばかりだったから、華奢で知的な白晢の美青年は、村の娘たちにとって、いかにも都会的で、溜息が出るほど上品で、まるで本物の王子様のように見えたらしい。
あの、あこがれの都会の貴公子が再びやってくるというので、村中の若い娘たちは、そろって色めき立っていた。アルファードの年代の少年たちにも、その姉たちや近所の年上の娘たちの浮き足立った気分が伝染し、みんながなんとなくわくわくして、まるでお祭りを待つように彼の訪れを待ちのぞんでいたのを、アルファードも覚えている。
村では今でも、あの時の若い黒髪の学者のことは、今では母となった当時の乙女たちが思い出を共有する、若き日のあこがれの王子様として、半ば伝説になっている。
その彼が後に随分偉くなったらしいということは村でも噂になっていたし、<長老>が神話学者上りだというのもみんな知っていたが、まさか、あの彼が<長老>になったのだとは、誰も思っていなかったのだ。




