第二章<シルドーリンの宝玉> 第四場(2)
翌朝、目を覚ましたキャテルニーカは、前夜の出来事をまったく覚えていなかった。山賊のことはもとより、自分が<御使い様>であることも、青い光の玉のことも。
とぼけているのではなく、本当に忘れてしまうらしい。
道々、ローイが、里菜に<御使い様>のことを教えてくれた。
と、言っても、実はローイも、そのことについては、正確なことは、ほとんど何も知らなかった。彼が知っているのは、<御使い様>についての噂のあれこれだったのだ。
そもそも、<御使い様>の件に限らず、タナティエル教団というのは、名前や、その黒マント姿が有名なわりに、その正確な実情はあまり外部に知られていない謎の集団だ。彼らは人里離れた山の中などで閉鎖的な共同体をつくって暮しており、来るものは拒まないが、入って出てくるものはほとんどいないのだ。
タナティエル教団の起源は古い。
彼らが今のように大きな組織になったのは、その長い歴史の中でもごく最近のことで、もともと、いつとも知れぬほど遠い昔からシルドーリンの山奥でひっそりと独自の信仰を貫いてきた、ごく小さな世捨人の集団だったのだ。
その長い歴史は、聖地シルドーリンに数人の隠者たちが住み着いた時に始まった。彼らはそこで、坑道跡の洞窟に住み、ぼろを纏い野草を食べて、禁欲的な瞑想生活を送った。
今では彼らも、山中に建てた粗末な小屋に住むようになっていて、幾度か落盤事故があった坑道は、安全な場所が厳選されて礼拝所や地下墓地といった宗教的な用途に使われるだけになり、シルドーリンの丘陵地帯には彼らの掘っ建て小屋が集まった集落がそこここにある。それにもかかわらず、一般には、彼らは今だに洞穴に住んで原始的な生活をしていると思われているが、そういう誤解も、彼らが外部との接触を嫌うために生れたものだ。
山中の共同体の中で、畑を耕し子供を育て、禁欲清貧を旨とする質素な自給自足生活を送りながら信仰を貫いている彼らは、このように、一般の人たちからいろいろと誤解を受ながらも、最近になるまでは、決して悪くは思われていなかった。むしろ、一般の人たちからみて自分たちにはとてもまねできないような厳格で求道的な信仰生活を送る彼らは、特別信心深い、信念を持った立派な人たちとして、それなりに尊敬されていたのだ。
魔王の刻印を受けて絶望に取りつかれたものや死病に侵されたもの、身よりをなくしたものなどを、わけへだてなく無条件で受け入れ、心穏やかに死ねる時まで世話をし続けてきたということも、彼らが尊敬されてきた理由のひとつだろう。
だいたい彼らは、もともと、異教徒ではないし――地域的な差異が多少あるだけで基本的に同じひとつの神話体系を信じる人々だけから成っているこの世界には、異教という概念さえ、はなから存在しないのだ――、ある意味では異端ですらないのである。
確かに彼らはこの国の大多数の人たちとはかなり異なった思想を持ってはいるが、それでも異端と呼ばれないのは、この国に、彼らを異端と呼んで排斥するような『正統』の宗教勢力がないからだ。
この世界にも、もちろん信仰はあるのだが、それは、多くの人にとって、宗教というより単なる習慣的な生活儀礼に近いもので、それさえも今では、特に都会ではどんどん忘れられつつある。それでもたまには、思い出したように新興宗教的な集団が発生してくることもあって、中には一時的にかなりの勢力を誇って政治的な野心を抱くものが出たりもするが、たいてい、最初のカリスマ的な指導者を失ったあとは泡のように消えてしまう。また、特定の地域、血族、職能集団などに結びついた伝統的な信仰にはかなり強固なものもあるが、それらはその狭い集団の求心力に基づくものだから、そもそもが排他的で、集団の外に拡散してゆくことはない。
そんなぐあいで、ここでは、一度も、政治権力と結びついた組織的体系的な宗教勢力というものが存在したためしがないのだ。そういう国には、異端も存在しようがない。異端は、『正統』勢力に排斥されることで、初めて異端になれるのだから。タナティエル教団は、少数派でありながら、今も昔も、この国で、永続的な全国規模のものとしてはほとんど唯一の、まとまった宗教団体なのである。
