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第二章<シルドーリンの宝玉> 第四場(4)

(俺はいったい、どうしたんだ……)

 ますます強く耳を塞いで、頭を抱え込みながら、アルファードは唇を噛み締めた。

 耳を塞いでも無駄なのはわかっていた。里菜はもう、歌を止めているのに、彼の心の中に、あの歌が流れている。

 それは、喪失の響き。

 あの歌の最初の一節を聞いた時、雷に打たれたように、アルファードの精神は立ちすくんだ。

(俺は、この歌を知っている……)

 遠い昔に聞いた歌。歌ってくれたのは誰だろう。

 幼い彼が、誰よりも愛し、信じていた誰か。彼の小さな世界のすべてだった人。温かくやわらかかった――おそらくは、母親。

 歌ってくれた母親は、どんな顔をして、どんな服を着ていたのだろう。自分がいたのは、どんな様子の部屋だったのだろう。自分は、どんな名前で呼ばれていたのだろう。――それは、思い出せない。

 ただ、記憶の底の母の歌声が蘇る。


――『坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った……』――


 歌声と一緒に、幼い自分の心が聴こえる。

 暗闇の中で目覚めた、幼い自分。歌をうたって自分を寝かしつけてくれていたはずの母が、そばにいない。温かい身体を求めて暗闇を探った腕が、冷たい孤独を抱き締める。その、心細さ。そして、不信。

(おかあさんが、行ってしまう。どこか遠くへ。僕を捨てて、二度と帰らない……。そう、こんなふうに何もかもが、僕から失われていく。離れていく。世界は僕を愛さない。すべてが僕を裏切る……)


 頭が、割れるように痛い。噛み締めた唇から、血が滲む。

 その瞬間、アルファードは、いつのまにか叫んでいたのだ。

 ――「リーナ、やめてくれ! その歌を、歌わないでくれ」




 里菜は、驚きのあまり何も言えずに、大きな身体を丸めて頭を抱えるアルファードをみつめていた。落ちた涙は一粒だけだったが、そのたくましい肩が、腕が、まだ小刻みに震えている。何だかアルファードが小さく見える。

 里菜は、アルファードが泣くことがあるなどとは、想像すらしたことがなかった。

 いつかローイも言っていた。

「俺、アルファードが怒るとこも、もう何年も見てなかったが、泣くとこは、ほんとに、ガキのころから一度も見たことがないな。やつは、じいさんが死んだ時でさえ、少なくとも人が見ているところでは、泣かなかったんだ」と。

 ローイも、目を丸くしてアルファードを見ている。

 アルファードは、黙って頭を抱え続ける。

 ふいに、眠ったと思っていたキャテルニーカが、里菜の膝から立ち上がって、とことことアルファードに歩み寄った。

 里菜とローイが呆然と見守る中、キャテルニーカは、アルファードの頭を静かに両手で挟み込んだ。

 キャテルニーカがアルファードに触れたのは、もしかすると、これが初めてかもしれない。彼女は、ローイや里菜には、理由もなく始終ぺたぺた触っていたが、そういえばアルファードには、たぶん一度も触わっていないのだ。

 キャテルニーカは、アルファードに触れた瞬間、ぴくりと身体を強張らせ、苦痛をこらえるかのように、かすかに眉を寄せた。

 が、すぐに穏やかな表情に戻り、子供をあやすような声音で、歌うように言った。

「お兄ちゃん、かわいそうね。まだ、思い出さなくていいの。まだ、いいのよ」

 アルファードの肩の震えが止まり、しばらくして、あいかわらずうつむいて頭を抱えたまま、彼はぼそりと言った。

「キャテルニーカ、ありがとう。楽になった。リーナ、ローイ、驚かしてすまない。ちょっと、頭痛がしたんだ……。俺はこのまま寝るから、みんなも寝てくれ」

 そう言ってアルファードは、うつむいたまま立ち上がると、こちらに背を向け、マントにくるまって横になってしまった。

 里菜は、アルファードに駆け寄ろうとした。

(アルファード、何か、何か思いだしたの? 子供のころの記憶が戻りそうなの?)

