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第二章<シルドーリンの宝玉> 第一場(3)

 その夜、里菜は、三度目に魔王の夢を見た。

 闇の中、黒衣を纏った全身から微かに青白い燐光を放って、魔王は中空に浮かんでいた。

『エレオドリーナ……。わが妻よ』

 魂を掴み取るような、深い響きが胸を満たす。

『ついに旅立つ時が来たか。しかし、そなたは道を誤っている。そなたの行くべき道は、その、壁の向こうで眠っているつまらん男などの示すところではない。イルベッザには、そなたがなすべきことなど、何もない。そなたは今すぐにでも、この世界全土の女王となれるというのに、何を好きこのんで、下らぬ軍隊などで埃にまみれて、人間どもの下賎な食い物を食おうとするのだろう。魔物など、少々消したところで、どうなるものでもないぞ。無駄なことだ。

 ……その男は、ただ、逃げたがっておるのだ。村から逃げ、自分から逃げ、自分の戦いから逃げ続ける――それが、その男のしようとしていることだ。逃げ続ける限り、どこにも安住の地はないというのに、その男には、それもわかっていない。愚かな負け犬だ。単なるクズだ。そのような無用な人間にかかずらわっていても、どうにもならんぞ。エレオドリーナ。北へ、来い。北の荒野へ……』

 それだけ言うと、魔王の姿は、笑いながら薄れて消えていった。

 その後の暗闇に向かって、魔王があまりにあっさりと消えてしまうことへの自分でも認めたくない微かな落胆を押し隠すように、里菜は叫んだ。

「違う、違うわ! アルファードは、逃げるんじゃない。戦いに行くのよ。新しい世界に挑むのよ!」

『いいや、あいつは逃げるのだ。逃げるのだよ……』

 もう姿の見えなくなった魔王の、声無き声だけが、遠い谺のように里菜の周りを取り巻いて、ざわざわと嘲笑い、里菜を脅かした。


 ふと気がつくと、里菜は、真っ暗な部屋の自分の寝台に横たわったまま、ぼんやりと目を開けていた。

 夢の中でおぞましい愛撫のように谺していた嘲笑の余韻が、目覚めた今も肌に纏わりついているような気がして、里菜は寝台の上に身を起こし、我が身を掻き抱いた。とたんに袖口や襟元から忍び込む夜明け前の冷気に触れて、やわらかな夜着の下で肌が粟立った。

 そのまま、何も見えない闇に目を凝らしながら、里菜は思いを巡らせた。

(違う。アルファードは、逃げるんじゃない。だって、アルファードは、ここでなら、自分を息子のように思ってくれるやさしい人たちに見守られ、魔法が使えなくても、<女神のおさな子>として、ドラゴン退治の英雄として、一目置かれていられるけど、都では、そうじゃない。それが分かっていて、アルファードは、今よりもっとずっと辛いかもしれない新しい生活に飛び込もうとしているのよ)

(……それを、それでも逃げてるというのなら、逃げたって、別にいいじゃない。逃げることは、負けることじゃないもの。退く勇気を持たない強さは脆いものだって、前にアルファードが自警団の人たちに訓示を垂れてたけど、それって本当だと思う。例えば敵があまりに強大で、今はまだ勝算がない時、それでもやみくもに立ち向かうだけが勇気じゃない、死ぬのがわかっていて戦うより、逃げることで生き残れるなら、その時は逃げるのが正しいんだって――生きてさえいれば、いつか、きっと、もう一度、立ち向かえるからって、アルファードは言ってたわ。逃げるのは、生きるのをあきらめないことなんだって。……だから、アルファードが逃げるなら、それはきっと、今は逃げる必要があるからなのよ)

(でも、あたしみたいに誰が見てもちっぽけで、自分でも無力で臆病なことがわかっているものには、逃げるのはあたりまえの、簡単なことだけど、アルファードのように強くて大きくて勇敢な人にとっては、逃げるのは、とても勇気がいる、難しいことなのかもしれない。まわりの人も逃げることを認めてくれないし、自分の心も、逃げている自分を許さないから。……だから、あたしが、代わりに許してあげるの。ずっとそばについていて、アルファードの代わりに、アルファードを許してあげるのよ。アルファードが逃げるなら、あたしは一緒に逃げてあげる。どこへでも……)

