第一章<エレオドラの虹> 第二場(2)
鳥の声も途絶え、木々の間に静まり返る窪地の底の翠の淵に、黄昏の薄闇がわだかまり始めている。夕映えの幽かな名残りを映す水の中、夢のようにひっそりと、少女は眠る。
アルファードの脳裏に、さっき聞いたばかりの、『女神の葬式』という言葉が、ふいに蘇った。
その昔、北方の漁り人、<風使い>たちの間には、水葬という神秘な奇習があったという。彼が少年だった頃、北部から来た旅芸人に聞いた、見知らぬ土地の謎めいた風俗のひとつだ。
イリューニンの北、ビューランの浜辺には、沖へ向かう海流が断崖を抉るように流れてゆく場所があり、その断崖の裂け目の下に、<風使い>たちだけが秘密の隘路を通って降りて行くことができる、隠された小さな砂浜がある。弔いの夜、花で飾られた海人のなきがらは、形ばかりの筏のような死出の小舟に乗せられて、仲間たちの手でその秘密の入江に運び込まれ、しめやかな哀悼の調べとともに静かに海に押し出される。この葬送の浜辺から、夜の引き潮に乗って世界の果ての西の大洋へと旅立ったものはすべて、いかなる力の働きによってか、二度と此岸に戻ることはないという――。
花に囲まれて水の中に横たわる少女の姿は、遠い異郷のそんな神秘な伝説を、彼に思い出させたのだ。
眠っているだけのような外見にもかかわらず、少女が弔いの場面を連想させたのは、弔花めいてその身を飾る青い花のためばかりではなく、たぶんその、痛ましいほどに清らかで、どこか生命感の希薄な、透き通るような気配のせいだろう。
水葬に付された女神のようだと、アルファードは思った。稚い女神が殺害されて水葬に付されているこの光景は、なんと美しく魅惑的なのだろう、と。
思ってから、その考えの、あまりに不吉で冒涜的なことに驚いて、アルファードは呆然とした。
いつのまにか隣にやって来て、少女に鼻面を寄せて匂いを嗅いでいたミュシカが、その時、アルファードを見上げ、促すように、くぅん、と鼻を鳴らした。
我にかえったアルファードは、浅い川床に片膝をついておそるおそる身を屈め、少女をのぞき込んだ。
よく見れば、少女の青い服の胸のあたりは、微かにではあるが、規則正しく上下している。ためらいながら顔の上にかざした掌には、弱々しい呼吸が、確かに感じられた。
アルファードが思いきって少女のほうに腕を伸ばしかけた、その、伸ばした手の指先が水面に触れたとたん、それで生じた波紋のためだろうか、少女を守るように周囲を漂っていた青い花たちが、まるで、これで役目を果たした、というかのように、いっせいに、ついっとその場を離れて、ゆらゆらと流れ去っていった。
川面を流れて行く花たちを唖然として見送ってから、アルファードは、壊れ物を扱うようにそっと、少女を抱き上げた。その衣服から、ざっとばかりに水がしたたり、アルファードを濡らした。
少女は、ひどく軽かった。掌の上で死んだ小鳥のように儚く脆い感触が、痛々しい。
けれどその、さっきまで熱を持たない水晶細工のように見えていた小さな身体からは、すっかり水を吸った布地を通して、やはりほのかな温もりが伝わってきた。
川の中にいたのは、そう長い時間ではなかったのだろうか。冷たい水に浸っていたわりに、身体が冷えていないようだ。あるいはそれは、この少女が何か常ならぬ力で守られていた証拠なのかもしれないと、アルファードは、ふと思った。
普通なら濡れた服はすぐに脱がせて自分の上着ででもくるんでやったほうがいいのだろうとは思ったが、そうすることは、かえって、今もわずかに残って彼女を守り続けているのかもしれない神秘の力の残滓を払い散らしてしまうことになるような、よけいなことをせずにこのまま抱いて帰れば家に着くまで女神が少女を守り続けてくれそうな、そんな気がして、アルファードは、そのまま、少女を抱えて立ち上がろうとした。
その時、腕の中で、少女がわずかに身じろぎした。
アルファードは息を呑み、我知らず、呪縛されたように動きを止めた。
少女は、水滴に縁取られた清らかな睫毛をそっと震わせたかと思うと、ふいに、漆黒の瞳を見開いた。
目覚めたばかりで焦点の定まらない双眸が、ゆっくりとアルファードの顔を捕らえ、そして……。
「キャーッ!」
かん高い悲鳴とともに、小さな白い手がアルファードの頬に向かって飛んだ。
が、目を丸くしてあっけにとられるアルファードの頬に、少女の手は届かなかった。その急激な動作のためか、少女はそのまま、再び気を失ってしまったのだ。
腕の中でぐったりと力を失った少女の小造りなおさな顔を、アルファードは呆然と見下ろし、やがてくつくつと笑いだした。
(ああ、やっぱりこれは人間の女の子だ。おどかしてしまったんだな。かわいそうなことをした。でも、よかった、元気そうだ……)
さっきまで少女を包んでいたどこか現実離れした神秘的な気配は消えて、腕の中にいるのは、風変わりな服を着ていて目と髪がこの地方には珍しい色をしているというだけの、ただの人間の少女だった。清楚で愛らしくはあるが、別に人並み外れて美貌というわけでもなく、気の毒なほどに痩せこけて、まだほんの子供だ。