そんな彼らの評判が悪化の一途をたどりはじめたのは、ここ四、五年のことだ。
それはちょうど、この世界が天候不順や不作に襲われ始め、魔物がひそかに数を増やしはじめた時期と、ほぼ一致していた。まだはっきりと目に見える形になっていなかったそういう変化の兆しを、人々の心がおぼろげながら敏感に察し、世の中に不安がじわじわと広がってきたそのころから、タナティエル教団は入信者の急増でにわかに膨れ上り始めたのだ。
新しい信者たちは、やがてシルドーリンの小さな共同体に納まりきらなくなり、あちこちにタナティエル教団の新しい支部のようなものができ始めた。
それでも最初のうちは、そういう支部もシルドーリンの統制の下にあり、支部のものは年に一度は交代でシルドーリンに巡礼に来ていたが、やがて、最初からシルドーリンではなくもよりの支部に入信した新しい信者が支部の中枢を占めるようになると、彼らはシルドーリンから離れていった。
そういった変化は、何年もかからずに急激に起こり、古くからのシルドーリンの幹部たちはその変化に対処できず、教団は分裂していった。
今の彼らの悪評のほとんどは、この、新興の支部のものたちがばらまいたものだ。
例えば、イカサマくさい『魔物除けの護符』とやらを法外な値段で押し売りした、麓の村を略奪した、入信に際して多額の喜捨を強要したなど、きりがない。
ちなみに、この、喜捨を強要されたものというのは、魔王の刻印を受けて軍隊をやめ、教団に身を投じようとした元兵士で、彼は家や土地を含む全財産を処分してこれに充てた。ところが彼には妻子がおり、住んでいた家を追われて路頭に迷った妻が困り果てて<賢人の塔>に訴え出たため、この話が有名になったのだが、こうして表沙汰になった事件は氷山の一角にすぎない。
それにしても、彼らがこうまで短期間のうちにすっかり評判を落し、忌み嫌われるようになったのは、彼らがもともと閉鎖的で、その実態が謎に包まれていたためだろう。
<御使い様>に関しても例外ではなく、誰もそれについて正確なことを知らないのである。
それでも、<御使い様>の存在自体は、古くからの口伝えで国中に知れ渡っており、その謎めいた巫女姫について、さまざまなうわさや憶測が乱れ飛んでいる。その中で、ほぼ共通して言われていることは、<御使い様>が黒い肌の少女であるということ程度で、あとはてんでばらばら、どれが本当か、誰にも分からない。
一説によると、<御使い様>は、妖精の血を引く人間の少女などではなく、タナティエル教団がシルドーリンの山奥で大切に血統を守ってきた本物の妖精の生き残りだと言われている。もっとも、これは、ほとんど信じる人のないおとぎ話のようなものだ。
また、ごく最近の一時期、巷を席巻した噂では、タナティエル教団が妖精の血を引く子供を誘拐したり、人買いから買い取って幽閉し、巫女にしたてていているというものがあったし、そうかと思うと、<御使い様>は、何千年もあどけない美少女の姿で生き続けているという不思議な話もある。
これについては、アルファードが、こう解説してくれた。
「俺が思うに、<御使い様>は、世襲なんじゃないだろうか。君も、もう知っているとおり、妖精の血筋の人はみな小柄で、たいてい、実際の年よりかなり若く見える。特に女性はその傾向が顕著で、子供のいる女性でも、まるで少女のように見えたりする。だから、代々の<御使い様>が比較的若いうちに子供を産み、女の子が生まれてある程度成長したところで引退し、娘に地位を譲るとすれば、<御使い様>は常に少女であるように見える――、そういうことだろう。それに、母娘なら当然顔は似ているだろうし、そうでなくても妖精の美貌は独特だから、他の人たちから見れば、みな似通って見える。同じ少女に見えるかもしれない」