 最後は自分に言い聞かせるように胸のうちで呟かれたこの言葉が、それまで実は里菜の中にあった、逃げるように村を出ることへの釈然としない思いを、溶かしてくれた気がした。

 それから、里菜は、明け方の闇の中で、こんどは夢のない眠りに落ちた。


   *


 旅立ちの朝は、この季節にはめずらしい快晴だった。

 青く澄み渡った冬空の下で、数日前に再び積もった雪が、朝日を浴びて白く輝いている。

 黙々と朝食をとった里菜とアルファードは、なんとなく黙ったまま食器を洗い、これから持っていく食器は荷物につめた。残りは、いつものように流し台に置きっぱなしにはせずに、丁寧に水気を拭いて、扉のついた戸棚にしまいこんだ。

 もう、この戸棚を開けることはないかも知れない。たった二月ちょっとしか住んでいないこの家が、なにかとてもなつかしく、幼い頃から育った家のように感じられる。

 留守の間の家の管理は世話役に頼んである。もちろん実際に足を運んでくれるのは、ヴィーレだろう。

 アルファードは、ミュシカの食器と敷き物を袋に詰めた。ミュシカはこれから、通りがかりにシャーノ少年の家に預けていくことになっている。里菜はゆうべから、名残惜しくて、何度もミュシカをなでたり、話しかけたりしているのだが、アルファードのほうは、あっさりしたものだ。けれど、内心ではきっと、言葉にも態度にも表わせないほど深く寂しがっているのだろうと、里菜は想像している。

 里菜はワンピースの腰にベルトをつけて短剣を吊った上から、しっかりとマントを着込んだ。足にはブーツを履く。天気はいいが、足もとは雪道だ。

 身支度を終えたふたりは、ミュシカをつれて家を出た。雪の反射がまぶしくて、里菜は何度も目をしばたたいた。そうしていないと、涙が出そうだった。


 ふたりはヴィーレの家に寄ってから、世話役と一緒に広場に行った。

 ヴィーレは広場についてこなかった。ここで別れるから、と言って、家に残ったのだ。きっと、見送りに出てもよけい悲しくなるだけだと思ったのだろう。

 広場には、大勢の村人がふたりを見送るために集まっていた。自警団のみんなもいる。宴会で会った娘たちもいる。パン屋のおかみさんもいる。里菜があまり知らない大人や老人もいる。なんであれ変わったことが大好きな子供たちは、はしゃぎながらこの集会を楽しんでいる。この村では、人の出入りは、めったにない大事件なのだ。

 そこで世話役が、アルファードの活躍と無事な帰郷を祈る、短く月並みな演説をし、アルファードがそれに応えて簡単な別れの挨拶をしているあいだ、里菜はアルファードの横できょろきょろと広場を見渡していた。ローイの姿を探していたのだ。

 アルファードは、ここ数日、もうローイのことをまったく口にしなかったが、彼がほんとうはローイのことをとても気にかけているのを、里菜は知っていた。

 なかなか人に心を開かないアルファードにとって、ローイはきっと、一番の、そしてたぶん、唯一の友達だったのだ。ほかの、自警団の若者たちは、アルファードにとって、信頼出来る仲間であり、かわいい部下ではあっても、腹を割って話せる本当の友達ではなかったのだろうと、里菜は思っている。

 けれど人混みの中に、誰よりも背が高く、誰よりも派手な服を着たローイの、よく目立つ姿は見当たらなかった。

 かわりに里菜は、広場の隅に、あいかわらず無関心そうに座っているガイルの姿を見つけた。

 その時、里菜は、自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、ガイルに駆け寄り、その手を取って言った。

「おじさん、待っててね。あたし、あなたを見捨てないから」

 自分でもなぜそんなことを言ったのかわからなかった。広場の人々が一瞬、しん、となった。ガイルが、遠い目をしたまま、かすかに頷いた。


 この広場は、この国の二大街道のひとつ、エレオドラ街道の起点である。この村は、今でこそありふれた田舎の小さな村だが、古代の聖地の玄関口であり女神の司祭を擁する地として、また、この国で唯一魔法使いを輩出する地として有名なところだったのだ。古い街道がこの村の広場に端を発しているのも、この村が古代に栄えていた名残である。もっとも、この辺ではまだ、街道といってもただの山道にすぎないのだが。