たぶん十才ちょっと、いってせいぜい十二、三だろうと、アルファードは考えた。額が広く鼻筋が短い顔つき、あまり高いとは言えないその鼻の、ちょっと上を向いた鼻先があどけない丸みを帯びているところなどいかにも幼く、それでも顔立ちだけならもう少し上に見えなくもないが、背丈も小さいし、胸の膨らみもまだ目立たない硬い身体つき、雛鳥のように頼りなく細い首や棒切れのような手足などは、どう見ても子供のものだ。さっき一瞬だけ見た黒曜石のような瞳には、思いがけず、顔立ちの幼さに似合わぬ何か強い輝きが宿っていたような気がするが、それも、年令の割に大人びた利発な子供なのだろうと思えば納得がいく――。
(じいさんが俺を拾って育ててくれたように、今度は俺が、この子を引き取って育ててやろう。いくら俺が貧乏でも、なに、こんな痩せっぽちの女の子の一人くらい、きっとなんとかなるさ。それにしても、本当に痩せっぽちだ。滋養のある物を食べさせてやらないといけないな。そうだ、戸棚にまだ、ハチミツがあったはずだ。ハチミツ入りの温かい粥なら、消化もいいから身体が弱っていても食べさせられるだろうし、それに、子供、ことに女の子ともなれば、きっと甘いものを好むだろう……)
そんなことを考えると、アルファードの胸に、思いがけず、ふんわりと温かいものが流れた。
アルファードは、どちらかというと、子供は苦手だ。別に嫌いということはないが、自身に幼い頃の記憶がないせいか、それともただ単に不器用であるせいか、子供にどう接していいのか分からないのだ。しかも、それが女の子ともなればなおさらだ。
けれど、この時、自分がこのいとけない少女を引き取って育てるのだという思いつきは、彼の心に、意外なほど甘美な温もりをもたらした。
同じこの場所で、同じ孤独な<おさな子>としてこの世に生まれ出たもの同士、自分とこの子は、きっと、寄り添って暮らせるだろう。そう、自分は、守り育てるべき子供を──『家族』を持つのだ。もしかすると、自分がこれまでずっと満たされることなく求め続けてきたものは、結局は、そんなささやかな、ありふれたものだったのかもしれないと思うと、なぜかおかしくなって、少し笑いたくなった。ずっと、自分は孤独が好きなのだと思っていた。家族など、欲しいと思っていないと信じていた。が、どうやら、そうでもなかったらしい──。
(……俺は、このいたいけな子供を、全力で守ろう。そうすることで俺は初めて、自分がこの世にあることを許してやれるような気がする。初めて自分の存在に意味を見出せるような気がする。きっとこの子は、女神が俺に与えてくれた、初めての贈り物なんだ……)
アルファードはそっと微笑み、少女を抱いて歩き出した。
*
……あれはいつのことだっただろう。もうずいぶんと昔のことのように思える。そう、まるで、生まれる前のできごとのように。
あたしは、制服を着て、電車に乗って、毎日学校に通っていた。
電車はいつも混んでいて、夏でも冬でも、人いきれでむっとしていた。
前後左右からいやおうなしに押しつけられる見知らぬ他人の身体の不快な温もり。暑い時期には、誰かの汗ばんだ腕が直接肌に触れて、死ぬほどの嫌悪を感じることもあった。それは本当に悪寒がするほどの不快さで、ほとんど恐怖にも近い感覚だった。それであたしは、夏でもなるべく長袖を着ていた。
そして、狭い車内にこもる、汗やタバコや脂っぽい頭髪の嫌な臭い。
温くて臭い空気をうっかり深く吸い込むと、吐き気がした。できることなら、息をしたくなかった。こんなにも臭くて汚い空気を吸ったら、身体の中まで、心の中まで穢れるような気がした。自分がどんどん汚れていくような気がした。
ああ、人間はみんな、臭くて汚い。醜悪で猥雑で、気持ち悪い。なかでも男はみんな、特に臭くて汚らしいし、太った中年の女たちは、特に醜く無様だ。どうしてあたしは、こんなところにいるんだろう。いつまで、ここにいなければならないんだろう。いっそ今、この瞬間に全人類が滅びてしまえば、地球の上は、よっぽどきれいになるだろうに……。
あのころは、世界のすべてがあたしを脅かした。周り中から汚いものが襲いかかってくるような気がした。なにもかもが、汚らわしく厭わしかった。
でも、あれはみんな、過ぎたこと。今はもう、あんな思いをする必要はない。
そう、あれはきっと、生まれる前の、悲しい前世のできごと。今、あたしは、無垢な赤んぼうとして、新しい世界に新しい生を受けた。きっとこれから、暖かい家族の愛に包まれて健やかに育まれ、もう一度、幸せな子供時代を迎えるのだ。
ああ、なんて気持ち良く揺れるんだろう。ゆるやかな川を、小舟に乗って下っているみたい。せっかく目が覚めたのに、また、眠くなりそう……。
そうだ、あたしは赤ん坊だから、きっと今、小舟じゃなくて、揺りかごに揺られているんだ。ううん、揺りかごじゃなくて、お母さんの腕の中にいるのかしら。
違う。お母さんの腕じゃない。お母さんのよりももっと太くて逞しい、この腕は……?