 喉元まで出かかったその言葉を、里菜は押し戻した。

 キャテルニーカが里菜の腕を引いて引き止め、声を潜めて囁いたのだ。

「お姉ちゃん、かまわないであげて。お兄ちゃんは、まだ思い出しちゃいけないの。今はまだ、きっと耐えられないから」

「ニーカ、それ、どういうこと? あなた、アルファードのこと、何か知ってるの? 知っているなら、あたしに教えて」

 声をひそめながら思わずキャテルニーカの肩をゆさぶった里菜は、彼女の返事に、がっくり肩を落した。

「え? なんのこと?」

 緑の瞳が無邪気にまばたく。どうやら、また、例の物忘れが始まったらしい。

「ううん、なんでもないわ。寝ましょ」

 そう言って里菜は、荷物を抱え、横たわるアルファードのそばに行った。

 けれど里菜には、背を向けているアルファードの正面側に回り込むことはできなかった。何も言わない彼の大きな背中から、拒絶の気配がひしひしと伝わってきたからだ。自分の中へ踏み込まれることへの拒絶の気配が。

 里菜は顔を曇らせながら、それでもアルファードの背中に寄り添うように、マントにくるまって横になった。

 里菜がこんなにアルファードの近くで眠ろうとしたのは、初めてだった。今までふたりは、いつも、なんとなく焚き火のあっちとこっちに離れて横になっていたのだ。

 アルファードは、里菜がすぐ隣に横になっても別に文句は言わなかったし、わざと離れたりもしなかった。ただ、無言の背中で、里菜を、そして世界の一切を拒絶していた。

(あたしはアルファードに、何もしてあげられない)

 里菜は無力な自分が悲しかった。

 アルファードは、里菜に、彼の苦悩を一緒に担うことを許してくれない。

 アルファードの苦しみを取り除いたり、代わってあげたりすることはできなくても、せめてそれを一時的にでも紛らわし、慰めることができるなら、里菜はどんなことでもするだろう。けれどアルファードは心を閉ざして背を向ける。里菜にできることは何もない。

 手を伸ばせば届くところにあるアルファードの背中が、とても遠く感じられた。

 魔王の言葉が心によみがえる。

――『あれは永遠に、そなたを受け入れることはないだろう』――


 キャテルニーカが里菜の傍らにやってきて、黙ってしゃがみこんで里菜の頬に手を触れたかと思うと、すぐにそのへんにころんと横になって、そのまま寝入ってしまった。

 ローイは、その間ずっと、焚火の向こうにつったったまま、どう対処していいかわからずに頭や鼻をポリポリ掻いてみたりしていたが、どうしようもないので恒例のおちゃらけで対処することに決め、おずおずと里菜に声をかけた。

「ええと……。リーナちゃん、そんなとこにいないで、俺と一緒に寝ようぜ……なんて」

 何も変わったことは無かったふりをして場の空気を変えようと、とりあえずおちゃらけてはみたが、やはり気まずさに耐えかねて、最後は言い訳めいた呟きになってしまった。

「バカ……」と答えた里菜の声にも、力がなかった。

「バカはだめだって、いっただろ。もっと何か面白いこと言えよな……」

 ぶつぶつ言いながら、ローイも、マントを敷いて横になった。

 眠れないローイが寝返りを打つたびに、そのマントの下で落葉がかすかに乾いた音を立てるのを、里菜は黙って聞いていた。

 アルファードも、たぶん起きているのだろうが、ぴくりとも動かずに、皆に背を向けて横たわっている。

 冴えざえとした冬の月がゆっくりと傾いていくのが、木の枝の向こうに見える。

 寒くて長い夜が、静かに更けていった。

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