「でもよ、アルファード」と、ローイが反論した。「世襲なら、子供を買う必要はないじゃないか。やつらが人買いから子供を買っているというのは、かなり確かな話だぜ。前に都に行った時に聞いた噂では、人買いに捕まってタナティエル教団に売り飛ばされかけたところを逃げ出したって女の子が、実際にいたってことだ。他にも、いくつか、そういう話があるぞ。少なくとも、ひところ、妖精の血筋の小さな女の子が攫われる事件が相次いだのは、あんたも覚えているだろう」
「だが、それがタナティエル教団に売られたのだという裏付けはないしな。やつらが子供を買うという噂を聞いた人買いが、それをあてにして勝手に子供を持ち込もうとしただけかもしれない」
「うーん、それはあるかもな。何しろ、あの噂は、けっこうパーッと広まったみたいだからな。そういえばさ、昔は、<御使い様>は、シルドーリンにひとりだけいるんだと誰もが思っていたが、ちょうどあの噂と同じころ、あちこちに、どんどんあたらしくやつらの村ができていて、そういう支部みたいなところにも<御使い様>がいるって噂も広まったらしいよな。だからいちいちシルドーリンに巡礼にいかなくてもいいんだって」
「ああ、教団のほうでは否定していたらしいがな」
「そうそう。その、あちこちの<御使い様>ってのが、攫われた子供かもな。もともと一人しかいなかったはずの<御使い様>が急に増えるってのも、変だもんな。でもまあ、要するに、みんな噂だよな。
てなわけでさ、リーナちゃん、<御使い様>ってのは、結局、本当のところは誰も知らない、謎の巫女姫なのさ。それが、あの子ってわけ。
どうも変な子だとは思ってたんだけどな。こりゃあ、とんでもないおヒイ様を拾っちまったもんだ。しかし、こりゃあ、どう見ても、ただ、攫われて無理やり巫女に祭り上げられた普通の女の子だとは思えないな。あの不思議な力といい、威厳といい、この一風変わった様子といい。な、アルファード」
「ああ。この子は、『本山の<御使い様>』と言われていた。よしんば他のところにいるのかもしれない<御使い様>がにせものだとしても、この子は、古くから知られているシルドーリンの<御使い様>で、何かしらの力を持つ本物の巫女姫なんだろう。昨夜のあれを目の当たりにして、信じないわけにはいくまい」
「そんな大事なお姫様が、よくシルドーリンを出て、こんなところをひとりでうろついていられるよなあ。やつらの総大将――ギルデジードって言ったっけ――、そいつは知ってるって言ってたよな。いったいこりゃあ、どういうことだ? リーナちゃんと何か関わりがあるらしいんだがなあ」
「まあ、いいじゃないか。そのうち、必要になれば、この子が事情を思い出して自分から話してくれるだろう。それまでは詮索しても無駄だし、とにかく本人が一緒にイルベッザに行きたいと言っているんだから、まずは連れていってやろう。とりあえず危険はないようだから」
「そうだよな。やっぱ、それしかねえよな。このとおり足も強くて、足手まといにもならねえしな」
その、話題のキャテルニーカは、三人の話の内容など気にも止めずにまわりを跳ね回って、ローイの腕にぶらさがったり、とつぜん里菜に抱き付いてみたりしながら、相手が聞いていようといまいとおかまいなしに、「リスがいた」だの「ナントカ草を見つけた」だのと、たあいのないことを言っては、ひとりではしゃいでいる。
アルファードとローイの会話を聞きながら、里菜は、村の幼い司祭、ティーティのことを思い出していた。
里菜は昨日から、ニーカを見て誰かに似ていると思っていたのだが、そういえばティーティと似ていたのだと気づいたのだ。
もちろん、見た目はぜんぜん似ていない。が、どこか相通じるものがあるような気がする。それは、彼女たちは、どちらも一種の巫女であるからだったらしい。
それにしても、小さなティーティが、まじめくさって、年の割にどこかませた様子だったのに比べて、キャテルニーカの、この異常な幼さはなんだろう。まるで幼稚園児なみ、とても十一才とは思えない。ゆうべの毅然とした姿を見ていなければ、どう見ても頭が弱いとしか思えなかっただろう。
けれどもキャテルニーカの無邪気な明るさは、里菜やローイの心を和ませてくれた。