 広場での挨拶を終えたふたりは、そのエレオドラ街道を西に向けて歩き出した。広場にいた村人の多くが後に続き、途中の家からも人が出てきて、行列に加わる。

 子供たちは口々に、アルファードが魔物を何十体、いや何百体やっつけてくるだろうかと言いあって、はしゃいでいる。アルファードは、村の少年たちの憧れの的だったのだ。

 子供たちは、アルファードがたくさんの魔物を退治して村の名を上げ、金持ちになって帰ってくると信じて疑わない。あのガイルが、かつておなじように子供たちの期待のまなざしに見送られて村を出たことを、彼らは知らない。彼らはその時、まだ生まれていなかったか、あるいは赤ん坊だったのだ。

 ガイルは、昔、アルファードとおなじように少年たちの偶像だった。誰よりも強かったガイルは、ある日、村を出て軍隊に入った。そして、数年後、魔王の刻印を受けて帰ってきた。

 それ以来、ガイルは広場にぼんやりと座り続けている。

 大人たちは、自分の子供らにガイルのことを語りたがらなかった。大人たちはただ、子供たちに、ガイルのことをバカにしたりからかったりしないようにと、きつく言いつけるだけだった。

 その後、今まで、この村から軍隊に入ったものはいない。

 アルファードやローイの年代の若者たちは、ガイルが村を出た日や、帰ってきた日のことを覚えている。里菜は、軍隊に入ると決めたあの夜、アルファードにガイルの過去を聞かされていた。


 シャーノ少年の家は、村の西のはずれに近い街道ぞいにあった。そこで、ミュシカの愛用の敷き物と食器が、アルファードからシャーノに手渡された。

 アルファードはミュシカに淡々と何か語りかけた。何と言ったのかは里菜には聞こえなかったが、ミュシカはそれを間違いなく理解した様子で、哀しげな瞳でじっとアルファードを見上げ、尾を足の間に巻き込みながら後退って、おとなしくシャーノの足元に座り込んだ。ミュシカは絶対にアルファードの言葉が全部分かるのだと、里菜は前から思っていたのだが、どう見ても、そのとおりに違いない。

 アルファードは、ミュシカの傍らに膝を付いて、その首を抱き、何か――たぶん、短いが愛情のこもった別れの言葉を――囁くと、茶色い頭を二、三度、ぽんぽんと軽く叩いた。そしてそのまま、何も変わった事は起こっておらぬのだというように、あっさりと立ち上がった。

 ミュシカは、立ち去っていくアルファードの後を追わなかった。その様子は、まるで、ほんのしばらくの『待て』を言い付けられたかのようだった。彼らの結び付きは離れていても変わらないほど強いのかもしれないと、ふと思った里菜は、寂しさと共にかすかな羨望を覚えた。


 しばらく行くと家並みがとぎれ、街道の両脇にケルンのように石が積まれたところに出る。

 石積みのてっぺんに先が二又になった木の枝を突き立てたそれは、魔除を兼ねた村の境界標識だ。この地方の古い習慣である。

 そこで行列は立ち止まり、アルファードは振り向いて、ついてきた世話役や村人たちと最後の挨拶を交わした。里菜はもう一度ローイの姿を探したが、やはりローイは見送りに来てはくれなかったようだ。

 溜息をついた里菜は、行列の後ろから駆けてくる人影を見付けた。

 ローイではない。

 それは、長いお下げをなびかせ、はためくショールを手で抑えたヴィーレだった。

 行列に追い付いたヴィーレは、人垣をかき分けてアルファードに駆け寄り、いきなりその胸に飛び込んだ。

 アルファードは、とっさにヴィーレを抱きとめたが、どうしていいかわからないという顔で、そのまま黙って突っ立っていた。

「ファード! アルファード……」

 息を切らしながらそれだけ言うと、ヴィーレは、しばらく、何も言えずにアルファードの胸に顔を埋めていた。

 アルファードは困惑して目を泳がせながらも、ヴィーレの肩に、そっと手をかけた。

 パン屋のおかみさんが、その様子を見て目頭を抑えている。

 ヴィーレがずっとアルファードを想い続けていたことを、誰もが知っているのだ。

 やがて口を開いたヴィーレの声は、かすかに震えていた。

「アルファード……。どうか、無事でいて。イルベッザにいっても、あたしのこと、忘れないで……」

 ヴィーレは、ほんとうは、こう言いたかったのだ。

(絶対に、帰ってきて。帰ってくるって、約束して。あたし、ずっと、待ってるから)