うっとりとそこまで考えた里菜は、ふいに我に返って、ぎょっとした。
(何、これ? どういうこと? あたしは赤ん坊じゃないし、夢を見ているわけでもないわ。じゃあ、今、あたしは、何がどうして誰に抱かれているの?)
混乱した里菜は、あわてて記憶をたどった。
しだいに頭がはっきりしてくると、少し前の記憶が蘇った。
どうやら自分は、さっき誰かを――たぶん、今、自分を抱いて運んでいるこの人を――ひっぱたいたらしい……。
その時にちらりと見た見知らぬ若者の、あっけにとられた顔を思い出して、里菜は申し訳なさと恥ずかしさに、目を閉じたまま赤面した。
(いやだ、あたし、なんであんなことしたんだろう。きっとあの人、倒れてたあたしを助けてくれようとしてたに違いないのに……。あの人、とてもやさしい目をしていた……)
あの時、若者の顔を見たのはほんの一瞬で、顔立ちなどはそんなにはっきりと見たわけではなかったのに、そのまなざしが暖かく真摯で害意を感じさせないものだったことだけは、不思議と一瞬で見てとれたのだ。里菜は薄目を開けて、自分を抱いているのがさっきの若者であるらしいことを確かめると、ほっとして再び目を閉じた。意識を取り戻したとはいえ、まだ中ばもうろうとした状態で、とても歩けそうにはなかったのだ。
(どうせ歩けないなら、この人には重くて悪いけど、まだ気を失ったままのふりしてよう……。そうでもしなきゃ、とてもじゃないけど、恥ずかしくていられないもの……。一度この人と口きいちゃったら、その後ずっと、どんな顔してこんなふうに抱かれていればいいか分からないじゃない)
若者からは、いきものの匂いがした。
たぶん衣服の素材なのだろう濡れた羊毛と革の匂い、衣服にしみついた何か獣くさい匂い、その中でもはっきりと嗅ぎ分けられる懐かしい犬の匂い、それから、若者自身の汗の匂い。
どれも決していい匂いとは言えないが、不思議と不快には感じられなかった。
それは、大地に生きるいのちの匂いだった。
若者のぬくもりが、里菜を包んでいる。
もう、何も不安は感じなかった。この、見知らぬ若者の腕の中が、世界で一番安心な場所のように思えた。小さな子供の時代を過ぎて以来、人の身体のぬくもりがこんなにも心をくつろがせるものだということを、そういえばもう長いこと忘れていた気がする。胸いっぱいに広がる甘やかな安堵感に、なぜだか涙ぐみたいような気分になった。
(あったかい……。さっきまで、あたし、もしかしたら自分は天国にいるんじゃないかと思ってたけど、そうじゃなかったんだ。だって、この人はこんなに温かくて、ちゃんと手で触ることができて、たしかに生きている人だもの。……そう、ここは天国じゃなくて、きっと、別の世界――どこか素晴らしい、まるで物語のような別世界に違いないわ。そしてここでなら、生きるのは、きっとそんなに辛くない。だって、ここでなら、あたしはこうして、『向こう』ではあんなに厭わしく感じていたひとの身体のぬくもりを、生命の匂いを、こんなにもやさしく、懐かしいものに感じることができるのだから……。きっとこここそがあたしの、ずっと忘れていた本当のふるさと。あたしの、本来の在るべき場所。だからあたしは『向こう』では、いつも自分が本当にはその場所に属していないような違和感を抱いて生きてきたんだ。でも、もう大丈夫。あたしは今、遠いふるさとに、やっと帰り着いた……)
若者の腕の中で、夢うつつにそんなことを思いながら、里菜はいつしか、ふたたび眠りの淵に引き込まれていった。