 けれども、それは口にしてはいけない言葉だと、ヴィーレは知っている。約束を求めれば、アルファードは、約束は出来ないと言うだろう。待つと言えば、待つなと言われてしまうだろう。だから、本当の気持は、言えない。

 アルファードは、ふいに心を決めたように、うつむいたままのヴィーレをやさしく抱擁した。ちょうど、さっきヴィーレの家を出る前にヴィーレの父と母がそれぞれアルファードを抱きしめたように。

 それは、父母と息子、兄と妹が、もしかすると今生の別れになるかもしれないような特別なときにだけ交わす、家族の別れの抱擁だ。

 そして、言った。

「ヴィーレ……。もちろん、忘れやしない。俺はずっと君のことを、本当の妹のように思ってきたんだ。どこにいても、君の幸せを祈っている」

 ヴィーレは黙って身体を離した。その時彼女が唇を噛み締めていたのを、誰も見ていない。うつむいたまま涙を拭ったヴィーレが次に顔を上げた時には、彼女の顔には、もう、いつもの、少し恥ずかしそうなやさしい微笑みが浮かんでいた。

「ファード、ごめんね。びっくりしたでしょ。ここまで見送りに来るつもり、なかったんだけど……。あの、ちょっと、これを渡すのを忘れたものだから。これ、焼き菓子。そんなにかさばらないし、重くないから、持ってって。日持ちするから。……ファード、リーナ、元気でね。リーナ、ファードがあんまり無茶なことしないように見張ってちょうだい。都には悪い人もいっぱいいるっていうから、あなたも、気をつけてね。じゃあ」

 そう言ってアルファードに小さな包みを渡し、人垣の中に下がってきたヴィーレの肩を、そこにいたヴィーレの母がそっと抱いた。

 人垣の後ろに、雪をいただいて白く輝く霊峰エレオドラの山頂が、子供たちを背後から抱き締める母親のように、大きくたおやかにそびえている。

 女神の聖地にふさわしい、その、整った女性的な山容が、まるで生まれてこのかた眺めて過ごしてきたものであるかのように、無性に慕わしい。

 イルベッザからは、エレオドラ山は見えないという。

 自分は再びこの山を見ることが出来るのだろうか――。

 里菜は、一度も振り返らないアルファードの横で、何度も振り返って、まだ見送ってくれている村人たちに手を振り返しながら、エレオドラ山を仰ぎ見た。



 それから一時間ほど、里菜のペースに合せてゆっくりと歩を進めたふたりは、村からずっと続いていた長い下り坂の後で、ちいさな峠をひとつ黙々と上りつめた。

 今日のように天気のいい日は、その坂のてっぺんから、ゆるやかな起伏を見せて蛇行しながら山を下る街道がずっと下のほうまで見渡せ、いくつかの村や町も谷あいに遠く見え隠れするのだと、上り坂に息を切らせている里菜を励ましながらアルファードが教えてくれた。

 けれど、辿り着いた坂の上からふたりが見たのは、その雄大な景色だけではなかった。

 そんなに遠くではなく、すぐ目の下、坂をちょっと下ったところが踊り場のように平坦な道になっていて、そこに、なにやらけばけばしい色彩が見える。これ以上ないほど派手な紫の中にこれまた鮮やかな赤や緑がちらちらまじっているそれは、どうやら、道の真ん中に坐り込んでいる人間のようだ――。

 こんな色彩の人間は、絶対に、ひとりしかいない。

 里菜がそう確信した瞬間、人影は、ふいに立ち上がって、大きく両手を振って叫んだ。

「おーい、アルファード、遅かったじゃねえか! 待ちくたびれちまったぜ」

 里菜はあんぐりと口を開けて叫んだ。

「ローイ!」

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